文学作品として、「直木賞」と「本屋大賞」のダブル受賞が話題になったけど、原作の「小説」を読まずに映画を観るというのは「無謀」だったかもしれない。
そもそも「映像化不可能」と評判の小説なのだから。
読んでもいないのに「映像化不可能」とはなにを意味するのかを「映画」から類推すれば、音楽の「イメージ」のことではないか?
これは、脳がつくりだすもので、本人の経験や記憶からだけではなく、かってに創作することがある。
すると、本人もおどろく体験をするのである。
さいきんの脳科学は、「暴走」という表現をつかうこともある。
それに、脳は脳に都合のよいことを「創作」するから、本人もだまされる。
しかし、犯人がじぶんの「脳」だから、だまされている本人はこれに気づくはずもない。
つきつきめれば、「完全犯罪」である。
これは、「脳」と「肉体」が分離しているだけでなく、じぶんの「意識」すら別物になることを意味する。
脳がだます相手が、じぶんの「意識」になるからだ。
だまされた意識は、もうだまされたことを意識できない。
まことにおそろしいことだが、「現実」である。
これをズバリ表現したのが、1999年の映画『マトリックス』だった。
もう20年も前の作品になってしまうことに、時の流れをうらむしかないが、二作目、三作目とつぎつぎに「難解」になったのは、「意識構造」の解説がどんどんデジタル技術との哲学論争になっていったからだ。
意識がプログラムされている。
では、それをプログラムしたのは誰で、そもそもプログラムをさいしょに創作したのはだれか?
これこそが「アーキテクチャ(論理的構造)」から導きだされる「神」の存在である。
「構造」というキーワードをみれば、レヴィ・ストロースの「構造主義」を連想する。
かれは「神話」における「構造」の解明をこころみた。
はたしていま、ディズニー映画『アナと雪の女王2』も上映中だ。
もはや「ディズニー映画」の制作に「構造主義的アプローチ」は欠かせない。
いかにして「あたらしい神話」を創作するのか?が作り手の「仕事」だからである。
その教科書に、『神話の法則-ライターズ・ジャーニー-(夢を語る技術シリーズ5)』(ストーリーアーツ&サイエンス研究所、2010年)がある。
オリジナルの映画をつくるはなしと、原作の小説から映画をつくるはなしは、アプローチがことなる。
ディズニー映画のリスクは、公開されない「原作」の構造を神話化する過程のなかにある。
いっぽうで、原作の小説はすでに公開されているから、原作の再現性の「忠実度」にリスクがある。
このことは、「新規事業」と「既存事業」のちがいにもなる。
新規の「事業コンセプト」のなかに、どんな神話をもりこむのか?
既存事業なら、もともとあったはずの「企業理念」や「経営ビジョン」の再現性の見直しにあたる。
見直して、「原作」に問題があるなら、書換ということができるのが「経営」で、映画とはぜんぜんちがうアドバンテージがある。
さて、本作のばあい、「原作」に問題があるのか?それとも「再現性の忠実度」に問題があるのか?
基準となる「原作」を読んでいないから、なにもいえない。
そこで、ヒントになるのが、ネット書店にある「レビュー記事」だ。
観てきた映画のイメージと合致するコメントをさがすと、けっこうな数をみつけることができた。
残念ながら「好評価」のものではない。
すると、映画作品の評価から、原作の評価に重心がうつる。
わたしの違和感は、新人の登竜門としている「ピアノ・コンテスト」にまつわる人間模様が、「薄かった」ことにある。
登場人物の薄さと、登場人物のちかくにいるひとの薄さもあるが、ライバル間の「ギドギドした」対抗意識の薄さが気になったのだ。
千住家は、日本画の長男博、作曲家の次男明、そして末子の天才バイオリニスト真理子を輩出している。
「落ちろ、落ちろ」
コンテストにでた真理子に対したライバルだけでなく、背後にいる親たちから立ち上がる「負のオーラ」がすさまじい、とは母文子の告白である。
すなわち、これぞ「コンクール」なのである。
優勝と二位とでは雲泥の差、「入賞」では自慢にもならない世界。
あらゆる「妨害」と「謀略」のなか、それでも勝ち残ることができるものに、さいしょの「資質」があたえられる。
この「資質」があるもののなかから、演奏テクニックやら表現の豊かさが評価されるのだ。
だから、演奏テクニックやら表現の豊かさをもっていても、さいしょの「資質」がなければ、けっして実力が発揮できない。
これらをトータルに評価する。
でなければ、「世界」で演奏家としての活動などできるはずもない。
これが、「厳しさ」なのだ。
そして、そのもっとも大きな原動力は、選ぶ側の権威保持、にある。
もし「資質」のないものを選んだら、選んだものたちが業界から退場をせまられてしまう「厳しさ」があるからだ。
作中、トップを目指すものたちが、全員「いいひと」なのは、違和感をこえて「ファンタジー」になった。
おそらく、原作が「ファンタジー小説」なのではなかろうか?
「いいひと」
むかしは「いいひとって寒いですね」というフレーズがあった。
「いいひと」だけではダメなのだ、という価値観があったということだ。
これが、いまの日本の「弱さ」なのだとおそわった。