バブルの犯人は日銀

昨日の、『謎解き!平成大不況-誰も語らなかった「危機」の本質』の話題の続きである。

誰が犯人だかわからない、ふつうの「サスペンス・ドラマ」なら、たいがいの犯人は善良な人物を演じることになる。

これがふつうでなかったのは、『刑事コロンボ』だった。
なにしろ、番組のはじまりが、殺人の現場だったから、視聴者は誰が犯人かを最初からしらされている。
それを、あたかもズボラでみすぼらしい中年の刑事が、頭脳でもって追い詰めていく。

視聴者は、犯人の立場で楽しむこともできるし、コロンボ刑事になったつもりで楽しむことができた。
ただ、ひとの死が伴う話なのに、その死がなんだが軽かったのである。
被害者の影が薄かったからである。

もちろん、日本の「刑事モノ」も、犯人逮捕で終わるけど、きっとそのまま起訴されて有罪になることに誰も疑問を挟まない構成になっているし、犯人のその後の人生に誰も興味を払わない。
ましてや、「検察官モノ」なら、もっとはっきりしていて、刑事裁判の有罪率99%以上という国柄に合致している。

どうせ娯楽番組だから、「社会派」というドラマにも、リアルな表現をみない。
それが理由かしらないが、「行政訴訟モノ」にあたるドラマは皆無だ。
じっさいに、我が国の行政訴訟は、よほどのことがない限り行政側が勝訴することになっている。

それゆえに、滅多にないことはニュースのネタになるので、行政側が敗訴したらニュースになる。
けれども、負けた行政側の責任者が何らかの処分を受けることはニュースにならない。
こうして、責任が有耶無耶の仕組みから、無責任がはびこるのである。

高度成長期、クレイジー・キャッツが演じた、「無責任モノ」が人気を博したのも、終戦後に源氏鶏太が書いた読み切りの人気連載小説、『三等重役』があったように、いつしか日本文化の裏には、無責任がしっかり根付いているのである。

戦前に計画経済を強力に推進した、岸信介を筆頭にした「革新官僚」の集団は、「敵性たる資本主義」をいまの日本人より深く理解していた。
それで、財閥から財閥の所有者たる創業一族を排除して、株式を持ち合い、社内昇格によって従業員を経営者にまつりあげ、労働者も企業組合に押し込めたのだった。

財閥の所有者を追い出す手段が、保有株式の強制的な企業への販売で、これによって、持ち合い、としたのは、それでもって、株の配当金を少なくして、拡大総生産に邁進させるためだったのである。

ゆえに日本企業は、欧米企業経営者から見たら奇妙にも、シェア獲得に邁進して業界内の地位確立にこだわり、あろうことか利益を後回しにする行動が、「体質」にまでなって、ついに欧米企業を圧倒して、破綻に追い込んだのだ。

これにはちゃんと成功事例としての前例があった。
それが、スターリンの五カ年計画だし、ヒトラーのドイツが成し遂げた、驚異的な経済成長だった。

戦後の発展には、戦前の「総動員体制」という仕込みがあってのことという理由がある。

これが、人間の成長にもいえるのは、若いときにどんな経験を積むのかによるからだ。
一国の経済運営の要となる国家機構に、財務(大蔵)と産業政策がとにかく目立つ。

しかし、これらは、「目くらまし」に過ぎず、本丸は中央銀行の「信用創造」にある。
満州で成功体験を積んだ岸信介は、近衛内閣で商工次官から商工大臣になっていて、戦後は首相になった。

阪急をつくった小林一三商工大臣を辞任に追い込むことをした次官だったのは、有名な話だ。
近衛内閣と刺し違える覚悟の小林に肩透かしを喰らわせて、岸自身が改造内閣で商工大臣に就任した。

それで彼は、財務と産業政策を掌握したかに見えるが、じつは中央銀行の「遣い手」だった。

中央銀行は、ナチス・ドイツのシャハト博士(ライヒスバンク:当時のドイツ中央銀行総裁)の薫陶をドイツ留学で直接受けた一万田尚登(いちまだ・ひさと)が、「法王」といわれるまでに、戦後の日銀総裁として君臨できたのも、GHQとそのエージェント岸と吉田の後ろ盾あっての話だ。

そうやって一万田は、日本のおカネを支配したのである。

さて、ここでいう「おカネ」とは、経済の血液にあたるモノ、という意味である。
なので、心臓や肺、あるいは肝臓のように、目立つものではないけど、血液がない動物は生存ができないので、重要度でいえば比較にならない。

問題は、日銀がコントロールする対象が、一般人にはわかりにくいから、話題になりにくいことだ。

それがまた、彼らには都合がいいし、財務や産業政策の派手さが、カモフラージュしてくれる。
なお、あたかも意味があるごとく見せる、「公定歩合:金利の設定」とか「通貨流通量の加減:金融緩和・金融引き締め」も、「お札の印刷」さえカモフラージュなのである。

日銀がこっそりやる、一国経済への最大の影響力発揮の手段は、「窓口指導」なのだ。

これは、市中の銀行一行ずつ、すべてに対して毎月行うもので、その内容は、「誰に:どの業界のどの企業」、「どのくらい:貸出量」をせよ、という事実上の命令だ。
各行は、これに従わないと、資金割り当てが減らされるから、頭取の使命は日銀窓口指導の完全なる履行にある。

いまは、金融庁の「検査マニュアル」も加わって、銀行は股裂刑にさらされている。

そこで、指導先が、GDPに含まれる業界なのか?含まれない業界なのか?は、各行の判断を超える。
各行は日銀の指導(=命令)の通り、GDPに含まれない、不動産や株・証券への融資に邁進して、予定通り資産すなわち土地や有価証券の値上がりバブルになったのだった。

含み資産価値が上がることで、財布が緩んで消費も旺盛になって、これが史上空前の好景気となった。
しかし、誰にでもわかるように、値が上がったのは、「含み資産」だったから、土地や有価証券の「含み」が減少したらどうなるのか?

あの時代を思いだせば、一般生活物資の値上がりは「なかった」のだ。

そうやって、含み益があっという間に「含み損」に転じて、信用創造で貸し出していた銀行は、軒並み「不良債権」の山を抱えるようになったのである。

「信用創造」は、GDPに含まれるものだけに有効なのだ。

けれども、こんな単純なメカニズムを日銀のエリートが知らないはずはない。
にもかかわらず、知らなかったことにして、30年以上が経ったのである。

黒田元財務官の総裁就任で10年もやった、異次元の金融緩和がスカったのは、はじめから有効なはずのない、日本経済沈没のための欺瞞であり、やっている感だけのパフォーマンスであった。

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