アゼルバイジャンの田舎でひたすら食事を用意している動画が、すさまじい再生回数を稼いでいる。
しかも、撮影者は家族とおぼしきひとで、その4K映像の美しさもさることながら、さりげない「日常」の風景が絶妙なアングルで撮られていて、観ていて飽きない。
たとえば、窓に飾られている花とか、犬やニワトリなどの様子が、料理支度の合間合間に挿入されていて、その場の雰囲気があくまでも第三者的な目線でつくられている。
そのセンスが、素人とはおもえない。
ただし、ひたすら料理を作っている映像なのに、どういうわけか、「生活感がない」のである。
それに、「せりふ」がない。
無声映画ならぬ、無言動画なのだ。
さらに不思議なのは、洗濯物がないことだ。
撮さないにしても、物干し台も確認できない。
それに、家の敷地内に、やたらと「かまど」があるのだ。
気分かどうかはわからないけど、これらのかまどを万遍なく使っているのは、回を重ねてみているとよくわかる。
最後まで観ないと、なにを作っているのかもわからない。
ただ、出来上がって食べ始めると動画は終了してしまう。
こんな動画が、どういうアルゴリズムなのかある日出てきて、何度も観ているうちに、似たような動画がまたでてきた。
それが、どうやらアゼルバイジャン国境のイラン側のものと、西に翔んでウクライナの山中に暮らすひとの「料理シリーズ」なのである。
アゼルバイジャンとは、「火の国」という意味だ。
天然ガスが岩から漏れて、これにどうやって着火したかはしらないが、少なくとも数千年間燃え続けている場所が、天然記念物として有名な観光地になっているという。
それが、人類初の啓典宗教を生みだして、「ゾロアスター教」になった歴史がある。
人間の営みは、この周辺の地形がシルクロードの要衝だったことから、住んでいるひとの都合とは関係なく国境をわけた。
それで、アゼルバイジャンよりもイラン側に住む「アゼルバイジャン人」が多いという複雑がある。
だから、動画内で「イラン」とか「アゼルバイジャン国境」という場所の表示があっても、民族としてのペルシャ人ではない、国境で分断されたひとたちがつくる料理が、観ていておなじなのに気づいた。
ちがうとすれば、日本における郷土料理ほどもないちがいで、群馬のうどんと埼玉のうどんといった感がある。
これが、いわゆる「種(イースト)なしパン」の場合の「おなじ」にみえる。
しかし、「種なしパン」のふつうがある地域は、北アフリカのエジプトもおなじだから、おそるべき「おなじ」があるのである。
ウクライナでも、種なしパンを焼くシーンがある。
もちろん、このパンについては聖書にも記載があるものだ。
だから、地図上の平面だけではなくて、時間の奥行きもふくめて、おなじ、なのだ。
そうはいっても、種なしパンだけがパンではなくて、ちゃんとイーストをいれて発酵させるパンもつくる。
赤身の牛肉と羊のボンジリ脂を包丁で叩いてつくる、ハンバーガーは、ちゃんとバンズから焼くから、みていてぜったいに美味いとわかる。
調味料は、塩とコショウ、それにターメリックがたまにはいる。
極めてシンプルなのである。
横浜にあった、「夜逃げしたペルシャ料理店」の美味さの記憶がよみがえる。
カスピ海を東に越えて、ヒマラヤの南縁にある、ブータン料理は、塩とコショウ、これに唐辛子と山椒を組み合わせた、といってもこれだけの調味料なので、たいへんわかりやすい味だ。
ただし、唐辛子と山椒が効いているから、総じて辛い。
アゼルバイジャンでは、唐辛子がないのではなくて、いがいと多用しないのだ。
そのかわりに、ターメリックをつかうので、おそらく「やさしい味」に仕上げているとおもわれる。
一方で、戦争中であることを感じさせない、ウクライナの山中とは、いったいどこなのか?動画では一切の説明がない。
日本のような、ただしそんなに険しくはない、中腹の村といった感じの場所に家がある。
これら三カ所は、水道もない場所にある。
井戸か湧き水から汲んできている。
そして燃料は、かならず「薪」だ。
しかも、マッチ1本で薪に直接火をつける。
この大量の薪を、どうやって調達しているのかも不明だ。
ただし、「斧」は必需品なので、女性といっても扱い方に年季がはいっている。
むかし、日本に暮らす外国人が、日本のお土産を故郷に持ち帰る番組があって、モデルをしているモルドバ人が、ウォシュレットと日本製の斧を持ち帰ったのを観た。
母親の面倒をみてくれている伯父さんが薪を探しにでかけたときに、土産の斧の切れ味に驚いて、「日本人はこんなすごい切れ味の斧をつかっているのか?」という場面が印象的だった。
電気とガスの生活だといっても、想像を超えているだろうから、「そうね」といって話題を変えたこのひとは、日本人的な配慮ができるようにもなったのだろう。
それにしても、なにを料理しているのか?出来上がってもそれがどんなものなのかがわからないものもある。
まだまだ、世界は広いのだ。