岸田首相のウクライナ電撃訪問について、前回触れたとおり、国家元首の外国訪問には、周辺国への事前通知が欠かせない。
ましてや、ウクライナはロシアと戦争状態にあるから、第三国の元首の身体的安全を確保するための通知は、「もしも」を防止するための重要な手続きなのである。
だから、こないだのバイデン氏の同国電撃訪問でも、アメリカ政府はロシアに事前通告して、まちがってアメリカの国家元首たるバイデン氏を傷つけないように、戦闘行為中なのに配慮するのが「国際儀礼」でもある。
そうやって、他国を戦争に巻きこまないようにするのは、これまでの戦争の歴史からの「智恵」なのである。
だから、今回の岸田氏の訪問でも、日本側からロシアに事前通告したのは当然なのだ。
日本のマスコミは、「敵国情報の報道管制」をしているので、ロシア側の反応がぜんぜん日本国民に伝わらない。
これも、ロシアは承知の助だから、長距離戦略爆撃機「ツポレフ95MS」2機を7時間以上も日本海に飛ばして、その「返礼」としたのである。
外交の世界は、「相互主義」という原則がある。
ゆえに、日本国首相の身の安全と引換に、爆撃機で威嚇するのは、相互主義の原則に基づいている。
もちろん、どんな返礼をするかは、独立国たる相手国の判断による。
あたかも、平和ボケの日本人には、核搭載できる大型爆撃機を2機も出動させることの危険な威嚇行為は、首相の身の安全よりも重いとかんがえるかもしれない。
しかし、ロシアからしたら、今回岸田氏が表明した「戦費を5億ドル」も追加供出することの「返礼」としては、よほど「軽い」とかんがえているにちがいない。
これは、プーチン氏の「日本愛」なのかもしれないのだ。
じっさいに、北方領土返還に関しても、プーチン氏は積極的だった。
しかし、彼が出した唯一の条件、返還後に米軍基地はつくらない、ことの確約が日本にできないことで、頓挫したのだった。
このことは、日本側に、米軍基地をつくることがとうに「前提」になっていることを示すし、日本の領土にいまでもアメリカは軍事基地を新たにつくれることを意味する。
そしてこれを、アメリカに拒否できない日本政府があるのだ。
すなわち、わが国の周辺国ばかりでなく、世界各国は、「日・露の北方領土返還交渉」を観察すれば、わが国の立ち位置が、「非独立国=アメリカの保護国=植民地」であることが論理的明確に理解できることだろう。
この意味で、岸田氏の今回のウクライナ電撃訪問は、歴史的意味をもった。
それは、あからさまにロシアに敵対することを世界に示しただけでなく、北方領土の放棄を決断したも同然だからである。
昨年のロシア軍によるウクライナ侵攻以来、わが国はずっとウクライナ支援をしていたけれど、直接訪問という一線は超えていなかった。
これが今回破られたのである。
岸田氏のような優柔不断で平和主義をいう政治家が、なぜにかくも重要な政治決定ができたのか?は、かんがえるまでもなく、普段からなにもかんがえていないから、アメリカの命令に従っていることに、ストレスさえも感じないだけなのである。
外務省も、面倒くさいことはいやだから、シラッと岸田氏の決めたことにすれば誰も責任をとる必要もないし、国民で気づくものはごく僅かだろう。
それでも、「毎年2月7日は北方領土の日」ですと、マスコミに巨額の宣伝費を渡せば、アリバイ工作としては十分なのである。
すると、これからロシア側は、これ見よがしのイベントを北方領土でやることで、「相互主義」を壊すのではなく、今回の日本の決定通りのことを粛々と推進するだけだ。
これをもって、右翼とかが騒ぐのなら、本来ならそれはまさに「いま」でないといけない。
つまり、よってたかって、もう日本人には、北方領土が領土だという気が失せたのを、世界に宣伝しているのである。
だから、竹島も返らないし、尖閣も盗られるのだろう。
そんなわけで、沖縄も危ないし、北海道も危ない。
もう、沖縄には、最新鋭戦闘機F22も配備されていない。
なんと、アラスカからのローテーションなのだ。
一体全体、アメリカ軍のフォーメーションは、どうなっているのか?
残念ながら、在日アメリカ軍の存在理由とは、日本の永久占領であるから、日本防衛の目的はうわべだけの方便なのである。
ならば、どうして北方領土に米軍基地をつくれるようにしておくのか?もかんたんな理屈で解ける。
日・露の分断のためである。
ヨーロッパで、ノルドストリーム破壊で独・露の分断を図ったように、北方領土の返還による日・露関係の濃密化は、アメリカのロシア封じ込め政策に合致しないからである。
こうして、岸田氏というよりも自公政権は、あからさまに売国をしたのであった。
にもかかわらず、わが国国会は、行政文書のなんたるかで、「もりかけ」のごとく、時間を浪費しているのだ。
政治家たちがこぞって、亡国の輩になっているのを、国民は他人事として生きている。
まもなく、生存が危険になっても気づかないのだった。