やっぱり音読が効く

読解力以前の問題に、言語化ができないことを書いた。

そういえば、と、思い出したのが、むかし流行った、「睡眠学習法」だ。

テープレコーダーに、教科書のテストに出そうなところを録音して、それを聴きながら眠る、という方法であった。
先生には、「眠っているときに思い出す」と嗤われたが、いまかんがえると、録音する、という行為が効くのかもしれない。

なぜなら、録音を聴きやすくするには、ちゃんと「台本」を書かないといけないからで、その台本づくりとは、結局、教科書やノートの整理にほかならなかったからだ。

そして、これを「音読」しないと、当然だがテープレコーダーに録音できない。

むかしは、テープレコーダーを買うと、おもちゃのようなマイクも付いてきたので、付属のスタンドをつかうと、ラジオのアナウンサーのようになったのである。
これが、妙に気に入っていた。

中学1年のときに、別の小学校からの同級生が、『欽ドン』をよく聴いているというので、一緒に自宅まで行って、直接に放送を聴いた。
このときの衝撃は、いまでも覚えている。

3年生になると、ラジカセブームがすさまじく、ラジオの録音を休み時間に聴かせてくれる友人がいて、腹を抱えて笑っていたのが、こないだ亡くなった、谷村新司が、ばんばひろふみとコンビを組んでいた、「セイヤング」の、「天才秀才バカ」コーナーだった。

深夜放送には馴染みが薄くて、明け方まで聴いたという記憶は数回しかない。

わが家は、横浜市街の典型的河岸段丘の縁にある谷間だったので、ラジオだと、とくに、文化放送の受信が困難だった。
テレビだと、日本テレビとフジテレビが、まず映らなかった。

みなとみらいにランドマークタワーが建設中だったとき、回覧板できたのが、共同アンテナ化のお知らせで、「広域電波障害」への保障だとあって設備への加入も利用も無料とのことだった。

なので、ランドマークタワーのおかげで、全局のテレビ放送がよく観えるようになった。
いまは、共同アンテナからの電波受信ではなくて、ケーブルテレビになっていて、ついでに高速インターネット回線も用意された。

そんなわけだから、東京タワーからスカイツリーを新築して、あたらしい電波塔にすることの意味がよく分からないまま、その高さが世界一だか日本一だかをいっているのが、妙に滑稽なのである。

夕方の、TBSラジオで定番だったのは、『小沢昭一の小沢昭一的こころ』だった。
買ってきた本を、小沢昭一的こころになって朗読し、それを録音した。
落語の練習より面白かったのは、小沢昭一の芸の深さがあったからだろう。

もしや、このアホらしいひとり遊びが、わたしの脳を鍛えたのか?

なんと、読解力がないひとの特徴に、勝手に行間を想像して創り出す、ことが判明した。
これはこれで、妄想の才能ではあるけれど、それでは相手の言いたいことが理解できるわけがない。

よい文章を音読すると、言語中枢がそれに集中するので、余計な行間の妄想をしないで、作者の意図を感じとることができるのである。

この意味で、江戸期の武士社会で常識だった、漢籍の「素読」は、究極的で、ユダヤ人のタルムードの素読も、アラブ人のコーランの素読も、おなじなのである。
読んでいて意味が分からなくとも、そのうち意味は分かるようになり、一生忘れない脳の記憶となる。

さて、勝手に行間を妄想する、そのときの、トリガーが、具体的な事例・事象だというのだ。

つまり、ある観念(だいたいが抽象的)を説明するのにつかう、具体的な話にだけ反応する。
そして、その反応に、今度は本人がもっている観念が作用してしまうのである。

だから、話し手の説明のなかのごく一部に対しての反論的な、「反応」となるので、これが話し手に返ったときに、だんだんと本来の話し手の言いたいことと乖離して、なにがなんだかわからない会話になるのである。

昨今の、ネット・コメント欄にみかけるトンチンカンは、この類いのものばかりだ。

わたしの人生経験上、こういった人物が、上司だったことがあんがい多かった。

あのひとも、このひとも、と指折り勘定できる。
上司に恵まれなかった、という結論はおなじでも、その原因が、読解力のないひとたちだったという共通を見出して、いまさらながらに怖くなっている。

それでもまだ幸いなのは、言語化できないまでのタイプはいなかったとおもうことである。

ただし、こうした行間を間違えてしまうひとは、いがいと高学歴だったりする。
いわゆる、有名大学に合格したひとでも、いる、のである。

だから、そんな人物が、試験だけでキャリア職になると、部下の数だけ不幸が生まれる。

それでかなんだかしらないが、昨年の22年度から、高校の必修国語(「国語総合」4単位)が再編されて、「現代の国語」と「言語文化」という、それぞれ2単位に分割されていたことに気がついた。

さらに、選択科目として、各4単位の、「論理国語」、「文学国語」、「国語表現」、「古典研究」となっている。

いまの高校生は、どういった選択をしているのだろうか?
あまりにわたしの時代とちがうので、にわかに想像できない。

その土台となっているかんがえ方、つまり、文科省とその配下の中央教育審議会には、「知的基盤社会」という決めごとがある。
もちろん、これに加えて、PISAの対策もある。

ふだん、てっきり行かなくなった書店だが、参考書コーナーで、高校国語がどうなっているのか?に興味がわくのは、これで学んだ子供たちが、確実に数年後には、社会人になるからである。

いま中堅の企業人は、高校国語の内容を気にしないと、自分の子供の上司たちがこれでつくられていることにしらないでいいのか?ともなるのである。

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