自国の経済で国民が生活できる。
こんなことを、日本人が意識せずに来られたのは、じつは「幸運」と「正しい勤勉・努力」があったからである。
なにも「古来」というまでもなく、戦後の高度成長経済だって、「幸運」と「正しい勤勉・努力」のたまものなのである。
日本人の「勤勉・努力」はいうけれど、その「素地」になった「幸運」を語ることはあまりない。
自分のことを自分で決めることができた国家を、先の戦争前までは、「一等国」とか「列強」といっていたことを思い出せばわかる。
当時は、「独立国」と「野蛮国」、それに「植民地」の3種類しか地球に存在しなかった。
そのうちの「独立国」とは、「白人国家」のことである。
つまり、「人種差別」がふつうで、ぜんぜん道徳的にも問題にならなかった時代背景があった。
南アフリカの「アパルトヘイト:人種隔離策」とか、オーストラリアの「白豪主義」とか、ついこないだまでの人種差別が「制度」としてはなくなったけれども、それは、「制度」や「国家体制」のことであって、これら制度の「撤廃」とは、むしろ、ひとびとの心のなかに「潜伏」したのだった。
この「ぼんやり感」が、ときにむき出しになることがある。
明治時代の日本人による「奮闘努力」で、幕府が締結した「不平等条約」がなくなったと習う。
それまでは、「関税自主権」と「領事裁判権」がなかった、と。
しかしながら、ちょっと冷静に「他国のこと」だとしたならば、「関税自主権」と「領事裁判権」がないならば、それは、「植民地」だと定義付けるのがふつうではないのか?
すると、わが国が位置づけられた「野蛮国」とは、白人国たち全部の「入会地」だったといえる。
すなわち、明治の栄光の歴史とは、勝手に刈り取られることへの、民族を挙げた「抵抗」だったのである。
ならば、なぜに白人国たちは「おいしい」はずの、入会地を返還してでも、日本を「独立国」として認めたのか?は、「もっとおいしい」ことに気づいたからではないのか?あるいは、「邪悪の仲間」に引きずり込んだ、と疑うのである。
それが、第一次世界大戦における、わが国とドイツとの戦いで、わが国はドイツがもっていた青島とかの領土を奪うことに成功したのだった。
しかも、青島攻略戦が、わが国の戦史上初となる、憧れの「物量戦」だった。
その「物量=武器」は、どこの製品だったのか?ということになって、一方的に「絹:シルク」を欲するばかりの欧米白人たちは、支払のかわりに武器を購入させて「ちゃらにする」ことを思いついたのではないのか?とおもうのである。
中国(清国)からの「茶」の代金を、「阿片」で払った前科がある。
いま、学校でどういうふうに教えているのかしらないが、わたしのときは、「濡れ手に粟」のような「楽勝」で、青島を攻略して「戦勝国になった」と教わった。
それでもって、ベルサイユ(パリ)講和会議に臨んだわが国代表は、「会議は踊る」どころか「沈黙」していたとも習ったのである。
しかし、ぜんぜん沈黙なんてしていなかった。
有色人種としてはじめて「列強」となったわが国代表は、あろうことか、「人種差別撤廃」を条約文にいれるように要求したのだった。
敗戦国ドイツから多額の賠償金を得ることばかりが結論として語られるけれども、白人社会の戦争原因の底にある最大の「弱点」を突いたのだった。
わが国の命運は、結果的にこの提案が「致命的」となって、第二次大戦に追い込まれる「恨み」を買ったのである。
これが、わが国からしたら「鬼畜米英」となる根拠なのである。
当然ながら、「敗戦」によって、わが国は勝手に「主張」してはいけないことになったので、トルーマンはわが国を「属領」と呼んだのだった。
どういうわけか日本を「51番目の州」だという日本人がいるけれど、そんな大層なことをアメリカ民主党はかんがえるはずもない。
そんなわけで、バブルの生成と崩壊は、「豚は肥らせてから食べる」のそのままに、「してやられ」て、さらに30年間の衰退が止まらない。
この間の、さまざまな「改革」で、歯止めなき衰退が促進されてきた。
やったのは、政権与党であって、その政権与党を選んでいるのが日本人の多数ということになっている。
しかし、投票率が低いために、有権者全体の17%程度の得票で、自民党は過半数を確保している。
いまの小学生や乳幼児が成人したら、いったいどこに就職して稼ぐのか?
驚くほどの衰退で、基幹産業が「特にない国」になろうとしているから、外国に出稼ぎにいくことが国に推奨されることになるだろう。
それが、小学校からの英語教育の「ねらい」だとすれば、まことに不本意な国になろうと「努力」していることになる。
もはや『待ちぼうけ』のような「幸運」に期待できないから、「正しい勤勉・努力」をしないといけないのに、なんだか「正しくない勤勉・努力」を要求されている。
これに気づかない国民は、かなり「やばい」としかいいようがない。
昨日は投票日。
果たして日本国民はなにを選択して、なにを選択しないのか?
かつてなく「命運」がかかっている、向こう100年を決める「運命の大選択」なのだけれども。