日本人がどんどん「退化」して、「なにじん」なのかがわからなくなってきている。
「法的」には、日本国籍をもっていれば日本人だ。
この「定義」で疑いのなかった時代は終わって、伝統的日本文化の継承者としての日本人とかといっても、本人の努力で、外国人の方が日本人の役割をしていることだってある。
いまや、「縄文人」の遺伝子が解析されて、現代人の多くが縄文人の系統にある子孫であることが証明されている。
なので、こうした遺伝子をもっていて、日本列島に住んでいて、日本語を母語とするひとが「日本人」だといえる。
「鎖国」をしていた、長い時間の江戸時代=徳川幕府時代があったので、日本列島に住んでいる「だけ」で、日本人だった単純さが、「国際化」によって徐々に複雑になってきたのは、なにも「血筋」の話だけではなく、むしろ、「文化的」なことの影響が大きい。
フランスの劇作家で詩人の ポール・クローディル(1868年~1955年)が、駐日フランス大使だったのは、1921年(大正10年)から1927年(昭和2年)のことだった。
この間、渋沢栄一と「日仏会館」を発足(1924年)させたりもしたけれど、なによりもその前年の「関東大震災」を経験していた。
彼が帰国後の1943年(昭和18年)、つまり、第二次大戦のさなかにおけるパリで、次の発言が記録されている。
「私が、決して粉碎されることのないやうにと希ふ一つの民族がある。それは日本民族だ。あれほど興味ある太古からの文明は消滅してはならない。あの驚くべき發展が日本以上に當然である民族はない。日本人は貧乏だが、しかし高貴だ。人口があれだけ多いのに」。
しかしながら、彼の「こいねがう(希う)」対象だった、われわれ日本民族は、彼の国であるフランスを含む「GHQ:連合国軍総司令部」による「占領」政策での、国際法違反にあたる「民族解体政策」によって、「粉砕」されてしまった。
その「最大」は、「太古からの文明」を作りだした、「日本人は貧乏だが、しかし高貴だ」ということの、「高貴さ」の粉砕なのである。
このことが、どれほどの「重要度」なのか?は、ニーチェを読めば理解できる。
すると、GHQ:連合国軍総司令部の「高級将校」たちは、「ニーチェを悪用し」て、わが国を「粉砕した」といえる。
これはすなわち、「深さ」と「緻密さ」において、「悪魔的」なのだ。
このところ、ヨーロッパを脱して日本に居住したいと考え、行動する欧州人が増えたことの「原因」が、わが国の「コミックス」とか「アニメ」であることが、「定番」となっている。
これらの最大の輸出先は、フランスなのである。
じつは、日本人作家が描く作品には、日本人の生活文化が基本になっているので、GHQが粉砕しても粉砕しきれなかった、「些事」が残っていて、それをまた作家はあたかも「ふつう」に表現する「ふつう」がある。
「神は細部に宿る」というのは、キリスト教世界の常識なので、コミックスやアニメの表現における「些事」に、日本を強く感じる欧州の読者が多数いることは、まったくもって「文化的思考」の賜なのである。
これには、日本の教育制度での「教科」がないけど、欧州の伝統的常識である「教科」としての、「哲学」に重要な役割がある。
それこそが、ギリシャ以来の「リベラル・アーツ」の「自由7科」なのだ。
そして、すべての学問を統括するのが、学問の最高峰としての「哲学」なのである。
よって、ヨーロッパの子供たちは、「哲学」とその思考を支えた、「ラテン語」を必修として習わないといけないことになっている。
日本における「古文」と「漢文」の授業が「ラテン語」にあたるとはいえ、位置づけが低すぎるのは、「粉砕のため」があるからだ。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、1844年に生まれて、1900年に56歳の若さで没した哲学者だ。
死因は、梅毒ともいわれ、「脳性」ゆえの「閃き」が、常人を超えた思想の発露だという説もある。
なにはともあれ、彼の思想が、現代に強い影響を与えたことは間違いない。
さらにニーチェは、自分の思考は「向こう200年を見据えている」と書いた。
つまり、「いま」のこと、なのである。
有名なフレーズは、「神は死んだ」である。
これに、「アンチ・キリスト」を主張したから、あたかも「無神論」を説いたと、早とちりの勘違いをされる。
哲学がややこしく感じるのは、「逆説的表現」によって「本質」に迫る「論理の手法」を多用するために、読者は「読み込む努力」をしないといけない面倒があるからだ。
つまり、面倒なことをわざと強いられるのである。
しかしながら、哲学者の思考回路がそう書くしかない順路を践むから、理解のために読者も同じ思考回路をトレースさせられるのだ。
よって、哲学者の哲学を理解するための前提に、読者には、「読解力」と「根気」がないといけない。
AIには、この読解力が、はなから「ない」ので、人工頭脳が新しく哲学を生み出す可能性もない。
にもかかわらず、あたかも人工頭脳だから人間よりも優れていると信じるなら、それは間違いなく「洗脳」されていると言える。
そしてそれが、道徳の中に含まれるなら、これをニーチェは「奴隷道徳」と定義したのである。
あるべきは、「高貴さ」を基礎に置く「君主道徳」なのだ。
ニーチェがキリスト教を否定したのは、教会が信者に推奨するのが「奴隷道徳」(ルサンチマン:怨恨を利用する弱者の道徳)だからである。
それは、「誰かに支配されること」を自ら求めることになる道徳をいう。
よって、支配者にはこの上なく都合がいい。
高貴なる日本人を粉砕するために、日本人ひとりひとりが無意識にもっていた「君主道徳」を、「奴隷道徳」の国民国家に改造することの、悪魔的目的は、まさに誰か(欧州人)に黙って支配されるばかりか、自らそれを求めるようにさせることにあるからである。
「君主道徳」が、封建制肯定だと、早とちりの誤解をしてはならないので念のため。
なので、あらためてその悪用の根源である、ニーチェを読むことが、ここまで「粉砕」された、日本人の「目覚め」には必須のことになったのである。