暗殺の実態が不明な半年で

作夏の大事件は、参議院通常選挙投票日(7月10日)の直前、7月8日午前に安倍晋三氏が遊説中に暗殺されたことだった。
これは、究極の選挙妨害ともいえるけど、なにせ公衆の面前での殺人事件なのに妙に事件追求の努力がされていない不思議がある。

それから数えて、この8日で半年が経過した。

この間、まったくもってケネディ暗殺犯とされた、オズワルドと似た扱いを山上容疑者は受けていて、「元」とはいえ、憲政史上最長の内閣を率いた人物の暗殺事件について、物理的分析がほとんどないままに放置されている。

マスコミだけでなく、政界からも、警察はなにをしているのか?の質問すらない。
与野党を超えて「真実追究」はもちろんのことなのに、なぜか話が本末転倒の感がある。

この事件を物理学者がきっちり「音声解析」していることも、マイナーなニュースで、大手メディアは一切の無視を決め込んでいる。

襲われた安倍氏は演台を自分から降りたが、手からマイクは放していなかった。
よって、現場ではこのマイクが捉えた音を、拡声器を通して聴衆に聞こえたという。

それは、山上容疑者が放った一発目の0.2秒前の音だった。

しかも、彼の手製の銃は、先込め式の火縄銃のような構造で、込めた散弾は6粒だという。
これらはほんとうに発射されたのか?すら、怪しいが、この物理学者は「空砲だった」と重大な解析結果を発表している。

この解析による山上容疑者の銃とは別の発射音は、4発。
安倍氏の立ち位置からすると、左右から2発、という。
命中したのは3発で、1発は安倍氏が山上容疑者の方に大きく振り向いたことでの失中とみられるという。

なんだか、フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』(出版は1971年、映画化は1973年)のラスト・シーンを彷彿とさせる。

 

すると、いきなりプロ(おそらく消音器付きライフル)の狙撃手が複数いないとあり得ない。
日本では、銃刀法で一般人がライフルを所持できるのは、散弾銃の所持許可免許を取得して、10年連続無事故でかつ、狩猟用としての申請をしないと所持できない。

ちなみに、この免許の書換は3年に1回だ。

しかも、消音器はぜったいに販売も所持も許可されない。
なので、日本人なら公務員系(警察あるいは自衛隊)、そうでなければ外国人しか見当がたたない。

日本を舞台にした消音器付きライフルを用いたサスペンスなら、現役エンジニアの榊正志作『レイラインシリーズ3 アマテラス・サーガ: 失われた卑弥呼の金印を探せ! 失われた秘剣 』が、いまもっともスリリングだ。

本作だけでも楽しめるが、前2作から、という順番がお薦めだ。

なお現実の警察は、安倍氏暗殺後もライフル所持者に対する調査もしていない。
果たして、この解析以外の解析を警察すら未発表だから、とっくに「ヤミの中」なのだ。

それを隠蔽するかのように、特定宗教団体を叩くというパフォーマンスが連日報道され、まったくの目くらましをくらっているのが、いつものように国民なのである。

なので、すっかり現行犯逮捕された山上容疑者が単独犯だという前提で、事件があたかも解決した風情になっている。
これにはまた、検察が起訴したら99.6%が有罪になるという、わが国刑事裁判の国際比較でも「異様」な状況が背景にある。

他の先進国は、のきなみ6~7割程度でしかないのだ。

もちろん、わが警察の丁寧な捜査が、刑事訴訟での圧倒的「証拠」提出となる原因であって、他国の警察のずさんな捜査が優秀な法務官の検察をして裁判に勝てないのだ、という意見もあろう。

しかして、99.6%という実績値は、それでも高すぎるとみるのが一般的な感想になる。
これでは、刑事裁判における裁判官の存在がみえないし、起訴するか起訴猶予にするかで、検察が実質裁判の判決を書いているようなものだ。

ちなみに、検察官は、わが国では法務省のお役人様である。

ふつうの省庁は、国家公務員総合職試験(戦前の「高等文官試験」、戦後の「上級職試験」)合格者が「キャリア」として、最終的に事務次官に上り詰めるけど、これからはずれているのが外務省の「外交官試験」だ。

日本ではあまりいわないけど、こうした試験制での役人採用方法を、ふつう「科挙」といい、欧米では「中国式」とよぶ。

しかし、もっとはずれているのが法務省で、この役所のキャリアとは司法試験合格者で検事に任官したものをいう。
なので、おどろくことに、法務省では国家公務員総合職試験合格者でも、本省の局長になれない。

だから、外局に検察庁があるとかんがえるのはまちがいで、法務省全体が検察官たちの牙城なのだ。
それでできた序列が上から下へ、検事総長 ⇒ 東京高検検事長 ⇒ 大阪高検検事長 ⇒最高検察庁次長検事 ⇒ 法務事務次官 というすさまじさになっている。

どこまで警察と検察におもねるのかしらないが、有名大学の有名教授たちが、山上容疑者を「価値ある行為だった」とした言論を発している。

殺人犯を殺人犯ではなくて英雄扱いをしていることが問題なのではなくて、もう犯人を山上容疑者だと、警察・検察のいうとおりに決めつけていることが問題なのだ。

これもまた、社会に真実を隠す努力としての「ノイズ」なのであって、「冤罪」がなくならない原因のひとつである。

国民が恐れないといけないのは、こんな体制だといつなんどき逮捕されるかもしれないし、ひとたび起訴されようものなら、ほとんどが有罪に一直線だということだ。

これを、「暗黒国家」というのである。

1970年、ノーベル文学賞のソルジェニーツィンは、代表作『収容所群島』の冒頭に、「逮捕は突然やって来る」と書いた。

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