日本人とは何者なのか?
ご先祖たる「縄文人」が、どこからやってきたひとたちなのかも、じつはわかっていない。
だから、「日本語の起源」すら、わからない。
むかし、大ヒットしたテレビ・ドラマに『ルーツ(Roots)』があった。
アレックス・ヘイリーが自身の家系をたどって、小説化したのを原作にしたのだったが、アメリカでは1977年に8日間連続放送(ABC)されて、なんと全米平均視聴率を、44.9%もたたき出して、社会現象にもなった傑作だ。
ゆえに、エミー賞も受賞している。
いまとなっては、キャンセル・カルチャーとしての「批判的人種理論」のルーツにも利用されようとは、作家の想像を超える事態になったのである。
さて、同年秋(10月2日から8日間連続)、日本語版が放送されて、どの学校でも誰かが「クンタ・キンテ」とあだ名が付いたし、タイトルの「ルーツ」が日本語化された。
それから、「自分探し」とか、「家系図」とか、時間をもてあました教養ある退職者には「自家版ルーツの執筆」というブームにもなった。
もちろん、ワープロもパソコンもない時代なので、作家気分に浸るための「環境整備」が重要視されて、万年筆とかの筆記具ばかりか家具も購入されたし、「原稿用紙」をオーダーすることもブームになった。
万年筆なら、軸太の「モンブラン マイスターシュテュック」か「ペリカン スーベレーン」が定番なんだろうけれど、国産だと、「パイロット カスタム823」というポンプ式大容量インク・タンクの逸品がある。
どれにしても、次には「インク沼」がやってくる。
なお、高級万年筆は、ペン先の「研磨」が重要なので、購入後毎日使ったとして1ヶ月後、そうでないなら3ヶ月後とかに、「調整」といって「再研磨」を依頼すると、驚くほどの書き味になる。
持主の「書き癖」が柔らかい金ペンの減りに現れるのを、職人が見破って角度調整してくれるからである。
だから、売りっぱなしの店で高級万年筆を購入するのは、まずい、のである。
原稿用紙は、紙質やマス目の罫線をどんな風にするのかもあるけれど、自分の名前を欄外に入れるので、その書体もどうするかが悩ましい問題になったのである。
なにしろ、オーダーメードだから、いちど決めたら浮気がしにくい。
補充をするときは、オリジナルとおなじものになるからである。
ただし、その価格は驚きなので、作家といえば有名なイメージの、書き損じたら原稿用紙をクシャクシャ丸めて投げ捨てるようなことは、もったいなくてとてもできない行為なのである。
それで、下書きを安い原稿用紙でして、清書につかう、という工夫をすることになった。
さてそれで、ミステリーなのに教養小説に仕上がっているのは、『アマテラスの暗号』(伊勢谷 武、2020年)だ。
「神道」というと、古代からのイメージがあるけれど、現代のわれわれにとっての神道は、あんがいと新しくつくられた宗教の概念である。
なので、「神社」といった方が古代に近づくことができる。
とはいえ、神社にある「由来」には、たいがい「官幣社」とか「郷社」とか、明治政府がつくった「社格」によるヒエラルキーの記述があって、これが、「新しい」から、現代のマスコミ報道と同様に、その部分は「読まない」ことにこしたことはない。
あたかも「社格が高い」ことを、神社側が主張していることも、神社らしくない。
問題となるのは、「信仰心」だからである。
ここが、たいへんな「キモ」なのだ。
欧米人が近代以降に失ったのがこの「信仰心」で、それに取って代わったのが「理性」である。
これを、「宣言」したのが、デカルトの『方法序説』だった。
現代の「科学万能主義」は、ここからはじまる。
だから、科学万能主義という「理性」だけでもって、「信仰」を旨とする宗教をみようとすると、ぜんぶが「カルト」にみえてくる。
もちろん、宗教側(おもにローマ・カトリック教会)も、ひとびとの信仰心を利用して大儲けして身分までも確立し、特権とした酷い歴史があるから、これをルサンチマン(弱者から強者への鬱憤)したのが「政教分離」だったのである。
さらに、新興宗教の究極としての共産主義・全体主義は、マルクスが書いた聖書のパロディだから、「(既存)宗教を麻薬」とみなして否定して、自分たちだけを信じろという。
つまり、「理性への信仰」を疑いなきものとしたから、新興宗教の究極なのである。
これをふつう、「屋上屋を架す」というのだ。
そうやってみると、いよいよ神社の不思議がみえてくる。
教義も経典もない、鳥居とやしろ(社)だけが建っていて、その社のなかにも、御簾の先にも、ほんとうはなにもないのだ。
ならば、なにを拝んでいるのか?
自らの信仰心を確認しているのである。
ゆえに、神社は破壊の対象になる。
近代文明の根源にある「理性への信仰」に、もっともそぐわない存在が、日本だけにある神社だからだ。
どうして日本だけなのか?
どうして周辺国にも、世界にも神社はなかったのか?
そんなことはどうでもいい、と、初詣の準備は着々とはじまっている。
この「ふつう」のすごさが、ほんとうのミステリーなのである。