ひな祭りの桃

昨日の日曜日が旧暦の3月3日だった。
つまり、ほんらいの「桃の節句」である。

桃が開花しようはずもない「新暦の3月3日」にひな祭りをやるのは、強引で無粋であるのに、すでにそれに疑問をかんじるひとがいないほどに、日本人から季節感がうすれてきている。
あるいは、「変だ」という感覚の鈍感さをいう。

ことしは桜の開花がはやかった。
「桃源郷」の山梨では、ぼちぼち「桃のみごろ」のようだ。
桃畑では、桃の花見にやってきたひとたちを相手に、夏の桃の予約受付もやっている。

ここぞと咲き誇る桃の絨毯は、圧巻である。
咲いていない場所は、ブドウ畑である。
桜とはちがった花見を満喫できるから、春の山梨はすばらしい。

山梨の桃には、果肉が硬い種類がある。
ふつう桃といえば触っただけで指の跡がつくほどに柔らかく、ねっとりした果肉をイメージするから、はじめていただいたときには驚いたものだ。
しかし、これがうまい。

それ以来、硬い桃がたべたくて山梨にいく。
昨夏は、五回ほども農家の直売所にかよった。
いちどにたくさん買っても、日持ちしないから、少しずつ求めるしかない。

品種といっても、やっぱりもぎたての硬い桃が、うまいのである。
この種の桃も、日にちがたてば柔らかくなる。
農家の説明では、柔らかくなるのを待つひともいるそうだ。

だったら、さいしょから柔らかい種類を求めればいいのにと早合点したら、そうした種類の桃を混ぜて購入して、食べ時の調整をするという。
柔らかいのを好むひとに、アドバンテージがある。

県内の贈答用高級果物専門店できくと、硬い桃は贈答用としても敬遠されるそうだ。
県外の送り先の受取人たちは、桃とは柔らかいものというイメージがあるから、硬い桃は熟していない不良品だとおもわれるらしい。

そのイメージが大転換したから、わたしは硬い桃のファンなのだ。
コリコリした食感でありながら、なんともいえない桃独特の甘みと香りは、そういう意味でも山梨にいかないと食べることができない。

桃はその柔らかさのために、皮をむくのがおっくうだというひともいる。
しかし、硬い桃は、流水に両手で包むようにしながら表面をなでれば、うぶ毛がすっかりとれるから、そのままかぶりつけばよい。
りんごでもない、梨でもない、軽快なコリコリをたのしめる。

どうしてこの硬い桃のファンづくりをしないのか?
なんど通っても、不思議なのである。
それはまるで、山梨県人ローカルの秘密めいた楽しみなのかもしれないが、県外客にはイメージ破壊になるインパクトではないか。

地方によくある「症状」のうち、「過小評価」が過半を占めるとかんがえている。

「田舎だから『なにもない』」

これは、全国津々浦々に浸透している、「症状」なのだ。

それに、伝統が軽んじられてきたから、その地方の独自性にそこに住んでいるひとたちが気がついていないこと、あるいは忘れてしまったことが原因だ。

「田舎だから『都会にないもの』なら豊富にある」とかんがえないのは、昭和の高度成長を「善」として、そこから取り残された地方を「悪」とする、ポストモダンのいきすぎた価値感がベースにあるのだ。

これを、過剰な都会へのあこがれ、といいたい。
「過剰」だから、都会人はくつろげない。
「善」とされてきた都会は、ストレスが渦巻く場所でしかなくなったから、田舎に憧れるという現象になっているのだ。

ところが、その田舎に、従来の「善」の単純な延長線上として「過剰」な都会への意識があれば、都会人はそれに幻滅し、とうとう本物の「都会」になれるはずのない地方をさげすむようになってしまう。
言葉はわるいが「百姓」の発想がすけてみえるのだ。

なにも、地方は田舎のままでいろ、といいたいのではない。
くり返すが「田舎だから『都会にないもの』なら豊富にある」を追求すればいいのである。
その世界的成功事例がスイスであることは有名だ。

ほんらい、ヨーロッパ・アルプスのちいさな山国は、とてつもない貧乏国だった。
とうとう、自国でのしごとがないから、男たちは周辺国が争う戦争の傭兵にまでなって出稼ぎに精をだした。

しかし、こんなことをしていては生きていけないと、かんがえてかんがえてかんがえ抜いて、いまのような生産性でも世界一のゆたかな国になったのである。

わたしが山梨県にガッカリしたのは、前にも書いたことしの知事選挙だった。

国家の予算を県にふり向ければ、山梨県は「停滞から前進」するという主張の与党候補が当選したのは、一にも二にも残念な発想である、と。
しかし、昨日の統一地方選挙をみれば、全国で与野党に関係なくおなじ主張が叫ばれていた。

桃の花見と硬い桃を買いに行きながら、温泉にでも浸かって帰るという、あんまりおカネをつかわないちいさな旅を、ことしもくり返すだろう。

山梨県だけでなく、各地で、衰退がとまらないのは、かんがえかたがまちがっているから、につきるのだ。

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