A.I.ブームである。
なんでもかんでも、「A.I.ガー」というと、なんだかそれっぽく聞こえる。
しかし、A.I.がほんとうに「使えるか?」といえば、使いこなすためには、質問力が問われる、と前に書いたし、なんだかんだと人間がA.I.を疑わないでいるのは、「不気味」ではないからだ。
人間が不気味さを感じるのは、脳が不気味だと判断するからである。
本物ソックリの蝋人形が並ぶ、『マダム・タッソーの蝋人形館』が有名だ。
ここへ行けば、「不気味さ」を体験することができる。
逆に、不気味さを感じないなら、その人形はわざと、どこかが本物とちがうように作られている。
「不気味さがない」ということの意味は、人間が上位にあることを、人間が理解しているから、である。
ほんとうにA.I.が、人間を凌駕したら、人間はかならずそこに「不気味さ」を感じるものだ。
たとえば、アメリカ軍とかが開発した、「軍用犬ロボット」の不気味さがそれだ。
本物のイヌ、たとえば、ドーベルマンなら、ダラダラ歩くことだってあるけれど、ロボットは常に緊張した歩き方しかプログラムされていないので、これだけでも不気味なのである。
結局のところ、A.I.だなんだと騒いでも、しょせん人間がプログラミングした範囲でしか動かない当然があるから、便利につかえるように設計されたものなら有用かつ無害だが、そうでない邪心をもって設計されたものなら有害になるのである。
問題は、こうした邪心の書き込みをどうやって監理・管理するか?にある。
事が起きてからでは済まないし、邪心をもって書き込もうとするものは、やっぱりそれが見つからないようなプログラミングに工夫するだろう。
ようは、いたちごっこになるのである。
もちろん、A.I.には読解力がない。
なので、書き込まれたプログラムをA.I.にチェックさせても、管理はできても監理ができない。
このことが、みえない「不気味の谷間」なのだ。
だから、人間の想像力は、A.I.をもって、人間のようにふるまえ「たら・れば」を題材に、物語をつくりだしてきた。
しかし、A.I.にこうした「たら・れば」が通用しないのは、A.I.に想像力がないからだ。
想像力があるのは、人間だけなのである。
ところが、人間とは妙なもので、勝手にその想像力がはたらいて、あたかもA.I.に想像力があるかのような感覚をもたらすので、話がややこしくなるのである。
しかも、A.I.は、あんがいとシラッとウソをつく。
おそらく、シラッとウソをつくようにプログラムされているのだ。
なので、そのウソを見抜けない人間は、A.I.を信じてバカをみることとなった。
それで、自分がバカなのだと認識できない人間が、たくさんの仲間をつくって、横並びの安心感を得ようとするから、たちがわるいのである。
彼らの言い分は、とにかく、A.I.の優秀さとか、A.I.の完璧さを強調することにある。
だから、今どきネット検索ばかりで、チャットGPTを使わないなんて、生産性に対するサボタージュだ、とかと平気でのたまうし、そうやって煽って仲間作りをしているのである。
自分で価値判断できるまともなひとは、そんな迷言に惑わされないし、そもそもA.I.に判断を任せようとはしないだろう。
これと似た事例が、「意識高い系」大企業内の「CDO:Chief Diversity Officer:多様性担当役員」の活躍であった。
もっとも華々しかったのは、映画産業で、そのなかでCDOが大活躍した代表的な企業は、ディズニー、ワーナー ブラザーズ、それにNETFLIX だった。
しかし、彼らを煽ったのは、「アカデミー賞」そのものの選考基準だった。
もちろん、「アカデミー賞」を出しているのも企業なのがアメリカらしいところで、企業名は、「映画芸術科学アカデミー(Academy of Motion Picture Arts and Sciences)」である。
ここにも、CDOがいた。
過去形なのは、アメリカナンバーワンブランドだったビール、「バドライト」の不買運動の影響(前年比△30%)が各社にでているからだ。
たとえば、ディズニーなら、ちゃんとした(政治的でない)映画を、子供に安心して鑑賞させたい、という親の要望が、いまのディズニーなら子供にみせたくないになったのである。
このことは、意識高い系の投資家の要求を呑まないと、経営陣から外される、ということからの大転換になっていて、消費者の不買運動が投資家に優ったことを意味する。
すると、いかがわしいA.I.礼賛の現状が、消費者からどう思われるのか?という問題になったとき、人間優先の思想がないと判断されたら、不味いことになると予想させるのである。
これが、リアルの不気味の谷間なのだ。