トイレがない家

流通が脆弱だっただけでなく、特定国での製造依存が脆弱だった。

そんなわけで、一般住宅用の設備機器が不足という事態になって、とうとう受注も止まりだしたという。
つまり、メーカーに申し込んでも受注してくれないから、納品もなにもあったもんじゃない。

がんばって、国内製造でふんばってた会社は供給ができるというけど、陶器製のトイレがない。
風呂桶がない。換気扇がない。エアコンがない。
部品がないから完成品がない。

自動車産業についで、すそ野が広いのが住宅産業である。
一軒の家は、さまざまな「部品」からできている。
むかしの家ならかんがえられない、設備機器が快適な住環境をつくっているから当然でもある。

いまようの「エコな家」とは、高密度・高断熱を旨とする。
これを、家の「基本性能」ともいうようになって、阪神淡路からの震災経験をふまえての法改正も何回かあったから、30年前の家といまとでは、まったくちがう性能の家が法律上でも建っている。

ヨーロッパを中心に、家の価値は数百年にわたって保たれるようになっていて、わが国の、建てた瞬間から減価がはじまるものとはちがうといわれてきたが、そのヨーロッパに学んだひとたちが、日本の気候風土にあわせた高品質住宅をつくりはじめている。

年間の光熱費が数万円で済む家などは、ちょっと前ならかんがえられなかったけど、いまではふつうに供給されている。
真夏、外気が35度を超えるのに、木造の家の中は25度をたもっているというような性能である。もちろん、冬もおなじ室温になる。

そのための断熱資材や高密度資材も、国産ではないことがある。
とくに窓のサッシは、残念ながら国産よりも外国製が優秀だという。
国産は外枠方式、外国製は内枠方式というちがいがあって、施工は困難だが、外壁を傷めず内側から交換できる外国製は、建物寿命にたいへん配慮されている。日本製が世界最高ではない事例のひとつだ。

本来ならば、こうした技術を利用した、モデル・ハウス的「旅館」があっていいのだが、設備投資をまともにできる経営状態ではなくなっている。これも外国人依存の負の効果だけではない。
それでも、旅館の経営者は、一般人の住宅がこういう性能になっていることを無視できないのは、お客様の家がそうなっているからだ。

いま、「端境期」といわれているのは、中古住宅取引における「建物の価値」をいくらに見積もるのか?がほとんどできていないためである。つまり、「目利き」なら、良質の中古物件を格安で購入できる可能性があるのだ。

しかし、中古住宅なら、やっぱり「リフォーム」が欠かせない。
新規に入居するなら、水回りは気になるところだ。
こうしたこともふくめて、今回のウィルス禍は、住宅の重要部品がなくなるという大問題になっている。

一戸建てであろうが、集合住宅であろうが、新築であろうがなかろうが、最後のパーツとなる「トイレの便器がない」状態なら、引っ越すこともままならない。

やさしいけれど、世間に興味がない行政のひとたちは、そんな事情はお構いなしに、「完成検査」をやってくれるという「特別な配慮」をしてくれる。
トイレがない家が、「完成」したと書類をくれるのだ。

すると、金融機関は住宅ローンを「実行」する。
新居に引っ越しても住めないから、賃貸に住んでいるなら退去もできないのに、従来の家賃とローンの二重払いがやってくる。
いまの家を売却して手放す予定だったなら、いきなり住む家を失うことになりかねない。これは、新規入居者がきまっていたら、賃貸でも退去期限までにでていかないといけないから、おなじである。

そんな状態になったら、「完成」していても、ローンが実行されてはこまる。
ところが、トイレの便器がない「だけ」で、建築費用の支払が全部実行されないと、工事を請け負った大工さんが、各種材料の代金も支払えなくなる。

あっとおどろく「連鎖」があるのだ。
だから、「すそ野が広い産業」だというのである。

元の原因は、製造業の国内空洞化にある。
しかし、いまさらこれをいっても、ないものはない。
いかなる「依存」状態だったか、いまさらながらにわかるけど、だからといって、開き直られてもこまる。

日本株へのてこ入れで、ハゲタカたちにみすみす資金を吸い取られるなら、こうしたひとたちの救済をかんがえたほうがよほどいい。
それは、本人たちだけでなく、日本経済のすそ野を守る意味もある。

放置すれば、施主と施工者との、信頼関係すら壊れてしまう問題だ。
はたして、残ったトイレの便器だけを設置するだけの仕事を、大工さんが積極的にやってくれることもないだろう。
何十年かのメンテナンスもかんがえたら、完成時のトラブルはえらく長引くはなしになってしまう。

あるはずのモノがないが転じて、おカネがないになって、互いの信頼関係が崩壊する。
この図式でなら、まずはおカネをもって一助とするしか、方法がない。

完成してないのに完成したことにするのなら、このくらいの配慮をするのが人間というものである。
政治が死ぬと、こういうことが頻発して、他人を信用できないことになる。それで、とうとう社会そのものが崩壊してしまうのだ。

モグラたたきゲームがはじまった。

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