わたしは、「観光経済新聞」という、業界紙の読者ではないが、よくあるA.I.のアルゴリズムが、イスラム研究者の「飯山陽のいかりちゃんねる(以下「いかりちゃんねる」)」から、『「イスラム教徒にラード?!」松浪健四郎のトンデモ・イスラム解説?!』というタイトルが登場した。
元となる新聞記事は、先月10日付の同紙『【地方再生・創生論310】16億人のイスラム教徒を活用すべし 松浪健四郎』で、「いかりちゃんねる」の投稿は、3日後の13日だから、本稿の執筆時点(17日)ではもうすでに1ヶ月以上が経過している。
なお、念のためサイト内検索を試みたが、「訂正記事」は出ていない模様である。
しかしながら、観光経済新聞のHPにある当該記事のコメント欄には、「1ヶ月前」として、「いかりちゃんねる」の視聴者とおもわれる、飯山陽女史の動画内解説通りのコメントが複数書き込まれているので、観光経済新聞社として、「しらない」ということではないだろう。
執筆者の松浪氏と、発行元とでどんな情報共有がされているのかは、外部には知る由もないけれど、松浪氏の連載最新記事は、15日付で「315」と番号が続いている。
本件記事にたくさんある「誤り」のなかでも、「ハラール」に関する基本知識と、ここから派生する「(イスラム教徒が)ラードをよく食べる」と記載したのは、誤植と弁明できないほどの「大間違い」だ。
逆に、「いかりちゃんねる」のコメント欄には、執筆者や新聞社のことばかりか、「業界紙」として、観光業への心配事が書き込まれていることに注目すると、それはそのまま、メディアとしての責任そのものに対する指摘なのである。
もちろん、「いかりちゃんねる」でも、業界紙の読者たる観光業者が、誤った対応、たとえば、イスラム教徒のお客様にラードで調理した料理を提供する、といった被害が発生することを恐れている。
わたしも2年間エジプトに住んでいたから、それなりに想像できるが、もしもイスラム教徒にたとえ「よかれ」としても、「豚」に関する料理(肉類だけでなく骨も)を食べさせてしまったら、恐ろしく大変なことになるだろうとおもう。
有名なのは、2000年にあった事件で、それは、インドネシアで豚肉を原料としたとして「味の素」の現地法人社長が逮捕されていることだ。
「骨?」とおもうかもしれないが、少なくとも、「豚骨ラーメン」とかは、タブーだ。
なお、「いかりちゃんねる」のコメント欄にも勘違いがあって、吸い物の出汁がカツオだったから仕方なく調理場の親方が代用の出汁を作っていた、をみつけた。
おそらく、アルコールが含有されている「醤油」が問題になったのではないのか?とおもう。
味噌や醤油は天然発酵の際にアルコールを生成するので、イスラム教徒は食べてはいけない食品(「ハラーム」)になる。
ちなみに、イスラム教で、「許されるもの=ハラール」で、よくある「ハラール認証(日本には認証機関が9もある)ビジネス」とは別の概念だ。
また、松浪氏はアフガニスタンで暮らしていた、とのことだから、エジプトにいたわたしの経験とはちがうだろうけど、イスラム教徒の一般人が多用する油脂なら、「ギー」ではないか?
日本人なら、牛乳からつくる「バター」がふつうだが、より脂分が多いのが「ギー」(水牛の乳も原料になる)なので、これを「ラード」と勘違いしたのではないかと疑う。
ただし、松浪氏の文面では、その原料が天ぷらの残り油だ、としているので、ふつうの日本人にも意味不明だ。
たとえラードとしてもギーとしても、動物性油脂だから、ふつう植物性の天ぷら油が原料のはずはない。
さて、上に、恐ろしく大変なことになる、と書いたのは、中国人ほどではないにせよ「雑食」の日本人に、食品に対するタブーがすくないから、コオロギ食のような議論でも、栄養価とか雑菌とかの成分の議論になりがちで、「宗教・文化」についての議論が甘くなるために、想像もつかないので大ごとになるという意味だ。
「宗教・文化」を、形式的にも重視するのが、「聖書の宗教」だということも、あまり意識しないのが日本人だ。
もっとも厳密な、ユダヤ教における「戒律」にも、「コーシャ(食べてよい)」があるけど、たまたまユダヤ人の数が少ないから問題が重視されないか、日本人が無視しているのだろう。
よく旅館の女将がいう、「お客様の立場になってかんがえる」ことをあてはめれば、外国で食したものが、自分の宗教・文化上でタブーのものだったら、どうおもうか?
人生の上で、取り返しのつかないことをしたも同然で、敬虔な信者ほど相手を許せないとおもうはずなのだ。
もしも、団体ツアーとか、政府だけでなく民間人でも、高官たちだったりしたら、外交問題になっても不思議ではない不祥事なのである。
被害者は、母国に帰って加害者たる日本人や日本企業を訴えることだってありうる。
その根拠法が、「イスラム法」だから、なんだ国内法か?ならば日本国内では適用外として安心だ、にはならない。
世界のイスラム教徒20億人以上を敵に回すのである、
すると、本件執筆者の文責、それに当該新聞社の発行責任は、なにも本件が間違いばかりだということでもなく、ふつうに「重い」のである。
それが、「パブリッシュメント」というものだ。
たまたま、記事が日本語だったから救われている、ともいえる。
これが、アラビア語とかペルシャ語、いや、英語やフランス語でも、執筆者には身の危険が迫るかもしれない。
さほどに宗教的無知を曝け出したわけだ。
早く訂正記事を出すべきだし、訂正しないのが日本文化だ、とは到底いえないのである。
放置すれば、無知が確信と判断されてしまうことぐらいは、本件関係者にも理解できるだろうに。
少なくとも、購読している読者に対する責務であるのは当然で、権威主義でなければ、懇切丁寧に指摘した飯山陽女史にも感謝の一言があればなおスッキリするというものだ。