「石油確保」の意味がかわった

さてさて、従来の延長線でものごとをかんがえたら、アメリカが引きだした中東に、穴埋めでわが国自衛隊が派遣されることになった。
総理が現地を訪問して、「理解を求める」という儀式をしたのは「国内向け」で、先様が拒否する理由はない。

むしろ、じぶんからけっして「撃てない」わが艦が、大丈夫なのか?と心配されたのではないか?
そうした事前情報は、エリートを自称する外務省のキャリア外交官が、これ見よがしに世界の非常識をご説明したはずである。

だったら、なにしに来るかと?おとなは追求せずに握手するだけだ。
あちらの常識からすれば、なにをいっているのかわからない説明に、眠くなったのではなかろうか?

さては、アメリカ合衆国が軍を引きだした理由は、国内で大深度削屈による石油の入手が可能になったからである。
二度の石油ショック以来、石油の枯渇が心配されたが、武田邦彦教授によれば、だんだん石油の正体がわかってきた。

「地球史」という宇宙規模の歴史をひもとけば、生命の誕生がなければいまのわれわれも存在しない。
さいしょの生命が進化して、いまの時代になっている。
この間、動植物ぜんぶにわたる、幾世代もの「死がい」が土にもどって、地下深く地層のなかに埋まったのが、石油であり石炭だ。

それで、地表から数千メートル下の地殻のなかに、石油層の「本体」が埋まっていることが判明した。
従来の浅い場所にある「油田」は、「本体」から浮き上がってきた分の「溜まり」にすぎないのだ。

すなわち、埋蔵量は「数千年分」あるという。

だから、人類はずっと石油を燃やせばいいともいえるが、たぶん、あと数百年もすれば、原子力にかわる画期的エネルギー源を発見するにちがいないから、そんなに心配しなくてよい。
ただし、石油は燃やすだけが能ではなく、プラスチックの原料だから、材料としての利用はずっと後世までつづくとおもわれる。

一方で、チェルノブイリと福島の後始末には、もっと時間がひつようなのは確実だ。
これらの後始末ための技術開発に要する、最も楽観的な予想での数百年と、画期的エネルギー源の技術がどんなふうにつながるのかも、いまは想像できない。

悲観的な予想は、千年単位であるから、もしや石油が「本体」も枯渇する時代になってようやく後始末ができるかもしれない。
平安時代の人びとが、千年後のいまを予想できなかったように、われわれも、これから千年後は予想できない。

そんなわけで、時間をいまにもどすと、南北アメリカ大陸とヨーロッパ大陸、それに豪州の地下の様子は、すでに「調査済み」なので、これをもっての石油「本体」をいっている。
アジア大陸とアフリカが「未調査」なので、おそらくもっとある。

ところが、「本体」は、ぜんぶが「大深度」にあるから、どうやって掘りあてるのか?がすべてなのだ。

ここに、パラダイム・シフトが発生した。

「掘る技術」が、石油権益をしめすことになった。
油田地帯が国内にあることの意味が、おそろしく小さくなってきたのだ。

はたして、「シェールオイル」という「本体」にいきついたアメリカは、世界で唯一の「掘る技術」を独占している。
「大深度」を掘るとは、地中圧力とのたたかいである。
水中においてもたいへんだから、想像を絶する力がはたらく。

先端の「歯」の強度と、でてくる「土」をどうやって地上にもどすのか?そして、それをささえる「管」のつくりかたは、一朝にしてできる技ではない。
これを、アメリカ人は「自動化」させて掘っている。

わが国が外国に依存している石油の割合は、日米戦争まえの当時で「9割」がアメリカだった。
このときの「アメリカ」とは、「石油メジャー」(国際石油資本)のことをさす。

いわゆる、「セブン・シスターズ」とかつていわれていた、世界の石油を独占していた企業群をいう。
いまは、エクソン・モービル、シェブロン、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアム、の4社をいう。

「米・英・蘭」とのたたかいになったのは、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアムが「英・蘭」そのものであったからで、これにインドとインドネシアという植民地が地図にはあった。

いま、中東依存が「9割」なのも、実質「石油メジャー」から購入していることに変化がない。
アラビア石油がわが国「自主開発油田」の代表だったが、2000年にサウジアラビアの採掘権を失って、開発から撤退している。

さては、わが国の「掘る技術」はどうなっているのか?
「日米」による石油採掘技術の「独占」が、産油国や石油メジャーを超える可能性もある。

すなわち、掘ってほしい、といういろんな国からのオーダーにこたえるのだが、これを「米・英・蘭」はゆるすのか?
もはや、わが国の外交官は「理科系」でないと務まらないのではないか?ということも、「パラダイム・シフト」ならではだ。

「観光立国」は幻想の「甘言」にすぎない。
ものづくりだけではない、「科学技術立国」こそが、将来のあかるい未来をつくるのである。

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