必ず宗教には、「神秘性」があるものだ。
「神秘」とは、「人智を超えたところにあるもの」だから、「信じる」ということになる。
だから、宗教から神秘性がなくなれば、ただの「理屈」になってしまう。
古来、日本人が持っていた宗教には、「自然崇拝」になった「自然の神秘」があった。
このときいう、「自然」とは、「人智を超えたところにある」脅威をももたらすもので、いまある都会の「自然公園」の「自然」ではない。
「自然公園」の「自然」には、「放置」という意味が強いけど、ちゃんと人間が「整備」もしていて、歩きやすくなっている。
その人工的な道を歩いて、自然を観察する、ことが公園としての「設計」なのである。
それゆえに、日本庭園の「自然」は、完全に「人工」なのである。
例えば、ディズニー・シーのシンボル『プロメテウス火山』を観て、日本庭園とおなじ「自然」を感じるひとはいないだろう。
これを、「センスのちがい」というだけでいいのか?
センスではなく、「設計思想」がちがうのである。
最近になって、ヨーロッパでも個人宅に「日本庭園」を造園するひとが増えているのは、何故か?
単なる「日本趣味」なのか?
おそらく、「癒し」を求めるからである。
アルプスとスペインとか、あるいはバルカン半島の山地を除くと、ヨーロッパ大陸は概ね「平ら」なのである。
「平ら」なのに「森が深い」のだ。
例えば、アルデンヌの森とか、シュバルツバルトの森も、あるいは現存するヨーロッパ最大の原生林であるビャウォヴィエジャの森も、「平ら」なのである。
ビャウォヴィエジャの森には、ヨーロッパ・バイソンも棲息している。
ポーランド(ポーラ・ランドの「ポーラ」とは、「平ら」)の、いたるところにある「森」も、深いのに平らだから、たいへん危険な場所である。
迷い込むと出てこられない。
どこもかしこも、おなじ風景に見えるから記憶に頼れないのである。
『赤ずきんちゃん』とか、『ヘンゼルとグレーテル』の話の前提が、地面が平らなのに深い森があることだ。
これは、必ず「山」である日本人の感覚とは「真逆」である。
深い森に迷ったら、まずは「登る」原則が通じないのだ。
そんなわけで、「御山」という山岳信仰ができたのは頷ける。
いまでも、山には修験者たちがいる。
暖をとるためだったはずの「火」が、信仰と結びついたのが「お焚き上げ」の原点だろう。
これが、後にペルシャから伝来した人類最古の経典宗教「ゾロアスター教」と結合して、いよいよ「霊験あらたかな」ことになった。
そして、「祈祷」のための「行事」にもなった。
「火」が、「邪」を燃やして「清める」という信仰になったのである。
修験者たちが行う、お焚き上げでできた「炭」の上を、裸足になって踏みつけて「渡る」のも、「清め」られた場所に自らを投じて、自身の身体を清めているのである。
ふつうのひとがやったら、足の裏に大火傷する。
けれども、修験者たちがやればなんでもない。
これが、「信仰」がつくる「精神統一の霊験」なのだ。
伝教大師が伝えた「日本・天台宗」は、仏教諸派の「総合」であったから、「なんでもあり」なのである。
いわゆる、「鎌倉仏教」が比叡山発祥であるのはこのためだ。
だから、大元の天台宗から見たら、ぜんぶが「諸派」になる。
天台宗の住職の「お勤め」は、朝題目(「南無妙法蓮華経」)の夕念仏(「南無阿弥陀仏」)なのだ。
奈良の「南都六宗」がダメになったのは、政権による「保護」が、やっぱりいけなかった。
それでも、聖武天皇の「大仏建立」は、そもそもが「天然痘」流行による「社会不安」の対策だったのだ。
もちろん、当時は「疫病=邪気」であって、それが、「天然痘」だと知っていたわけでもない。
加えて、干ばつによって「飢饉」も発生していた。
だから、全国に国分寺と国分尼寺を造営して、大仏も、となれば、今様の「財政出動」をしたのである。
当然に、「大仏開眼供養」の大法要だって、「邪気」を取り除く目途があってのことである。
この「明快さ」が、今にない。
天平時代のひとたちを笑えないどころか、天平時代のひとたちから笑われることをやっている。
政府も然り、宗教界も然りなのだ。
もちろん、「マスコミ」も然りだが、昨日は産経新聞が、「コロナのデマ」を書いた特集記事を出していた。
「科学」からしたらあり得ない、といいたいのだろうけど、おそらく「歴史的笑止」となる記事だ。
「感染症」なら、その対策の最優先されるべき重要情報は、「感染経路遮断の方法」なのである。
しかし、これがいまだに「ない」から、「ワクチンが対策のすべて」になっている。
ところが、そのワクチンが効かないばかりか「毒らしい」のだ。
これを、「変異」というけど、「オリジナルの確定」がないままだ。
すなわち「邪気」なのである。
大々的な「法要」のチャンスだった、オリンピックをムダにしてしまったのも、科学的根拠なき無能の産物だ。
今日は、「国家の祈りの日」でもあるけれど、巷では「旧盆」の「施餓鬼法要」の日でもある。
年中行事で最大級の「法要」すら、「密になる」として二年連続中止の決定がされている。
ならば、天台宗も真言宗も、「密教」のカンバンを降ろしたがよかろう。