「筋」が悪いことをやると、どんどん「筋」が悪くなって、とうとう「破綻」するものだ。
今回の「筋の悪さ」とは、「科学の無視」という一点に集約できる。
ネックになっているのは、ただひとつ。
「新型コロナウィルス」による、「パンデミック」になっている。
けれども、「科学」はそうなっていない。
そもそも、この1年半、「パンデミック」の原因とされている、「新型コロナウィルス」は、世界の研究者が誰のひとりも「存在を確認していない」のだ。
これは、本年4月22日、国立感染症研究所所長名で出された、「行政文書不開示決定通知書」に明記されている。
行政文書公開法による開示請求(新型コロナウィルスが病原体であることを証明する論文)をした個人への回答書である。
その「不開示理由」とは、「開示請求に係わる行政文書を保有していなかったため」だ。
早い話が、「証明できない」ことを「証明した」のである。
いいだしっぺの上海の研究者グループが、武漢の病院に入院していた「肺炎患者」の「胸水」に、「新しいタイプのコロナ・ウィルスがいた」という論文を書いて、これを国際論文データベースに登録したこと「しか」ないのだ。
しかも、論文執筆に要した日数は、わずか10日。
そして、データベース登録した翌日に、「研究所ごと閉鎖」されている。
どういうわけか、WHOは、最初から「PCR検査」による「診断」を各国政府に通達した。
それで、この論文にあったコロナ・ウィルスといわれているものの、遺伝情報をもとにつくった「PCR検査キット」が、即座に世界中に流通したのである。
元の「胸水」は、とっくに廃棄されているし、見つけたという「ウィルス」も、保存などされずにおなじく廃棄されている。
よって、よりどころとなる「もの」は、その論文に掲載された「遺伝子情報」の「主張」しかない。
それで、第三者による「存在確認がない」というのが、上述の「証明」なのである。
最初からあやしげな「PCR検査キット」をつかった「PCR検査」では、さらに、「Ct値」を膨らませたので、いったい何を「検査」しているのかわからない状態で、「陽性」と「疑陽性」、「偽陰性」と「陰性」がこんがらがった。
わが国では、昨年12月2日の参議院特別委員会で、「PCR検査の確度」についての質問に、厚生労働省統括審議官が「確度はない」と答弁した事実があるけど、ぜんぜん報道されなかった。
ちなみに、立法府でありわが国「国権」の最高機関である「国会」での答弁は、裁判所の「判例」どころではない「法的根拠」をもつことを確認しよう。
つまり、法的根拠をもって、PCR検査は意味がない、とした瞬間である。
ならば、PCR検査による陽性者を感染者として2週間もの期間、隔離するというのは、「人権侵害」にほかならない。
ついでにいえば、無症状者が他者を感染させる、という論拠になる研究も、論文も世界に存在していない。
テレビに出ている、「専門家」の完全なる「私見」であって、これをあたかも「科学的事実」として放送するのは、「デマゴーグ」である。
いまさらながら、マスクの必要性が医学会から否定されているものを、同調圧力して、科学的根拠はないと明言した政府の専門家会議の長がいう、飲食店の営業自粛と酒類提供の自粛も、まったくの「やっている感」だけの演出でしかないことがわかってきている。
当然だけど、「三密の回避」すら、ナンセンスのキワモノだった。
どこからどこまでが、IOCの管轄で、どこからどこまでが、組織委員会の管轄なのかが説明されていない。
もしや、当事者も、わからないのではないのか?
大手術を職業とする「外科医」なら当然という事柄に、手術成功後の「精神的発散欲求」としての「性欲の高揚」があることは公然たる事実である。
したがって、アスリートにとって世界の檜舞台であるオリンピックという場での「競技の後」にやってくる精神的発散欲求をどうするのか?について、コンドームの支給は当然とされてきた伝統がある。
そこで、今般の大会でも15万個が準備されていた。
しかし、「濃厚接触の容認だ」という「いちゃもん」が入って、とにかく役人主導で「いいこでありたい」を最優先させるから、「帰国時に配付」という、目的合理性を無視した決定がされた。
選手の生理的欲求を、なかったことにする、という決定は「人権侵害」ではないのか?
さらに、選手村での「飲酒可能」が、飲食店に酒類提供の自粛要請という「無謀」をしている手前、「禁酒」どころか「選手村からの外出も禁止」という、事実上の「監禁状態」とすることが決定された。
選手の行動を制限する、禁止のオリンピックになったのだ。
世にいう「人権派」も、沈黙せざるをえない状況は、もはや後戻りができない強権となったことを意味する。
なにもかも、「狂った前提」のなせるわざであって、前提が狂っていると発言することも許されないのは、全体主義だ。
もちろん、過去からすべての全体主義は、その強制の根拠をかならず「正義」におくことも常套手段なのである。
たとえば、フィリピン大統領が、ワクチン拒否者を逮捕せよというように。
そんなわけで、歴史的に選手にとって不快な大会になることが確実となった。
近代オリンピックとは、誰のための競技大会なのかをもすっ飛ばして、単なる「国威発揚の場」と定義するなら、まったくもって「オリンピック憲章」の精神も何もない、ただの「利権大会」だし、「見世物」(選手は芸人)だと主催者が認めたに等しい。
日本人は精神世界での霊魂を信じるが、物質世界では科学を信じる、として、新型コロナウィルスは「悪い冗談だ」と笑い飛ばした大会としたならば、世界が驚愕するほどに「元気が出る」オリンピックになったものを。
このチャンスを、永遠に自ら葬った現代日本人の「愚」が、日本衰退の祭典として歴史に刻まれることになった。
「中止論」を支持する一般人の気持とは、コロナが怖いではなくて、コロナ詐欺との決別だったのである。