革製品のなかでも、バッグや財布などの小物類をつくる伝統的技法に、「印傳」がある。
前に、「甲州印伝」について書いたが、この度は、奈良県の一家にだけ残る、「奈良印傳」(宇陀市、菟田野:うだし、うたの)の工房兼直売所を訪ねたので書いておく。
世界的に有名な歴史学者のひとり、アーノルド・ジョゼフ・トインビー教授(1989年~1975年)は、世界史における「日本文明」の独自性について語ったことでも有名になった。
敗戦によるショックから、それでも立ち直れないのは、民族的レベルで発生した、急性アノミーだと分析したのは、小室直樹著『危機の構造』(1976年)であった。
いい悪いということではなくて、およそ「文化の発展」には、「パトロン」の存在が不可欠なのである。
パトロンになりえるのは、かつて、王侯貴族やらの支配階級のひとたちが、その特権なり階級のシンボルとして欲し、自らスポンサーとなって、優れた職人を育てたのである。
これは、一種の投資でもあった。
よって、ただ高価だ、ということではなくて、階級的に所持すら許されない、というものもあった。
これがまた、その階級の間で認知され、シンボル化すればなおさらに、それ以外の階級との「区別」のためのサインになった。
日本人がしる最も有名なアイテムが、水戸黄門の「葵のご紋」が入った、印籠なのである。
あの小さな、薬入れの小物にどんなシンボル性があるのか?を問えば、徳川将軍家という最高権力者のマークがあるシンボルだ。
ゆえに、このアイテムを所持している人物とは、自動的に最高権力者に近しい、という判断になって、触らぬ神に祟りなしとしての従順の意思を示すために、一同が土下座する。
いわば、生殺与奪の権限を自ら放棄し、権力者におもねることがもっとも身の安全になるという期待の表れなのだった。
そんな存在が、印傳にもいえた。
貴重な鹿革を材料とする印傳は、武士階級のシンボルなので、それ以外が所持することは許されなかったのである。
しかして、この技術のはじまりは、飛鳥時代だという。
その後の天平文化を伝える、奈良の正倉院には、聖武天皇が騎乗の鞍に敷かれたいわばカバーが、印傳なのである。
しかもその、模様を描いた超絶技巧は、およそ煙でいぶして模様をデザインしたとは思えない複雑な図柄を描いている。
織田信長に謁見したことでしられる、宣教師のルイス・フロイスは、この煙でいぶして鹿革に模様を描く技巧に驚嘆したと、ローマに報告している。
ヨーロッパ人なら、染料で染めることしか発想しないだろうけど、それでは天皇の着衣が汗などで蒸れて色移りが心配される。
いぶしたのなら、その心配はないという。
印傳の分野でただひとりの、現代の名工は、この模様を出す方法を再現するのに、20年の研究を要し、いまだ解明されていない技法もあるという。
これは、京都の「清水三年坂美術館」に収蔵される、明治の超絶技巧という工芸品とおなじ状況なのである。
どうやって製作したのか?わからない。
まったくもって、オーパーツのようなものも残されていれば、気が遠くなるほどに細い糸の痕跡が、まるで江戸小紋の「点」に対して「直線」だけで描いたものなどは、技巧もさることながらその異常ともいえる作り手の集中力に、一種の狂気さえも感じる。
台湾の故宮博物院には、象牙で作られたバスケットや、おなじく何重にも彫り込んだ「球体」の彫刻があるけれど、推定で親子三代ともいう気の遠くなる時間を、ひとつの作品の製作にかけることができたのと違って、この「線」による印傳は、材料の糸が木綿の細い糸であると考えられるから、湿度と気温によって収縮してしまう。
だから、信じられないほどのスピードで革に糸がけをするのは、その面積分をどうやったのか?も、作り手からしたら「異常」なのだと断言するのである。
また、染め抜き技法の印傳から、京友禅に発展したともいう。
どうやって鹿革に、いっさい滲むことがなくピシャリと染めることができるのか?
わたしには、わからなかったが、現代の名工はニヤリと笑った。
正倉院といえば、あたかもシルク・ロードの終着地として、輸入品がおおく保存されているというイメージがあるけれど、じつは9割以上が、「国産」の宝物なのである。
この中で、印傳は、世界唯一無二という技法をようしている。
いったい、当時の日本人は、どんな想いで制作していたのか?
その技法を、どのようにして開発し、後継者に習得させていたのか?
詳しいことは、わかっていない。
まことに、謎めいている。
しかし、武具の部品として、武将たちが好んで印傳を身につけたのは、たとえ首と胴体が切り離されたとしても、その様に無様はいやだという美学を見出してなお、邪気払いの意味もあって、燻す煙に香を混ぜたという。
そうやって、いまを生きた印としたのである。
なんだか、宇宙の果てにある壁に、全生涯の情報が書き込まれている量子力学の話と通じるのである。
武士の都は、幕府が置かれた江戸だったので、印傳人気は関東以北にあるという。
商人文化の大阪は、財力があっても、所持を許されなかったからだ。
すると、「苗字・帯刀」のなかに、印傳も含まれるのは武具に用いたことによる。
京都でもなく、奈良にこの技術が残ったのは、奇跡ではなくて、「工人のネットワーク」があったためだとおもった。
鹿を仕留めて、革をなめすことからはじまって、分業制になっているのだ。
これをまた、武士社会が必要から求めたのだろう。
そんなわけで、日本人がかんがえたデザインの現代性は、とても天平時代からの伝統的デザインとはおもえない。
これに、ヨーロッパ人が気がついて、奈良まではるばる見学に訪れるという。
知らぬは日本人ばかりなり、になっている。
ヨーロッパのブランド品の価値が、かすむのである。
おそるべし、日本文明。