アイスを無断で食べたから

生徒に大怪我をさせてしまったら、「教育的指導」とはいえなくなる。
理由はさておいて、この一点で「傷害事件」になってしまうのは、むかしだって同じだ。

逮捕されたのは柔道部の顧問で、50歳の教諭というから、ベテランである。
相手は、中学1年生の生徒2人。

この事件のどんなことが「事件」なのか?を書いておく。

小学校から「ゆとり教育」がはじまるのが1980年だ。
すると、1年生は1973年生まれとなるから、初代ゆとり世代は、いま53歳になっている。
すると、この教諭は、初期ゆとり世代になることは、ちょっとだけ覚えておきたい。

「キレる」という現象は、べつだん珍しくもなくむかしからあるけれど、往年のいい方は「堪忍袋の緒が切れる」であった。
殿様がやって大事件になったのは、『忠臣蔵』の浅野内匠頭である。

しかしながら、多くの日本人がしっているのは「講談ばなし」の方だから、史実としての解釈には諸説あるし、そもそも内匠頭がなぜに切りつけたのか?は謎のままである。
ときの幕府が、本人から詳細の事情聴取もせずに切腹させてしまった。
それで、幕府陰謀説まで登場する。

けれども、まるで講談ばなしが「史実のようになっている」のは、講談ばなしで敵役の吉良上野介からの「執拗なイジメ」に耐えて、耐えて、、、とうとう「堪忍袋の緒が切れた」という「理由の設定」がリアルだからである。これで日本人のほとんどが納得してしまい、もはやそもそも「イジメの有無」すら誰も顧みないことになっている。

一方で、吉良家の領地では、いまも上野介が「名君」とされている事実は、知識としてしっていても、なにせ「講談ばなし」に流されるのが多数なので、いまのコロナのように、どうにもならないことになっている。
かつての娯楽の花である講談と、いまは「ニュース」がおなじだ。

げにおそろしきは、「世論形成」なのである。

そういうわけで、日本人の行動は「二択」になっていて、「耐えて」「耐えて」、、、「耐え抜く場合」と、「堪忍袋の緒が切れる場合」とがあるけれど、その前に「文句をいう=意思表示をする」という選択をしない。

だから、相手はさっきまでニヤニヤしていた奴に突然殴りかかられることになる。
どうしてニヤニヤしているのかも不明だから、腹黒い欧米列強は理解できない「不思議の国」と日本を表現したのである。

そういえば、言語の構成もちがう。
あちらの言語には、かならず「主語+動詞」からはじまるルールがある。
自分が主語になるのであれば、かならず「I」をいうのだ。
「かならず」だから、省略しない。

しかも、自分を指す言葉が、男も女も「I」しかない。
これを、日本人は「言葉の貧弱」とかんがえるのだ。
もっといえば、人間は言語なくして「論理の構成」ができない。
ひとは論理を言語(ふつう母国語)でかんがえるしかないからである。

だから、ことばの違いは、論理=かんがえ方の違いを生みだす、あんがい深刻なことなのである。
これを一般化して、「文化の違い」ともいうのは、日常生活からすべてが違うといいたいからである。

日本が開国して、欧米化を目指すことになったのは、放置すれば欧米列強の餌食になって、植民地にされることを防ぐため、とふつういわれている。
でも、その前に江戸幕府が鎖国したのも、放置すれば欧米列強の餌食になって、植民地にされることを防ぐためだったから、なんだかおかしい。

種子島に伝来した「鉄砲」も、あっという間に国産化して、しかも、あっという間に世界最多の保有国になって、正確な射法の訓練も十分していた。
もちろん、弾どころか火薬だって国産化したから、安心して鎖国ができたのだ。

島国が、スイスのように「ハリネズミ」のような防御を完成していたのである。
開国の理由は、科学技術の習得にある。
いまの「千人計画」のように、外国人技術者を厚遇で招聘したのだ。

こうやって、「欧米化」を目指したら、「欧米」になってしまった。

戦後さかんにいわれた、「日本語の乱れ」とは、突きつめれば、「論理の乱れ」なのである。
つまり、伝統的な日本人の発想とは違う、日本語を母国語にしているはずなのに欧米の発想をする、という変化の「固定化=定着」がはじまっているのである。

さてそれで、被害者の子どもたちは、なぜ無断でアイスを食べたのか?
あるいは、加害者の教諭が、そのアイスに込めていた「意味」はなにか?

ということをかんがえると、「お預け」というコマンドが効かない訓練不足の犬に似ているかもしれないこと。
つまり、「アイスを食べたい」という自己の欲望が理性を上回った状態を、「通常」とする感覚がみられること。

これこそが、ジャン・ジャック・ルソーのいう「本来の人間」なのだ。

一方で、なんらかの「ご褒美」として用意したかもしれない、「アイス」だから、みんなで食べる(共食=同じ釜の飯)ことの思いにかられて、その裏切り行為に逆上したか、はたまた、「堪忍袋の緒が切れた」なら、相手の「通常」によるふだんからの「波状的」なストレスが、教諭の自己抑制不能になる怒りを誘発したのかもしれない。

柔道の技をどんなふうにかけるとどうなるかをしらないはずがない、という常識が壊れたのは、日本人らしくもあり、らしくもない。
おそらく、アイスを無断で食べた方には、なんら悪びれた様子もなかっただろうから、こちらは日本人らしくない。

「新旧」日本人の分裂が起きているとは、かんがえすぎか?

他人のおでこに電話番号をメモする神経

このブログでは、犬の話をたまにしている。
万年単位で人間と共存している、この動物の不思議があるからである。

犬の脳科学や心理学が発達してきてはいるけれど、人間のそれと同様に、全部がわかったということではない。
それでも、ある程度解明されてきたので、犬型ロボットが商品になった。

けれども、警察犬や猟犬のロボットができないのは、聴覚や嗅覚のセンサー技術が足りないだけでなく、運動能力とそれを支える小型バッテリーがないからだろう。
だから、実用にならない。

とはいえ、犬の本質は、その心理にある。
飼い主の心理と自分の心理とを同調させるという能力は、説明しづらい。
それで、カリスマといわれるドッグトレーナーは、「エネルギーの感知」といって説明するから、なんだか神秘的なのだ。

自分の心理だけを優先させるように育った犬とは、野犬のことである。
保護された野犬を引き取って、人間に奉仕する犬にするには、自分の心理よりも飼い主の心理を優先させて、自分を同調させる訓練がいる。
これが、「けっこう難しい」とプロも認めることである。

さらに、犬には群れをつくる本能があって、そこでの順位を確定させる行動をとる。
だから、飼い主の心理を優先させて自分の心理を同調させる犬がボスの群れに入れると、犬が犬に教育をはじめる。

そんなわけで、人間に一度も頭を打たれたことがなく育った犬は、人間が頭の上から叩く素振りをしても無反応である。また、無防備にみえる。
その逆は、クビをすくめたり、下手をすると逆襲されて噛みつかれる。
これは、防衛本能からの行動だ。

さて、人間の話題である。
ヨーロッパで記録的ベストセラーになったという、「哲学小説」に、『リスボンへの夜行列車』がある。
これは、映画『リスボンに誘われて』(2015年)の原作である。

 

物語のはじまりに、主人公と不思議な女性の出会いがある。
ここはスイス連邦の首都ベルン。
国立歴史博物館は、アーレ川の「ほとり」にあるけど、渓谷といっていいほど川は下に流れている。

主人公が前方にある博物館を眺めて橋を渡るときに、この女性が手紙を読んでいて、それを丸めて放り投げた。
すると、この橋とは「キルフェンフェルト橋」のことだ。
なんだか、35年前の一人旅が記憶に蘇る。

土砂降りの雨の中、主人公はこのひとが飛び込むとみて助けようとする。
手にした傘は、突風で川に消え、上から覗いてみても「あの黒い点は自分の傘なのか?」というほどに橋は高い位置にある。
いまは、欄干の上にもネットが張られ、おいそれと物すら投げられないようだ。

ちなみに、蛇行のためにベルン市を二度横切るアーレ川は、氷河を起点にさいごはライン川に合流する。標高差は1,565m。
また、ベルンも小さな街で、徒歩で30分もすれば横断できるから、およそ日本の大都市とは様相がちがう。

ほうとうにここが、首都なのか?
じつは、アーレ川を天然の堀にした、城郭都市なのであった。

この小説では、すぐにびっくりの場面となる。
助けた女性が、咄嗟に手にしたフェルトペンで主人公の額に電話番号を書き込むのである。
それは、いま棄てた手紙に書いてあったものだという。

そこそこの本を読んできたつもりであったが、赤の他人のおでこに電話番号を書くとは何事か異常なのだけど、気になるのは書かれた主人公の方である。
ふつうは、相手の手をはねのけるのではないのか?

そもそも、フェルトペンを持っていても紙がないなら、自分の手や腕に書くのではないか?
それを、見知らぬひとの手だっておかしなものを、どうして「おでこ」なのか?

そして、書かれた主人公の無防備さこそ、異常ではないのか?
目と目の間の額にこそ、最大の急所がある。

アーユルベーダにおける、温かいオイルを流す額のマッサージは、格別に気持ちいい。
けれども、中世における「拷問」の手段として、水を一滴づつ額に垂らす「刑」をされると、ひとは半日で発狂するという。

だから、書いた方も、書かれた方にも、それぞれの「心の隙間」があったことを表現したのだろう。
小説の出だしとして、これはかなり「神秘的」である。
しかも、「哲学小説」として名高いのだ。

この本が、どれくらい日本で売れたのか?
感覚の違いがわかるからおもしろい。

それが、主人公の職業説明にもある。
彼は、学位こそ無いものの、学校における古典文献学者として、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語の一流の使い手で、しかも生徒から尊敬と人気を得ているのだ。

むしろ、学位があっても無能な学者を軽蔑している。
その主人公が、女性に発した質問は、「あなたは何人ですか?」ではなく、「あなたの母国語はなんですか?」であって、「ポルトガル語」とポルトガル語の発音でいわれたことに感動する。

聞いたことばの音韻。
その心地よさ。
スイス人が感動するヨーロッパ言語があって、その言葉を理解できないという設定に、妙に共感するのだ。

そういえば、ポーランドでは英会話教室が大はやりだった。

でもやっぱり、赤の他人のおでこにメモはしない。
一生しないとおもうのである。
もちろん、自分のおでこに他人にメモなんかさせない。

「RICO法」の破壊力

残念ながら、この法律はわが国のではなくて、アメリカ合衆国の連邦法である。
正式には、Racketeer Influenced and Corrupt Organizations Act という。

「ラケッティア活動(racketeering activity) によって組織的犯罪を行う組織(enterprise) の活動を規制し、犯罪行為に対する刑事罰と被害回復の方法(民事責任)を規定する」と説明があるけど、いささか難解である。

簡単にいえば、マフィアや違法薬物カルテルなどの犯罪組織に限らず、不法行為を行った個人や企業に対する処罰をする法律である。
1970年、リチャード・ニクソン政権において制定された組織犯罪対策法 を含めた組織犯罪取締立法の一環として成立したので、「共和党」の政策が色濃く反映されている。

違反が摘発されると、最高20年の拘禁刑(前提となる犯罪に終身刑が法定刑として規定されていた場合は終身刑)、および、罰金刑に処せられる。罰金の金額は、個人の場合については、25万ドル以下、法人だとその倍の50万ドル以下の罰金か、この犯罪によって得た額または被害額の2倍以下のうち大きい方で、さらに没収刑も別途用意されている。

個人だと、ビザ申請時での虚偽もこれに該当する。
それで、話題になった解放軍空軍の医学研究者の女性について、「最高20年の懲役と、最高25万ドルの罰金が科せられる可能性がある」と報道された。

日本だと、「懲役または罰金」がよくある刑罰なので、両方やってくるアメリカは厳しい。
なぁに、どうせ州ごとに法律が違うと高をくくってはいけないのは、冒頭に書いたように、「連邦法」だからである。
まさに、悪いことをすると、踏んだり蹴ったりになるのである。

米中の「新冷戦」こそが、現代の「新しい生活様式」にふさわしい確定的な生活環境である。
この重大な事実から、ひとびとの目をそらせるために「コロナ」という、ありもしない病原体を利用しているのではなかろうか?

だとすればあたかも、「コロナとの共存」とは、「中共の温存」を隠すのに都合がいいので、こちらも、「新しい左翼用語」となってくる。
惜しむべきは、わが国に「RICO法」がないので、中共の支配下にあった学術会議という組織を、一網打尽にすることができない。

しかしながら、この度の騒動によって、過去の悪事が次々と暴かれることになったのは、国民には幸いである。
いまだに強弁擁護するマスコミを散見するけど、新聞の不買と広告の不出という手段で追放するのに、まことに都合がいいのも彼らにとっては「不都合な真実」であろう。

個人の不買は、日本国民ならかんたんにできる。
しかし、企業の広告の不出は、企業経営者の判断に委ねることになるから、消費者という国民には、もう一つの、不買をすれば経営者は怖れをなすのである。

ここで、自助を旨とするのが本ブログの趣旨ではあるけど、アメリカ議会という他人が、ぜんぜん別のレベルで日本企業にも迫っている。
なので、より現実的な「排除状況」になっていることを書いておく。

それが、「RICO法」の対象に、中共を「指定団体」とする動きがあることだ。
そうなると、「指定団体」には、その支配下にあると認定される企業も含まれるから、こうした相手と商取引している外国企業も、「同類」と見なされてしまうのだ。

つまり、日本企業がアメリカ連邦政府から、突然「ならず者の犯罪企業である」という「指定を受ける」ことになる。
「可能性ではない」ことに注意したい。

すると、「法人」なので、罰金と没収刑とで、いかほどのお支払いを要するのかを問う前に、企業にとって命ともいえる「信用」が失われることになる。無論、アメリカは輸入禁止をする。
アメリカ政府からの「犯罪者指定」が、世界でのビジネスにどう影響するか?はかんがえるまでもない。

まさに、「一巻の終わり」だ。

日本政府は、こうした「リスク」をいかほどに日本企業に伝達し、警告しているのか?
まさか、同盟国の企業を相手にそんなことはしない、と独りよがりしていたら、とんでもない。

アホな官僚が、アメリカ政府に問い合わせて、安心しているかもしれない。
問い合わせるべき相手は、政府ではなく、議会なのである。
この意味で、ワシントンの日本大使館の情報収集力は、大丈夫なのか?
自民党外交部会長になった、ヒゲの隊長佐藤議員にチェックしてほしい。

わが国のIT化に対する「遅れ」には、「IT活用」もあるけれど、経営者の情報収集が、「地上波TV」と「大新聞」では話しにならない。
最低でも、ネット上の各国ニュースを探る必要があるし、とくにアメリカ議会の動きは目が離せない。

残念ながら、わが国の既存マスコミは、このような重大情報ほど無視して報道しない傾向が高まっている。

その意味で、トヨタ自動車があぶない
いまのわが国で、この会社が傷つけば、いかなる範囲で影響がでるものか?
「衰退」ではすまされない事態になるのだ。

心配しすぎ、がちょうどいい。
トヨタ一社への依存とは、高リスク状態を意味するからである。
くれぐれも、「新冷戦」という「新しい日常」がはじまっていることを忘れてはならない。

これは、かつての「米ソ冷戦」より、たちが悪いのである。

妄想・氷川丸運行計画

子どものころ、横浜港大桟橋からの南米移民船の出港を見たことがある。
記憶が曖昧なのは、それが目的だったのか、たまたまだったのかを覚えていないことである。
うっすらと重なるのは、近所のひとの親戚が移民するので一緒に見送りに行ったような、そうでないような。

人生の「出発」には、「別れ」が伴う。

卒業式しかり、転勤しかり、はたまた最期の瞬間しかりである。
駅ホームでの別れも、汽車の時代から特急電車の時代、そして、新幹線の時代となって、だんだん詩情が薄れた。

汽車の時代は、「動きだしてから」も、まだ「間」があって、乗るひとが走れば飛び乗れた。
特急電車の時代は、窓を開けて、何かを渡せた。花や手紙、ときに「言葉」を渡すこともあった。
新幹線の時代は、ご存じのとおりである。

ところが、船となると様相が異なる。
ただの「物見遊山」のクルーズなら、見送るひともあんまりいないだろうけど、移民となれば、「今生の別れ」を覚悟する。
その切羽詰まった人々の気持が、見送るものと見送られるものとを結ぶ、紙テープになったのだ。

音楽隊の蛍の光をバックに、ドラがジャンジャン叩かれて、静かに離岸する船と、ちぎれ行く紙テープのはかなさと絶叫ともいえる声の塊が、子ども心にも哀しくさせた。
それは、まるで、大地が引き裂かれるような光景であった。

あの紙テープは、どうやって回収していたのか?
いまなら、無情なひとたちが、地球環境とか海を汚すなというのだろう。
「あほらしい」
はるか何十年も前のひとたちの方が、よほど文明人である。

横浜に生まれてそろそろ還暦を迎えるけれど、山下公園に散歩にいけば、そこには必ず氷川丸があって、それをマリンタワーが見下ろしていた。
灯台として世界最高の高さを誇ったマリンタワーも、2008年に灯台機能が停止されて、なんだか抜け殻のようになってしまった。

みなとみらいの高層建築がなかったころは、わが家からマリンタワーの赤と緑の灯りが見えて、大晦日の夜0時には港に停泊中の船が一斉に鳴らす霧笛の音が、腹に浸みて除夜の鐘より馴染みがあった。
その霧笛の音も、高層建築に遮られ、外に出て耳をすまさないと聞こえなくなった。

横浜が、ふつうの地方都市になっていく。

国の全国満遍ない開発と統治の仕組みが、横浜から「特別を奪って」、世界一の港町も、いまや「むかしは」をつけないといけなくなった。
「日本三大港」といういい方すら、ハマっ子的には不本意なのである。
実質、横浜市営からいまは国営の港となって、衰退を続けている。

なんとか大型クルーズ船を誘致しようと、ベイブリッジの外側にも着岸できるように横浜市が投資をしている。
どんな投資効果があるのかはしらない。ただ、観光客は大型バスに分乗して、横浜「以外」の観光地に向かうことはしっている。

「横浜港の象徴」ともいわれる氷川丸だって、ホテルもレストランの機能もなくなって、ただの「博物館」になっていることも、衰退する横浜を象徴している。
「文化財」になったから、往年の椅子に座ることもできないで、もっぱら「見学」するだけの施設になっている。

動いていたモノが動かないままで展示されるのは、鉄道博物館だって同じだけども、客席には座れるようにもなっているし、おりあらばSLだって運転されることもある。

ならば、氷川丸を動かす運行計画はできないものか?

できない理由は山ほどどころではない「不可能」があるにちがいない。
そもそも、氷川丸がいまの場所に係留されるにあたって、スクリューが取り外されて、そのためにエンジン・シャフトも一部が撤去されている。

いや、そうではない、『宇宙戦艦ヤマト』のような改装を妄想したいのだ。

博物館の展示品は、陸上の「博物館」に移転させて、最新のテクノロジーを駆使した、氷川丸再生のイメージである。
新造ではなく、あくまでも「大改修」だ。

「復元」という技術は、新作よりも高度な技術を必要とする。
「街ごと復元」する技術に長けているのは、ポーランド人である。
連合国の空襲やドイツ軍の破壊で首都ワルシャワを筆頭に、ほとんどの街ががれきとなった「壊滅」を、驚くほどの根気と技量で、どの街も「旧市街」を完全復元させている。

こんな歴史をしらなければ、観光客はなんの疑念もなく中世からの美しい街並みを撮影するであろう。
しっていれば、その驚愕の復元に、細部までの撮影をするであろう。
この錆びは、本物なのか?復元なのか?すらわからない。

ポーランドの地方都市で泊まったホテルは、外観は典型的な社会主義時代のものだったから、到着したときには期待値がダダ下がりしたけれど、館内の「最新」には呆然とした。
その快適性は、従業員サービスの素晴らしさと融合して、いまだに忘れられない。

街並みを、復元する。
この費用をだれが出したのか?
こたえは簡単で、市民たちであった。
税ではない、寄付や寄贈である。

横浜市は、カジノ問題で市長リコールなどの反対運動がかまびすしい。
けれども、ふるさと納税で失った市税収入の確保のためという「名分」が市当局にある、と書いた。

ならば、ポーランド人のように、市民が資金と技術を出し合って、「妄想の実現」をしたらどうか?
自己犠牲の精神がすこしでも横浜市民に残っていれば、ではあるけれど。
それには、氷川丸という「象徴」がふさわしいとおもう。

もちろん、民間事業であって、公共事業にしてはならない。

一党独裁への愛が強すぎて

オギャーと生まれてから10年あまり、小学校の高学年である5年生や6年生にもなると、クラス運営にあたっての「民主主義」を体得するようになる。
「意見の違い」という問題が噴出するからである。

それが、思春期のはじまりにあたる中学生になると、簡単に収拾が付かない状態になって、「会議のすすめ方」という国語の副読本での解説が妙に役に立ったことを覚えている。
最近では、思春期のはじまりがだいぶ早まってきているだろう。

会議のすすめ方の第一に、「会議の目的」がある。
目的に沿った議論をしないといけないのは「自明のこと」だけど、かんたんに「脱線」するのは、意見のなかに「屁理屈」が入りこむからである。

とくに、自我に目覚めた子どもは、「屁理屈」をいうことが恥ずかしいというレベルに達していないので、こじゃれた子どもほど「屁理屈」をいって、自画自賛する傾向がある。
このままおとなになると、面倒な奴になる。広義の発達障害であろう。

しかし、屁理屈も論理のなかに含めると、論理展開という意味での訓練にはなる。
正しい論理の導き方を学べば、ちゃんとした「理屈」をいうようになるから、「屁」がとれる。

だから、おとなは子どもに、「論理」を教えないといけない。
むかしは、「お天道さまが見ている」といって、道徳を教えて常識人をつくったけれど、これを、さいきんは「ロジカル・シンキング」といっている。
どことなく、無機質なのは「常識」もロジカルでないといけないからだ。

学校なら教師が、家庭なら保護者が、そして、社会がロジカル・シンキングを常識とすれば、「世迷い言」がずいぶん減って、その分、社会も明るくなるはずだ。

コンサルタントの仕事をしていて気づくのは、「いい会社(良い会社ではない)」は、社をあげて常に、ロジカル・シンキングをしていて、その結果をメンバーの誰もがきちんと行動に移していることである。

逆に、うまくない組織は、これがぜんぜんできていないばかりか、ロジカル・シンキングということさえ知らない文化があるものだ。
だから、上からいわれたコトしかしない、ということが日常になる。
メンバーはバラバラで、全体のパフォーマンスが上がらないのである。

しかも、こうした組織のトップは、パフォーマンスが上がらないことの責任を、自分より下の組織メンバーの「資質」に求めるのもよくある話だ。
「うちの従業員たちは、やる気のないバカばかり」という本音は、「いい会社」がどうやって運営されているのかを知らない、自虐的な告白でもある。

さて、これを国家にあてはめて、本来、野党の存在意義はなにかといえば、与党の施策に対する「論理的批判」である。
当たり前に見えるけど、その「論理的批判」のベースに、かならず「政権交代」を意識していることが条件なのが、本来の「当たり前」である。

批判のために批判する、というなら、「評論家」に任せればよい。
野党といえども、メンバーは選挙で選ばれた、「国民の指導者」のひとりなのである。

この度の「日本学術会議」の任命人事について、たいへん興味深い「屁理屈」を展開しているのが、任命拒否された本人たちと野党と、そのシンパと見なされるひとたちである。
人数にすると結構な日本人が、はからずも旗幟を明らかにしているのは、一種の「あぶりだし」のようにもみえる。

また、その「屁理屈」の論理展開が、ちょっと前の「検察人事」のときと似ているばかりか「そっくり」なのである。
やっぱり、同じひとたちが、同じ屁理屈を掲げているのが滑稽なのである。
こういうのを、懲りないというのだろうけど、ぜんぜん反省もしていないから、悪質なのだ。

彼らの「世迷い言」とは、「議院内閣制の否定」がその根底にあるからだ。

わが国では、国政選挙のうち、下院にあたる衆議院議員選挙が行われて、当選者多数の支持を得た政党が、議員のなかから「首班」を選んでつくるのが「内閣」としている。
これを、弁護士でもあり、民主党政権で官房長官をやった、いまの野党党首が知らないはずはない。

しかし、彼らは、「行政官」である「検察官」の人事に、行政当局の、会社にすればいわば「取締役会」にあたる内閣の介入を「無法」だと強烈に批判したのである。
そして、検察官の人事は検察官に任せろと主張した。

検察官の人事に、ときの政権が介入すれば、政権の不法行為を取り締まることができない、と。
しかし、民主主義のルールでは、政権の不法行為を取り締まるのは、検察ではなくて、国会である。そのために、衆参両院という二院制なのだ。

この意味で、一院制ではあぶない。
参議院不要論があるけど、そうではなく、上院としての参議院の権限を強化する必要があるし、もっといえば、選挙方法を変える必要もある。
衆議院のコピーだから、不要論が出てくるのだ。

野党が弱小だから、国会で取り締まれない、ということの論理は、小数の国民しか自分たち野党に投票しないから、でしかない。
つまり、「国民がバカだ」といっているに等しく、どうして国民が支持しないのか?というマーケティングすらしない独りよがりを貫いている。

予算を全部国から得ている学術会議という組織が、組織内部で決めた人事に内閣が口を出すなという論理は、上述の検察官人事と同じなのである。

これは、共産党が決めた人事に政府が口を出すなという論理そのものだ。
わが国が、一党独裁の政治体制ならば、「通る」話しではあるけれど、いまは一党独裁どころか、官僚独裁で政権党は官僚のいいなりだから困るのだ。

つまり、一党独裁への愛が強すぎて、もうすでに一党独裁になっている、という「白日夢」を見ているひとたちが、自分からそれを「告白」しているのが、「学問の自由を守れ」という、人事とは関係のない議論のすり替えをしているにすぎない。

哀れな精神病理がここにある。

トルコにも抜かれた

国民1人あたりのGDPのことである。
前に、韓国に抜かれたことを書いたけど、OECD最新のデータでは、トルコにも追い越されてしまった。
ちなみに、世界トップはアイルランドになっている。

国全体としてのGDPでは、まだ世界第三位ということになっているから、「安心」ということはない。
国民1人あたりのGDPとは、国民の経済力を表す指標なので、この数字が多いほど、「経済的に豊かな生活」だという意味だ。

思わず、国の名前からすれば、「そんなことはなかろう?」といいたくなるかも知れないけれど、まるで「ウサギとカメ」の話しのように、わが国が何もしないで寝ている内に、ドンドコいろんな国に抜かされているのである。
しかも、多くの国民が、この厳然たる事実に気がついていない。

むかしは、こういう眠り方を、「惰眠を貪る」といっていた。

30年間も「惰眠」していれば、そりゃあ下位のはずの国に抜かれて当然である。
日本を追い抜いた、韓国にしろトルコにしても、たいへん喜んでいるに違いない。

トルコ人はもともと、いまのウイグルに住んでいて、それが発展して西に移動した民族である。
だから、途中の中央アジアにいまでも、「トルクメニスタン」というトルコ人の国がある。

どうして西に向かったのか?
チンギスギスハンのモンゴルと、一緒に攻めたてながら移動したのである。
それで、オスマン帝国をつくって、ビザンチンの攻防では「船を山越え」させて、黒海からの攻撃で世界都市ビザンチンの「阿鼻叫喚」と汚名が残る大掠奪をやったのが惜しまれる。

古来、山を越えた軍は強い。
ローマに迫った、ハンニバルのカルタゴ軍はアルプスを越えた。
けれども、まさか「船を山越え」させるとは、さしもの東ローマ帝国にして、気がつかなかったのは、ちゃんと陽動作戦もやっていたからである。

残念ながら、しずしずと勝利を味わうことが、人間にはできないのだ。

織田信長の北陸攻めも、どうする?と怯まざるをえない山を越えないと、敵に攻め込めない。
鉄道であれ自動車であれ、「北陸トンネル」を通るたびに、この頭上の山塊を戦場とする感覚が、やっぱりすごいとおもうのである。

若い頃、ビジネス書のコーナーに、たくさんの「歴史解説」があったのを不思議におもったことがある。
その多くが「指揮官」のリーダーシップ論であった。

使われる側の「兵」には、どんなかんがえがあったのだろう?
意外と、そっち側からの話は少ない。
田村兄弟の長兄、田村高廣が勝新太郎とコンビを演じた『兵隊やくざ』が、使われる側からの「エピソード」になっている。

製作は昭和40年だから、終戦からちょうど20年。
わたしの父は海軍の幼年兵だったので、この映画を好まなかった。
「陸軍」の話であったからだけど、「兵」にして海軍に誇りを持っていて、陸軍を疎ましく思っていたことは間違いない。

それにまだこの頃は、ちゃんと「戦後」が残っていた。
映画館の観客には、元兵士たちも健在だったので、面白おかしい場面でゲラゲラ笑う同世代でも銃後のひとたちをどう観ていたのか?
そんな劇場の雰囲気も、「海軍ならあり得ない」と父はいっていた。

けれども、観客に元兵士という経験者も想定できるから、あんがいとエピソードとして「さもありなん」がなければ、ぜんぜん受け入れられることはなかったろう。
だから、外から組織内部の「理不尽さ」を笑う、醒めた映画でもあるのだ。

ただし、わが家の周辺に陸軍さんがいなかったので、このあたりの心情を直接聞いたことがない。
もう永遠にわからない話になった。

それでも、20年という年月では、やっぱり世の中そう簡単に変わらなかったのは、今のようなデジタル時代ではなかったからである。
潮目は、30年前のソ連崩壊ではあるけれど、ほぼ同時にインターネットがはじまったことに注視したい。

いまなら、インターネットの本質は、そのコンテンツにあると誰でもいえる。

けれども、まずは、物理的「普及」という時代があった。
SMAPメンバーによるNTTのCMで、「64(ろくよん)、64(ろくよん)、128(いちにっぱ)」を連呼していることの意味が不明だった。
若いひとでも、もはや不明の、「ADSL」のことだった。

ところが、あっという間に「携帯電話」がやってきて、「iモード」という意味不明が、たちまちに「常識」になった。

わが国の衰退は、わが国が世界最先端を経験したことにある、と野口悠紀雄氏は断言している。
まるで、かつての東芝が、世界最先端の「真空管技術」を誇っていた矢先に、「トランジスタ」が世の中に普及したのに似ている。

わが国を抜かし去って行く国々の特徴は、IT・デジタル技術の応用という一点において、かつての最先端にこだわるわが国を置いてきぼりにしているのだ。
1人あたりGDPトップのアイルランドは、30年前、西ヨーロッパ最貧国のひとつで、当時はわが国の半分ほどあったのが、いまは「倍」になっている。

だから、いまにしてようやく、「デジタル庁」なのである。

この役所の成功は、国がやることと民間がやることの「区別」ができることによる。
全部が全部、お国への依存となれば、起死回生どころではない。

果たして、どんな山を越えないといけないのか?
それは、まちがいなく人間による「マネジメント力」の高みである。
マネジメント力がITやAIの使い方を決めるからである。

だからこそ、民間が、かんがえて実行しないといけないのであって、政府はそれを「補助」するのが「本分」なのである。

国勢調査ができないといいことがある

5年に一度の「全数調査」が、『国勢調査』である。
なんでも「全数検査」せよとか、「全国民にワクチン接種の希望を聞け」とかいうひとがいるけれど、驚くべき手間がかかるのが「全数調査」なのである。

手間がかかるというのは、費用もかかるという意味になる。
自治体の小間使いになっている、町内会や自治会の役員が、もちろん無償の活動で調査票を各戸に配ったとしても、回収や、肝心の集計にもたいへんな労力をつかう。

それでもって、10月7日の期限をむかえたので、今回の回収率が発表された。
62.6%
5年前の前回が、86.9%だったというから、なかなかの「落ち込み」である。

これの中身がどうなっているかを知りたいところだが、集めた数しかわからないから、どういうことなのかがわかるには時間がかかる。
仮説としては、
・コロナの影響
 ネットでも郵送でも、という選択肢が選択できないとか?
・外国人居住者の未回答
・まさかの個人情報開示の恐怖
とかが浮かぶ。

むかしは「義務感」があったから、なにがなんでも提出するのは当然で、きっかり10月1日という日付だけでなく、時計をにらみながら午前0時「きっかり」に記入していた。
空襲を経験したひとたちは、何が起きるかわからないと、期限のその瞬間まで記入をしなかったのだ。

これは大震災を経験していてもおなじだとは思うけど、肝心の「義務感」が薄れてきたことは確かだろう。
念のために書けば、国勢調査は「統計法」で「国民の義務」とされていて、「50万円以下の罰金」まであるから、忘れているひとは提出に「まだ間に合う」ので注意したい。

ところで、人口は増える、という前提に立てば「国勢調査」とは、いいかたもしっくりくるけど、人口が減るといういまの前提なら、「国衰調査」となるので、あんまり気分はよくない。だからといって、このことが回収率を下げているとはおもえない。

この調査は、「国及び地方公共団体における各種行政施策その他の基礎資料を得ることを目的としている」との説明が総務省HPで公式にされているように、「各種行政施策の基礎資料」となることに注目したい。

ここにも、三権分立の概念が怪しいわが国の姿が現れるのだ。

たとえば、アメリカ合衆国の「国勢調査」は、連邦下院議会の議員定数の割当を定めることにある。
わが国の下院(衆議院)ように、議院内の政治の都合では決められず、憲法に規定されている方式の実施のためにある。

ちなみに、アメリカの連邦上院議会は、各州から2名の議員を選出するとされているから、50州で100人の議員となっている。

もちろん、アメリカは行政府が各種施策を勝手にすることはなく、かならず議会を通過(賛成多数)した施策を実施するように定められている。
だから、わが国なら、国会内の会派によって国勢調査の調査結果が各種施策に利用され、それがさまざまな「法案」となるイメージになるから、現実はアメリカとぜんぜんちがってかけ離れているのである。

国が違うのだから、政治制度もちがうのは当然である。
しかしながら、たまには、外国がどうなっているかも知っていて損にはならない。

ましてや、敗戦によって全否定されている、明治憲法下でのわが国はどんな仕組みで運営されていたのかさえ、もうわからなくなっている。
徳川幕府を倒した政権だから、その統治コンセプトは、「反幕府」なのは当然としても、統治者の身分は「武士」のままだったとは以前に書いた。

それが、「下級」であっても武士の矜持だったし、士族からの役人登用が間に合わないとなって、農家出身でも東京大学卒業生を「新しい武士階級」と認めたのである。
後に、軍でもこれを真似て、将校養成学校を出たら「新階級人」になれた。

すべては、「お国」あってのことだった。

しかし、教育・研究者の最高峰であるはずの「学術会議」における体たらくを見れば、「反日」という思想でないと国内では「偉くなれない」という逆立ちが、見事に国民教育に反映されて、国勢調査にすら関心がない国民をつくっている。

これは、わが国政府には一大事である。
国家が作れと各界から要請される、さまざまな「国家戦略」の基礎となる統計の信用がゆらぐ。
すなわち、「日本版・計画経済」の基礎が揺るぎだしているのだ。

果たして、学術会議のみなさまのおかげで、計画経済ができなくなるというのは、まさに巨大ブーメランだ。
しかし、計画経済をうたいながら、改革開放で大成功した隣国は、その4000年の歴史で一度も国勢調査をやったこともない。

自国のどこに何人が暮らしているのかを知らなかったから、IT技術で把握を図り、たちまちにして個人情報を得たのがつい最近である。
なるほど、そうかんがえたら、わが国もいっそ隣国の真似をして、国勢調査なんか放り出し、改革開放をやればいい。

個人データがたっぷり埋蔵されているスマホを、国民が購入できる生活財力があるうちでないと、手遅れになりますぞ、とでも学術会議が提言すれば、すこしは役立つものかと国民も納得するだろうに。
噴飯物の「レジ袋の有料化」を提言した。

ところが、政権はもう先手を打って、スマホ利用者からのヒヤリングを総務大臣が直々に行っている。
わが国の学者は、なにを勉強しているのだろうか?

恥の上塗りとはこのことである。

私学医学部イジメ再び

今度は、聖マリアンナ医科大学の入試に対して、文部科学省が「不適切」と結論づけたと報道された。
過去に8校あって、どちらも私学助成金が全額不交付になったり、減額されているという。

指摘は、現役男子に偏った「高得点」だというから、これも以前にあった通りである。
すなわち、女子と浪人が「低得点」になる、ということなのだろう。

他校の以前の例では、「伸びが違う」ということを教授陣が認めていた。
すなわち、傾向として、「高得点ではなかった男子」が、入学後に「伸びる」から、医師国家試験の合格結果が「ちがう」ということをいっている。
すると、「高得点だった女子や浪人」は、伸びないということだ。

学校側が主張することを、統計的にでも示してくれるとありがたいのだけれども、残念ながら「言葉だけ」になっている。
こうしたことの発表すら許されないのだろうか?
現代医学に統計はつきものなので、きっとちゃんとした専門家が学内データの分析をしているはずである。

世間から、「解剖学者とされている」という、養老孟司氏は、東京大学医学部教授という職にいた。
わが国では、大学を最高学府というけれど、その中の「最高」といわれているのが「東京大学」だ。

けれども、東京大学内にあっての「最高」は、「医学部」とされている。
受験戦争の象徴とされる、「偏差値」において、70以上どころか80レベルでないと合格しない難易度は、とにかく飛び抜けていることは確かだ。
一世を風靡した、受験マンガ『ドラゴン桜』においても、「東大医学部に合格するのは宇宙人だ」というセリフがある。

「偏差値」とはなにか?を確認すれば、まず「正規分布」がわからないといけない。
正規分布というのは、グラフにすると、きれいな左右対称の「山型」になる分布をいう。

たとえば、試験の結果なら、横軸は「点数」、縦軸は「人数」を示す。
何点のひとが何人いるかをグラフにしたものだ。
だから、山の頂上にあたるのは、「もっともたくさんいる」ということと、「平均点」を示している。

典型的に「正規分布」するのは、小中学生の身長をとったグラフで、全国で百万人規模の身体測定データをあつめてグラフにすると、みごとに「正規分布」する。
横軸は「身長」、縦軸は「人数」としたグラフだ。

これは、なんの操作もなく「正規分布」する例なのだけど、じつは「大学受験」の試験結果だと、そのままではあんがい「正規分布しない」。
出題する問題側にバラツキがあると、結果も歪むからである。
そんなわけで、「正規分布する」ように、「配点を調整する」のである。

それで、正規分布させたら、頂上(最大人数で平均点を示す)を中心にして、山の左側と右側の「稜線」をじっくり眺める。
左側は平均点「未満」となって、右側は平均点を「超えた」ひとの人数を表している。

すると、このグラフの「山の面積」が、そのまま人数の分布をいうことがわかる。
山全部の面積が、グラフの対象となった人数の合計となる。
であるから、平均から左側、あるいは右側のひとたちが、どのように分布しているのかも、その面積でわかるのだ。

「正規分布」の山の場合、どのくらい平均から離れると、面積がどうなるかが決まっている。
山の全部の面積を100とすれば、それぞれを「%」で表せるのだ。

このとき、平均点をとったひとたちを、「50点」として、左側なら「49」から数が減り、右側なら数が増えるように調整して計算すると、「偏差値」となるのである。

たとえば、偏差値30と偏差値70は、平均から左右の距離はおなじだけれど、その意味は面積にするとそれぞれ、「2.275%」しかいない。
偏差値30とは、自分の下に全体の2.275%しかいないという意味だし、70ならその逆になる。

ある意味、「異常値」的な出来の「悪さ」と出来の「よさ」となる。

養老氏によると、かつてのご同僚が、「入学時には最優秀だったはずなのに、卒業時にはバカになる」と怒ったというけど、先生は「偏差値を血圧に置き換えると『治療しなきゃいけない人たち』なんだから、バカになるように補正して世の中に出さなきゃいけない」とこたえている。

さて、2018年に文部科学省は、「朝ごはんを食べると成績がよくなる」として、「早寝早起き朝ごはん運動」なるものをはじめた。
この運動の元になったのが、「全国学力・学習状況調査」で、成績がよい子は朝ごはんを食べていることがわかったのである。

しかし、これは、「統計」における「因果関係」をひっくり返している、典型的な、やってはいけない「間違い」である。
こんな初歩的な間違いをしでかす、文部科学省が、「私学」という「私塾」に対して、余計なことをし、「助成金支給」で脅迫している。

医学生の出口には、厚生労働省が行う「医師国家試験」がある。

縦割り行政の、奇跡的な「メリット」がここにある。

「EPN」と「アジア安保枠構想」

ついに菅新政権初の外交相手として、アメリカのポンペオ国務長官が来日した。
「ついに」というのは、7月にアメリカの対中戦略を変更したと公言して、世界を驚かせて、双方の当事国があの手この手で味方につける競争を開始したから、「コウモリ君」では「ついに」すまされない事態がやってきた、という意味である。

しかしながら、「コウモリ君」ではなくて、確信的に親中の幹事長が与党にいるから、政府と与党が「股裂き」になることが予想される。
それで、アメリカは政府の息のかかっているシンクタンクの「研究レポート」として、安倍前政権での首相秘書官だったひとと一緒に、「名指し」するという先手を打っている。

この「一手」に対して、わが国は、名指しされた秘書官を内閣官房参与に横滑りさせ、さらには共同通信で「執拗な安倍政権批判」を繰り広げた、論説副委員長を「首相補佐官」とする、ウルトラC級の人事技を二連発で立て続けに披露した。

また、一方で、昨日書いたように、韓国に「安全保障上の問題」として、「輸出管理規制強化」の説明をしないのと同じ説明で、日本学術会議の人事を拒否しているから、「人事技」でいえば、こちらは、「従順」のウルトラC級をだしている。

はたして、「コウモリ君」をやり遂げて、このあとに続くあちら様の外務大臣を迎えるのか?
じつは、かなりの「正念場」なのである。

「戦略の変更」を公言している相手に、戦後このかたの「従来通り」で対処しようという魂胆がなんだか透けて見えるけど、こうした「変化」に対応できないのが「官僚制」の特徴なので、政治家と官僚の内輪のバトルがどうなっているのか?も、アメリカにはじっくり読まれるのだろう。

来日早々、さっそく、ポンペオ氏は、大技の一手を打ってきた。
アジア安保枠の構想を披露したのである。
ヨーロッパには、かつてのソ連圏に対抗した「NATO」が、いまでは「ロシア」をにらんで健在である。

日米印豪の4カ国外相があつまって、「クアッド」だという程度のはなしではない。
どこまで事前に知らされていたものか?
3国の外相に驚いた様子がないのは、ポーカーフェイスなのか?

しかし、今年の6月に、アメリカはもっと先手を打っている。
それが、「EPN(経済繁栄ネットワーク)構想」である。
これはわが国では、「化学業界」の話題になってはいたが、初耳の方も多かろう。

この構想の狙いはズバリ、「グローバルな供給網の脱中国」なのである。
そこで、対象となる供給網とはなにか?をかんがえると、さいしょに思いつくのは、産業の米である「半導体」である。
ここにきてアメリカが、アメリカの技術をつかった生産方式でつくられた半導体の供給規制を開始したのは、この「構想」を「実施」しているからである。

さらに、トランプ氏は、「G7」とか「G20」ではなく、「G10」あるいは「G11」という国際協調の枠組み構想まで発言している。
もちろん、この「10カ国」あるいは「11カ国」のなかに中国はカウントされていない。

けれども、意外な国がカウントされている。
それが、「韓国」なのである。
彼の国民が、この構想に大喜びしていると伝えられているのは、「先進国」の中に入ったということである。

しかし、肝心の政府・あるいは政権は、先月の国連総会での「核放棄なき戦争終結」を突然発言したように、果たしてアメリカからの離脱を図っている。
つまり、「コウモリ君」ではなくて、あちら側に行くことを宣言したようなものだ。

トランプ氏が来月、再選を決めたなら、いきなり「米韓関係」が注目される。
その意味で、今回、国務長官の韓国訪問がキャンセルされた意味は、「深い」のだけれど、これは、わが国の地図上の立ち位置からも「大問題」である。

何のために、日清日露の両戦争で日本人が血を流したのか?が、振り出しに戻ってしまう大事態である。
つまり、わが国周辺の「流動化」が著しいのである。

アメリカが韓国を誘ったのは、サムソンの半導体を確保したいからであろう。
残念だけど、わが国がこの分野で直接誘われることはない。ただし、サムソンの技術はわが国の技術である。

そんなわけで、ものすごくダイナミックな戦略構想が立てられていて、これを着実に実行しているのがアメリカなのだ。
これを侮ってはいけない。

だから、わが国でいう「ウルトラC級」が、そのダイナミックさからすると、爪の垢ほどに見える。

アメリカ人の用意周到は、かの戦争でもそうであったように、相手を「雪隠詰め」まで追いつめることにある。

すると、次のダイナミックは「台湾承認」だ。
なんと、国民党がアメリカと国交回復せよと台湾議会に提案し、これが通過した。
ポンペオ氏は、もしや、今回の帰りがけに、台湾訪問というサプライズをやるかもしれない。

ちまいところでは、与党幹事長を検察が逮捕するという事態だってありうる。
アメリカに逆らった、二階氏の師匠、田中角栄氏がどうなったかを忘れたわけではあるまい。

おビックリは続く。

もしや「輸出管理規制強化」だった?

政府とは行政府のことをいうから、もともと事務的なのが当然だけれど、それでも「今回」の政府の対応がなんだかすごく「事務的」なのである。

今もつづく韓国へのフッ化水素などの輸出管理規制強化をはじめたときと、まったくおなじ用語が使われている。
当初、あちら側は、勝手に「経済制裁」だといいだしたけれど、わが国政府の説明は、韓国政府による重要物資の輸出入管理事務ができていない、ということを理由に、日本側からの管理強化をするにすぎないとした。

軍事転用できる物資の、輸入量と使用量が合わず、韓国国内での貯蔵をしていないなら、必然的に第三国への輸出(密輸になる)が行われていることが疑われる。
この疑問についての政府間での問い合わせに、返答をしない、という態度をとられれば、せめて書類審査を強化するのは当然だろう。

なぜなら、下手をすると製造元のわが国が攻撃されることだってありうるから、自動的に安全保障上の問題になるのだ。
これを放置して、本当に被害を被ったら、わが国はずいぶん「間抜け」なことになってしまうのだ。

冒頭の「今回」とは、日本学術会議の人事についてである。
総理が「法律に基づいて厳粛に対応している」としか説明しないのは、どこかで聞いたことがある言い回しではないか。

いま、世界情勢は「米中の闘い」の最中なのである。
アメリカ合衆国の議会は、与野党とも「反共」を露わにしている。
何度も書いたように、アメリカ合衆国という国は、わが国と違って三権分立しているから、政府よりも議会が主導権を握っている。

わが国の、政府が主導して国会が従属するという姿は、ぜんぜん民主主義の本分とは違うのだ。
だから、わが国の勘違いは、あたかも「トランプ政権が」といいたくなるのだ。

そうではなくて、議会からトランプ政権が「やれ」と命令されているのである。

そのトランプ氏が感染した。
「もしも」をかんがえれば、副大統領が政権を引き継ぐけれど、投票まであと一ヶ月を考慮すると、その「もしも」のタイミング次第で共和党大統領候補がペンス氏となれば、副大統領候補を立てなければならない事態となる。

ちなみに、アメリカの副大統領は、「閑職」というイメージがあるけれどそんなことはなく、上院議長を兼務する。
もし、副大統領「にも」もしもがあれば、下院議長が大統領職を引き継ぐのである。すると、トランプ氏を弾劾した「民主党のペロシ氏」となる。

国務長官を筆頭とする、「閣僚」に大統領職のお鉢が回って、序列が決まっているのではない。
もしものときに、閣僚から総理を決めるわが国とは根本的に制度が違う。
大統領の両脇に、上下両院の「議長」が控えとしての順位を確保しているのは、「選挙」の重みと「議会の優先」が思想にあるからである。

数々の対中締め上げ法案が通過している議会にあって、当然だが「同盟国」にも「要請せよ」と政権に命令するのは必然である。
これを、「外交」として実行しているのが、国務長官なのである。
そのポンペオ氏が、本日6日、来日する。

どのような「調整」が、事前に日米の政府間でおこなわれているのかしらないけれど、「日本学術会議の人事」が、ちょうどよい「見せしめ」になったのは果たして偶然なのか?

「学問の自由」を盾にして、政府に原案通りの任命を要求しているし、任命拒否の理由を説明せよ、と迫るのは、本稿冒頭の韓国の例によく似ているのである。

しかして、この「学術会議」は、数度も「軍事研究を禁止する」と決議していて、およそ「学問の自由」を自ら放棄している組織である。
それが、「特別職の国家公務員」なのだ。
さりげなく、官房長官がこの組織の「予算内訳」を発表した意味はなにかをかんがえればよい。

現在の科学技術は、もはや「軍事と民生」を区別できない。
わが国を代表する叡智の集団が、これをしらないはずはない。
すなわち、もはや「特定政治団体」なのである。
しかも、人民解放軍の下部組織である、あちらの科学団体との「提携」を文書で結んでいて、留学生受け入れを積極化しているのだ。

もちろん、こうしてやってくる留学生の「身元確認」など、するはずがない。
軍や党に籍を置くかどうかにかかわらず、「学問の自由」を優先させる。
すなわち、日本国を挙げて軍事転用できる「知識」を輸出しているのだ。
つまり、これは、「知識の敵国への輸出管理規制強化」の意思表明なのである。

特定国の留学生にビザを出さない、という方法ではなく、教師側に制裁を課す、うまい方法だ。

一部の学者たちは、すでにSNSをつうじて、「単なる左翼の政治団体」であると批判している。
また、元職の「議長」がその肩書きをつかって、共産党の街宣車で選挙応援をやっている画像までネット上には公開されている。

つまるところ、どうにもならない集団なのである。
しかし、こんな下世話なひとたちが、文部科学省の国家プロジェクト計画を、事実上決める権限をもっている。

学術会議も文部科学省も、廃止の方向で決定されるのが望ましい。

研究予算を思うままにする横暴をやめさせれば、少なくても、民間の研究が盛んになるという効果を期待できる。
国民福祉に貢献するという「学術会議」の目的は、消滅してこそ達成できるのだ。

まさに、オルテガ・イ・ガセットが指摘した「大衆」がここにいる。
彼がいう「大衆」とは、一般人のことではなく、堕落した「専門家たち」を指すのである。