秋の紅葉シーズンである。
さりげなく、どこかに行こうということになって、途中河口湖に行ってきた。
河口湖の観光関係者に申し訳ないが、ぜんぜん目的地ではなかった。
この湖にやってくるは何年ぶりだろうかと、かんがえてもはっきり記憶にないのだが、だいたい10年ぶりぐらいだとおもう。
その前も10年ぶりぐらいだとおもうから、10年周期で訪問している。
そんなわけで、印象にのこる記憶があまりない。
前回は、湖畔の美術館をめぐる、という目的があったから、美術館のことは記憶しているが、それ以外はないし、その前の訪問は理由すら忘れてしまった。
富士山に傘がかぶるように雲がかかっていた。
もしや天気がわるくなるかも、とおもったら案の定。
しばらくして雷をともなう激しい雨になったが、それは東富士に移動したときだから、現地がどうだったかはわからない。
湖畔にはたくさんの外国人がいた。
東南アジア系のひとびとは、団体ツアーなのだろう。
うれしそうに御山と湖を背景に記念写真にいそしんでいたすがたが、なんだか半世紀近く前の家族旅行を思いださせる。
ちょうど、「紅葉まつり」開催中とのことで、現地にいって気がついたのは、たくさんの屋台とひとだかりに後からコンビニでみたポスターだった。
わざわざ混雑のばしょに行くのが面倒なので、このエリアは通過したから、なにが?どんな?祭りだったかはさっぱりだ。
このあたり、興味がないと徹底的になってしまうのは、これまでの経験則による。
ポスターには、しっかり「富士河口湖町観光課」と記載があるから、とたんに事前期待値はマイナスになった。
イベントがどうして「猿まわし」と「ジャズ」なのか?
きっと「猿の脳」でかんがえたのだろう。
そして何よりも、「無料」という料金設定が、「発想の貧しさ」の象徴なのだ。
行政が主催になると、「儲けてはいけない」ということに自動的になるから、「やりたいこと」ではなくて「低予算でできること」になってしまう。
わが国にはどうも「無料信仰」がある。
「無料」だから、サービス品質がひくくても誰からも文句をいわれない。
この「ノー・リスク」こそが、役所のねらい、なのだ。
たとえわずかでも「有料」にしたとたん、利用者からのクレームをいわれる「可能性」が生まれるのを極端にきらうからだ。
じつは、この「可能性」こそが重要なのだ。
クレームを受けないようにするにはどうしたらよいのか?
それには、きっちりとした「計画」と「準備」それに、当日の「現場体制」を構築しなければならない。
それで、やっと「有料」にできるし、客の満足もたかまるものだからだ。
しかし、客側もこれまでの人生で、「有料」の祭りなんて経験がないし、無料の、サービスとはいえないサービスになれている。
このばあいの「サービス」とは「奉仕」の意味だが、「奉仕以下」のサービスになれているから、無料があたりまえなのである。
ここで、もう一方の主催者をおもいだすと、たいがいが「観光協会」なる民間団体が存在している。
つまり、こちらが「有料」のチャンスをもっているはずなのだが、予算を自治体に依存しているため、なにもできないのだ。
ほんらいなら、無料と有料の「棲み分け」は可能なのに。
けっきょくのところ、なにをもって祭りが「成功」したのか「失敗」したのかがわからないから、集客した人数という指標しかない。
儲けてはいけないから、指標が「売上」にならないのである。
梅棹忠夫先生はかつて1970年に、観光業を「掠奪産業」と呼んでいたが、なにをかくそう、観光課が地元民の税金を「ドブに棄てている」。
そして半世紀を経ても相も変わらず、観光地にやってきたひとびとから、価値のないものを買わせることでの「掠奪」がおこなわれているのである。
つまり、掠奪のための計画をたてて、実行しているのが「実態」となるようになっている。ノー・リスクはすなわち、自動的に「ノー・リターン」になるからである。
「投入した資源の見返りが、ない」ものを役所用語で「事業」というのだ。
これは、なにも河口湖だけのはなしではなく、全国津々浦々でやっていることなのだ。
これをもって「観光立国」とは笑止である。
せめて「山賊の国」と自己批判もできない脆弱ぶりは、行政依存のみじめがさせる。
しかし、もっともみじめなのは、そんなことに気もとめず、「楽しい」とかんじるように訓練された観光客のほうである。
ということで、じぶんがみじめになってきたから、湖畔の散策と地元野菜を買って、30分ほどの滞在で立ち去ることにした。
帰路の山中湖畔は、日曜日の混雑が「うそのよう」な閑散だ。
しかし、日曜日の混雑が「うそ」で、平日のこの閑散がほんとうなのだろう。
別荘地の合間を抜けつつ、管理費用があたまをよぎれば、「ああ欲しくない」と、またまたいけないかんがえがうかぶ。
富士山が湖面にうつる美のポテンシャルを、関係者が努力して「減価」させるのは「マンガ文化」でもわらえない。
河口湖も山中湖も、おそらくわが家の「目的地」になることはないだろう。
ぜんぜん残念でないのが、残念だ。