じぶんのからだをいじめる。
スポーツ選手なら、それが仕事だ。
宗教家でも、じぶんのからだをいじめることで「悟り」をえようとつとめたり、精神や魂の清浄化をはかるものだ。
わが国でおそらくもっとも過酷な「修行」のひとつとしてしられる、比叡山の「千日回峰行」は、まさに命がけの限界をゆく。
だから、満行すれば「阿闍梨(あじゃり)」という称号を得るのだが、これは「生き仏」という意味である。
上記の本は、この後もう一回満行した酒井雄哉大阿闍梨(1926年~2013年)の最初(1973年~80年)の満行を伝えた一冊だ。
二回も満行したひとは、伝教大師最澄が開山して以来3人しかいない。
山中のお堂から京都市内をまわる行程は40km。
これを飛ぶような速さで毎日駆け巡るのである。
闇夜の山のなか恐ろしくありませんか?との質問に、行者は「ひとにであったとき」とこたえた。
それは、泉鏡花の『高野聖』を、宗派は別でも聞いたような気がした。
阿闍梨になりたくて千日回峰行をする、というほどの「甘さ」では満行はできないし、そもそもチャレンジなぞしないだろう。
本人にとっては信仰心と自己研鑽にエネルギーが集約されていて、その姿をみる他人のこころが「救われる」から生き仏になるのであって、それをたまたま「阿闍梨」と呼ぶのである。
足し算と掛け算がある式のように、かんがえる順番でこたえがかわる。
右は、名優、佐藤慶の朗読によるCDで、味わい深いものがある。
ならばと、じぶんで朗読するのもわるくない。
「文学作品」とは、朗読でこそ味わえるのだ。
ところが、人間の精神が貧弱になって、このような修行がつらい。
真冬の滝にうたれるなんて、どうしたって風邪をひくにちがいないから、そんなバカなことはぜったいに嫌だし、そもそもそんなことをしても意味がない。
これが、エリート官僚がかんがえることだ。
やるひとはやったらいい。
じぶんはやらない。
この手のたぐいは、民間企業にだってたくさんいる。
むしろ、民間のほうが多いから、政府に従順な経団連になる。
これが、国家予算にだって適用されるかんがえなのだ。
飛躍しているようでそうではない。
一度組んだ予算にムダなどない。
年度内に使い切る、ということの理由がこれだ。
ムダを削減せよといわれたって、もともとムダな予算なんてないのだ。
こうした発想ができるのも、わが国の近代史がそうさせたからだ。
江戸幕府しかり、各藩しかり。
そして、やっぱり武士による政権の明治政府しかりである。
庶民には「上」がきめたことに粛々としたがう訓練が、DNAにまで擦り込まれた。
明治からはじまる「帝国議会」は、政府予算案を否決する権限がなく、修正しかできなかった。
しかも、予算編成権は政府のみが有していて、議会にはなかった。
ここでいう「議会」とは、もちろん「衆議院」と「貴族院」をいう。
さてそれで、現在の「国会」はどうか?
2015年に超党派による「議会予算局」の議員立法をめざすとしたが、いまだに日の目をみていない。
そもそも「議会」は、「立法府」というが、わが国ではその議員が「議員立法」することが珍しいという「珍しい国」なのだ。
つまり、明治時代の制度が「そのまま継続」しているのである。
与党が圧倒的多数の政権が、なにもしていない、ともいえるのは、現政権は議会予算局設置を主要政策に挙げてもいないことでわかる。
このやる気のなさは、「無気力」以下だ。
事実上アメリカがつくった憲法だから、よほどアメリカ合衆国憲法とわが日本国憲法が似ているのだろうとかんがえるのは、まちがっている。
なぜかはかんたんで、「読めばわかる」からである。
もちろん、アメリカの議会は「立法府」なので、法案のすべてが「議員立法」であるから、有名な法案は提案議員の名前で呼ばれるのだ。
ところが、日本にはあまた「憲法学者」がいるのに、アメリカ合衆国憲法の解説書がえらくすくない。
それに反して「独立宣言」は、よく引用される不思議がある。
アメリカの難しさは、「独立宣言」と「合衆国憲法」との間に、「断絶」があるので、「憲法修正条項」が日本人には理解できない。
じつは、われわれ日本人は、アメリカ合衆国という国の政治制度のことをほとんどしらないのである。
大統領制を横にしても、アメリカ合衆国では、「予算編成権は議会にある」というわが国とは決定的なちがいが存在する。
すなわち、アメリカ合衆国連邦政府の「財務省」には、予算編成の仕事が「ない」し、大統領でさえ「予算教書」を議会におくるだけなのだ。さらに、「予算教書」は議会での議決の対象でもない。
ここ数年、大阪の私立小学校への補助金問題やら、獣医学部をつくるのかつくらないのかの議論ではない特定大学の問題と称して、国会の「予算委員会」で「予算」を審議したことがない、という批判があるが、いつだってほとんど審議されたことなどないのは、前述した「明治」からの制度が継続しているからである。
こうした「制度」の居心地のよさは、大蔵・財務官僚という、学校時代にわが国でもっとも勉強ができたひとたちの集合体にまかせれば間違いない、という性善説に基づいていたはずだったが、そこにたっぷり「利権」がはいりこんだから、この甘い汁を吸いたいひとたちにとっては、天国のような居心地になる。
しかし、その甘い汁とは、国民の血と汗にほかならないので、左派を中心としたひとたちが、アメリカのように議会に予算編成権を移転させる「政策」を選挙のときにいうかとおもえば、そんなこともないのは、予算委員会で予算を審議しなくてもいいという、べつの甘い汁があるからだろう。
議会予算局が設置されたら、こまるのは予算について猛勉強を強いられる「議員」に負担がかかることが、嫌なのだ。
しかし、国民のお金で「政策秘書」を雇えるようにしたはずであったが、こちらはどうしたことか?
じつは、わが国には政党に付属する「シンクタンク」が存在しないのである。
だから、さまざまな問題について、議員に進言するひとが「役人」になってしまうのである。しかも、無料だ。
議会予算局設置が、みずからの信念がないとできないはなしになるのは、その活動をみたひとびとが「救われる」とおもえるかにかかっている。
日本国の禊ぎ修行でもある。