【追悼】 テロは悪である

2022年7月8日は、日本の歴史として記憶される日付になった。
先ずは、安倍晋三元首相のご冥福をお祈りいたします。

政治家は「命がけ」といわれるのは、それだけの影響力があるからだ。
一国の国民生活への影響力だけでなく、世界各国にも影響するのは、その政治家の「仕事の大きさ」による。

そして、暗殺犯の方は、たいてい名前を残すことはない。
なぜならば、「暗殺以外での仕事の大きさ」がないからだ。

今回も、犯行に及んだ背景がよくわからない。
なんらかの団体に対する恨みと、安倍氏がその団体に関与していたからという曖昧さしかわかっていないからだ。

もし詳しい供述があっても、果たして官憲はこれをそのまま公表するかもわからない。
すると、あとは刑事裁判でしか動機についての説明はないだろう。

いまのところ、個人の犯行だというニュアンスが先行している。
むろん、「背景」があったとしても、個人の犯行にするのがセオリーだろう。

そんなわけで、安倍氏のいない自民党がどうなるのか?ということの影響の大きさが今後の日本人の生活にのしかかることは確実なのである。

果たして、自民党とはどんな立ち位置の政党なのか?を問えば、90年代からのわかりやすい「変容」で、すっかり「脱皮」して、見た目も鮮やかに、過去の自民党とは別物になってしまった。

これは、70年代から用意されていたもので、DNAのプログラムとしてかんがえれば、GHQによる出生時からの「設計どおり」ともいえなくもない。

「保護領」としての日本を、日本人によって統治させることの意味は、奴隷を奴隷によって管理する方法とおなじなのである。
つまり、この「保護領」であることの「継続」に、なんらの変化はないのである。

すると、もし今回の犯行が個人だけの動機によるとしたら、おそるべき「コップの中の嵐」にすぎない。

だから、日本人はこの「テロ」を、おおいに憎まねばならない。

安倍氏が芯からのナショナリストだったのか?について、わたしは疑問をもっているけれど、政治家はつくられたイメージだってリアルとして生きる生き物だから、世間がナショナリストだといえば、そうなることは承知している。

これはたとえば、高市早苗氏にもいえることだ。
わたしは、彼女は「保守」であるはずはないとかんがえているけれど、世間が「保守」として押してしまえば、本人はそれに乗るか、あるいはどこかの時点でカミングアウトするしかない。

とっくに、カミングアウトしているのだけれども。

この意味で、「迷走」しているのは世間の方だから、安倍氏も高市氏も、精神的にはかなりきついことになるのは、容易に想像できる。

そんな状態でも、自民党の「良心」としての立場で偶像化されたのが安倍氏であったことはまちがいない。
よって、一気に訪れた「空虚感」で、自民党がまた変容するしかなくなったのである。

もちろんこのことが、国民の幸福につながるかはかなり疑問のあるところだ。

すると、時間をかけた「自壊」が起きる可能性が高まるのも必然で、それこそが安倍氏の存在の大きさを証明するのである。

なんであれ、安倍氏を失ったことは、国民に影響しないはずがないことだけは確実なのである。

合掌。

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