自由圏の台湾と共産圏の日本

今年はわが国に大きな影響がある、外国の選挙が目白押しである。
まずは、先週の台湾総統選挙。
3月2日には、イスラエル国会議員選挙。
4月15日は、韓国の国会総選挙。
9月は香港の立法議会選挙。(ほんとうにやるのか?)
そして、11月はアメリカ合衆国大統領選挙だ。
この間、イランの国会議員選挙も予定にあるが、どうなるものか?

桜のシーズンには、中国の国家主席が韓国と日本にやってきて、わが国では「国賓」ということになっている。
現代のレッドチームの親玉を、「国賓」とする感覚が、そもそも「尺度」が狂っている証拠である。

1991年8月29日をもって「ソ連体制」は崩壊した。
この4ヶ月前の4月、ソ連の最高指導者として「初来日」したゴルバチョフ大統領が「国賓」だったけど、その前の年に、「冷戦の終結・中距離核戦力全廃条約調印・ペレストロイカ」などを理由に、「ノーベル平和賞」を受賞していた。

今回のひとには、ゴルバチョフ氏のような実績が「ない」ばかりか、非民主化・人権弾圧という実績だけはある。

年が明けて、アメリカ合衆国大統領選挙の「予想」がかまびすしくなってきたが、再選をめざす現職に対する民主党の候補者がきまっていない。
相手がわからないから、現職は「シャドー・ボクシング」状態だ。

すでに「逆神」ともいえるのがわが国マスコミの論調だから、真逆にとらえれば、「正解」になるのだろうが、党内候補がせめぎあう状態では、どうにもならない。

しかし、たいへんおもしろい現象があって、わが国のマスコミが「押す」、民主党内にあっても「極左」とよばれるふたり、サンダース氏とウォーレン氏が表明している「政策」が、わが国政権与党のすすめる政策と「おなじ」である、という事実である。

むかしあった「計算尺」のように、わが国の「保守」の目盛りは、アメリカでは「極左」の目盛りと一致するのだ。
すなわち、この計算結果は「社会主義」に結論づけられるので、なるほどそれで彼のひとが「国賓」なのだ。

すると、わが国野党の目盛りは、アメリカの左目盛りからはみだしてしまって「計算不能」だ。これを「共産主義」とすれば、野党再編に共産党がからむ構図とただしく一致する。

その「日本共産党」は、あちらの共産党とは「ちがう」として、人権弾圧をはげしく批判している。
そんなわけで、党名の変更をかんがえないといけなくなってきた。
左に力をこめたら、ぐるっとまわって、右に接触したようである。

しかし、共産党は共産党で、じぶんたちを「保守」しているから、こうなるのだろう。
それに対して、なんといっても「問題」なのは、政権与党の「左翼性」である。とうとう自民党は、じぶんたちがなにを「保守」するのかもわからなくなった。

「自由」でも「民主」でもないから、こちらも党名を変えるとよい。
候補として、「社会党」とか「進歩党」とか、あるいは「中国共産党日本支部」とか。
そうなれば、築地にある新聞社がよろこんで「機関紙」を印刷してくれる。

その場その場の「浮き草人生」をずっとやっていたら、流れるところに流れついて、とうとうドブの縁で腐り出した。
その意味で、日韓はなかよくレッドチームの親玉を迎えることで、類似性をあらわにした。

けれども、むかしのよき日本のような「根性」をみせたのが台湾で、はっきりと「自由圏」の選択をした意義はおおきいし、極東の端に位置するわが国を護ってくれたことに、感謝しなければならない。
わが国にやってくる重要物資は、ほとんどが台湾海峡を通過してくるのだ。

なんのためにアメリカの現政権が貿易戦争を開始して、なんのために香港デモを支援して、なんのために台湾支援の立法をしているのか?
くわえて、イランのデモにまで支援表明をしているのだ。

とはいえ、3月のイスラエルの国会選挙で、はたしてどんな結果がでるのか?
中東のモザイク状になっている地図が、変化するのかしないのか?
面倒なのは、このエリアには、国境の地図と民族の地図がことなることにある。

ユダヤに対するアラブとペルシャの三つ巴だけでなく、クルドというひとたちがかぶっているからである。
これに、ロシアとトルコがいて、資源ほしさの中国もいる。
何度も書くが、アメリカはこの地域の資源を必要としなくなっているから、わが国にとって、かつてなく「やばい」のである。

つまり、とっくに状況がかわってしまった。
石油を確保するための「手段」のなかに、「シーレーン防衛」をやらねばならぬことが、いやおうにも必要になったのだ。
これは、日本人の暮らしにとって重大な変化だ。

箸にも棒にもかからない、環境対策なる国家的ムダ・ロスを即刻やめて、空母機動部隊を複数編制用意する必要がある。
本土防衛ではなく「シーレーン防衛」という、過去の米軍の代替だ。

しかし、奴隷根性から抜けない自民党の政治家たちにできるのは、レッドチームの親玉に頭をさげることしかない。
だが、野党への期待は、破滅を意味する。

わが国で、いつ、台湾のような民主政治がはじまるのだろうか?
抑圧を皮膚で感じないといけないとしても、あんがい早いかもしれない。

台湾の民進党さんにお世話になって、「日本民進党」を創立するうごきがあっていい。

どや顔でニュース解説の噴飯

新年会で知人宅を久しぶりに訪問した。
この家のリビングには、巨大なテレビがあって、つけっぱなしだから、いつの間にかテレビ好きの生活になったようである。

大相撲をジックリ観るのは何年ぶりかも思い出せない。
若貴時代がなつかしい。
けれども、時代をつくった横綱が、そろって角界から消えたのはおどろきとしかいえない。

神前への奉納をもってはじまりとするものが、いつからか「スポーツ」になって競技として一般化・国際化してしまった。
「興行」が、「試合」になったから、「稽古」が、「練習」になった。

2008年に財団法人の法律がかわって、国家による財団法人への権限を強化した「公益」財団法人が制度化された。
その見返りが、「非課税」という「優遇措置」である。

プロ集団だから、お金に目がくらむのは理解できるが、法人の転換を機に「株式会社」にしなかったのが痛恨である。
うまいこと、主務官庁の文部科学省という役人集団の餌食にされた。
こうして、国家が仕切る「パンとサーカス」の典型例になったのだった。

電源をきらず、チャンネルもそのままでいたら、ニュース解説の番組がはじまった。
「これでわかった!」という番組名を、じぶんでつけるのだから、よほど自信があるのか、あるいは安い参考書のまねなのか?

いや、そうではなく、「エセ科学」番組だけれど、なぜか長寿の「ためしてナントか」と、発想がにているのは、おなじテレビ局だからと納得した。
これが、わが国を「衰退」させる一因になっている公共放送のおぞましさだ。

GHQの統治方針を、「独立」してなお遵守しているのは、わが国自体が「エセ独立国」だという証拠でもある。
「日本人を骨抜きにする」という方針で70年間も貫かれたら、みごとに骨抜きされた。

大相撲が、スポーツの看板をおろせなくなったように、公共放送局も「骨抜き」をやめられない。
どちらも、じぶんの「意志」ではどうにもできない「仕組み」になっているからだろう。

なので、わが家はテレビを必要としないだけでなく、「有害」という結論をえて「排除」した。
かならず、「脳」に悪影響をあたえるのがテレビ放送である。
ニュースも天気予報も観ないとはずいぶん前に書いた。
「5G」の電磁波が脳に悪いというのは「うそ」だが、テレビは「本当」だ。

そんなわけで、なにがはじまるのか?という「期待」は、どのくらい「脳」に悪いのか?という意味の「期待」である。

解説のニュースは、イラン問題であった。
観ていて、おもわず微笑んでしまったから、知人は怪訝な顔をした。
べつにどこも「変」ではないような「解説」を、真顔で、しかも「ためして」のように「どや顔」でしているからだ。

けれども、その論理構成は「印象操作」そのもので、米軍に殺害された「司令官」の大規模葬儀に焦点をあて、いかに国民的英雄だったか?をまずは「擦り込む」のである。
たいへんな数のひとたちが道路を埋めて、男性は雄叫び、女性は泣いている。

「嘆き」についての国民性として、中東地域では、日本では能登地方以外あまりみかけない、葬儀屋の職区分がある。これが、「泣き女」だ。アジアにはあんがいとこの文化がある。

すなわち、あのような政治体制の国にあって、「政府主導」の「(強制)動員」ということを真っ先にうたがう必要があるものを、ストレートに放送するばかりか、これを現地「政府の意図」どおり「解説」するとは、笑いがとまらない。

しかも、ご丁寧に特派員が衛星生出演して、それらしいことをしゃべっている。現地にいながら、現地のなにを「取材」したのか?さっぱりわからないから、衛星使用料がムダである。
もしや、ペルシャ語ができないのではないか?

ところが、さすが公共放送はしたたかで、そうやって擦り込んでおきながら、こんどは話題を旅客機の誤射撃墜事件に転換させる。
はじめ政府は関与を否定していたが、一転して大統領が「謝罪」した。

「否定」が「謝罪」になったことで、政府の「うそ」を糾弾するデモとなった。
そして、このデモが変容して、体制転覆のデモにまでなっている。
あきらかに、香港のデモの影響がここにもある。
さらに、あろうことか、このひとたちは街に掲示されている「英雄」の写真を引きずり降ろしているのである。

はたして、擦り込んだ「英雄」はどうなっているのか?を解説「しない」という「確信的手抜かり」をやりとげて、なんだか悪いのはアメリカで、やっぱり「トランプ」だといわんばかりの印象操作をするのだ。

そのトランプ大統領は、イランのデモ隊を支持するツイッターをだしていて、政府との対立を「当然」としているのだ。
それでも、彼らは中東から米軍がいなくなることを望んでいると、まるで他人事のように「解説」するのは、もはや「ビョーキ」である。

アメリカはシェールオイルのおかげで、純石油輸出国になっている。
だから、自国中心のエゴを丸出しにすれば、国内に引きこもるのが合理的だから、日本の公共放送がいう中東のひとたちの望みは、アメリカ自身の望みにもなっている。

しかし、そんなことをしたら、中東の石油に依存する「同盟国」が立ち行かない。力の空白を「露・中」が狙っているからである。
依存の筆頭がわが国で、とうとう自衛隊の派遣までしないといけなくなったのは、アメリがが引いているからだ。

それで、戦争に巻きこまれるから、中東への派遣はいかがかと、またまた無茶をいう。
ならば、9割の石油を中東に依存するわが国に、石油がこなくなってもいいのか?

そしたら、電気ができなくなって、テレビも観られなくなるから、このテレビ局のひとたちはどうするのだろう?
「天に唾する」とはこのことだ。
どういう神経から、こんなことを真顔でしかも、ドヤ顔でいえるのか?

まったくなっちゃいない番組を、ボーッとして観ていれば、やっぱり「脳」が冒される。
期待をぜったいに裏切らないのが「公共放送」である。
民営化論もあるけれど、「不要」として「廃止」すべきだ。

必要論の中心は「災害」というけれど、東日本のときだって、ぜんぜん役になんか立っていない。

よいこは、けっしてみてはいけないよ。

「辞世」を詠めるか?

すこし遅れてか?とおもわれるむきもあろうけど、このブログの読者なら「旧暦」をときどき思いだすことに慣れてもいるだろう。
一昨日の8日は、旧暦で12月14日。
318年前の「討ち入りの日」なのである。

それにちなんで、東映創立10周年記念作品でもある、1961年『赤穂浪士』を観た。数ある「忠臣蔵」でこれにしたのは、わたしが生まれてちょうど二週間目に公開の作品だからだ。
もちろん、当人には知る由もないし、記憶もない。

当時の映画会社は、俳優陣も「専属」だったから、周年記念作品として、「オールスター・キャスト」であるのは当然として、そのスケールは「スペクタクル映画」なみなのである。
「CG」がない時代に、おそるべき数のエキストラが、はるか遠くまでちゃんと衣装をまとっている。

本物の建物も、まだぜんぜん排気ガスにさらされていないから、むかしのすがたで凛として建っている。
なによりも、俳優たちの演技が、「全盛期」らしいかがやきで、その深みにひたすら感心するばかりだ。

もはや、いまの俳優にはまねできまい。
「4K」とか「8K」とかが、浮き上がってむなしく、ばかばかしくなるのは、映像機器の進歩に逆比例して、かんじんの俳優がいなくなったことを確認できてしまうからだ。

このときの「作り手」たちは、まさか60年近く経ったら、「退化」するなんて想像もしなかっただろう。
ましてや、娯楽映画のはずが、二度とつくれやしないことだけでなく、教科書あるいは資料レベルになっているのだ。

それにしても、出演者それぞれが「主役」をはれる実力者でありながら、たとえ端役であろうとも、おそるべき演技の競演をやっている。
どこにも手抜きがないのは、「鍛錬」ということにしか集約しない。
げに、赤穂事件そのもののドラマ性が、端役を端役にさせないのだろう。

歌舞伎における忠臣蔵は、京都から帰る高校二年の修学旅行で、親、親戚からもらった小遣いをつかわずに、そのまま歌舞伎座へ行って、11月顔見世大歌舞伎の「昼の部」、しかも大枚はたいて「A席」の前売り購入したのをおぼえている。

ほんとうは、「通し」で「夜の部」も観たかったが、なにしろ高校生には資金がなかった。
4階の「大向こう」という案は、思いつかなかったのである。

それから幾日かして、はじめての歌舞伎座は、周辺の年寄りたちが「せんべい」をかじりながら観ていた。
袋の音とポリポリかみ砕く音が、なんともいえない「芝居小屋」にしていたが、500円でかりた音声ガイドのおかげで、イライラすることはなかった。ただし、「A席」でこれかよ、という感想はわすれない。

幸四郎あらため白鸚の高師直、梅幸の塩冶判官、勘三郎の大星由良助。ちなみに、当時の勘九郎は大星力弥で、親子を親子が演じた。
しかも、「昼の部」最後の、お軽・勘平の東海道戸塚の場面は、梅幸のお軽、勘三郎の勘平という二役だった。

いまからすれば、夢のような舞台であった。
つくづく「夜の部」がうらまれる。

吉田茂の「ワンマン道路」といわれた横浜新道には、さいきんまで松並木がのこっていたが、あたらしいインターチェンジの工事であっけなく撤去された。歴史はこうして、「忘却」されるのか。
この東京よりの歩道には、「お軽・勘平の碑」がいまでも建っている。

地元商店街と歌舞伎役者が協力して建立したとある。
いい時代があった。
きっと落成式には、有名役者たちも参列したはずだ。
ここを通るたびに、梅幸のお軽と勘三郎の勘平が、並木のあいだから踊りながら出てくる気がいまでもするし、想像してしまうのだ。

さて、映画にもどれば、吉良上野介は月形龍之介、浅野内匠頭は大川橋蔵、大石内蔵助は片岡千恵蔵、千坂兵部が市川右太衛門。
清水一角が近衛十四郎、大石主税は松方弘樹の親子である。

大川橋蔵演じる浅野内匠頭の悲壮感。
これは、銭形平次とはまったく別人である。

刃傷事件後、即日切腹となる浅野内匠頭。
しかして、事ここに至ってなお、辞世を詠む。
かんがえる時間はいかほどか?

風さそふ花よりも猶ほ
    我はまた春の名残をいかにとかせん

無念である。
岩手県一関市が、浅野内匠頭お預けになった田村家の領地である。
市立博物館には田村家文書が多数保管されていて、そこに浅野内匠頭の関連もある。
しかし、残念ながら「辞世」についての記録がどこにもない。

「忠臣蔵」じたい、事件後70年の「作品」なので、史実と装飾がまじっていることは否めない。
じっさいに、「辞世」は「なかった」にしても、おおくのひとが「ある」と信じたのは、たんに「願望」だけではあるまい。

あたかも「真実」として「辞世」が伝えられているのは、当時のひとたちの「教養」がいかほどであったかの「常識」がないとすぐさま「嘘」になるからだ。

さてそれで、ものの数分で「辞世」が浮かぶか?
いや、それよりも、そもそもふだんからにして「歌を詠める」か?
漢詩にしても、和歌にしても、そんなことはできない。
恥じるべきは、才能以前の教養のなさである。

究極の「終活」とは、後世に残る「辞世」を詠むことではなかろうか?
ならば、すぐには死ねない。

極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人

四十七士にひとり多いのは主君をいれるからである。
これは、「本物」、大石内蔵助の辞世、享年45歳。

江戸湊の大根祭り

ことしは七草に、浅草七福神をめぐることにした。
江戸にはいくつも「七福神めぐり」があるから、これを「めぐる」と、「なつかしさ」もあじわえる。

谷中七福神、日本橋七福神、隅田川七福神(向島七福神)、亀戸七福神、深川七福神、下谷七福神、柴又七福神、元祖山手七福神、新宿山ノ手七福神、荏原七福神、池上七福神、浅草名所七福神
これだけで12七福神。

有名どころは、ほかに14七福神があって、全部で26あるから、二廻りするだけで52年かかる。
上記の12だけだって、5回廻れば「還暦」とおなじだ。
そんなわけで、ことしは「浅草名所七福神」を巡ってきた。

このコースは、七福神なのに九カ所の寺院を巡るのが特徴だ。
「福禄寿」がダブってと「寿老人」、「寿老神」という微妙なちがいがあるのだが、他の七福神にはない「名所」の文字に意味がある。

江戸幕府開府前の「江戸」は、埋めたて前、ということになるので、もともと陸地だった浅草の土地には、ながい歴史がきざまれている。
このことが、千代田区、中央区という幕府以来、現代までの中心が「海だった」ので、七福神を巡るコースもないことをしめしている。

どこからはじめようが勝手だが、なにしろわたしは横浜スタートで、交通の便と「徒歩」にて「歩く」を基本とする(ようは運動不足解消を意識している)ので、JR馬喰町駅下車をもってスタートとし、まず向かうのは河童橋の「矢先稲荷神社」である。

浅草寺が大黒天、境内の浅草神社(三社様)は恵比寿さんが祀られている。
ここからちょっと歩いて、言問橋の北側にある「待乳山」は、「待乳山聖天」(本龍院)で、「大根祭り」をやっていた。

HPによる大根の意味は、身体を丈夫にして、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合をご加護頂ける功徳を表す、とある。
聖天様とは十一面観音菩薩が大聖歓喜天に姿をかえて鎮座されている。七福神では、「毘沙門天」が聖天様をお守りしている。

ビタミン不足になりがちな冬場、大根が重宝されたのだろう。
ふしぎと傷んだ大根を食べても、食あたりしない、から「あたらない」をもって「大根役者」というのは、おみごとな表現だ。

参拝をすると、社殿のよこで大根を全員にもれなく一本いただけて、さらに境内では茹でた大根にゆず味噌をかけてふるまっていた。
御神酒までもふるまわれていたので、なんだか一年分の「御利益」を使い果たした気にもなった。

なぜかわたしは、ゆずの香り=お正月、という連想を瞬間にする習慣がある。
熱々の大根にゆず味噌とは、まさに「お正月」そのもので、じつに幸せな心持ちになった。

山積みされている大根の箱には「三浦市農協」とある。
三浦産の大根だが、「三浦大根」ではない。
むかしは「練馬大根」だったかもしれないとおもったが、混雑する境内で質問にこたえてくれそうな相手を見つけられなかった。

「三浦大根」は、1979年の台風で壊滅し、その後は数軒の農家でしか栽培されない貴重な品種になってしまった。一時は三軒程度の農家が守っていたが、さいきんになって復活のきざしがある。
「幻」が「名物」にもどってきた。

いまは、ただ「大根」といえば、「青首大根」のことをいう。
もとは愛知県清須市の名物だったというから、織田信長も食したのだろうか?
こちらは、病気に強い品種に改良されて、民間の種苗会社が仕切っている。

待乳山聖天のおとなり、待乳山聖天公園の入口には、「池波正太郎生誕記念の碑」があって、顔写真も金属板に刻印されている。
なるほど、『梅庵シリーズ』で事件解決のあとにかならず「うまいもの」を肴に一杯やる場面があるが、なかでも「風呂吹き大根」が記憶にのこるのはこのためか。

誕生地にちなんだ、作家渾身の「食レポ」表現だったとすれば、妙に納得できる。
「筆の力」で喰わせるのが「池波流」で、池波正太郎が通った店をずいぶん訪ねてはみたものの、なぜかわたしには、どうもピンとこなかったことがおおい。

いま「食レポ」させたら、ばつぐんはイラン・イラク戦争の戦災孤児「サヘル・ローズ」だろう。
皆殺しの村に、ボランティアで救助活動をしていた、テヘラン大学の女学生が、がれきの下からの泣き声を聞きつけて救助に成功し、そのまま彼女が「お母さん」になった。

テヘランの名家である実家はこれを許さず「勘当」されて、日本に留学していた友人をたよって来日し、とうとう町の公園のトンネル遊具のしたで暮らしていたという。
それを見かねた近所のひとたちがふたりの生活をおおいに助けたというから、よほど「きちんとしていた」のだろう。

御利益は、じぶんのなかから生まれてくる。

イランもはげしいインフレで、反政府デモがおおきくなった矢先の「事件」が年始早々におきた。
純石油輸出国になったアメリカは、中東の石油を必要としない状況にあって、石油を売らないと生きていけないイランには、たいへん不利だ。

いまだに中東の石油がないと生きていけないわれわれに、新年早々の「不吉」がやってきた。

こればかりは、神頼みとはいかない。

ダイエットとモンテスキューの名言

「近代法学」の父とも、「三権分立」をとなえてフランス革命に影響をおよぼしたとも、とにかく有名なひとである。
ルソーとならび評されることがおおいが、ルソーとはちがって「保守主義」のひとともいわれている。

いまは読売新聞のグループ企業になった、中央公論(新)社が、1966年から76年の10年間にかけて刊行した全81巻のシリーズ『世界の名著』にも当然ながら一巻がある。
残念ながら、このシリーズも例によって「絶版」となっているから、古書での入手のみとなっている。

よくよく出版の時期をみれば、わが国が発展をとげている最中で、それは「知識」も一般に開放されて発展していた時代だとわかる。

「48作」でギネス入りした、渥美清主演のご存じ『男はつらいよ』が、この正月に50周年50作目として上映されている。
さてそれで、前田吟演じるところの「博(ひろし)」が若かりしころ、つまり、第一作が69年の夏にスタートしているから、彼の愛読する『世界』とあいまって、『世界の名著』シリーズも販売されていたのである。

このシリーズの想定読者が、「博」のような境遇のひとたちだったと想像するのは、「戦後」を引きずっていたからで、まだまだ「集団就職」の時代だったし、集団で就職したひとたちのふるい世代の生活がだんだん落ち着いてきた時期であるとかんがえるからである。

おそらく、大学という「学府」において、『世界の名著』がおかれた位置は、「専門」ということからしたら、きっと「一段下」におかれていたにちがいない。
「象牙の塔」とはそういうものだ。

だから、「独学の徒」を対象とするのがふつうだが、こんなシリーズを出版したからには、「売れる」と見込んだからで、全部に10年を要することができたのも、「売れていた」から中断されなかったともかんがえられる。

市井のひとが教養人であることは、じつはすごいことだ。
このシリーズを購入していたのが、30歳ぐらいだったとすると、とっくに80歳をこえている。
「なるほど」と気づかされる世代だ。

そんなわけで、ここでいいたいダイエットにまつわる「モンテスキューの名言」とは、

「過度な食事制限で健康を保つことは、やっかいな病気といえる。」

である。
現代人で、耳の痛いひともいるだろう。

いわゆる、食事はバランスが大切、という現代の価値観にも通じそうだが、いった本人はフランス人である。
むしろ、食べたいものを食べろ、に聞こえる。

モンテスキューが亡くなった年に生まれた、美食の大家、ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランの『美味礼賛』では、料理をいかにたくさん食べることができるのか?の研究成果として「コース料理」の合理性がかたられている。
それもそのはずで、本のタイトルを直訳すれば『味覚の生理学』なのである。

 

しかして、糖尿病の悪化による様々な合併症に苦しんで亡くなった「太陽王」ルイ十五世と時代をともにし、革命の嵐も体験したひとの「研究」として、はたしていかがなものなのか?
彼は革命を支持しながらも、自身の首にも賞金がかかって亡命する。

現代の「栄養学」が、サヴァランの時代から発展したのはまちがいない。
けれども、食品成分の変化という現実とくみあわせると、後手後手になることは否めない。

食品の成分をきめるのは、おもに農業であって、その農業は「土壌」を基盤として成立している。
だから、「土壌が弱る」と、必然的に、食品のなかの成分が「薄くなる」のである。

あるはずの栄養がない。

はたして、「バランスのよい食事」の「バランス」とはなにか?
これを達成するのは、あんがいむづかしい問題なのである。

それに、「人間はパンのみに生きるにあらず」という「格言」もあるとおり、動物としての生存のための「食事」と、「人生の意味」を加味した「食事」とでは、まるで価値がちがう。
比較にならない。

だから、モンテスキューの名言は生きている。

すると、現代の栄養士や医師がいう「ダイエットのすすめ」のもとになっている「メタボ」ってなんなんだ?
血圧だって、基準値がどんどんさがっているから、むかしなら「正常」のひとが、いまなら「高血圧症」という病気にされて自動的に降圧剤が処方され、一生にわたる消費がはじまる。

眠れないと訴えれば、すぐに睡眠剤を処方してくれるけど、なんだか老人の痴呆症を発症させているようにもみえる。

よくよくおもえば、どれもがぜんぶ「対処療法」で、高血圧症という病気を治療していないし、眠れない症状だからムリに眠らせるだけなのだ。

これでは「機械論」である。

「現代」そのものが病んでいる。

ウィンドウズのサポート終了

毎年おもう、新年はやくも今日は七草。
あと一週間、14日で旧バージョンのウィンドウズOSのサポートが終了する。

当該パソコンが継続して「使えなくなる」ことはないけれど、セキュリティ対策等のサービスが終了するから、ネットに接続してつかうなら、バージョンアップさせないと危険にさらされることを「承知」だとみなされることになる。

ならば、ネットに接続してつかわなければ放置でもかまわない。しかし、いまどきのアプリケーション・ソフトは、ほとんどがネットを介したダウンロード方式で提供されているので、なかなか「単独」での利用には制限がある。

便利なアプリケーション・ソフトほど、頻繁にバージョンアップがおこなわれている。
面倒でも、期限まで「無料」のうちに新ウィンドウズに更新したほうが「得」である。

マイクロソフト社は、当初、「無料」で配付する期間をさだめていたが、とっくにその期間はすぎてしまった。
なのに、いまだに「無料」配付しているのは、世界にある「億」単位の台数のうち、更新していないものが多数あるからにちがいない。

国境をこえて、おどろくほどのパソコンが稼働している。

はたして、このうち、ネットに接続しているのが何台あって、接続していないのが何台あるのか?
これを、マイクロソフト社は「把握」しているということだ。

とにかく、ハード的な「環境」をととのえることに関してだけは、素早いという特徴をもつわが国では、パソコンをネットにつなげるための通信「環境」では、いちおういまは世界的な評価をされている。「5G」だって、「環境」はなんとかするのだろう。
一種の「公共事業」だから、社会主義体制では得意分野なのである。

けれども、パソコンを「つかう」ということに関しては、世界制覇できたソフトウェアをつくることはできなかった。
それは、そもそもパソコンをうごかすための「OS」しかり、このうえでうごくアプリケーション・ソフトしかりである。

唯一の例外は、ゲーム分野である。

そして、とうとう、日本製のパソコン自体が世の中にない、ことになった。
心臓部とも頭脳部ともいう「CPU」が、日本製ではないから、組立場所をしめすしかない。

これら、まずいことになった理由は、そのほとんどが「国家依存」に由来する。
民間事業に補助金をだして、法学部の役人が口までだすから、ことごとく「失敗」した。

なのに、この「失敗」を民間のせいにして、ぜんぜん反省しないひとたちが出世までするようになっている。
役所の昇格制度は、「成果」ではなく「公務員試験」できまっているからである。「汚職」さえしなければいいのだ。

ならば、民間企業はどうやって役所と縁切りができるのか?
この方法がない、のである。
なぜなら、あらゆる手段をつかって、当該企業いじめをするからである。

その意味で、やくざよりも恐ろしいのが役人なのである。
このひとたちは、きっと学校で天才的な手法による「いじめ」をまなんでいたにちがいない。

キーワードは「合法」ということに集約される。
非合法を旨とするやくざよりも恐ろしい根拠がこれだ。
けれども、唯一の弱点が「国内」という枠がある。
こうして、役人天国のわが国は必然的に「鎖国」をすることになっている。

もちろん、役所のパソコンだって、サポート終了になったらこまる。
けれども、かれらがこまらないのは、マイクロソフト社という「指定業者」が、「かってに」、「まっさきに」面倒をみてくれるので、余計なことはかんがえなくていいのだ。

それで、古いパソコンはあたらしく買い換えましょう、と提案されれば、予算計上すればいい。
「業務に支障をきたす」という理由であれば、いいのである。

世界企業のマイクロソフト社からしたら、こういうのを「上客」という。
ただし、かれらの活動範囲は地球規模なので、「サポート」ということばの意味が国内ローカルとはちがうのだ。

そんなわけで、今年はオリンピック・イヤーで、役人がいうように外国人観光客が大挙してやってくるかはしらないが、外国人が持ちこむ端末に規制がかけられない。
わが国の「電波法」では、わが国の電波をつかう端末には「技適(技術基準適合)」がなされたものしか許されない。

ところが、世界各国からやってくるひとたちの所持する端末が、あらかじめわが国のローカル・ルールに適合してつくられているとかんがえるほうがどうかしている。
こうして、外国人適用除外の特例ができた。

マイクロソフト社の方法と、真逆なのである。

ふだん、「もはや国境の意味がなくなった」というひとが、こういうことをいわない。

けれども、マイクロソフト社の営業方針に、もはやだれも逆らえないのは、「法律」ではなくて、じぶんがこまるからである。
ほんとうは、法律もそうなっていないといけないのに、そうなっていない。

それで、ゴーン氏が逃げちゃったのだ。

あと一週間、まだのひとはちゃんと更新しないと「損」をしますぞ。

日本人は「ブレグジット」できない

今日は6日の月曜日。
カレンダーとはいえ、暮れからこんなに長い正月休みは、めったになかった。明日はもう七草である。
おおくの企業は、本日から始動する。

昨年末の英国総選挙で、ブレグジットをかかげる保守党が歴史的圧勝をはたした。
これは、逆にブレグジットに反対する労働党の歴史的敗北でもある。

さいしょは「冗談」だとおもわれて、わが国では「やっちゃったよ(笑)」と報道されたし、その後の「国民投票」でも、ブレグジット賛成派が多数になることは「ない」といっていた。
その根拠は、「経済」における「不利」という「理論」一辺倒だったことが記憶にあたらしい。

不都合な言い分についての攻撃はしても、予言がはずれたときの「謝罪文」や「反省文」をいっさい「掲載しない」のが、お気軽なわが国の「言論空間」である。
つまり、「言ったもん勝ち」の「言葉のたれながし」がゆるされている。

これは、国民がゆるしているのではなくて、報道する側の都合でそうなっているだけなのだが、こんなことをしても、国民が「ブーイング」をしないし、購読や視聴をやめないので、報道する側が安心しているのである。
つまり、かたちのうえで、国民がゆるしていることになっている。

どうしたらわが国を「弱体化」できるのか?
これを研究・考慮した結果発案されて実行されたのが、「WGIP」(ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム)であった。

占領から独立してその後いまでも「有効」なのが、「放送コード」であるけれど、これは典型的な「WGIP」にふくまれていた。
新聞社や民放は、「売れない」と商売にならないから、ときに大衆に迎合する記事や番組をつくって販売計画を達成しようとする。

ところが、皮肉なことに、「WGIP」を踏襲して、日本弱体化をやっていたら、ほんとうに弱体化して、とうとう新聞の購読ができない家庭が続出してしまった。
それで、「しんぶん赤旗」や、もっと赤い「朝日新聞」の購読数が、損益分岐点をしたまわって、えらいことになっている。

新聞とテレビの経営を合体させたのは、田中角栄であった。
第一次岸改造内閣での郵政大臣時代のことである。
A級戦犯だった岸が、総理にまでなれたのは、CIAのエージェントになる「契約」をしたからである。
東条英機の刑が執行された翌日のことであった。

すなわち、岸は死をまえに「転向」した。東条の死の意味はここにある。
満州国で、理想的な社会主義を達成した頭脳と実行力を、アメリカの指導下でもって本国でやったのは、基本「弱体化」の文脈のなかでみないといけない。

日本人を「エコノミック・アニマル」へと「改造」したのである。
「アメリカに追いつけ、追い越せ」というスローガンなぞ、「当時」聞いたことがない。
なんどもくり返し放送されて、「夢」のように「記憶に定着」させ、とうとう戦後日本復活の「神話」になったのは、後出しじゃんけんとおなじだ。これをふつう「洗脳」という。

最優先すべきは「経済繁栄」であって、それ以外ない。
この思想が、古来、国を滅ぼすのである。
古代カルタゴの滅亡が、その典型である。
しかし、そんなことを戦後の日本人に想起させてはならない。

中学や高校の「世界史」で、ローマをおしえるがカルタゴはおしえない。
そのローマが滅んだのを、ぜんぶ「ゲルマン人の大移動」のせいにしておしえるが、なぜ大移動したのかおしえない。

しかも、人類史上最大のモンゴル帝国をおしえない。
アジアを支配したのは、悪辣なわが国だけだとおしえるためである。

戦後、わが国での「保守」とは、「WGIP」を実行する勢力のことを意味する。
「経済」よりも重要な「価値」があるのだとはいわないし、いったところで「ロマン」にすぎない美談にとどめる。

ついに、「WGIP」が、完成にちかづいた。
戦前のわが国の「価値観」をしるひとたちが、物故していなくなったからである。

そんなわけで、イギリス人が、ちゃんと意識して「ブレグジット」をしたい、というのが信じられない国民になったのだ。
EUとの貿易額を「計算」すれば、かならずイギリス人たちは「損」をするのだ、とうたがわない。

「損」をしてまで守りたい「精神」があることを、理解できない。

しかしながら、イギリスにはかつて「ゆりかごから墓場まで」を「正義」としていた時代があった。
これをそっくりまねっこしたのが、戦後の日本である。
「英国病」の病原菌が強力になって伝染し「日本病」を発病した。

このなごりがイギリス社会保障制度にある。
EUにとどまると、とめどもない「移民」がやってくる。
これを防止できないのは、EU本部が割り当てる数を拒否できないからだ。EU加盟の条件がそうなっている。

「移民」に社会保障制度の財源がとられてしまう。

「精神」と「経済」が、ブレグジットを決意させている。

日本はすでに「移民大国」になったが、社会保障制度の財源が「消費税」だという欺瞞に、欺瞞だとも気づかない。
飢えたタコが、じぶんの足をたべている。
これに、「精神」もないのだから、いわれるままなのである。

1970年、奥村チヨのヒット曲『恋の奴隷』ならまだしも、経済の奴隷になりはてた。

だから、日本人にはブレグジットはぜったいにできない。

なつかしい「メカ」の時代

いまはしらないが、むかしの自動車学校では「構造」という課目があった。
これに、「学科」と「技能」があったから、おおきく三課目あったのだ。

「構造」は、エンジンの構造からシャフトの構造、それから駆動の構造が基本で、これに電気系統の説明をうけた。
電気プラグが発火しなければ、ガソリンエンジンは動かない。
それで、冬場の朝の始動時に活躍する「チョーク」の操作方法もならった。

技能でとにかく慣れる必要があるのが、クラッチペダルの操作で、坂道発進の「半クラッチ」ができなくて、教習車を空ぶかししたり、エンストさせた経験はどなたにもあったはずだ。

いまはクラッチ操作を要するマニュアル車には、マニアしか乗らないだろうが、ヨーロッパでレンタカーを申し込むと、オートマ車のはずがマニュアル車しかないので難儀する。
慣れたころに返すことになるのが、やや心残りではある。

ディーゼルエンジンの乗用車はめずらしかったけど、ガソリンエンジンとのちがいぐらいはおしえてくれた。
電気プラグを必要とせず、燃料の圧縮によって自然発火させるディーゼルエンジンの構造の単純さは、それゆえ、より頑強さを要求するのだと。

まだまだ女性ドライバーがめずらしく、「構造」を苦手とする女性がおおかったのも、学校での「家庭科」が、男女別だったこともあるだろう。
男子は木工やら花壇やらラジオ製作やらと、いまでいう「DIY」を授業でやって、おなじ時間に女子は裁縫や料理をしていた。

「中卒」で就職するなごりもあったけれど、高校に進学しないで、裁縫学校にいった女子もいた。
当時、横浜には有名は洋裁学校があって、校名に「洋裁」とあったけど、校内には「和裁科」もあったのをしっている。

近所のおばさんがこの学校をでていて、「ほんとうは和裁のほうが専門なんだけど」といいながら、洋裁もずいぶんな数の主婦たちにおしえていた。そのなかのひとりが、わたしの母だった。
母はいつも「あのひとはあそこの洋裁学校出だからすごい腕前で、わたしなんかぜんぜんかなわない」といっていたから覚えている。

それでかとおもうが、小学生のとき、浴衣をつくってくれたのは、この「専門」の先生にならったにちがいない。
母親同士も仲がいい同級生たちと、浴衣で盆踊りや夏祭りの夜店にでかけたのは、きっと「集団指導」があったのだ。

だから、中学の同学年の女の子が数名、この学校にいくことが、なんだかうらやましくもあった。
きっと「すごい」着物やら洋服を、じぶんでつくれるようになるのだろう。

男子であるわたしのほうは、物好きなともだちと、彼の家の近所にあったちいさな材料屋さんで基盤のかけらと溶剤を買って、電気屋さんにもらったトランジスタや抵抗、コンデンサをハンダ付けして、ラジオをつくっていた。

自作のお風呂の水張りブザーは、それなりに便利だったのが自慢だ。

部品が「エレクトロニクス」でも、組立だから「メカ」同然。
小型の万力もあった自室が実験室になっていた。

生活のまわりに、メカがたくさんあったから、なにしろこれを「分解」するのがたのしいのである。
しかし、かならずもとに戻せない。
なので、商店街の電気屋さんにはずいぶんかよった。

大学にはいったころに、電気屋さんのおじさんが、うちの従業員になってくれるかと期待していたといわれたことがある。
冗談のようないいかただったが、もう、本心をたしかめるすべをうしなってしまった。

エレクトロニクスとメカニクスを合体させたのが「メカトロニクス」だけれども、このことばもあまり聴かなくなったのはどうしたことだろう。

工業のひとたちのなかにおさまっていて、そとに出てこなくなったのか?
サービス業のひとたちが、とてつもない恩恵をうけているのに、ぜんぜん他人事のままなのも解せない。

口ではじぶんたちが「最先端」をいくとはいうけれど、サービス業のひとたちは、そのどこが「最先端」なのかをいわない。
まさか「接客」という「接頭辞」を略しているだけではあるまい。

「接客最先端」に「最先端」をどうしたいのか?どうあってほしいのか?

ほんとうにかんがえているのだろうか?

宿の経営者が、「なぜか」をつけていうのが、客室のテレビやエアコンが同じ時期に一斉にこわれるから、出費がかさんでこまるという。
けれども、それが「日本品質」なのだ。

「品質」が「一定」でブレやバラツキがないから、一斉にあたらしく入れ替えたものが一斉に寿命をむかえる。
だから、経営として「予定」しなければならないのに、それをただ怠っているだけである。

「メカ」の時代からのメーカー努力が、いまだに理解できないのは、いったいどういう経営をしているのか?以前に、ユーザーとしておかしくないか?

どうして「年末」に、家庭の蛍光灯をぜんぶ交換するのか?
メーカーが、だいたい「一年」をもって寿命としているからである。
けれど、これをムリに伸ばすと「経済性が落ちる」ことも理由である。
それは、メーカーの手間という意味だけでなく、その分を負担するユーザーの「経済性」を考慮しているのだ。

切れるまで交換しないというのでは「目にわるい」。ひかりの波長に目に見えないノイズがはいるからだ。
いまどき、直管なら100均で買えるから、ちゃんと交換するのがユーザーにも合理的だ。

30年前の「餅つき器」が現役なのは、毎年末だけしかつかわないので、稼働したのがたったの30回だからではない。
空気には「酸素」という「酸」がふくまれていて、これが樹脂などの酸に弱い材料をかならず劣化させる。

それでも動いているのは、いまよりはるかに「良質」な材料をつかって、わざと「長持ち」という「品質」をつくっていたのである。
日本メーカーだとしても、中国工場だからわるいのではない。
むかしが、よすぎたのでもあり、いまは、「良質」より「コスト」を重視してつくっているから、やっぱり「わざと」である。

中国の安い人件費をもとめて工場移転したが、材料も安くした。
人件費が高くなった中国から別の国に移転するなら、こんどは浮いた分で高い材料をまかなえば、おどろきの「品質」で提供できることになるから、世界の消費者によいことだ。

はたして、ことしもサービス業界は、ほんとうにユーザーのことを第一としてかんがえ、行動することができるのか?
どんなサービスをつくるのか?

なんだか「オリンピック」「パラリンピック」がうらめしい。

『蚤とり侍』の名セリフ

「寝正月」をきめこんだら、本でも読むのがまっとうなのだろうが、それでは「夫婦の時間」にならないから、なにか観ようかとなった。
もちろんテレビではない。ましてや、地上波を観ることは、そもそも発想にない。

アメリカからやってきた、巨大EC会社が提供するサービスに、有料会員なら無料で観られる「映画」などのコンテンツがある。
この会社には「頭脳が豊富」にあるため、世界でほとんど課税されないという問題があるものの、それは課税当局の問題で、もはや各国の「国民のしったこと」ではない。

どちらさまの行政も、国民が求めることではなくて、行政の都合で施策をうつばかりだから、とうの国民たちが、なるべく税金を払いたくないとかんがえるのは「世界共通」になっている。

21世紀は「国民国家」の「国民」と「国家」が分裂する世紀になったから、「国民国家」として大戦争をくり返した20世紀は「遠くになりにけり」なのである。

だから、行政当局のたちばから、「おかしい」とか「不公平」だとかいうのは、たんなる原稿料ほしさからの言動だろう。
むしろ、じぶんが盗られていることに対する、「嫉妬」というほうが適当だ。

そんなわけで、めんどうなはなしは横にして、さてなにを観ようかということになった。
こまるのは「選択肢」が「おおすぎる」からだ。
人間はせいぜい「五択」までを限度とする。

日本料理屋の、「松」、「竹」、「梅」という「三択」は、シンプルかつ理想的な選択肢を客にあたえている。
たいがいが、圧倒的に「竹」が売れて、そのつぎの「松」か「梅」か?が経営の上手・下手をきめる。

「松」がいい、「梅」がダメ、ということではない。
客層からと、経営者の希望からとの組合せで、どちらを「優先」して売りたいか?をかんがえるか、かんがえないかでちがいになるのである。

かんがえるひとが「上手」になって、かんがえないひとが「下手」になるだけだ。
もちろん、「松」、「梅」ともに両方が、売れなくてよい「犠牲商品」になってもいいし、してもいい。

「竹」しか売らないなら、「松」や「梅」をメニューにのせるのは「ムダ」だとするのは、行政がやる道の駅とかにある食堂のことで、売れないけど「選択肢」をあたえ、客がじぶんで「選んだ」という行為をさせてあげる「効果」が、どんなに貴重かをしらないからである。

「松」、「竹」、「梅」には、巧妙なしかけがかくされているのだが、かんがえないひとは、たんなる「選択肢」としてのメニュー設定にするから、ぜんぶが「売れなくなる」のである。

これをむかしは、「武士の商法」といって、本業の商人からわらわれたものだ。

そこで、いまならコレと、「リコメンド」が用意されている。
下手な抵抗をせずに、すなおに「したがう」ことにして「選んだ」のが、『蚤とり侍』だった。
2018年の作品で「無料」だから、より「あたらしい」と感じる。けれども、夫婦で作品の存在を「しらなかった」のも「選択理由」である。

将軍というトップがおなじ家からの「世襲制」なのに、老中という実権者がかわると、政策が激変することに不思議がなかったころのはなしだが、これはいまもおなじに不思議がないのが一般的だから、なかなか「おもしろい」。

もちろん、当時のことにいまも不思議がないのではなくて、政権党がおなじなのに、政策が激変することを不思議におもわないことをいいたいのである。
この意味で、江戸時代のひとたちから、われわれは「進化」しているのだろうか?

ときは「田沼時代」。
田沼といえば賄賂だが、堂々と要求し、これを受け取っているのは、「武士」の本領発揮ともいえる。
そういえば、池波正太郎の筆は、『剣客商売』で田沼贔屓だった。

小説の主人公、秋山小兵衛は、当時現役歌舞伎役者の中村又五郎をモデルにする。その中村又五郎が演じた「本物」の秋山小兵衛は、フジテレビ「時代劇スペシャル」で、二作品「だけ」がある。
テレビが光っていた時代であったが、役者も揃っていた時代であった。

はたして、われわれ夫婦には事前情報が皆無の映画なので、なにがはじまるのか、とんと見当がつかない。
すごいキャストたちが、すごいことをやっている。
まさかいまよりあからさまな、江戸の「ホスト」はなしとは。

しかし、だからといって「ポルノ」にならないのは、直線的思考をする欧米人にはできない「技」だろう。
「R15+」にはなっているけど、「R18+」にしなかった理由はなにか?

サブストーリーに、父親が脱藩させられた、極貧の若い浪人が、貧乏長屋の子どもたちに無料で読み書きをおしえている。
このひとが病気になったとき、主人公が口にするセリフが、

カネをのこすのは三流
ものをのこすのは二流
ひとをのこすのは一流

である。
「名をのこす」と「事業をのこす」のが二流、というパターンもある。
どうやら「出典」は、後藤新平の「名言」なので、時代考証としてこのセリフは成立しない。

名言だから、これがひとり歩きするのは結構なことだけど、いまの財界人にいかほどの感覚があるものか?
げに、三流ばかりなり。

しかし、後藤新平の「周辺」には、あやしいひとたちがたくさんいる。
この「ひと」たちを、のこしてしまったのは、後藤新平の「闇」なのか?それとも、「時代」だったのか?

ふしぎな映画を観たものだ。

5000万円以上の住宅購入で移民可能

あちらで入手した「パンフレット」をみせてもらった。
おおきく「移民」という字があるけれど、あちらの漢字の意味とこちらの漢字の意味がおなじかどうかはしらない。
たぶんおなじだとおもう。

ぜんぶ見なれない略した漢字でかいてあるから、なんだかわからないけど、わが国のどこかに、5000万円以上する住宅を購入すると、そのまま「移民できる」とあるらしい。

入管法が昨年にかわって、くわしくどうなったのかについてしらなかったが、なんだかすごいことになっちゃっている。

正式に「移民」の受け入れ人数はおおくないと思い込んでいる。
けれども、なにが「正式」なのかを横におけば、たしかに日常生活であちらの一家に遭遇する機会がふえた。
もちろん、旅行客ということではなく、「生活者」という意味である。

不動産売買は、わが国ではだれでもできるが、あちらの国ではぜんぶが「国有地」なので、「売買は不可能」だ。
そんなわけで、ぜんぶが「賃借契約」となる。

国家間だと、「相互主義」というのがあって、相手と当方の「相互」でおなじでないといけないのが、外交に関するジュネーブ条約の精神である。

それで、あちらの国に設置しているわが国の大使館不動産の土地はどうなっているのかといえば、やっぱり「賃借」だ。
けれども、わが国の首都にある大使館も、その他領事館も、なぜか「売買」されているから、あちらの「領土の一部」になっている。

まことに「相互主義ではない」ことが、とっくにおきている。

だから、あちらの国民がお金でわが国の不動産を「売買」で購入できても、わが国の国民があちらの不動産を「賃借」するしかないことに文句はいえない。
もちろん、「賃借」だって、すきな場所を借りられることを意味しない。

そんなわけで、あちらの国民がわが国の居住用不動産を一定額以上購入すれば、そのまま「移住できる」というのは「特権」だともいえるけど、あちらの国民からすれば、ぜんぜん「特権」ではなくて、ふつうの「権利」になったのだ。

なぜなら、わが国の国民が、あちらに移住しようとおもわないからである。

カジノの汚職問題ででてきたのが、贈賄側の企業が想定した「客層」とは、あちらの「富裕層」をメインとしていることだった。
たしかに、あちらの「富裕層」は、こちらの「富裕層」より人数がおおくて(おそらく一億人ぐらい)、所有資産もあちらのほうがたくさんある。

すると、あちらの富裕層の満足を得るには、まずは言語の壁を撤去しないといけないから、あちらの労働者を呼び込むことがひつようだ。
それで、だいたい1万人程度従業員向けの「住宅地」が開発計画に付随していた。

家族を呼べば、たちまち4万人の街ができる。

候補地の地方都市なら、垂涎の的となる「人口増」が約束される。
もちろん、これで税収もふえるから、役所がさかえることは間違いない。
それに、あたらしくつくるあちら向けの住宅地だから、既存の住民との文化的対立も回避できるのは、画期的な計画案だ。

このストリーの注目点は、富裕層の量と質の双方で、わが国を凌駕してしてしまったことにある。
たった30年でこうなったのだ。

逆にいえば、たった30年でわが国は富裕層まで衰退した。

あちらは、政治に自由がないが、経済を自由にした。
こちらは、政治に自由があるようにみせて、経済も統制した。
30年前のあちらは、政治に自由がなくて、経済も統制したから貧乏だった。

こうして比較すれば、わが国のまちがいが簡単にみえてくる。

政治に自由だけでなく、なによりも経済を政府の統制から自由にさせればいいのである。

それにしても、どうやって5000万円以上ものお金をわが国に持ちこんで不動産を購入するのだろうか?
空っぽの家では暮らせないから、家具や備品を買わないといけない。

世帯数をこえる新築住宅供給は、こうして「移民」という受け皿があったとは。

陰の内閣総理大臣は、鳩山由紀夫氏にちがいない。
冗談でないのは、「民主党時代」の政策が、安倍自民党政権で、より一層ブラッシュアップしているからである。

民主党は解体されたようにみえるが、じつは自民党が民主党に「脱皮」していた、という顛末だ。

日本において日本人が少数民族になるのは、予想よりはるかにはやいかもしれない。