パッヘルベルのカノン専門

一発屋ではないはずなのに、一発屋扱いされてしまっているのが、生涯で一曲だけ書いた『カノン(形式の曲)』が大当たりしたパッヘルベルである。
このひとの他の作品を聴きたくても、なかなか見つけられない商業主義がある。

大バッハには、生涯で一曲だけの『パッサカリア』があるけど、その他の有名作品で、この曲は無名ではないけどその他大勢に入ってしまう。
そのバッハに、「大」がつくのは、「フーガ(形式の曲)」の大家であったことも、作品の多くが傑作であったことと併せてのことだ。

いわゆる主題が「繰り返す」ことでは、「カノン」と「フーガ」は似たようなものだけど、カノンが「連続して繰り返す」のに対して、フーガは「変幻自在の変奏」をする違いがある。
このことが、圧倒的にフーガの作曲難易度を高めて、その構造は、ひとつのバロック建築物のような複雑さで構築される。

なので、聞き手にも、音で構造が「見える」ような荘厳さとなる。

バッハ以降で、フーガの大家といえば、ヴェートーベンの『第九』が思い出される。
有名な第4楽章の合唱の合間にある、器楽フーガの完成度は素晴らしいに尽きる。
これを、映像と合わせたのが、『不滅の恋 ヴェートーベン』(1994年)だ。

残念ながら、この映画における「設定」は、いまでは学術的に否定されている。
ついでに書くと、ヴェートーベンの交響曲の頂点は、無題の「7番」だとおもっている。
とくに、第1楽章の終わりが、9番にも引用されている手法だからだ。

パーソナルな生活になったからだか、どうだか、気づけばステレオ・コンポがないのがわが家である。
サウンドバーを設置したけど、すっかりレンタルビデオも観なくなったので、音響設備があってない状態になっている。

ブルートゥース・イヤホンをつかって、スマホやipadにダウンロードした曲を聴くことさえも、「たまに」になっている。
歩きながら両耳をふさいでいられる鈍感さはないし、やっぱり危ない。
せいぜい電車の中だけのことになっているけど、その電車にまとまった時間をかけて乗らなくなった。

ただ、ノイズキャンセリング機能があるイヤホンだと、無演奏・無音状態でも耳栓の効果は期待できるから、公共の場所で読書などをするときには重宝する。

子供の時分から、「ながら勉強」とかという、「ながら聞き」が流行って、なんだか社会問題になっていた。
受験生が、深夜のラジオ放送を聞きながら勉強している、というのが、わたしはぜんぜん理解できなくて、同級生が「ふつうだよ」といっていたのを、すごい能力だとおもっていた。

プチ・聖徳太子のような気がしたのである。

教科書を見ながら、ラジオの話や音楽を聞くというのは、漢字で書けば「聴く」ではない「聞く」の方なのだろうけど、どういう技を駆使したらできるのか?いまだにわからない。
当然だが、テレビを観ながら本を読むこともできない。

なので、喫茶店とかのBGMならまだしも、同時に両立させることをどうしているのか?とおもうのである。
その意味で、「イージーリスニング」だって、集中して聴くことはあっても、「ながら」は困難だ。

一世を風靡した、ポール・モーリアとかも、ちゃんとした大ホールでの来日公演に、観客は行儀よく聴き入っていたものだ。
ラフな格好のひとはわずかで、せめてスーツを着て会場に足を運んだものだった。

「夜会服」(タキシードやイブニングドレス)を着る機会は、すっかり消滅した。

どんなに高級といわれるホテルにだって、もうドレスコードがない国になって久しい。

「平等」が行き着いた先なのである。

だから、ドレスコードがある国やらのホテルで、夕食をとろうものなら入店を断られるふつうがあるのだけど、これに立腹する日本人観光客がいるから、現地の日本人にも嫌われる。
ふだんから着用しないので、いざというとき着こなしもできずに、却って貧相になる。

そんな世相のなかで、パッヘルベルのカノン専門サイト見つけた。

たいてい「長尺」で、1時間以上、延々と「カノン」が演奏されている。
器楽のオーソドックスから、ハードロックまで、さまざまな「カノン」が、選べるのだ。

おそらく、「聴き入る」のではなく、「ながら」のためにあるのか?
歩きながら、電車に乗りながら、も含まれる。

それはそれで、脳波が「安らぎモード」になれば、御の字である。
すると、これは一種の「聴く薬」という意味になる。

論文として、『音楽刺激による生体反応に関する生理・心理学的研究』をみつけた。

この論文では、さまざまな曲での研究にも言及している。
すると、「雅楽」や「民謡」ではどうなのか?
あるいは、どうして「カノン」なのか?といったことも気になる。

さらにいえば、日本人はどうしてバイオリンや二胡のような、弓でこすって音を出す楽器を発明しないで、連続音が出せない琴や三味線に留まったのか?

そういえば、むかし『キンカン素人民謡名人戦』(フジテレビ、1961年~93年)があって、祖父が必ず観ていたので一緒に観ていた。
おかげで、あのCM、「キンカン塗ってまた塗って」の歌の方がかえって耳について離れないし、必ず収録会場にいた、民謡好きのキンカン堂創業者の嬉しそうな姿が忘れられない。

もう民謡を耳にする機会も減った。
もしや、民族に心地よい音を消すための、「カノン」ということもあるやもしれぬ。

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