先のことをかんがえると、「Z世代」も古くなってきた。
次は、生まれながらにして、スマホやタブレット端末があって、いじっている世代のことを指す。
2010年から20年代中盤にかけて生まれた世代で、親は、ミレニアム世代(1980年から1995年生まれ)にあたる。
なぜに注目されているかというと、日本ではなく世界を見たら、2025年には25億人になると予想されているからである。
つまり、歴史上最大規模の「世代」になることが、確実なのだ。
わたしのような、日本ローカルの、「ウルトラマン世代」からしたら、隔世の感がある。
「ウルトラQ」とか、「初代ウルトラマン」をリアルで観ていた世代のことで、ビートルズに間に合わず、ベイ・シティ・ローラーズでは物足りない世代だ。
それで、残念ながら日本ローカルの言い方に甘んじるしかない。
わが家には比較的早くテレビがあったと親はいって自慢していたが、生後間もなくの室内写真には、テレビはなく、ラジオ受信機が鎮座している。
たしかに、いつの頃だか忘れたが、近所のひとたちがテレビを観にわが家に来ていた記憶がある。
おそらく、巨人戦だった。
それでも、白黒18インチテレビで、観ていないときは布を被せるようになっていたし、大きなレンズが付いていた。
壊れてしまって、あたらしい2代目がきたとき、このレンズをはずして叩いたら、ジャーっと水が出てきて驚いたのを覚えている。
言葉もままならない幼児が、黙ってタブレットをいじっているのを見るにつけ、「α世代だ!」とは思うけど、一生コストを払わさられるのだと思うと、急に気の毒になるのである。
小中学生が、スマホゲームに興じているのを見ても、親が負担する通信費はいかほどかと心配になる。
自分が小中学生の頃、いったい何が学校に持ち込み禁止になったのか?
なんにせよ、絶対にデジタル機器ではない。
ポケベルですら何に使うのかに興味がなく、女子高生が子供に見える頃に、彼女たちが暗号文の如く通信しているのを知って、感心したものだった。
わたしは利用した経験はないけど、若者が多数いる駅、たとえば「お茶の水」とかの駅の改札横に黒板があって、そこに伝言を書けたのだ。
携帯電話がなかった時代の、あんがい便利な連絡手段で、迷惑な落書きも少なかったかと思う。
自分も困るから、落書きを遠慮したのだ思うと、外国人には理解できないだろう。
こうやってかんがえると、むかしは通信費がかからなかった。
自宅の黒電話でさえ、長電話をすると親がうるさかった。
どうしてもというときには、便箋にいろいろ書いて送ったものだ。
いまは知り合いからも、手書きの手紙をもらうことはなくなった。
電子メールで済む、のはたしかに便利ではあるけれど、読み返す楽しみはもうない。
手紙を保存した「文箱」も、とっくに不用品になってしまった。
毛筆で書こうが、万年筆で書こうが、年齢相応な文面やら、書いて相手に読ませる字も書けない。
今さらながらに、これを無教養だというのだと気づくが、そんなものを書いて送っても喜ぶ相手もいないのである。
ならばいっそ、便利になるだけの便利を享受するなら、金釘流ではなくてちゃんとした手紙が書けて読めるようになりたいものだ。
そんな思いがあるからか、絶滅寸前とはいわないが、「私塾」に注目が集まっている。
幼児期から、漢籍の素読に接し、和歌や漢詩の素養を養う。
ユダヤなら「タルムード」、イスラムなら「コーラン」の暗誦は、幼児・小児期の最高の教育とされたのは、漢籍の素読と同じ理由だ。
意味は教えない。
ひたすら、素読・暗誦することで、たとえ大部冊であろうが、子供の脳には書き込める。
そして、その「音」は、一生忘れない。
意味はそのうち自然と理解する。
宗教だろうがなんであろうが、「古典」とはそういうものなのだ。
さてそれで、何が「α世代」の特徴になるかといえば、デジタルの使いこなしが得意であるのはもう当然だから、その上で何?が問われる世代だということを言いたいのである。
25億人のなかで、日本人の「α世代」はいかほどか?
出生数がとっくに100万人を切ったから、よしんば100万人としても、15年間の世代全部で1500万人となる。
つまり、0.6%なのだ。
だからダメなんだ、ではなくて、一目も二目も置かれる存在感を発揮するのは、古典の教養しかない、と言いたい。
このことは、明治から150年、日本人が忘れてきた価値だけど、明治をつくったひとたちの教養は、江戸期の教育があったからだし、戦後の成長も、江戸期の教育の影響が残る明治の教育があったからだ。
「実学」のなりの果てが、現在の体たらくだとすれば、日本のα世代には、同じ轍を踏ませてはならない。
少なくとも、ウルトラマン世代の目からしたら、α世代に期待するのはこの一点なのである。