神頼みの初詣?

七福神めぐりがいつもの年始の恒例ではあるけれど、今年はなんだか参拝者が多くて、列に並ぶと暗くなる畏れが強くて、参拝を断念して次の目的地に向かうことがいくつかあった。

これでは、七福神にならないけれど、巡っていることで神様にはご勘弁いただきたいと、これまた人間の都合を通しているのは、やっぱり日本人なのである。

西洋や中東の神様は、「唯一絶対神」なので、人間の都合を聞いてくれるような存在ではなく、人智を超えているから、どんな仕打ちを人間がされてもそれを「試練」とするのが正しき解釈となっている。

それで、西洋にも中東にも、「巡礼」はあるけれど、日本の、「お遍路さん」とはちがうし、そもそも一神教だから、「七福神」なる概念もあるわけない。

日本的だった、「聖地巡礼」が、もっと日本的になったのが、「聖地=撮影地」にする変換が成功したことでの、「ロケ地巡礼」が、アニメにも適用される現象となった。

これがまた、日本を飛び出したのは、宮崎駿『千と千尋の神隠し』の、モデル地といわれる台湾の「九份」だ。
台北から電車に乗って、最寄りの駅(瑞芳駅)からはご当地が山の上なのでタクシーを利用してだいたい1時間で到着する。

この駅近くの市場には、食堂もいくつかあって、安くて美味いがあるし、瑞芳駅では売り子が「駅弁」をむかしの日本の日常のように、頸から容器を抱えて売っている。
20年ほどのむかしに購入したときは、1個180円の八角風味鶏そぼろご飯で美味だった。

台湾は自動車は右側通行になったけど、鉄道は日本時代のままで左側通行だ。
日本文化の駅弁があるのも、元日本、の意地なのだろうか?
まだ若い売り子の姐さんは、「ベントー、ベントー」と元気いっぱいに叫んで売っていた。

シベリア出兵以来、日本食なかでも醤油が定着した、ウラジオストックはモスクワ行きシベリア鉄道の出発点だけど、この駅に駅弁はない。

いつの間にかに、そんな台湾にも、「ひとりあたりのGDP」で追い抜かれてしまったわが国は、もう神頼みしかないのか?
韓国にも抜かれていたが、為替のために抜き返し、たぶん今年はまた抜かれる予想になっている。

ぜんぶが政府のせいではないにしろ、日本人が日本政府に経済政策を依存したら、歴史的で奇跡的な成功事例だけの、なんとかのひとつ覚えしかできない、見事な経済政策の失敗(社会主義化を目指しているから、本当は成功しているけど)での体たらくだが、30年経っても間違いに気づかない国民もどうかしている。

台湾と朝鮮半島が、欧米的な植民地でなかったのは、歴史を調べるとわかることだけど、欧米的な植民地だとするGHQの戦後価値観を推すひとたちに都合がわるいから、意識的に積極的に調べることをしないとわからないようにしている。

この意味で、日本の国名は「帝国」であるし、じっさいに天皇を戴く国体としても「帝国」だけれど、欧米的な帝国主義をどこまで模倣したのかは、ものすごく曖昧なのである。

GHQ内で、日本の労働法を作りにやって来たヘレン・ミアーズ女史が書いた、『アメリカの鏡・日本』は、マッカーサーによって日本語版は「発禁」になって、昭和40年代に出版されても、よほどの意識高い系でないと日本人は興味も示さない、という「大衆化」が既にすすんでいた。

「帝国」が面倒なのは、欧米的な帝国主義の具現者で、世界最大の版図をもっていた「英国」は、自ら「帝国を名乗らない」という混乱がある。
つまり、英国は正式に「大英帝国」を名乗ったことはない。
周りが勝手に言うのを、放置しているだけなのである。

その英国は、もう経済がズダズダで、生活苦が産業革命時の状況になりつつある。
このころの様子がわかるのが、名作『エレファントマン』(1980年:日本公開は81年5月)だった。
「I’m a human being!」という叫びから、人権映画だというひとがいる。

わたしは、作品が描く当時の英国の社会常識表現(時代考証)にこそ価値があるとおもっている。
そこにいる、有象無象のひとたちのうごめく様が、およそ先進的ではない動物なのが、これぞ「品も格もない欧米人の姿」だからだ。

エレファントマン役の名優ジョン・ハートは、1984年に『1984』で、主役のウィンストン・スミス役を見事に演じたことでも記憶に残る。

資本主義は人間を幸せにしない、というマルクスの都合のいい表現に、当時が資本主義かどうかを厳格に規定しないでいるから、いまだにこれを信じているひとが多数派で、それを常識人といっているのがテレビ制作者だ。

この映画がみさせる当時のロンドンからは、ただの人間の汚い欲望しかない。
このひとたちは、ヨーロッパ中世の人間のたんなる末裔なのだ。

人権という概念は、啓蒙主義からうまれた。
それこそが、ヨーロッパ中世の批判的思想ではあったけど、政治家を含む一般人はそのまま中世の価値観で20世紀の大戦争をやってきた。

そこにあるのは、今だけカネだけ自分だけ、という、みごとな「大衆」なのである。

その大衆を、どうやってコントロールして奴隷にするのか?が、啓蒙主義が成りの果てにある、共産主義・全体主義だ。

このひとたちは、巨大な富の独占を背景に、自分たちだけは生き残れるとした安全地帯に身を置いて、経済社会の破壊を試みている。
だから、今年以降は、先進国でいつデフォルトが起きても不思議はない。

その準備として、「昆虫食だ」という噴飯のプロパガンダがある。
奴隷は生かさず殺さず、というまさに奴隷貿易時代が再来しそうだ。

ナショナリズム対グローバリズム全体主義とネオコンのミックスが世界の二元論的構図となって、後者を進めれば奴隷化の道、前者を進めればデフォルトの道となっている。

昨年秋にちょっとだけナショナリズムを選んだら、たちまちデフォルトしそうになって、あわてて首相を頸にしてミックスに戻しめたのがいまの英国だ。
MAGA派のアメリカは、これから財政破綻と向き合うことになる。

すると、もっとも脆弱なのが、わが国だとわかるのである。

ただし、デフォルト(財政破綻)を恐れているのは政府だけ、ということに注目すれば、その余波を一般人が喰らうにせよ、永遠に子孫まで奴隷になるよりはマシ、というものだ。

それが、神頼みの初詣になっているなら、まだ大丈夫?
だんだんと、おかしい?と気づいたひとがいるから、と思いたい。

どうか、ロケ地巡礼ではありませんように。

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