日本には「近代政党」が二つある

わが国が「近代国家ではない」ことのわかりやすい事例が、「近代政党」の存在を確認することでわかる。
おもだった政党が、どれも近代政党ではない。
これは、明治以来、一貫しているので、いまも「近代化」しているのがわが国だともいえる。

つまり、国家の基盤中の基盤である政治体制という最上位のレベルで、わが国は「発展途上国」なのだ。
近代国家を前提としたはなしが浮いてくるのは、このためだ。

経済発展に目がくらんで、あたかも「近代国家」だと思い込んできたが、ぜんぜんちがう。
いま、GDP世界第二位という国の「後進性」が批判されているが、彼らの独裁政党は、なんと「近代政党」なのである。

では、近代政党とはなにか?
要件は三つ。
これら三つを全部みたさないと「近代政党」とはいわない。

・「綱領」があること
・「組織」があること
・「議員」がいること

最大の問題は、「組織」の中身である。
・組織には、独自のシンクタンクがあること
・組織は、党首からの指令で活動すること
・組織は、候補者を選ぶこと

の三つがある。

すると、わが国最大の自民党は、近代政党ではないことがわかる。
表面上は三つの要件を満たしているようにみえるが、「組織」の中身を満たしていない。

独自のシンクタンクをもたず、これを「官僚」にやらせる。
だから、党による政治は実現せず、役所による政治が実現する。
選挙を何回やっても変わらないのはこのためだ。

独自のシンクタンクをもたないから、党首による指令よりも、中央官庁の指令(省令からはじまって課長通達まで)に依存する。
そして、なによりも候補者を党員組織の選挙できめない。
「予備選挙」という概念が、最初からないのである。

そんな「組織」だから、「議員」は独自の「後援会」という「組織」をつくるしかない。
これが、「地元」において、国会議員-県会議員-市町村議員というピラミッド型組織となる。党の組織ではなく、議員個人の組織だ。

市町村議会選挙で、おなじ党の隣町の候補者がじぶんの街で外宣すると「攻めてきた」というのは、党組織ではなく、議員の後援会組織で選挙をやるからだ。
けっして党本部からの指令でうごかない。

そうすると、わが国であまたある「政党」で、「近代政党」といえるのは、公明党と共産党の二党「だけ」であることがわかる。
この二党は、党本部からの指令でしかうごかない。
ただし、党首も候補者も、どうやって選んでいるのか、外部からはわからないから、やっぱりちゃんとした民主主義の「近代政党」ではない。

すると、全滅だ。

全体主義の国における「選挙」は、民主主義の国における選挙とことなるのは、候補者を「選ぶ」のではなくて「信任する」という「過程」としておこなうことにある。

組織がA氏を候補者として選んだから、信任に同意するのかしないのか?を問う。
A氏かB氏かを選ぶのは党であって、党員ではない。
それに、党にとっての最優先は、党への忠誠であるから、組織構成員である党員の「優秀さ」とは頭脳のことではない。むしろ頭脳は忌避される。

「ソ連時代」に「ノスタルジー」がある現代ロシアで、旧党員たちが胸に勲章をこれでもかとつけて真顔で並んでいる光景がネットに多数アップされている。

みんな老いてはいるが、男女とも顔に刻まれたシワをみれば、どうして「党員」になれたのか想像できる。
もしやかつての「農奴」たちではないのか?
頭脳よりも忠誠を重んじることが、実践されたことの証拠だ。

「信任しない」のは、「反党行為」だから、全員一致で信任することに意義がある。結束の確認こそが「選挙」なのだ。
だから、「党」=「だれか」にしないときまらない。
独裁者が生まれる必然がここにある。

全体主義は、近代が生んだ「悪魔」だというゆえんだ。

いま、わが国が全体主義の国になる、といえば誰もが信じない。
そんなわけがない、と。
しかし、わが国の「非近代化状態」は、冗談ではなく「危険」なのである。

「効率」をもとめると、「試行錯誤」が「非効率」にみえる。
それが「国家総動員」の「計画経済」=「統制経済」を産んだ。

しかし、「神の見えざる手」のごとく、あるいは、ミーゼスが数学的証明をしたように、もっとも効率がよいのは「試行錯誤」を全員がする自由主義による社会なのだ。
かならずだれかが、いまよりも「うまいやり方」をみつけだすからである。

したがって、全体主義のリーダーシップは、トップダウン型で、党員は究極の「指示待ち」をもってむねとする。かんがえるのは「党」だからだ。
自由主義のリーダーシップが、構成員の「能力を引き出す」ことを第一とするのと、真逆のベクトルなのである。

戦後の成長は「奇跡」だったが、それをわすれて、日本人が必至に働いたからだと思い違いしている。
・安い石油
・冷戦構造
・朝鮮動乱
の三つがかさなる歴史的ラッキーがつくりだした奇跡だった。

豊かになったのは役所もおなじ。
つかえるお金がたくさんできて、役人たちが「効率」を「計画」しだす。
これこそが、「計画経済」なのである。

「試行錯誤」が科学技術の歴史であるのに、役人が「効率」をもとめるから、「試行錯誤」させないで、わかりきった「先端技術開発だけ」に予算を投じる。
それで「ソ連」がだめになったことを知らんぷりする。

中国人がすごいのは、民間に試行錯誤をやらせていることだ。

なんと、全体主義の国から学び直しがひつようなまでに落ちぶれたのがわが国だ。
だから、政治も「効率」のまねっこをすれば、悪魔の「近代政党」に支配されるようになる。

いまさらだが、手本にすべき思想の選択をまちがえてはいけない。

わが国の凋落は、役人による「計画経済」=「統制経済」の体制になってしまったからである。

企業内でも、全体主義の統制体質と、自由主義の試行錯誤を容認する体質がある。
「組織のつかいかた」のちがいである。

どちらが、業績も優良でしょうか?

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