パンドラは、パンドゥーラ、イブはエバともいう。
ギリシャ神話で、全能神ゼウスが造った人間の最初がパンドラだ。
イブは、ご存じ『聖書』の中の「旧約聖書」の冒頭、「創世記」で神が土から造った最初の人間アダムが、ひとりでは寂しかろうと、寝ている彼の肋骨から造ったのがイブだった。
ギリシャ神話では、地上に降りる前にゼウスが「箱:壺という説もある」を彼女に渡して、「絶対に開けてはならない」と命じる。
同様に、聖書では、エデンに暮らすアダムとイブに、この地の中心にある「知恵の樹」にある実を決して食べてはいけないと、神が命じる。つまり、「禁断」の「箱」なのか「実」なのかはおいて、どちらも「禁止」の命令が出ていた。
そしてこの命令をしたのが、どちらも「全知全能の神」なのである。
さらに、この二つの物語において、命令を破るのも女性なのであった。こうして、地上に降りたパンドラが開けた箱からは、ありとあらゆる「不幸や厄災」が飛び出した。
慌てて箱を閉じてみたら、「希望」だけが残った、という話になっている。
しかし、厳密には、「未来がすべて分かる禍い」が出なかったのであった。
つまりこのことは、「いつ禍いが降りかかるのかわからない」ので、「盲目の希望」とも言われる。なかなかに、「哲学的」なのである。
こうした物語を作ったひとは、人間観察の達人で、それがおそろしく遠い過去に気づいて「神話」となった。
未来がわかればどんなに幸せか、と安易に思いがちだけど、実は「禍い」なのだという思考は、もっともだと合点させる。
すべての未来が分かってしまったら、どれほど無気力になるのだろう。
そこには、自分の命日も、死因も分かるという意味がある。「100年カレンダー」というものが流行ったことがある。
いま、あんまり販売されていないのは、自殺を誘発するという理由もある。
細かく並んでいる「数字の羅列」のどこかに、自分の命日となる日があるのだ。
それが「不安」を高めて、偶然ではなく自分で決めることの意義を見出すという。たかが「カレンダー」ではない。
未来に対する希望だけは失わずに済んだため絶望することなく生きていくこととなりました、という大団円的な物語が、よくいう「パンドラの箱」の話だけれど、果たしてこの「解釈」でよいのだろうか?
むしろ、人は分かりもしない未来に希望や夢を馳せては叶わずに絶望することを繰り返すようになった、とも悲観できる。一方で、イブである。
蛇に誘惑されて、禁断の実を食べてしまっただけでなく、アダムにも食べさせる。
すると、たちまちにして「知恵」が湧き起こってきて、自分たちが恥ずかしくも裸であることに気づくのあった。
さらに、楽園を追われた二人は、未来の子孫も「労働」をもってしないと生きて行けななくなって、現在もまた未来もこれが続くことになっている「厄災」なのだ。「勤労感謝」の思想は、ここにはない。
全知全能の神は、一体何がしたかったのか?という、不躾な疑問が湧いてくる。
これぞ、禁断の実を食べた「原罪」による、知恵なのである。
そして同じことが、ゼウスにもあてはまる。
ゼウスは何をしたくてパンドラに開けてはいけない箱を持たせたのか?つまるところ、「禁止」があるのは、やるものがいる、からである。
むかし、知らないどの町内に行っても、「小便するな」という張り紙とかが塀に貼ってあった。
そこにするひとがたくさんいる、ということである。
それで、日本人の知恵は、鳥居の絵や、ほんとうに小さな鳥居を作って置いたのだった。
驚くほどの効果があるのは、日本人の本質を突いたからである。繁華街に近いドイツの地下道では、その悪臭対策に悩んでいて、ついに解決方法が監視カメラになった。
十字架を掲げることをしないのは、知恵がないのか?
それとも、あまりにも畏れ多いからなのだろうか?最後に、今様のジェンダーという視線からしたら、あり得ない女性蔑視の思想がある、と考えるのか?
ギリシャ神話も、創世記も書き換えるか印刷を禁止して排除せよと言い出したら、またまた考えることが増えるのである。これぞ、パンドラが開けた箱の効果なのである。