ポーランドの領土拡大願望

歴史上、三度も亡国したポーランドは、甘いショパンの音楽とあいまって、大国の割には弱っちいイメージがあるけれど、その実は、やっぱり、ヨーロッパ人らしくあんがいと凶暴な素顔がある。

そうでないと、群雄割拠するヨーロッパでは、大国として生存できないからである。

池田理代子の、『天の涯まで』は、全3巻と短いが、そんなポーランドの気概がきっちり表現された、名作だとおもう。

  

とにかく、「列強」という国々によって、つまり、プロイセン(ドイツ)、オーストリア=ハンガリー二重帝国(神聖ローマ帝国)、それとロシア(ソ連)にやられまくったので、ポーランド人は、心情的にこれらの国々が大嫌いなのである。

とくに、ドイツとロシアが嫌いだ。

おなじソ連衛星国の境遇で、「ハンガリー動乱(1956年)」のときも、ポーランド人がどこか他人事だったのは、神聖ローマ帝国以来の恨みがあるからだった。

このあたりは、「観念的」で、はまり込む、日本人インテリともちがう。

江戸期には、「漢籍かぶれ」から、大陸に完全敬服する学者が多数いたのも、「ソ連かぶれ」で、どんなに悲惨が伝わってきても動じない、向坂逸郎のようなひとが崇められるのも日本なのである。

当然、戦後の多数を形成する常識人達は、「アメリカ(民主党)かぶれ」しているのであるけれど、自覚がない、という歴史的共通が、あぁ本性が変わらぬ人間なのだ、とも思わせるのである。

人類史を構築してきた、パワー・ポリティクスによれば、「力の空白地帯(「真空地帯」ともいう)」には、かならずやなんらかの「(国家的)パワー」が入り込むものだ。
あるいは、周辺よりも弱いエリアをみつけたら、そこにも水が流れ込むように浸入する。

これが、「自然」のエネルギーの流れと似た、人間のパワーバランスの作り方なのである。

さらに、数千年前からとかの古くからひとが棲みついたような場所なら、血筋も含めての興味が涌くのは、収穫物よりも強い衝動をもたらす。

おそらく、ドイツから続いて原生林が広がっていたポーランドも、ワーグナーの大作、『ニーベルングの指環』の、3日目、『ジークフリート』にあるような森の中の暮らしがあったはずだ。

これが、ポーランドとバルト三国(とくにリトアニア)が見つめる「西ウクライナ」への視線なのである。
なぜなら、16世紀から17世紀のヨーロッパで最も大きく、最も人口の多い国のひとつであったのが、「ポーランド・リトアニア共和国」だったからである。

正式には、「ポーランド王国およびリトアニア大公国」、という。

この両国の結びつきは、1573年の「ワルシャワ連盟協約」を根拠とする。
それで、いま、ポーランドとリトアニアは、この「ワルシャワ連盟」の21世紀版を構築しようとしているのである。

もちろん、この域内に、「西ウクライナ」も含まれるのである。
仮想の、「ワルシャワ連盟共和国」だ。

ただし、この両国を分断して、ロシアの飛び地、カリーニングラードがバルト海に面してある。

ポーランドは、第一次大戦が終わって、独立を回復するやいなや、「西ウクライナ」に進軍して、この地域をポーランド領とした。
それが、第二次大戦で、ドイツとソ連によって分割されて、三度目の亡国をすると、西ウクライナは、ドイツ領になって終戦を迎えている。

スターリンは、東ドイツまでの版図を得たので、ポーランドに西ウクライナを付けて、社会主義ポーランドとはせずに、西ウクライナと縁が薄いロシア語圏の東ウクライナを合併させて、これを、「ウクライナ」とした。

それで、国としたのではなくて、「ロシア共和国」に取り込んで「(共産党)直轄」としたのである。

スターリンという、いまなら脳に障がいがあったのではと疑いたく特異な人間は、まさに悪魔さながらの発想で、「分断をもって統治・支配する」という方法が大好きだった。

時間はさかのぼって、ポーランドが西ウクライナを獲った後、いまのウクライナのその他の地域では、おそらく共産党が仕掛けた、「ホロドモール(大飢饉)」(1932~34年)が起きて、阿鼻叫喚の地獄と化す。

穀倉地帯のはずの、ウクライナでの悲惨だ。

これが、反ソ・反共の恨みにならない方がおかしいけれど、そこに、ポーランドを奪ったドイツが支配した西ウクライナから、ナチス親衛隊がやって来るのである。
そうして、ソ連からウクライナ独立をいう軍隊と、反ソ・反共のナチスが組んでしまったのだった。

もちろん、敗退前の元気さで進軍してくるときに、親衛隊がこの地域のユダヤ人らになにをやったのか?は、当地の一般人を弾圧したどころの話ではない。
なにしろ西ウクライナは、ポーランド領だったのである。

ヒトラーのモスクワ攻めは、ナポレオンが原生林を切り開いてつくった、「ナポレオン街道(いまは一般国道)」のルートと、西ウクライナから北上するルートの二つで、後者のルートで活躍したといわれているのが、ウクライナの「コサック兵」だった。

なぜにコサック兵が、赤軍とともにドイツ軍と戦ったのか?に関しても、暗い話があるにちがいない。

一応念のため、スターリンは、ドイツのモスクワ攻めを「大祖国戦争」と呼んでいたのは、なかなかのプロパガンダであった。

そんなわけで、ポーランドが急速にゼレンスキー政権と険悪になってきた背景に、西ウクライナの最併合があるのだという話になっている。
しかし、こんな手のひら返しは、かえって不審を招く。

なにか、一般人には目に見えない、変なことが画策されているのかもしれない。

それが、ポーランドとリトアニアによる、カリーニングラード奪還戦だとしたら、これに、イスラエルがタイミングを計ってイランを爆撃したら?まさかの第三次世界大戦になる。

そんなばかな?

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