未完成とは、いまだ完成していないということだけど、「絶対に完成しない」未完成もあれば、「完成したことにする」未完成もある。
芸術の世界でいえば、もっとも有名なのが、シューベルトの交響曲第7番(といわれている)『未完成』がある。
しかしながら、「諸説」あって、「わざと説」もある。
本人の頭脳にあって、ペンのスピードと寿命との競争で、先に寿命が尽きたのが、モーツァルトの『レクイエム』だ。
その意味で、死の床にありながら作曲をしたり執筆に余念がなかったひとはたくさんいる。
「絶筆」となって、未完成なのに、弟子らが「補筆」して「完成」させた作品もある。
むかしの教育的音楽番組では、演奏を放送しながら「ここから補筆」といったテロップを流していたのを覚えている。
いまなら、指揮者がみている「総譜」を画面一杯にして、縦線とか鳴っている音の「音符」を強調させたら、ものすごくわかりやすいのに、と思うけど、面倒だからか誰もやっていない。
それを、指揮者別のシリーズにしたら、聴き比べが「見比べ」になる。
絵画や文学になると、「絶筆」に「補筆」すると価値がなくなるので、誰もやらない。
ならば音楽でこれをやるのはなぜなのか?
聴き手のフラストレーションが、なんともいえない「不満」になるからだろう。
それで、とにかく「嘘」でも、終曲までやってスッキリしたいのである。
それに、オリジナルは楽譜にて確認できるので、作品を台無しにする訳ではない。
これが絵画だと、どこまでがオリジナルでどこが補筆部分かがわからなくなるので、作品を「汚す」以外のなにものでもない。
文学だと、「ここから補筆」と言われたら、やっぱり興醒めしてしまう。
むしろ、「絶筆」の「余韻」を読者は大事にするものだ。
だから、音楽家のかんがえかたによっては、「版」にこだわって、本人が加筆修正を繰り返した作品でも、あんがいと「最終稿」が「完成品」とは限らない。
完成されたと思われてきた「理論」が、じつは「未完成」だったとなると、「事件」である。
特に「文系」の場合は、「完成」の定義すら怪しいことがある。
その典型が「政治学」という分野で、別に「政治哲学」という分野もある。
もちろん、「政治哲学」は、「哲学」の派生だとわかるから、「政治学」とはなんぞや?となると、ほとんど定義できない。
「完成後」に、人類に多大な影響を与えてきたのが「マルクスの共産主義」だ。
そのマルクスが、「独自の史観」を「妄想」してできた概念が、「資本主義」であった。
つまり、いま我々が「資本主義社会に生きている」と思い込んでいること「自体」も、マルクスの手の内にいることになっている。
なので、「資本主義の崩壊」とか、「資本主義の終焉」とか、あるいは「ポスト・資本主義」という議論の、「資本主義」は、全部マルクスが定義した「用語」としての概念にはまっていることになる。
出来たてのホヤホヤ状態の「ソ連」から逃げ出すことに成功した、アイン・ランドは、「共産主義」の「欺瞞」に気づいた、当時では珍しい人物だ。
それは、彼女が学んだ、アリストテレスからの必然的な結論だった。
智の伝統とマルクスの共産主義は合致しない、突然変異なのである。
アメリカに亡命した彼女が見た、矛盾に満ちたアメリカ社会とは、「未完の資本主義」に過ぎず、もしマルクスが定義した「資本主義」なるものが完成するならば、それは「未来のシステム」であると喝破したのである。
すると、現代人が抱く「社会常識」の根底にある、「資本主義社会」というものが、砂上の楼閣どころか、「夢幻の世界」になってしまうのである。
しかし、この「論」は、マックス・ウェーバーのいう『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と、これを詳細に解説した、大塚久雄の「前資本」の理論と、驚くほどに整合性があるのだ。
つまり、人類はいまだ「前資本」の「後期」にいる、ということになる。
資本主義の経験が一度もなかったロシアで、社会主義に移行したのは必然ではなかった、ということでのマルクスの「正しさ」をいうならば、人類はいまだに「完成」した資本主義すら経験していないので、社会主義、その先の共産主義の実現は、夢のまた夢どころか果てしない幻想となる。
しかも、アイン・ランドがいう「資本主義」とは、徹底した「個人主義」に基づく、えらく道徳的・倫理的なひとびとあっての「完成」なので、いったん「完成」すれば、その先の「利他を基本にする」社会主義も、共産主義も「あり得ない」こととなるのである。
よって、社会主義・共産主義社会を「目指すひとたち」は、そんな資本主義が未完成のうちに、甘言を弄してひとびとを「利他主義」の世界に引き摺り込んで、二度と資本主義社会を目指すようにさせないための努力がなされるのである。
これが、資本主義への「憎悪」を煽ることなのである。
「恐怖」と「憎悪」が、全体主義のエネルギー源なのであることを思い出せば、実に「原理・原則」どおりのことをやっているひとたちがいることに気づく。
さてそれで、これが「技術」になるとどうなるのか?という話題である。
いみじくも、かつてサッチャー女史が口にしたように、「原子力を越える恐怖が現れたので、原子力を推進できる」といったのが、「地球環境問題」であった。
「地球のため」とは、究極の「利他主義」だ。
これを金科玉条に据えた途端に、社会主義・共産主義への親和性が高まって、ついには、ひとびとを無防備な心理にさせることができる。
けれども、一方で福島の事故が語るのは、原子力発電が「未完の技術」であるという事実なのである。
すなわち、いまだに「夢のエネルギー源」なのだ。
にもかかわらず、いろんな「都合」で、「認可」して運転しているに過ぎない。
しかも、燃料となるウランは、資源として石油よりもずっと「希少」なために、その争奪戦はもっと激烈となるはずである。
もちろん、「わが国にはほとんど産出しない」資源である。
電気自動車を動かすための「電気」が、あたかも自然に湧いてくると思うのとおなじで、原子力発電なら、火力のように燃料調達の心配はいらない、とかんがえるのは、まったくのナンセンスなのだ。
さては22日、東電と東北電力管内で発生した、電力逼迫による節電要請とは、原子力発電をさせたいがための誘導かと疑うのは、かの「計画停電」が、まったくの意味無しだったことが判明しているのに、再び「同じ手」を使おうとする、経産官僚のワンパターンがさせたと思うからである。
そもそも、民間だけど地域寡占の電力会社とは、電気を安定供給してこその商売をしている。
これら企業の経営判断にちょっかいを出して、余計なコントロールを上から目線でして、歪めている元凶が経産省ではないか?
石油元売り各社の、製油所だって、同じように経産省が余計なお世話をして、各地の閉鎖・統合をやっている。
元売り会社の販売計画を信じないで、社会主義計画経済を「効率的」だと信じる「致命的な時代遅れ」がここにある。
しかしてこれは、ルーズヴェルト政権がやった、「ニューディール政策」を日本でやらされていることなのである。
考えなければならない範囲は、広くて深いのである。