先月9日、全体の仕組み上では、「無力」とされている、欧州議会(Europarliament:European Parliament)で、議員有志による重大な会議があった。
それが、「ICS3(International Covit Summit Ⅲ)」だった。
これを、政治情報系ユーチューバーの、及川幸久氏が端的に解説した動画を挙げている。
このブログでは、本件にかかわる批判的な立場から、ずいぶんと書いてきた。
たとえば、「初見」としては、徳島大学名誉教授の大橋眞医博の基礎的で重要な解説であった。
しかしながら、こうした基礎知識の提供に対して、おそるべき攻撃が行われて、とうとう徳島大学が、国立大学としての矜持を棄てて、たんなる「(リスク回避の)いい子」になるべく、学長名で、「大橋名誉教授は本学とは一切関係ない」旨のコメントを発したのであった。
ところが皮肉にも、今年、その徳島大学に、徳島県警から持ち込まれた「司法解剖」で得られた知見が学会誌に発表されて、あろうことか、大橋名誉教授の主張を裏付けることになったのである。
当然だが、これら一連の出来事は、大手メディアで扱われることはなかった。
もっと正確にいえば、わざと扱わない、という編集方針に貫かれていたのが、ほぼ全社、という実態であった。
この編集方針が、どこの誰によって全メディアで実施されたのか?について、はたしてわが国のジャーナリストは、ジャーナリズム論として追求することはあるのだろうか?という課題になっているけれど、業界から追い出される恐怖で、挑戦者すらいないのが実態なのである。
よって、Covitそのものによる被害ではなく、そのための「お薬:お注射」による被害が、わが国でどれほどの規模になるのか?も、これを暴くことができないでいる。
それこそ、どんなに「法医学」が暴いたところで、「臨床医学」の分野、すなわち、医師会が医師としての義務を放棄したことによるのだが、医師会を反社扱いすることもできないのは、厚生労働省とその政治的支配者たちも、何者だかに支配されているとしかおもえない、不可思議な言動をしてはばからないからなのである。
つまり、一貫して腐っている。
ヨーロッパ人の性格を形成してきた、歴史的な背景でよくいわれるのは、とくにゲルマン人の森の中での狩猟生活で、これが個人主義を育んだことになっている。
それはまたさかのぼれば、古代ローマが、共和制から帝政に移行する野蛮さを発揮したのと同様に、寒冷化によるゲルマン人の大移動が、そのローマ(帝国)を滅ぼした。
もっとも、「ヨーロッパ大陸」とはいうけれど、その実態はえらく狭い地域だ。
これには、『The True Size Of …』を使えばいい。
日本を基準にするなら、検索ボックスに「Japan」と入力すれば、日本地図がドラッグできるようになって、好きなところに移動すればその場所の縮尺に見合った大きさで表現される。
それで、ヨーロッパ大陸に日本列島を移動させたら、日本は極東の小さな島国ではない、ことに気づく。
いいかげん、メルカトル図法で子供の脳に、「小さな島国」を擦り込むのはやめたほうがいい。
日本だって、縄文時代より前の旧石器時代の遺跡が1万をこえて発掘されている。
にもかかわらず欧州や他の地域のように、おおきな武器(兵器)が発見されず、戦争の実例が見あたらない稀有なひとたちが住んでいたことが確認されている。
狩猟生活をしていても、この穏やかさのちがいはなにか?
人口密度のちがいではないのかと研究がすすんでいるようである。
あたかも現代日本人は、強烈な密集のなかに棲んでいるようだけど、古代はあんがいと分散して暮らしていた。
そこにまた、交易があったようだが、上に書いたように暴虐的なことはなかった。
すると、なにも『論語』やらを読まなくとも、十分に道徳的だったのではないか?
『論語』とは、ただ「確認」のためあるいは、識字のためだったものが、時代が進んでテキストになったのかもしれない。
ならば、「素読」の意味もわかる。
さては、欧州からアメリカに情報が飛んで、パンデミックのほんとうの意味がしれてきた。
「計画者たち」は、自身の身の安全に怯えて、その焦りがさらなる「あからさま」になっているようにもおもえる。
多数が気づけば、「お注射」も「マスク」も必要のない社会になるし、亡くなった方たちの恨みも露わになるものだ。
それでとっくに彼ら計画者たちは、「なかったこと」にしはじめて、次はネットの巨大障害だの、あたらしい病気たの、中央銀行電子通貨だのとのたまわっている。
ひるがえって、わが国では、集団主義をはるかに超えて劣化した、「羊の群れ」のような状態が続いている。
これを書いてハッ!とした。
「群れ」という漢字は、中国人の画期的な発明か?
「君」が「羊」だ、と書くのだ。
「羊の群れ」、とは、自分も羊になって仲間入りしている状態のことではないか!
結局のところ、日本にいる限り、とっくに気づいた欧州人から観たら、わたしも日本人という羊にみえるにちがいないのだった。