『魔笛』の危険な主張

年末なら恒例の『第九』なのだろうが、地元の公会堂で舞台音楽研究会創立25周年記念公演『魔笛』の「夜公演」を観てきた。
この公演は「昼」「夜」でキャストが入れかわるのだ。

ご存じ、モーツァルトの最後のオペラ作品として有名だ。
いまは「オペラ」に分類されているが、当時は「歌付きの劇」という軽い分類だった。
なにせ、作曲がモーツァルトだから、曲自体も軽妙かつ完璧である。

生まれ故郷、ザルツブルク時代からの友人で、劇団主だったひとが、もはやほとんど「無職」状態だったモーツァルトのあまりの窮乏をみかねて、作曲依頼したといわれているが、ほんとうか?
「問題」は、このひとがみずから書いた「脚本」にあるのだ。

着手から半年で完成しているのは、やはり天才のなせるわざだが、この三カ月後にモーツァルトは没している。
「憐れみ」からだけで、作曲を依頼したとはおもえない。

ヨーロッパでは、モーツァルトのオペラでもっとも人気があるというが、はたしてわれわれ日本人には、あんがい「難解」なはなしになっている。

オペラはイタリア語にきまっているという時代、ドイツ語でやるのがドイツ・オペラだ。
ドイツ語圏のひとたちがつくって観賞するオペラだからドイツ語だ、というわけにはいかないのは、ドイツ語の「きたなさ論争」にある。

イタリア語の発音が、しぜんと「歌になる」というメリットが強調されて、ドイツ語の不細工が卑下されたのである。
だから、ドイツ語でやる、というのには、なにくそという意志がある。

のちに、ドイツ・オペラの頂点をつくったワーグナーが、みずからの作品を「楽劇」とよばせたのは、「アンチ・イタリア・オペラ」の意思表示なのだ。

余談だが、ワーグナーの人格破たんは有名だ。しかも、強烈な反ユダヤ主義者だったから、ヒトラーに愛された。もちろん、ワーグナーが亡くなったのが1883(明治16)年だから、1889(明治22)年うまれのヒトラーは、まだこの世にいない。

ヘイト・スピーチに刑事罰を課す川崎市に、ワーグナーは生活できない。

そんなわけで、何語でオペラを書くのかは、決定的に重要なのだ。
今回の公演は「日本語」だった。
舞台背景を3D映像でみせるのは、メトロポリタン歌劇場の『ジークフリート』もそうだった。

『魔笛』の難解さは、いいものと悪ものの役が入れかわることに、さいしょの原因がある。
娘をさらわれた「夜の女王」が、いいものと思いきや、さにあらず。
娘をさらった独裁者「ザラストロ」が、悪ものと思いきや、さにあらず。

しかして、背景にも「古代」と当時の「現代」とがかさなっている。
セリフにもあるからわかるのが、古代エジプトの「オシリス」と「イシス」の二神をあがめるのが「ザラストロ」だ。

歌詞の「神々」とはこの兄妹にして夫婦の二神をいうから、キリスト教の「神」をイメージしてはいけない。

さらに、当時の「現代」として、「夜の女王」がオーストリア帝国の女帝「マリア・テレジア」として皮肉っていることだ。
本上演の「背景」に、古代エジプトの風景や神殿にスフィンクスが投影され、女帝の肖像画までも登場するのは、作品の内容に忠実だ。

しかして、革命の嵐によって、彼女の実娘にしてフランス王妃マリー・アントワネットが断頭台に消えたのは、モーツァルト死後2年後のことだから、この作品に描かれることはない。
はたして、夜の女王の娘「タミーナ」とは誰なのか?

そして、きわめつけが「じつはいいもの」のザラストロとは、ゾロアスター教における「ゾロアスター」=「ツァラトゥストラ」のことである。

人類さいしょの「経典宗教」は、明(善)と暗(悪)の二元論だから、夜の女王は「暗=悪」なのである。
なぜか?本物の「女帝」は、ドイツの敵、カソリックだからである。

このおそるべき「アンチ・クリスト」オペラは、後世のニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』につながる。

 

いわば、これぞ「フリーメーソン」なのである。
すると、劇中の「試練の儀式」とはなにか?
まったくもって、フリーメーソン「入会の儀式」ではないのか?
これに臨む王子「タミーノ」とは、ゾロアスター教からでた「ミトラ教」の「ミトラ」をもじったといえる。

最後の場面は、フランス革命をドラクロワが描いた「自由の女神」「マリアンヌ」を背景に、作曲の1年前にはじまった「フランス革命」を「賛美」しているのである。
彼女がかぶる赤い三角帽子は、「フリジア帽」という「ミトラ」愛用の開放された元奴隷、「自由奴隷」の象徴である。

世界で唯一、ちょうどいまごろ、年末恒例として各地で演奏される『交響曲第九番』で、シラーが書いた「神」も、キリスト教の「神」ではない。
歌詞をよく読むと、にじみでてくる。
もちろん、シラーもフリーメーソンである。

さすが、ベートーヴェン。
モーツァルトのフリーメーソンにおける後輩だけある。
しかし、フランス革命の悲惨は、皇帝ナポレオンによってさらに混迷したから、交響曲第三番のタイトルをナポレオンから『英雄』に書きかえた。

まことに、両大作曲家は「政治的」なのである。
そして、モーツァルトは未完の遺作に『レクイエム』をのこし、ベートーヴェンは、第九のあと、弦楽四重奏曲に代表される「深遠世界」にいってしまう。

ドイツ人がいかに「カソリック嫌い」なのかがわかるのである。
ヨーロッパは、カソリックとプロテスタント、それにフリーメーソン(ゾロアスター教)の「三つ巴」が下絵にある地域なのである。
これを、当のヨーロッパ人はしっている。

それにしても、「初演」における「タミーノ」の衣装が、わが国、平安貴族の「狩衣」だったとはおどろきである。
「東方」からのイメージを強調したかったのか?
わが国では第11代、徳川家斉の時代だ。

本上演での衣装は、当時風の夜の女王一派と、エジプト人愛用の民族衣装ワンピース「ガラベーヤ」、それに古代ギリシャ・ローマ風の三つ巴でキャラ設定と一致させていた。
狂言回し役の「三少年」が、羽根つきの「天使」という衣装だったのが気になる「ミソ」である。

この作品は、おとぎ話=子ども向けメルヘンなのではなく、奥深く、難解にしてフランス革命賛美の「プロパガンダ」なのである。

近年、そのフランスでフランス革命の見直しが議論されている。
ために、「パリ祭」が地味になってきている。
ようやくフランス人が、『フランス革命の省察』を読み出したのか?
英国保守主義の父「エドマンド・バーク」の歴史的著作だ。

革命以来、今日まで、フランスの政治がグダグダな理由は、価値観が定まらないからである。
日本病も同様だ。

モーツァルトの「軽妙さ」には、「毒」がある。
しかして、日本語であろうとも「夜の女王」のコロラトゥーラ・ソプラノが聞かせるアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」は、「言語をこえて」いるから、まさに全編の聞かせどころになっている。

若いコロラトゥーラ・ソプラノ歌手の、堂々とした夜の女王らしいふてぶてしい演技。
その細く華奢な体躯から発せられるみごとな歌唱は、よほど体幹(インナーマッスル)が鍛えられているのだろうと感心したのは、まったく立ち位置の軸がブレないからで、腹筋と背筋の強靱さがあってだろう。おおくの歌手のそれは、仕方なく上半身を揺すってしまうものだ。

この時期、なぜ『魔笛』なのか?
それは、北半球における冬の代表的星座、「オリオン座=オシリス」と、その後からおいかける「シリウス=イシス」が二神の象徴だからだ。

オシリスが「復活」をとげるのが「冬至」。
この日より夏至まで、太陽の力が増すからである。
冬至の祭りこそが、高緯度にあるヨーロッパで切実なのは、理解しやすく、それが「クリスマス」になった。

終演にあたって、出演者と観客とで「きよしこの夜」を歌った。

この「歌」は、ナポレオン戦争による暴力と苦難を背景に、そのナポレオンがワーテルローで敗北して、「ザルツブルク」がオーストリアの領土に復活したことを記念している。
じつに「心憎い」演出だった。

そして、年末に「スター」を観た。

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