「仕事」には二種類あるとはよくいわれることだ。
「定型業務」と「非定型業務」という分けがある。
現場において、定型業務は「作業」ともいう。その作業をさまたげるトラブル発生時には、非定型業務が発生する。
世の中がサービス業化してきたのは、なにもサービス業がさかんになっただけでなく、工業も農業もサービス業的な要素が販売に重きをなすようになったからである。
それは、仕事の入口と出口にみられる。
入口は、「製品企画」や「製品設計」のことで、農業なら「品種改良」にあたる部分だ。
出口は、「アフターサービス」のことで、売りっぱなしは通用せず、むしろ評価や感想をきいて、つぎの製品企画にやくだてる。いまや、米農家すら通販での販売先にはがきをくれる時代になっている。
これらの仕事は、おおむね室内で、机に向かう時間がおおくなる。
あるいは、さまざまな打ち合わせも必要になったのは、関係者との間がデリケートになったからで、作れば売れる、というかんがえはもうとっくにない。
だから、だれになにを言ったのか?ということも、うっかりはゆるされず、一歩まちがうと修復不能な状態におちいるから、わすれないようにする工夫がどうしても必要になる。
それで登場するのが「議事録」である。
ところが、これは書けばいいというものではないから、面倒になる。
それで、もっとも経験の薄い若手が書記役になるのだが、内輪ならまだしも、他者どおしが集まるときは、さらなる面倒な事態となる。
そもそも、どこの会社が書記役を引き受けるのか?ということがはじめに発生する。
金融機関が間にはいる事業であれば、金融機関の出席者が議事録を担当したものだ。
それで出来上がって回覧したらおしまいではない。
一回目の回覧は、議事録に間違いがないかを確認するためで、たいがい「赤(修正)」がはいる。
これを修正して、当事者全員が承諾してはじめて「議事録」として保管されるのだ。
国会の議事録のように、誰がなにを言ったのか?を言葉どおりに記録する、という方法もあるが、これでは遠大になるので、エッセンスを記録する。
なので、記録係の能力が問われるのである。
しかしながら、こうした手間をかけてつくった議事録が、長期にわたる事業であるほど重要さを増すのは、かかわっている担当者たちが人事異動したりして抜けてしまうことがあるばかりか、うっかり勘違いして記憶していることの修正もできるからである。
つまり、言った言わないだけでなく、思い込みという人間ならではのヒューマンエラーにも対応するから、きちんと作成するのである。
ところが、なぜか「外資系」には、議事録をきちんと残すという習慣がないことがおおい。
外国人だからではなく、日本人従業員も議事録をとらないことに慣れている。
外資どおし、日本人どおしのミーティングで、議事録をとることをしないから、言った言わない、になるのだ。
そんなわけで、外資企業のトップによる「朝令暮改」は日常茶飯事で、権力で押し切るという解決法がとられている。
なので、外資系どうしで言った言わない、になると、理屈で解決するという理屈がでてくる。
たとえば、そんなことを言っていない、なぜなら当社の立場は最初からこうだから、とかである。
くわえて、詫びない、という条件も付随する。
ならばどうしているのか?
社内でも、社外とのやり取りでも、基本は電子メールをつかう。
こうすれば、ログが全部記録されているから、「証拠」になるのだ。
何のことはない、議事録を日常的に残している。
そんなわけで、社内でとなりのひとにでも電子メールをつかう。
ましてや、口頭でということはほとんどないので電話もつかわない。
なるほど、執務時間中の静けさは、キーボードを叩く音だけになる理由である。
サービス化は、目に見えない成果物、という意味でもあるから、記録方法が問題になるのだ。
さいきんは日本企業でも、議事録を書く能力が低減してしまっているのは、書かなくてもよい会議がふえたか、書かなくてもよいとやさしい上司がいうから、結果的に鍛えられないのかのどちらかだろう。
推測だが、議事録を書かなくてもいいような「会議」がやたらにおおいとおもわれる。
議事録を書かなくてはならない会議しかしない、というルールがあっていい。
また、議事録を書かなくていいというやさしさは、やさしさではないとそのまた上司が指摘すべきだから、管理職層の劣化、という問題が見えかくれする。
すると、そんな社風を見て見ぬ振りをする経営者層こそ、じつは大変な劣化をしているのだ。