ことしは七草に、浅草七福神をめぐることにした。
江戸にはいくつも「七福神めぐり」があるから、これを「めぐる」と、「なつかしさ」もあじわえる。
谷中七福神、日本橋七福神、隅田川七福神(向島七福神)、亀戸七福神、深川七福神、下谷七福神、柴又七福神、元祖山手七福神、新宿山ノ手七福神、荏原七福神、池上七福神、浅草名所七福神
これだけで12七福神。
有名どころは、ほかに14七福神があって、全部で26あるから、二廻りするだけで52年かかる。
上記の12だけだって、5回廻れば「還暦」とおなじだ。
そんなわけで、ことしは「浅草名所七福神」を巡ってきた。
このコースは、七福神なのに九カ所の寺院を巡るのが特徴だ。
「福禄寿」がダブってと「寿老人」、「寿老神」という微妙なちがいがあるのだが、他の七福神にはない「名所」の文字に意味がある。
江戸幕府開府前の「江戸」は、埋めたて前、ということになるので、もともと陸地だった浅草の土地には、ながい歴史がきざまれている。
このことが、千代田区、中央区という幕府以来、現代までの中心が「海だった」ので、七福神を巡るコースもないことをしめしている。
どこからはじめようが勝手だが、なにしろわたしは横浜スタートで、交通の便と「徒歩」にて「歩く」を基本とする(ようは運動不足解消を意識している)ので、JR馬喰町駅下車をもってスタートとし、まず向かうのは河童橋の「矢先稲荷神社」である。
浅草寺が大黒天、境内の浅草神社(三社様)は恵比寿さんが祀られている。
ここからちょっと歩いて、言問橋の北側にある「待乳山」は、「待乳山聖天」(本龍院)で、「大根祭り」をやっていた。
HPによる大根の意味は、身体を丈夫にして、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合をご加護頂ける功徳を表す、とある。
聖天様とは十一面観音菩薩が大聖歓喜天に姿をかえて鎮座されている。七福神では、「毘沙門天」が聖天様をお守りしている。
ビタミン不足になりがちな冬場、大根が重宝されたのだろう。
ふしぎと傷んだ大根を食べても、食あたりしない、から「あたらない」をもって「大根役者」というのは、おみごとな表現だ。
参拝をすると、社殿のよこで大根を全員にもれなく一本いただけて、さらに境内では茹でた大根にゆず味噌をかけてふるまっていた。
御神酒までもふるまわれていたので、なんだか一年分の「御利益」を使い果たした気にもなった。
なぜかわたしは、ゆずの香り=お正月、という連想を瞬間にする習慣がある。
熱々の大根にゆず味噌とは、まさに「お正月」そのもので、じつに幸せな心持ちになった。
山積みされている大根の箱には「三浦市農協」とある。
三浦産の大根だが、「三浦大根」ではない。
むかしは「練馬大根」だったかもしれないとおもったが、混雑する境内で質問にこたえてくれそうな相手を見つけられなかった。
「三浦大根」は、1979年の台風で壊滅し、その後は数軒の農家でしか栽培されない貴重な品種になってしまった。一時は三軒程度の農家が守っていたが、さいきんになって復活のきざしがある。
「幻」が「名物」にもどってきた。
いまは、ただ「大根」といえば、「青首大根」のことをいう。
もとは愛知県清須市の名物だったというから、織田信長も食したのだろうか?
こちらは、病気に強い品種に改良されて、民間の種苗会社が仕切っている。
待乳山聖天のおとなり、待乳山聖天公園の入口には、「池波正太郎生誕記念の碑」があって、顔写真も金属板に刻印されている。
なるほど、『梅庵シリーズ』で事件解決のあとにかならず「うまいもの」を肴に一杯やる場面があるが、なかでも「風呂吹き大根」が記憶にのこるのはこのためか。
誕生地にちなんだ、作家渾身の「食レポ」表現だったとすれば、妙に納得できる。
「筆の力」で喰わせるのが「池波流」で、池波正太郎が通った店をずいぶん訪ねてはみたものの、なぜかわたしには、どうもピンとこなかったことがおおい。
いま「食レポ」させたら、ばつぐんはイラン・イラク戦争の戦災孤児「サヘル・ローズ」だろう。
皆殺しの村に、ボランティアで救助活動をしていた、テヘラン大学の女学生が、がれきの下からの泣き声を聞きつけて救助に成功し、そのまま彼女が「お母さん」になった。
テヘランの名家である実家はこれを許さず「勘当」されて、日本に留学していた友人をたよって来日し、とうとう町の公園のトンネル遊具のしたで暮らしていたという。
それを見かねた近所のひとたちがふたりの生活をおおいに助けたというから、よほど「きちんとしていた」のだろう。
御利益は、じぶんのなかから生まれてくる。
イランもはげしいインフレで、反政府デモがおおきくなった矢先の「事件」が年始早々におきた。
純石油輸出国になったアメリカは、中東の石油を必要としない状況にあって、石油を売らないと生きていけないイランには、たいへん不利だ。
いまだに中東の石油がないと生きていけないわれわれに、新年早々の「不吉」がやってきた。
こればかりは、神頼みとはいかない。