「経済カースト」の構造

「カースト」とは、ヒンドゥー教の社会制度で、職業、結婚、食事などの規制を指すものだが、現地では、「ヴァルナ」と「ジャーティ」という。
じつは、「カースト」とは、ポルトガル語から英語になった言い方なのだ。

「四民平等」をなし遂げたと勘違いしていた日本でも、さいきんでは「上級国民」という概念ができたが、人びとの心の中に残った身分性が、再び見えるようになってきただけの現象ともいえる。

その意味で、ヒンドゥー教におけるこの区分は、「正直」といえば正直なのである。

もちろん理想としての「平等社会」は、追求すべきものだとはおもうけれども、現実は現実としてみないといけない。
しかも、外国とはいえ、多数が信仰している宗教と結びついていることを、単純に「悪」とはいえないのも、現実なのである。

そもそもカースト制の歴史をみれば、紀元前13世紀頃からはじまったというから、いまから34世紀も前のことになる。

「神権政治」の基礎にある4つの身分が「ヴァルナ」とされた。
・バラモン(祭司)
・クシャトリア(武士)
・ヴァイシャ(平民)
・シュードラ(隷属民)、がそれだ。

それから時間が経って、「世襲の職業」が婚姻における内婚集団としての「ジャーティ」に細分化したという。
それで、親の身分が子に引き継がれることになった。

これには、前世の業の報い、という概念から、現世になっているのだとする「宿命観」が信仰の対象だという事情があるのだ。

なんだか、インドらしい。
というか、これがインドなのだ。

40年ほどまえの日本では、「卒業旅行」で海外に行くのが流行っていて、たまたまインドに行ったばかりに精神異常をきたしてしまう若者が多数でたのも、この「宿命観」にやられたのである。

そもそも、「インド」の語源は、インダス川の古名「シンド(大河)」をペルシャ人が、「ヒンドゥ」と呼んでいたのを、またまたポルトガル人が「インド」としたという。
アラビア語だと、「インド」とは発音せずに、「アル・ヒンドゥ」という。
なお、「アル」とは、英語でいう定冠詞「THE」のことだ。

インド発祥の仏教が、ヒンドゥー教に席巻されて、少数派(人口の3%程度)になったのが、いまのインドだ。
とはいえ、2023年での人口推計では、インド全部の人口は14億3千万人弱なので、3%とはいえ、4000万人は仏教徒だ。

幸か不幸か、日本には、「大乗仏教」が伝来したが、ヒンドゥー教はなぜか伝来しなかった。
しかも、インド仏教オリジナルからだいぶ変形したのが日本の仏教なので、「仏教」といっても単純比較はできない。

そんなわけで、インドが途上国のままで発展しないのは、カーストによる身分制の固定がネックになっているといわれてきたのである。

しかしながら、昨今、インド経済の発展はめざましく、日本の昭和30年代を彷彿とさせる、家電普及率となってきている。

誤解をおそれず単純化していえば、先に世界の工場となった中国から、インドへの生産シフトが起きているのである。
もちろん、東南アジア諸国やアフリカにも投資先が分散されているけど、「脱中国」という状況が生まれたのは、ある意味でその政治体制上からしたら、当然の帰結ではある。

もっとも、このことの最大の要因に、「安い人件費を求める」資本行動がある。

わるくいえば、資本行動として限りなく小さい人件費負担の、「奴隷労働を求める」ことが、「最高善」になるからだ。

けれども、これは資本行動とはいえ、資本主義といえるのか?とは別だといいたい。
本ブログでは、アイン・ランドの主張に賛同しているからだ。

それで、「経済カースト」なるものの構造はどうなっているのか?を図示しているのは、苫米地英人『経済大国なのになぜ貧しいのか?』(フォレスト出版、2012年)がある。

欧米巨大銀行オーナーをトップに、以下の構成となっている。
欧米巨大銀行頭取 ⇒ IMF・BIS等の国際金融機関 ⇒ 巨大投資銀行頭取クラス ⇒ GE・エクソンモービル 多国籍企業 ⇒ アメリカ政府 ⇒ 各国政府 ⇒ 経団連などの大企業

昨今のアメリカやヨーロッパでの事象に引きづられているわが国の事象をみると、この「経済カースト図」には、説得力がある。
ただし、アメリカ政府(バイデン民主党)やEU(フォン・デア・ライエンEU委員長)のほころびを観るにつけ、「その上」の盤石さがかえって目立つのである。

わが国政府の脆弱性は、推して知るべし。

ところで、「経団連などの大企業」から下のカーストはどうなっているのだろうか?
わたしには、コロナ禍で露呈した、「人的サービス業」が、最下位のカーストにあるとしかおもえない。

すなわち、シュードラ(隷属民)だ。

ために、全体でみたらとっくに下位のわが政府(ヴァイシャ:平民)にとって、「GOTO」なる「施し」をしてやらないと、生存が危ぶまれることを、当事者たるシュードラとして思いしらされたのである。

それで、もっとよこせと声を上げるのが、シャードラ内での細かな序列をつくっているとしかみえない。

はたして、人的サービス業は、この因果な世界から抜け出すことができるのか?
仏教ならば、億万回もの輪廻転生を経ないといけない。

つまり、はやく死んで復活せよ!という「教え」なのである。
これを企業体で実行するには、「生存理由」たる経営理念の見直しから再検討することなのである。

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