「理科教育」に政治イデオロギーが入り込む余地なんてあるはずがない、という間違いは、ただの間違いではなくて、重大な間違いである。
日本人の宗教観は、かなり特殊だから、『聖書』でつながる世界三大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)とか、インドのヒンズー教、それに儒教と道教(この6つの宗教で世界人口の5割以上をカバーする)などとはぜんぜんちがう。
しかも、ふだんの生活に宗教があるのかないのかも曖昧なのだ。
イスラム文明を土台に発展したヨーロッパ文明の歴史をみれば、文明をささえる技術力の発展に「科学史」という視点は欠かせない。
わが国で、その科学史の第一人者といえば、村上陽一郎氏になる。
村上氏の著作には、かならず「驚き」の記述がある。
『科学の現在を問う』(2000)は、もう20年以上も前の本になるけれど、だからといって決して色あせるどころか、昨今のコロナ問題にもつながる貴重な情報にあふれている。
科学も人間の営みのなかにある。
それだから、キリスト教が支配した時代のひとたちは、科学と神(=キリスト教)を切り離して考えることをしなかったし、する必要もなかった。
つまりは、「神の与えし法則」が科学だったのである。
これには、前に書いた「リベラルアーツ」がある。
それは、ヨーロッパの「大学」こそ、「神学」とは切っても切り離すことはできないことの現れだし、現在のイスラム社会だって、たとえば、西暦970年設立で世界最古の大学として知られるカイロにある「アズハル大学」は、いまだに「最高峰」の「(スンニ派)イスラム神学部」が健在なのだ。
ちなみに、カイロといえば「国立カイロ大学」が有名だけど、知る人ぞ知る「イスラム圏の真のエリート」とは、アズハル大学神学部を出た、「イスラム法官」なのであって、「近代」を教えるカイロ大学ではないのである。
彼らは、わが国の「民法」にあたる、「イスラム法」による裁判所の裁判官となる資格を得る。
しかし、わが国最初の「東京大学」(いまの東京大学とは場所は同じでも位置づけがちがう)に、「神学部」はなかったし、神学が中心のあちらの大学にあってもっとも遅い設立の「理学部」が、東京大学には最初からあった。
だから、わが国が世界の中心にある、とする「日本型中華思想」と、「東大神話」によれば、外国の首都名が入った大学を、「◯◯国の東大」などと表現して、おおくの日本人に「誤解」をさせているから「罪深い」のだ。
日本人のだれが見ても「総合大学」の「最高峰」である、わが国最高(難易度)学府たる「東大」に、「日本的宗教学部」がない、という事実こそが、わが国近代の建設にあたっての「突貫工事」のために、「切り離した(あるいは棄てた)」もの・ことの象徴なのである。
そんなわけで、「宗教性=神秘」は、「学問」とはならない、というおよそ人類の歴史を無視するかのような態度は、エントロピーのように「拡散」して、一方で「廃仏毀釈」と「皇国史観」となり、一方で「日本教」という新しい「密教」を作り出した。
そうやって、人為的に作り出した「発明品」が、「占領」という事態になって、排除(=全否定)されたから、残ったものは「西洋のカス」ばかりとなって今に至るのだ。
その「カス」のなかでも、もっとも「腐っている」ものが「唯物論」である。
村上博士は独白する。
それは、高等学校のカリキュラム改定にあたって、「理科Ⅰ」が設立されるときの「慣性の法則」にまつわる、博士自身の「執筆」エピソードだ。
原文:
「物体はいろいろな運動状態にあります。静止している、あるいは運動している。慣性というのは、そうした物体の持つ性質であって、外から力が加わらない限り、今の運動状態を続けようとする性質のことを言います」
この一文が、教科書出版会社の社内審査で、「理科の本質が判っていない」と言われたという。
博士は、どこがダメか判らなかった、と。
博士に社内担当者がしたダメの解説:
原文にある、「今の運動状態を続けようとする」の主語は、「物体」である。それが受けている動詞は「続けようとする」で、その中の「う」は、意志を表す助動詞だ。
「物体」が「意志」を持つとは、ともすれば子供たちが抱きがちな「非科学的」な考え方で、理科教育の目的の一つは、そうした非科学的な考え方を子供たちの頭から追い出すことにある。
修正文:
「今の運動状態を続ける傾向を持つ」
おわかりだろうか?
博士は続ける。
ならばニュートンは「科学者失格」だ。
なぜなら、彼は「万有引力」は、神の意志がそこに働いているために機能していると考えたからである。
また、デカルトも、「もの」と「こころ」の二元論を提案し、少なくとも人間に関しては、その存在の本質を「こころ」に置いた。
「我思う、故に我あり」とは、そのことを主張している、のだと。
すなわち、18世紀の「啓蒙主義」は、「ほとんど必然的に、既存の知識体系を唯物論的傾向へと転向させることになった」と博士は指摘している。
そして、「科学は知識のなかから非唯物論的要素、あるいは心的要素をそぎ落とすことを、自己の責務とした」。
わたしたちは、こういう世界で生きている。