「通説」というのは、その時代時代での、常識でもあるけれど、遺跡やら文書やらのあたらしい資料の発見で、何度も覆されてきた。
だから、「通説」は、単に「通説」として受け止める、一種の軽さを求められるのだけれども、自分に都合の良いものとか、ついうっかり信じきってしまったものを否定されると、不快になるのも人情というものだ。
もちろん、どんなに立派な学者でも、人間にはちがいなから、自説を曲げられて気分がいいひとはあまりいないか、いたとしたら「本物」だともいえる。
ただ、自然科学を専門にしたら、相手が学者(人間)ではなくて、研究対象の自然現象そのものだから、通説も自説も、新たな実験などで覆されるのは日常茶飯事のことだ。
そうやって覆したはずの説も、あくまで「仮説」なのであるから、別の方向から覆されても文句はいえず、そうやって「進歩する」ことだけが事実として残る。
残念なのは、「社会科学」とか、もっと適当なのが、「人文科学」で、これらに「科学」をつけていいものか?から疑わしいのである。
そこに、「仮説でしかない」ことの意識がないからである。
「歴史科学」という下位にある分野も、この意味でかなり恣意的で、怪しい。
この用語は、マルクスのいう、「唯物史観」なる「空想」を基礎にして、あたかも「科学」だと強弁したことから生まれた。
わたしが大学生だった時分には、歴史好きだった友人(希望の文学部歴史学科にめでたく合格した)が、「科学」の用語に吸い寄せられて、あろうことか「民青(民主青年同盟)」に絡めとられてしまった。
それが、「歴科研(歴史科学研究会)」という学生クラブへの安易なる入会がきっかけであったのである。
はなから真面目で、かつ、理屈好きだったために、よせばいいのに多勢に無勢どころか単独で先輩諸氏に反論を試みて逆襲され、わたしからいわせれば、「洗脳されてしまった」のだけれど、一度洗脳が完成すると、もう元には戻れないのも、「脳」を犯されたためである。
それで今度は、わたしに洗脳を試るようになったので、残念ながら付き合いをそれっきりとしていまに至るのである。
この意味で、わたしは友人をひとり失った。
そういうわけで、特定の「思想」を刷り込むのにもっとも効果的な方法が、「歴史教育」なのである。
それで、一方的な価値観からの、「歴史観」を刷り込めば、滅多な証拠をあげてもびくともしない。
これには、日常でもさりげなく、しかも断続的に繰り返し教育することで、本人には無意識のうちに「染め上げる」ことができることもおなじなのである。
それが、敗戦後GHQによって意図的な計画によって行われた、日本人骨抜(無能化)策の、「ウォー ギルト インフォメーション プログラム(War Guilt Information Program:WGIP )」であって、さらに、「3S(Screen、Sports、Sex)」が道具であった。
スクリーンが、映画、テレビ、ラジオのマスコミを意味し、スポーツは娯楽の提供、そしてセックスとは、あらゆる欲望(煩悩)の満足、たとえば食欲をそそるグルメ番組がこれにあたる。
これを進めるための、基盤とする「史観」こそが、国際リンチの茶番劇でしかなった「東京裁判」を利用した、「東京裁判史観」なのである。
しかし、グローバル化したいまでは、その上位概念といえる、「リベラル国際主義史観」をもって、「正統」とされている。
国内では「東京裁判史観」、外国がからめば、「リベラル国際主義史観」へと変容させて、これ以外の「史観」を許さない。
あろうことか、この「史観」をもって、我が国を運営しているのが、自民党・公明党連立政権なのである。
もちろん、既存の全野党も、この史観であって、原点に共産主義がある。
よって、共産党が我が国の政治シーンの、正規分布の中心にある、と前に書いたのである。
なかでも、「維新の会」なる政党の躍進(2023統一地方選挙の結果)は、完全なる利権優先の「第二自民党」かつ、もっとも強力な「親中派」なのに、あたかも「保守的」な言動をするから、オリジナルの自民党に比べて、悪質なのである。
この点で、衆議院補欠選挙があった和歌山で、二階氏が推す自民党候補が維新の候補に敗れたのは、二階氏の本音として、笑いが止まらないはずなのだ。
気の毒な和歌山県民の、はなから選択肢がないことに、神奈川県民として同情するのである。
だから、「リベラル国際主義史観」に反対する、「史観」は、ぜんぶ否定され、「悪の根源思想」だと断ぜられるのだ。
その中心に、「歴史修正主義史観」がある。
この「史観」は、正規分布図からした、両辺の「外れ値」にあたるから、たったひとつの用語として、「歴史修正主義史観」といっても、水と油ほどもちがう「史観」もさしてしまう粗っぽさがある。
一方は、たとえばナチスのユダヤ人虐殺を正当化する「修正史観」だったりするが、一方は、「リベラル国際主義史観」が隠そうとする歴史事実に光をあてて、より鮮明に歴史の背景から過去の事象を再構築する作業をさすこともある。
当然ながら、「後者」の態度こそが、「主義」として正しく、しかも無理やり歴史の修正を試みるものではない。
むしろ、「リベラル国際主義史観」の、とっくに科学から乖離して、「政治の道具」とする態度(主義)こそ、人々を欺く邪悪な意図が隠れている。
これをまた、「相対主義」だと批判するのは、「リベラル国際主義史観」の「絶対視」からでる、勇み足であって、身から出たサビなのである。
職業学者ではない、市井のひと、渡辺惣樹氏の力作、『英国の闇 チャーチル =世界大戦を引き起こした男』(ビジネス社、2020年)なぞは、職業学者の拠り所である「学会」となんら関係のない、いわば、バイアスがないからこそ追求できた、ひとつの傑作なのである。
すなわち、「リベラル国際主義史観」こそ、エセ科学だと、一般人が筆の力で鋭く突きつけた刃なのだが、エセ歴史学者を相手にせず、読者たる一般人は素直に読めばそれでいいのである。