国際バカロレア(International Baccalaureate:IB)とは、スイスに本部を置く非営利団体がおこなう、大学入学資格試験とそのための教育プログラムをさす。
この設立の背景には、外交官の子供たちが赴任先の国における教育で、母国での大学進学に不利にならないようするためで、目的には、より良い平和な世界を築くために貢献する人材育成として、「全人教育」を掲げているという。
ここで注意したいことが3つある。
ひとつは、ヨーロッパの外交官とは、すなわち「貴族」だということだ。
日本人はすっかり忘れてしまっているが、現代ヨーロッパは相変わらず「身分社会」なのである。
ゆえに、貴族の子供に対する特権的教育プログラムになるのは当然である。
ひとつは、より良い平和な世界を築くために貢献する人材育成としているのに、ウクライナ戦争をやめられられないのは、このプログラムの失敗を意味しないか?ということだ。
それがまた、ひとつ、「全人教育」を掲げていることの不可能なのである。
わが国の伝統にしたがえば、子供の教育の責任の第一は、家庭=親にあった。
共産化したアメリカ民主党は、親が子供の教育責任者であることを否定して、行政にあるとした。
それで教育委員会に抗議した親たちを、なんと「国内テロリスト認定」したのであった。
この認定を受けた親を、FBIが逮捕する事態にまでなっている。
このような、発信源の側の諸事情をふまえたうえで、IBの説明を受けるのは重要なことだけど、説明者はこのような前提を説明してくれるわけもないので、聴く側の問題になっている。
また、このブログでは何度も書いてきたが、だからといってわが国の教育が素晴らしいとは到底いえないのも事実である。
この原因は、独占禁止法に違反する文科省の学校教育全般(義務教育から大学まで)に対する独占であって、さらに、研究予算の配分も文科省が決めるので、学者も全員いやでも文科省の役人に逆らうことができなくなっているおぞましい現実がある。
文科省役人の好き放題の隠れ蓑になっている、堕落した国家機関が、日本学術会議なのだ。
もちろん、わが国の大学受験制度は、文科省の独占を強化するためにある。
そのための、手段が「難関校の神話化」である。
これにぶら下がっているビジネスが、受験予備校・塾である。
とにかく、「なぜ?なに?」といった余計なことを一切かんがえず、教科書が聖書・コーランのごとく正しい、とした一種の宗教的な学習ができる者が、難関校に合格するようになっている。
ゆえに、A.I.時代を迎えて、これらの人間は生き残れるのか?という疑問が各所から湧き起こっているのであって、決してやっかみからの世迷い言ではない。
それはもう、いまの日本政府をみればわかる。
この難関校出身者ばかりで構成されている組織群の体たらくは、かつての興銀や長銀の破綻と似ているのである。
興銀は東大出でなければひとに非ず、だったし、対する長銀は京大出でなければひとに非ず、といった、およそいいおとなが口にするのもはばかれることが、行内の常識だった。
この幼児性は、家庭内教育の否定を第一にした、GHQ=アメリカ民主党が構築した、戦後教育の成果であり、その経営破綻は、結果だったのである。
ただし、日本型の経済を支えたのも、これら長期信用銀行の役割だったから、これを潰さざるをえなくしたバブルとバブルの崩壊は、日本潰しの最終局面としてアメリカに都合がよかったことも、日本人はしっておくべきだ。
そんなわけだから、家庭内教育とIBを分けて、あらためてIBだけをみれば、少なくともいまの日本の完全管理された学校教育の方法よりは、より、生徒オリエンテッドであることは間違いない。
前にも書いた、アメリカの教科書がやたら分厚いのは、「読めば分かる」ように、懇切丁寧さの結果なのである。
だから、学生はこれら大部冊を読む作業に徹するのだけれど、飽きさせないための工夫も又ページ数を増やす原因で、現実世界での応用事例をふんだんに紹介している特徴がある。
今回、わたしが受けた解説講義は、IB認定校のじっさいの数学授業をサンプルにしたものだった。
生徒たちと学校の中庭に出て、校舎にある塔の撮影をする。
この画像に三角形を書く加工して、タンジェントをもちいて塔の高さを算出するのである。
そのためには、現場でなにを確認しないといけないか?を生徒にかんがえさせて、意見を述べさせる。
なお、これらの計算に用いるのは、世界的に有名な「教育用グラフ電卓」、TI-Nspire CX II CASで、生徒たちに配布されている。
さて、こうした授業法がわが国で普及しないのは、当然に文科省の独占から逸脱するからだし、受験問題の解法に合致しないからであるけれど、一方で、現場レベルでは、数学教師がこうした授業法を面倒がって嫌がるからである。
公務員化=お役人化した教師は、学習指導要領に準拠していていさえあれば、それでいいからで、できるできないは、生徒の理解力と努力次第、という上から目線が、この上もなく楽ちんだからだ。
もはや、国家百年の計、などと教育の重要性をいうものもいなくなって、なんでもいいから大学卒業が高学歴なのだ、とか、それで一生が安泰だという時代は終わったのに、素直にやらされているだけの子供が最大の被害者なのであることだけがわかったのである。