「無能」を暴露した病気

ようやく本日25日、首都圏でも「自粛解除」となりそうである。
あらためて、今後ふりかえるべきことを書いておこうとおもう。

人類史における「厄災」のなかで、「世界的な病気」といえば、やっぱり「ペスト」である。今回の「自粛」期間で、ベストセラーになったのが、カミュ『ペスト』であった。
しかし、この病気は、何度もやってくるので、一回ではなかったということはしっておきたい。

一回だけで、文明が滅ぼされたのは、南米大陸における「マヤ」だし、これによって古代からつづいたというアステカやインカ帝国も滅亡した。
ヨーロッパ人がもたらした、「天然痘」に、これらの人びとがまったく免疫をもっていなかったからである。

つまるところ、ヨーロッパ人(スペインとポルトガル)による、新大陸=このばあいは南アメリカ大陸の「征服」とは、たった数百人が所持した「銃」よりも、かれらもしらずに持ちこんだ「細菌」によってしてやられたのである。

けれども、当時、「細菌」であろうが「ウィルス」であろうが、そんなものの存在をしっている人類はいなかった。
コッホによる「発見」は、1876年。
征服者ピサロのスペイン出航は1531年である。

だから、征服者たちだって、目の前にいるひとたちが、バタバタ死んでいくさまを見て、「キリスト教の神の御業」だとおもったのはまちがいない。
なぜなら、キリスト教徒である、征服者たちには、なんの厄もおきないからである。

では、「ペスト」となるとどうだろう。
以下は、村上陽一郎『ペスト大流行』(1983年、岩波新書)による。

そもそも「ペスト」という単語は、「悪疫」という意味でしかない。
紀元前5世紀に書かれたという、古代ギリシャの歴史的資料にある「アテネのペスト」は、今日では、「天然痘」だとみられている。

人類の記録で最初のペストは、やっぱり「聖書」にある。
『サムエル記Ⅰ』5,6章、「契約の箱」にまつわるエピソードに「腫物」と「ねずみ」が登場する。
時代は、おそらく紀元前11世紀ごろのことだと推定できる。

町が滅亡するほどの病気を、「神の御業」として解釈する。
すなわち、大きな厄災を、神の怒り、人間の堕落に対する神の警告とみなす習慣ができていた。

世界的大流行=「パンデミック」の記録の初出は、西暦5世紀から6世紀に書かれた、プロコピオス『ペルシャ戦記史』にある。
人間の活動が、「世界」に広がって、つながっていたことの証拠でもある。

もちろん、ペスト菌を媒介する「クマネズミ(の蚤)」も、人間と一緒に行動して「つながっていた」いたという意味でもある。
J・L・クラウズリー=トンプソンの『歴史を変えた昆虫たち』(思索社)には、1727年にロシアのヴォルガ河をドブネズミの巨大な集団が次々に西に向かって泳ぎ渡っている、との目撃談がある。

これによって、西側からクマネズミが撃退された。
ドブネズミは、クマネズミほど人間の生活との重なり合いや交渉が「濃密」ではないため、これ以降、ドブネズミが主たる場所でペストも減少したという。

そんなわけで、パンデミックとしては、14世紀中世のヨーロッパ社会における事態が、生活記録が残る最初のものとなっている。
しかし、あまりも犠牲が大きかった。
人口統計がない時代のなか、推定で7千万人もの死者だったとかんがえられる。

当時の人口が1億人と推定されているから、生き残ったひとが3割というのは、実態として「廃村」になった地域が多数あったという意味でもある。

ヨーロッパ中世の経済社会は、「前期資本」という、まだ「資本主義ではない」時代であった。
つまり、冒険や掠奪、詐欺すらも「当然」の経済行為とされる。
そこで、生きのこったひとたちが、誰もいなくなった場所からの財産を継承する、ということによる「成金バブル」まで発生する。

表層では、農民の人口が激減したため、労賃が上昇する、という減少がおきて、自身の耕作地を農民に分与しながら維持するという、貴族にとっては終末的な事態にもなる。
これで、「荘園制」は崩壊し、「労賃」が労働者をつくった。

しかして、流行中の文化としては、廃退と宗教的厳格さが同居する。
明日をも知れぬ命と覚悟すれば、全財産を使い果たして「この世の春」を謳歌してから死にたいというタイプと、にわかに神への忠誠を誓って、せめてもの望みとして「天国」にいきたいというタイプになった。

前者の典型にして傑作が、ボッカチオの『デカメロン』だ。
そして、後者はユダヤ人狩りをはじめる。
それは、あたかも「自粛警察」のごとくである。

では、前者は?
パチンコに列なした人びとをいうのだとすれば、自粛警察にしてもパチンコにしても、じつにちんけなのだ。

クマネズミがインフルエンザ・ウィルスで、ドブネズミがコロナ・ウィルスだとすれば、すっかりインフルエンザが撃退されて、コロナと共存すれば、インフルエンザが減少するということに気がついた。

それで、死者数が半減した今シーズンの「風邪」だから、起きたのは人間社会の「パニック」だけだった。

ヨーロッパ人は、なんの役にもたたなかった古代からの伝統医学の無能を見限って、ついでに教会の無能も見限った。
そしてこれが、ルネサンスの爆発を準備して、近代となったのだ。

果たしてわが国は、なにを準備したのだろうか?

ナラティブ情報もない

「ナラティブ」とは、「語り」のことである。
これを、医学用語として通用させると、「病気の経験を語る」という意味になる。

その病気になると、どんな症状になるのか?
じつは、本人ならわかるが、他人にはわからないのだ。

たとえば、「痛み」。
本人の「痛み」は、他人にはそれが伝わらないので、本当はわからないものだ。
では、どうしたらその痛みを理解するかといえば、自分のこれまでの人生から似たような経験をもって「他人の痛みを追体験」する、つまり「思いだして」その痛みをやっと感じることができるのである。

すると、たとえば末期がんなどのばあい、専門医だって自分でその病状を経験したことはないから、患者本人にどういう状況なのかを語ってもらうことで、疑似体験するのである。

こうした、本人の体験をあつめて「データベース化」すると、患者の病状の進行度合いによって、これからどんなことが起きるのか?を、先輩患者の経験集から、いまの患者自身もしることができる。
事前に知識があることで、患者の心が落ち着くという効果まであるのだ。

なにを慌てているのかしらないが、今回の流行病(はやりやまい)について、こうしたナラティブ情報がほとんど公表されていない。

「予防対策」ではなくて、感染してからの「重篤化させないための対策」として、たいへん重要な情報なのに。
「感染した瞬間」は、だれにもわからない。
しかし、「症状」がでてきたら確かに自覚できる。

ならば、どんな「初期症状」なのか?
それからどうなるのか?
であれば、どんなことをすれば「軽症」で済むのか?
医療機関へはどういう状態になったら行くべきで、どんな状態なら自宅療養でよいのか?

素人判断してはいけないことはなにか?
自宅での、効果的な過ごし方はどんなことか?
もちろん、家族や同居人がいれば、そのひとたちの安全をどうやって防いだのか?

上記のような情報は、基本情報のはずなのに、果たしてどのくらいの国民がしっているのか?あるいは、しらないのか?
これは、中央政府や地方自治体の怠慢なのか?報道機関の怠慢なのか?それとも医師会の怠慢か?

ただ「自粛せよ」といって、今日はなんにんが「感染した」というだけの繰り返しでは、社会になんの役にも立たない。

感染したひとが発症して、これはまずいとおもったら医師のもとに行く。
そこで「診断」されて、はじめて「患者」になるのだが、それがふつうのコロナウィルスによるふつうの風邪なのか?それとも、うわさの新型なのか?も、「患者」になってはじめて「診断」されるのだ。

ましてや、医師の「診断」によって、「体調不良ですね」といわれれば、「患者」にもならない。

なんども書くが、「PCR検査」は、コロナウィルスを反応させるが、それが新型かどうかは「特定できない」のだ。
「陽性」だからといって、「新型だけ」に陽性なのではない。
だから、「感染者数」しか報道しないのは、あきらかになんらかの意図をもった報道だといえる。

活字媒体には「規制」はないが、電波放送媒体では、放送法第四条に違反する。
政府はこれを放置するのか?
ならば、あおられて被害をうけた国民は、どうすればよいのか?

活字媒体を代表する「新聞」と、電波放送媒体である「テレビ局」との「経営統合」を推進したのは、田中角栄郵政大臣であった。
全国紙と東京キー局のみならず、国家総動員法で各県に一社と規制されたままの、地方新聞社と地方テレビ局とを一緒にさせたのだ。

とっくに「戦後」ということばすら忘れかけている現在の「令和」時代に、国家総動員法が継続されたままの体制が残っている。

田中角栄の亡霊が、わが国をいまだに蝕んでいる。
マスコミは、田中角栄を「金権政治」と批判するが、本気で批判しないのは、自分に火の粉がかぶるからである。

なんだかわからないが、感染したことで病気を発症する。
このとき、まずは「怠い」という症状がでるのが、新型の特徴で、その後に、味覚や臭覚がわからなくなって、発熱するという。
よくある、風邪の諸症状なのだ。

ふつうの「風邪」に特効薬がないのも周知の通り。
なので、発症したらすぐにかかりつけ医に相談するとよい。

自粛が解除されるなか、ナラティブ情報もない。

住民のためになる情報提供をしない、という、この一貫性のなさこそが、いつまでもダラダラと続く理由なのである。

人体でワクチン開発実験

アメリカ人の凄みを感じるニュースである。

現在、世界で開発中という「COVID-19ワクチン」はWHOによれば200種以上といわれている。
しかし、なんといっても敵は時間である、と定めれば、最短の開発方法は「直接人体にCOVID-19を打つ」という乱暴な手段だ。

呼びかけ人は、元ニューヨーク州の企業弁護士、モリソンさん(34歳)で、すでに2万3000人の応募者があつまった。

具体的な方法は、開発中の各種「ワクチン」を打ってから、本物のウィルスを打って感染させ、それでどうなるか?を試すのだ。
年齢の差や持病、健康状態などの条件も加味するというから、「ちゃんとデータをとる」のはもちろんである。

あえて初歩をいえば、熱望される「ワクチン」とは、自分をわざと「感染者」にして、自己免疫によって発病させないことを目的としている「薬」のことである。
人類初の発見は、天然痘ワクチン(種痘)であった。

しかし、ワクチンが絶対なのか?という問題がおきていて、むしろその危険性を指摘する学者もいるし、「ワクチン忌避」という社会問題もある。
その典型が、副作用が怖いインフルエンザ・ワクチンで、わが国では1964年にはじまった訴訟が80年代までつづいていた。

こんなことから、「ワクチン先進国」といわれたわが国は、「リスクをとらない」という特性を発揮しだして、おなじく80年代から急速に腰が引け、とうとう「ワクチン後進国」という状態になっている。
学校で集団接種された世代からは、かんがえられないことがいまの「常識」になっているのである。

似た例には、業務用コンピューターの導入がある。
いまのパソコンどころか、30年前の「DOS」時代のパソコンでも、広大なオフィス空間を埋めたその20年前の業務用コンピューターよりはるかに小型化し、性能も向上したものだった。

つまり、巨大なキャビネットをならべたような機械がならんで、オープンリール磁気テープがグルグルまわっているのが当時のコンピューターで、メモリはたったの「2メガ」である。
そのすくないメモリのため、パンチカードというボール紙に穴をあけた紙を通して「入力」していた。

「夢の機械」といわれ、先進的な企業がこぞって導入した。
しかし、処理できる事務作業の効率よりも、あらたにできた「キーパンチャー(パンチカードをつくるひと)」というもっぱら女性職のほうをふやさざるをえず、導入した企業と採用されたひとたちのどちらさまも「挫折」したのだ。

こうして、「パソコン」が世の中にでたときに、おおくの先進的企業のなかでも、「挫折」経験のある企業ほど導入に慎重になって、後進企業の後塵を拝する事態となったのだ。
これを、資力による物量をもって、なにがなんでもパソコン導入にして「巻き返した」歴史がある。

羹(あつもの)にこりてなますを吹く

さてはいま、わが国でも「いよいよ」自粛解除というトレンドがうまれて、例によってどんな根拠か不明ながら、大都市がある関西で解除となった。
さらに、首都圏はもう少ししたら「解除の検討をする」という、どうみても「解除予告」がやっぱり根拠なく発表された。

ここでいう「根拠」とは、科学や医学にもとづくものをいう。
それに、優良企業なら、新規事業参入にあたっての意思決定だって、そのときに「撤退基準」をきめるのが「セオリー」という前提がある。

つまり、「自粛要請」のための「緊急事態宣言」をだすときに、同時に「終了宣言」をだす「基準」をセットで発表するのが「筋」というものにもかかわらず、これをしない日本政府は、優良企業の意思決定をしらないひとたちが運営しているのだと告白し、いま、それを「実践」している。ああ、「あの戦争」とおなじなのだ。

なんだかわからない「報道」らしき「パロディ」を連日やっている、わが国でいう報道機関は、言い値で発注してくれるおびただしい「政府広報」のおかげで収入源を確保している。
もはや、政府様々状態だろう。

なので、つぎは「ワクチンへの期待」をキャンペーンするだろう。
これさえあれば、「安心」だ、と。
したがって、「集団免疫」のことは「わるくいう」。

なんどもいうが、ウィルスは、「生物ではない」ので自己増殖ができない。
宿主の細胞に入りこんで増殖する。
だから、宿主が免疫というバリアーをもったとたん、収束するものなのだ。

そこでの「時間稼ぎ」が、人為による「自粛」という手段だ。
初期症状で治す薬と、免疫の抗体をつくる薬を開発するまでの「時間」のことである。
しかし、こんどは、経済活動がとまって、人為によって「命」が奪われかねない。

しかたがないから、「自粛解除」なのだ。

けれども、再生産数が最初から1を超えないわが国は、国民挙げて、なにをすべきでなにをしなくてよかったのかの「反省」をしないといけない。
でも、できない国なのである。80年前を嗤ってはいけない。

そうかんがえると、日本人で「実験に応募」したひとが何人なのかも気になるところだ。

政府まかせ・他人まかせが国是なのか?と。
いや、風(風邪)まかせなのである。

ウナギ稚魚の4倍豊漁

うなぎといえば「高い」になって久しいけれど、近年の高騰ぶりで、めったに食べられない贅沢品になってしまった。
その原因は、なんといっても「稚魚」の不漁だ。生態がはっきりしないうなぎは完全養殖にほど遠い。
「稚魚」をとってきて「養殖」するしかないのである。

「ニホンウナギ」の一生は、はるか南の太平洋で産卵されて、それから黒潮に乗って数千キロを泳ぎ抜き、今度は川に遡上して生活し、おとなになったらふたたび数千キロを、黒潮に逆らって産卵場へとむかうものだ。

こんなことをしらなくたって、ウナギを食べれば翌日には肌がしっとりする。
子どものときには気がつかなかったけど、「ウナギって効く」のがわかったときは、なんだか哀しかった。

キロ100万円もする「稚魚」の値段が報道されて、とにかく「採れない」ものは仕方がないとおもうしかなかったが、今度は豊漁だというから、結構なおはなしである。

けれども、どうして「稚魚」がいなくなったのか?もわからないままに、今度は豊漁だと聞いても、やっぱり「理由」がわからない。
ここが、問題なのだ。
ニシン大漁のニュースとかさなる。

前にも書いたが、わが国は、漁業における「資源管理」の後進国である。
発展途上国でもない。
ほとんどなにもしない、という現実が「後進国」で止まらせている。

目のまえにあるだけ獲る。
とりつくすまで獲るから、略奪的漁業といわれ、それを「日本式」と表現するのが、漁業先進国の北欧人の常識である。
70年代まで、かれらも「日本式」をやっていた。

とるだけとったらどうなるか?
魚が減る。
産まれる数より多く獲れば、まさかの「絶滅危惧種」になって、消費者が魚を食えなくなる前に、漁師の生活がたちいかない。

それで、「資源管理」と「割当制限」をやったのである。
わが国の資源管理とちがうのは、わが国が「国営」なのに対して、かれらは「民営」なのだ。
国の研究所ではなく、消費者も負担する仕組みの民間研究所が魚介資源の管理をすることで、「公平」ではなく「科学」を優先させた。

国の研究所がいけないのは、研究結果が「行政」にふくまれるから、漁港の公平さも考慮されて、結果的に「恣意的」になる。
消費者も負担する民間方式が選ばれたのは、「科学」からの事実と予測を優先させないと、消費者も漁師も食べられなくなるからである。

そんなわけで、わが国の略奪的漁業をやめさせるために、世界各国が協調してできたのが、「二百海里排他的経済水域」をさだめた「国連海洋法条約」(1974年)である。
12海里までの領海の外なら、日本漁船がごっそり漁をしても文句はいえなかったのが理不尽にみえたからである。

いつでもどこでも、日本はつねに「正義の国」である、とはぜんぜんいえないのだ。
当時の報道は、魚が食えなくなるという「自己中」の議論ばかりだったけど、これはいまだに進化していない。

飴と鞭の典型で、この条約によってわが国は、世界の漁場からしめだされるかわりに、広大な水域を含めることになって、世界8番目の面積をほこる「大国」となった。

おなじ基準でみれば、広大な大陸国家のはずの中国は、なんとニュージーランドより狭い、「10位」となるから、アジアの海をめぐる争いになるのである。

だから、「日本は極東の小さな島国」という概念はもう半世紀も前に「なくなった」のであって、むしろ「世界8位の広大な国」という事実をもって常識としないといけないのだ。

これだけの海域利権を独占できるかわりに、資源管理せよという義務が付随しているのに、これをしない日本政府は、かなり「腹黒い」と諸外国からみられていることも、国民はしっていていい。
海底の鉱物資源にいたっては、その「防衛問題」すら放置されている。

そんなわけで、ウナギの稚魚が安くなったからといって、すぐにぷっくりした成魚の「うな丼」の値段が下がるわけもなく、街から鰻屋の廃業がとまらない。
仕入れ値と調理技術をくわえた販売価格が、割に合わないからである。

外食や中食で食べているのは、食材だけではない。
スーパーの惣菜も、ファストフードであれ、伝統の鰻屋であれ、調理技術がないと提供できないことを、消費者がわすれる社会はほんとうの「消費社会」ではない。

そんな程度なのに「成熟社会」というのなら、北欧の消費者が半世紀前に決心したことはなんなのか?

後戻りできないことがある。
妙な「自粛」ではなく、ちゃんとした「自粛」、科学をもちいたことをする北欧人に学ぶべきである。

10年も前に流行った韓国ドラマ、『チャングムの誓い』の前半、疫病で宮中が大騒ぎになるシーンがある。
「風邪」とおぼしき疫病の過剰反応が、時代劇とあいまって仕立てられている。

いまの日本社会が、みごとなファンタジー・ドラマのチャングムの時代とおなじだとおもえば、もう一度観る価値もあるというものだ。

自分でかんがえる冷静さを失うと、こういうことになると教えてくれる。

「オバマ・ゲート」の報道

アメリカでいま大騒ぎなのは、伝染病のことよりも「オバマ・ゲート」になっているそうな。

「ゲート」がつく事件といえば、もう半世紀も前の「ウォーターゲート事件」がはじまりである。
当時のニクソン大統領が、再選を目指し圧勝した選挙で、敵対する民主党本部(ウォーターゲート・ビル内)に盗聴器を設置しようとしていたことが「大統領辞任」にまで発展した「大事件」である。

盗聴未遂だった当初、ニクソン大統領は「自身の関与を否定」したものの、その後、「しっていた」ということがわかってしまった。
大統領が嘘をついた、という一点で、アメリカ史上初の「辞任」という事態になったのだった。

これを機に、「疑惑」のことを「ゲート」をつけて報道されるようになったのである。
それで、今回の「オバマ・ゲート」とは、前大統領への「疑惑」という政治スキャンダルのことをいう。

どういうことが疑われているのか?というと、二期をつとめたオバマ氏の後任をえらぶ選挙で、まだ現職中のオバマ氏がFBIや国家情報局などの国家部局をつかって、敵対する共和党のトランプ候補をおとしめるよう指示していたのではないか?という「疑惑」である。

これは、トランプ氏が当選を決めて、「次期大統領」になってもつづけていて、さらにトランプ氏が大統領に就任直後からはじまった「ロシア・ゲート(疑惑)」もその一環であるという。
そして、これら一連の仕掛けに、いま民主党の大統領候補になった、当時のバイデン副大統領の名前もくわわっている。

つまり、かの「ウォーターゲート事件」と構造がそっくりで、かつ、より大規模な「正副大統領の犯罪」が、今度は民主党の側で問われているのである。
だから、大騒ぎにならないほうがおかしい。

民主党を支持する側は、根も葉もない「陰謀論」だとしてのキャンペーンを張っている。
それはそうで、根も葉も「ある」のだとしたら、政治的に即死級の問題だ。

そんなわけで、共和党の方は慎重で、かつ、確実な証拠をもって対処する方針だという。
熱狂はないが、パズルのピース集めが進んでいる。

アメリカ合衆国連邦政府の「行政」は、当局者たちの言動について「証拠を残す」ことも、「行政事務」として行われている。
わが国の国家行政で、これが揺らいだのは、財務省理財局の文書改ざん問題や、文部科学省の省内文書疑惑など、近年、その信頼は「信頼」とはいえなくなっている。

外資系の金融機関に勤務したわたしの経験でも、すべての社内でのやり取りは、リーマン・ショック前の当時では「メール」がつかわれていた。
隣席者との決めごとも、「メール」にしないといけない。

これは、社内サーバーの管理が徹底しているので、そのやり取りの記録がすべて残される、という、「証拠」をつくるためであった。
なので、ときたま、こんなやり取りでは「不十分です」という研修を、現物の文書をつかっておこなう、という「見せしめ」ともいえることをしていた。

今回の疑惑調査で、オバマ政権最後の日、大統領補佐官が「自分宛」にメールを発信していることが発覚した。
それは、この補佐官が出席した、大統領執務室内でのミーティング「議事録」をじぶんで書いたものであった。

つまりは、自身の無実の「アリバイ」をわざと政府サーバーに残すためではないか?
この直後、新政権が発足したから、この大統領補佐官も「官職」をうしなっている。
これと同時に、政府メールアドレスは無効となり、政府支給の端末も回収されるのは、日本のサラリーマンだっておなじだ。

支持者と政党組織ががっちりしている、アメリカ民主党は、いつだって大統領選挙を最初から有利のまま、「逃げ切る」のが勝利の方程式になっている。
対する共和党は、「途中逆転」が勝利の方程式である。

現職のトランプ氏再選が、州別調査で危ぶまれているから、これから夏と秋にかけての選挙終盤で、どんな「逆転」の「弾」をくりだすのか?は、想定内だったが、まさかの「オバマ・ゲート」とは、ということになっている。

前にも書いたが、波状攻撃として、「教育省廃止」が繰り出されるかも興味深い。

さては、極左の民主党候補と政策軸が一致する、わが安倍政権の、さらに「極」をいくわがマスコミは、書いたところで「陰謀論」がやっとだとして、「報道しない自由」を謳歌するのだろう。

「格差社会」とは、収入の差をいうのではない。
「情報の差」から「つくられるもの」なのである。

そして、情報格差を利用する政府は、情報弱者という国民を「痛めつける」ことで、その「やさしさ」をアピールするのだ。
スターリンや毛沢東がなにをしたか?
「自粛警察」こそが、紅衛兵の「造反有理」の実践だ。

「STAY HOME」のカードを掲げて、自分は街を闊歩する。

「9月入学」も「6月レジ袋の有料化」も、ただの風邪への過剰反応も、国民を痛めつけることによる、政府のマウンティング行動なのだ。
これを、放送利権を絶対化したいマスコミが追従している。

わが国で「オバマ・ゲート」は、リトマス紙になった。

夫婦げんかと自助論

国際結婚だから、ということ以外にも、夫婦のことは夫婦にしかわからない。
むかしから、「犬も食わない」といわれるのは、いまどきなら犬にも失礼だ。

本人がタレントという人気商売であるから、根ほり葉ほり聞き出されることも「仕事のうち」なのかもしれないけれど、コロナばかりのワイドショーに、絶好の話題を提供したことだけは事実である。

だからなんなんだ?

と白けて観れば、テレビの電波のムダ、観ている電気のムダに時間のムダもくわわって、なんら「ためになる」こともない。

わが国では「自粛」で、外国では「逮捕もともなう強制」だったことをいいことに、今後はわが国でも「外国とおなじ」にしたいとかんがえるむきもあんがい多数いる。
つまり、みずから望んで「不自由になりたい」という願望があるということだ。

果たして、わが国における「コロナ禍」は、病気としてみた場合、そんなに強烈な被害があったわけではない。
無論、お亡くなりになった方には無念だろうし、ご愁傷さまというしかないが、死因がほんとうに「コロナだけ」というひとがどのくらいいたのか?

別の病気があって、体力が減衰したところに打撃を受けたのが死因だとすれば、あえていうなら、末期癌のひとがピストルで撃たれたようなものでもある。
わたしの母も、脳梗塞の治療中、院内感染が直接原因となって死去してしまったのは、体力の減衰が著しかったからである。

つまり、「自粛」ができる国が、あえて「強制」を要するのか?と問えば、外国は、「自粛」ができないから「強制」なのであることに気づくわけだ。
それが、ウィルス被害の深刻度としてみたときに、「自粛」の国が軽く、「強制」の国が重いという結果にもなっている。

欧米の悲惨と比したときのわが国の「成功」が、しっくりこないのは、もっと筋道だった「台湾の成功」があるからだ。
これは、「SARS」の反省ができた国と、放置した国とのちがいであって、かなり「テクニカル」な準備が効いたかそうでなかったかに分類したほうがよいとかんがえる。

すなわち、わが国の被害が比較的すくないのは、わが国の国民の「日常的精神」が高かったからで、わが国の政府の「対策」が素晴らしかったということではなし、むしろ、「非科学」、「恣意的行為」が為政者やマスコミに目立ったことは、記憶にとめておきたい。

ただし、国民を絶賛できないことも確かで、上述の、「非科学」、「恣意的行為」に対しての批判もすくなったことがあげられる。
すなわち、このことが、「同調圧力」となって、「自粛警察」をつくったのである。

つまり、残念だが「一部に歪んでいる精神」が認められた。

これは、どこからやってくるものか?
日本人には、「歪んだ精神」がふつうにあるのか?それとも、一部のひとたち「だけ」の特徴なのか?
いや、これこそが「近代」の精神なのだろうか?

なぜこのような問いをするのか?といえば、人間は考える葦だからである。
人間行動は、他の動物とちがって、「かんがえる」ことをともなって「行動」する。だから、かんがえの根本にある「精神」が、ここ一番のときに運命を決するほどの重要性をもつのである。

わたしは、日本人と日本社会に自然発生する、「同調圧力」の根本にある「精神」が気になるのだ。

つまり、欧米社会には、「同調圧力」があまり出てこないゆえに「政府の強制」が必要なのであって、わが国では、政府の強制以前に「同調圧力」という「強制」が「自粛」に添加されているとかんがえられるのだ。
すると、こんな国民性の国で、政府に「強制」があたえられると、いったいどんなことになるのか?

まったくもって、おぞましいことになると想像できる。

ポスト・コロナ禍の議論にある、政府への「強制」の付与は、憲法違反という法理だけではなく、日本人の倫理から見直さないと、たいへん危険なことだとかんがえるのである。

そんなわけで、サミュエル・スマイルズの『自助論』を、いま、読むべきではないかと思えてならない。

せっかく政府がひとり10万円をくれるというから、夫婦でiPadを購入して、アップルペンシルでメモ書きをしながら読み進めるのもよかろうときめた。
電子書籍の読み方に、とっくに革命がおきている。

冒頭の「事件」は、日本人の夫人がDV被害者となっている。
なんなら、ふたりでiPadを購入して、『自助論』の読書メモを交互に読み合わせてみたらいかがだろうか?

とは、余計なお世話か?

しかして、メモの共有も、あるはふたりミーティングも、それぞれが端末を持っていれば、かんたんにできる時代なのである。

あぁ、「交換日記」がなつかしい。
固定電話と公衆電話しかない時代がうらめしい。

これも、コロナウィルスのお陰でわかった「現実」なのである。
ただし、高額な高速回線契約あってこそ、ではあるけれど。

あたらしい日常のアブノーマル

さいきんでは、政治用語に英語らしきモノが入り込むという、「流行」がある。
「ニュー・ノーマル」なのか?「あたらしい日常」なのか?
今年の「流行語大賞」に、どこまでランクインするかわからないが、ようは以前とはちがうという意味だから、「アブノーマル」をさす。

日本の学校でならう「歴史」の授業で、「歴史とは何か?」とか、「歴史を学ぶ意義」とかをならうことがない。
いきなり、「事件史」となって、年代暗記を強制される。

もちろん、「歴史の連続性」についても、ほとんど解説されないのは、戦前・戦中と戦後の「断絶」が「ほしい」からである。。

いまは刑務所に囚人としている、朴槿恵前大統領の名言に、「歴史を忘れた民族に未来はない」があった。このひとやこの国、あるいはその周辺国などからいわれるのか?という、「どの口でいう」はさておき、文言自体に文句はない。

その意味で、わが国も、そして、わが国の周辺国も、けっこう意図的に「歴史を忘れた民族」ばかりがあつまっている。
そんなわけで、どちらさまも「歴史的少子」という「共通点」をもっていて、「未来はない」ようなことになっている。

ウィルスのばあいは、「再生産数」で「1.0」を下回って「0.7」も下回ると、感染者が増えない、と判断されて待機命令を解除する「国際的常識」がある。ひとりの感染者がうつす相手が、ゼロコンマ状態になれば、どんどん減っていくからである。

人口のばあいは、「特殊出生率」といって、「2.1」を上回らないと人口はふえず、「1台」になったら人口は減るのは、男女ふたりから出生するからで、ネズミ算とおなじである。

世界で特殊出生率が最低なのは、「1」以下の「0.9」になった韓国だ。
だから、人口減少分野における、最先端はわが国ではない。
次が、台湾で、その次にわが国がランクインする。
中国の数字は、「よくわからない」ので、「欄外」だが、かなり「低い」ことは確実である。

すなわち、「未来がない」国々が、東アジアに集中している。
なお、「北」は、「飢饉」という別の理由が喫緊の問題になっている。

「人口」というのは、社会のボリュームを示すから、需要の大きさにもなる。
人口がふえるのに、「需要」に「供給」と「所得」が追いつかなければ、待っているのは「貧困」になる。物価が高騰するからである。

アジアや南米、それにアフリカの「貧困」は、このパターンだ。

一方、人口が減れば、「需要」も減るから、供給がおなじなら「デフレ」になる。
わが国周辺諸国は、今後「デフレ」の問題に直面することになっている。

しかし、人口が減る前からデフレになったわが国は、別の理由、「内外格差」のダムが決壊したからである。これに、金融政策で対応するというトンチンカンをずっとやっている。
これからは、人口減少のデフレも加算されるので、トンチンカンも加算される可能性が高い。

つまり、あたらしい日常は、「デフレ時代」という「平成時代」をつうじて、とっくにやってきている。
昭和60年代生まれから、それ以前の世代がしっている「好景気」を体感した国民は「いない」ので、いま30代半ばから若い世代と、その上の世代との感覚の違いは「決定的」なのだ。

すると、「バブル入社組」が50歳代に突入したいま、「景気回復」をいうときにイメージする「景気」とは、いったいなんのことをいうのか?
古い世代には「バブル前」の「昭和の好景気」にちがいないが、すでに「中堅」以下の若い世代には、「ちょっと、よくわかんない」が本音だろう。

現象としてこのことと似ているのが、わが国のウィルス「再生産数」の扱いである。
3月中旬(緊急事態宣言が出る前)に、「0.5」を下回っていた(上回ったことがない)から、国際常識とはかけ離れて、どうして日本が「緊急事態」なのかわからない、という問題がある。

まるで、「ファッション」の世界時流に乗り遅れまいとしただけだから、「けなげ」といえばけなげだが、発想が幼稚で単純である。

昨日、地方の39県で、緊急事態が「解除」されたが、例によって、意味不明の指標である「感染者数」がつかわれている。「専門家会議」は、週での新規感染者、人口10万人あたり0.5人を目安にするいう。

ウィルスによる感染症である、インフルエンザの場合は、「患者数」だ。
感染者数は計り知れない。それで週での新規患者数が40万人を超えて「注意報」、100万人を超えて「警報」をだしているのは、死者が1万人を超えるからだった。今回、「患者数」が発表されないのは、だれかに都合が悪いからにちがいない。

かくも「特別扱い」のコロナとは、社会が「アブノーマル」になったからである。

「社会不安」が政府の存在価値を高める一方、「将来不安」になって、少子を加速させる。

「歴史は哲学である」ということを忘れた民族は、滅亡する。
2千年続いたからといって、ただ続くことなどどこにも根拠はない。

哲学とは、人生を生きる意義である。

私たち日本人の哲学とはなんなのか?
他人ではなく、自分でかんがえることが必要となったのも、戦後価値では、「アブノーマル」なのである。

米国カジノ事業者撤退の衝撃

一兆円以上を投資する景気のいい話だった。

ラスベガスを本拠に置く世界最大のカジノ事業者、サンズが13日、突如日本への進出計画を撤回した。
「新型コロナウイルス禍」は「関係ない」とだけ発表し、「理由」の詳細は明らかにしていないと報道されている。

しかし、理由は容易に予想できる。
「投資額」に見合った「回収が困難」だと、判断したにちがいないからだ。
それは、日本政府が突きつけた「ライセンス期間」が10年では、不可能ということだ。

一般に、欧米投資家がかんがえる「投資期間」とは、長くて5年である。
しかし、一兆円の投資を計画する「IR」の建設期間は、はやくて5年かかる。
この間、収益は発生しないから、かれらにとっては「マイナス5年」という投資回収計算における設定をせざるを得ない。

すると、10年というライセンス設定では、「実質5年で回収」という条件に見えるのだろう。

日本政府との水面下での交渉において、ライセンス期間の「見直しもある」という政府側の発言が、より一層の「不信」を招いたともいわれているのは、「長くなる」ということよりも、恣意的に政府が介入することを「リスク」とみなしたにちがいないからである。

だったら、最初から「期限を見直す」として、契約上の期限を設定し直すべきだと主張するのが当然だからである。
しかし、日本政府はこれができない。
こういう「恣意的なやり方」が、役人支配の「セオリー」だからである。

すると、ここからわかるのは、「政府の計画」における、「事業者の利益」についての設定が、事実上なかった、ということである。
これぞ、「武士の商法」。
優秀な役人は、優秀なビジネスマンになりえないという法則そのものの証明である。

もちろん、撤退の理由はこれだけではないはずで、もっとも大きなリスクとは、上述の「政府の恣意的なやり方」だろう。
すなわち、事前に決めたことが決めたことにならない、ということだ。
これでは、「契約」にならない。

わが国における「契約」は、世界標準の「契約」とはちがうのだ。
その端的な例は、日本におけるたいがいの契約書の最終条項にいれる「双方が誠意をもって話し合うこととする」に象徴される。
つまり、この「条文だけ」しか、決めごとがないのである。

べつのいい方をすれば、この「条文」が、契約書全部の「エッセンス」になっている。
だから、さまざまな条文に書いた決めごとを、たとえ契約者のどちらかが破っても「誠意をもって話し合う」ことになる。

この話し合いの結果が「不調」になったとき「だけ」、裁判になるのだ。
「誠意がない」からである。
クレーマーがいう「誠意を見せろ」につながる概念で、わが国が「契約社会」ではないことを示す例になるのである。

欧米人との契約書には、「誠意をもって話し合う」という概念そのものが「ない」から、事細かく双方の権利義務が記述される。
どちらかが、この権利義務を怠る事実があれば、即裁判になるのはこのためだ。

もちろん、裁判所だって、日本のばあいは「よく話し合った結果ですか?」を前提とするのに対して、あちらは、条文の記述と事実の判断をする「だけ」だ。

この「文化の差」が、カジノで出た。

元気に手を挙げていた横浜市は、市長が「驚きはない」と、ポーカーフェースを決め込んだから、なかなかの「ギャンブラー」である。
それに、今回のことが、他の候補となる事業者にも影響をあたえるか?との質問に「想像もできない」とこたえている。

この市長は、大手民間事業会社の役員経験者との触れこみだったが、「女性枠」という性別における「優遇」でなっちゃったのではないか?とおもわざるをえない。
女性管理職比率とかを「目標値」にする不思議が優先される国ゆえの「利得者」のひとりなのかもしれない。

そして、国の「ポチ」として、あくまでもお国が目指すIRをやる、というのも、「やめられない」という先の大戦の状態に近似している。

今後、活発化が予想されるのは中国の業者の動向だ。
こちらの文化は、わが国の契約の概念よりも欧米から遠い。
アフリカなどの国々を、借金漬けにしてコントロールするように、より「やくざ」に近いのは、近代ではなく近代以前の中世社会だからである。

世界最大の中華街といわれた横浜中華街も、この三十年で大変貌し、あたらしく大陸からやってきたひとたちの店が過半になった。
その意味で、あちらからのIR事業者こそ、地元中華街と連携する地域メリットがある、とかなんとかいって、横浜市民や日本人の資産を吸い上げるマシンを、自虐的に誘致することになるのだろう。

役人栄えて国滅ぶ。

コロナ禍による日本経済の打撃は、フローだけでなくストックにも及ぶこと確実で、アメリカのカジノ事業者は、わが国に吸い上げるべき資産がない、と判断した。
つまり、貧乏国だというレッテルを貼られたことが「衝撃」なのだ。

さては、横浜市議会議員のみなさんは、どんな活動をするものか?
市民にわかりやすい状況になってきてはいる。

アドバンテージは大丈夫?

突如でてきた「9月入学」というはなし。
全国知事の半数以上が「賛成」という報道があるけど、大丈夫なのか?

いったい、現役の知事たちで、海外留学経験者は、言いだしっぺの都知事のほかに何人いるのか?
この際、学歴詐称疑惑は横にしても、いまの「3月卒業」は、留学するには「アドバンテージ」になっていなかったか?と質問したい。

なぜかといえば、アメリカを例にすると、留学先の学校は、日本語で授業をしてくれるはずもないから、まずは「英語力試験」を受けないといけないのだ。
国内でよほど英語ができたひとだって、「大学の授業」という高等英語を理解できないと、本人だけでなくクラスの迷惑にもなる。

だから、ふつうは「英語力予科」にはいって、授業に出ることができるレベルの試験に合格しないといけない。そうでなければ、9月からの「本科」を受講することがゆるされず、その学校での留学そのものを断念せざるをえなくなるのだ。

それで、英語以外の学力ではじゅうぶん入学ができるのに、まずは語学専門学校にいくことを推奨される。
せっかくの「留学ビザ」があるのだから、半年で間に合わなかったひとは、もう一年を「予科」ですごすことになる。

ということは、かなりの英語力があってはじめて、9月からの新入生になれるし、この間の半年間は、それでなくても多忙になる。
生活の立ち上げに、外国ならではの「手間」がかかるのは、地方から東京の学校にいくのとはわけがちがうからである。

たとえば、自動車。
アメリカ留学なら、自動車がないと買い物にもいけない。
部屋を選ぶのだって、自動車がないと不動産屋にもいけない。
つまり、通学できない。

そのために、免許がいるが、日本の高校生で自動車運転免許をもっているひとはすくないから、現地で取得しないといけない。
すると、いかに日本ほど厳密ではないとしても、ちゃんと手続きしないといけない。

つまり、たとえ予科で一発合格しても、あれこれと、やることがたくさんあるのだ。
これを「横移動感覚」の欧米人と一緒にして、一ヶ月程度でやれというのは「酷」ではないか?

まさか、わが国の知事たちは、こんなこともしらない、なんてことはないとおもうが、「世界標準だから」という一番多い賛成理由をきくにつけ、なんだか心配になるのである。

日本標準でなにがいけないのか?

もちろん、外国からの留学生だって、4月入学というのは、上記のはなしがズレて起きることだから、アドバンテージを与えることになっている。

すると、知事たちが無知でないとすれば、かれらの得意の「嫌がらせ」か?

どういうわけか、この件でも企業側の反応が鈍い。
企業の採用スケジュールがどうなるのか?は、変更時の一回だけで済むはなしではないだろう。
ということは、ドキドキしながら「静観」を決め込んだということか?

少子という現象がわかっているのに、大学設立認可をバンバン出した文部科学省がやり玉に挙げられて、いざというときになって、なにがなんでも獣医学部はつくらせないことになった。

文部科学省という「行政当局」は、申請書類が整っていれば、バンバン認可を出さねばならぬ。
少子という現象がわかっているのに、申請するのは、申請した側の責任だからで、どうして役所がその経営責任まで負わされるのか?

そんな「役所依存」をふだんからしているので、上から目線で「不要不急のことはするな」と国民にはいって、じぶんたちは「不要不急のことばかりする」ようになるのである。
こういうのを「どさくさに紛れる」とはいうけれど、国民の自業自得でもある。

「自由」という立場からすれば、他人から自分の行動を「不要不急」といわれて批難される筋合いはない。
まして、為政者からいわれるのは不本意である。この「精神」が、日本人からなくなった。

明治には、このような世相を風刺した、みごとなジャーナリストがいたものだが、「言論の自由」を逆手にとって、一般人をあおりまくるのが「ジャーナリズム」だと勘違いしているのが「ふつう」になって、残念なことに国民がそんな記事や報道を信じているのだ。

宮武外骨を描くのに、最高の作家が書いてくれた。
その、赤瀬川原平も、もういない。
彼のあまたある傑作でも、『新解さんの謎』は、辞書をつかってここまで笑わせるものかと感心した。

日本語をならう外国人は、この本をどう評価するのか?ぜひともきいてみたい。
果たして、外国の辞書で、「新解国語辞典」に匹敵する辞書はあるものか?

ご存じの方には、教えを請いたい。

「内外価格差」の存在は、「貿易論」でいえばチャンスである。
わが国の大学授業料は、たいへんお安くなっている。
ということは?

やっぱりここでも、「国家戦略」として、学校制度をかんがえないとまちがえるのである。

「ばっきん」ガム宮殿

「チューインガム」は、チューインガムの木からとれた「基剤」に甘い味をつけて、これを口内で噛むことで味わう菓子である。
いまでは、合成樹脂であるビニールが基剤になっている。
レジ袋撲滅運動には熱心だが、ガム撲滅運動は誰もしない。

噛むと頭がよくなる、というから、きっとレジ袋の有料化をうれしく思うひとは、ガムをたくさん噛んで、脳にビニールが行き渡った方もおおくいるにちがいない。

お菓子といえば「食べる」ものなので、子どものとき、味がなくなったらはき出すとはおもわずに、飲み込んでしまう経験を誰でもしたことがあるだろう。
のちに、ガムのような食感なのに、だんだん溶けてなくなる「飴菓子」も登場して、戸惑ったことがある。

ロンドンには有名な「バッキンガム宮殿」がある。
国王の住まいだが、はじめはバッキンガム公が建てたものを、王が買い取ったという歴史がある。

「ガム」がつくからといって、お菓子の「Gum」ではなく、Buckinghamの「-ham」とは「村」の意味がある地名となる。
噛んで含めて説明すれば、こういうことだ。

たまたま発音がおなじだから、日本語の「ばっきん」とかさなる。
ばい菌ではなくて「罰金」である。
ばい菌もつきまとうが、罰金もつきまとうという共通点がある。

日本人からほとんど退化した、英米型「自由主義」思想の立場からすれば、「税金」とは「罰金」であるとストレートにイメージするのが当然だとされている。

日本人のおおくは、税金を、払いたくはないが仕方がない、とおもってはいるが、まさか政府からの「罰金」とはおもっていない。
これが、「本家本元」のひとたちからすると、信じがたい「退化」にみえる。

では、念のため、罰金として税金を書き出してみよう。

・稼いだら罰金;所得税、法人税、地方税
・事業をしたら罰金;事業税
・事業所を持ったら罰金;事業所税
・持ち家に住んだら罰金;固定資産税
・買い物したら罰金;消費税
・タバコを吸ったら罰金;たばこ税
・酒を飲んだら罰金;酒税
・車を買ったら罰金;自動車税
・ガソリン燃やしたら罰金;ガソリン税、軽油税
・紙に金額書いたら罰金;印紙税
・金品を他人にあげたら罰金;贈与税
・死んだら罰金;相続税

ちなみに、一度課税されたのに再び課税するのを「二重課税」といって、近代国家では「しない」ことが決まりになっている。
わが国は近代国家ではないので、けっこう二重課税されているけど、従順な国民は文句をいって政治家に撤廃させるようなこともしない。

・「酒税」や「ガソリン税」などに対する「消費税」がやばい。
・所得税を払った後に購入したモノや、貯めたおカネに、贈与税や相続税がかかるのもやばい。

コロナ禍という社会情勢から、「リーマン級が来たら(見直す)」といっていた消費税の減税問題がくすぶりだした。

けれども、例によって「税率」ばかりが議論されている。

10%を8%にもどすとか、ならば軽減税率制度はどうするのとか、いや5%だとか0%、最後に「廃止」とか。

これは、政治家だから、政治の議論をしているので、消費税の議論をしているとはおもえない。
なぜなら、消費税には上述の二重課税問題もあるし、もうひとつ重要な、「課税標準額」があるからだ。

最初の3%だったとき、税率はそのままに、「大増税」されたことがある。
それは、「益税」ともいわれた、小さな商売をしている商店の課税標準額を、大幅に「さげた」ことで実施したのだ。

「売上」金額がすくないなら、一定の金額までなら「納税を免除する」、この金額を下げたことで、納税事業者が大幅にふえた。
つまり、消費税法に触らずに、大増税を実現した政府があった。
この施策で、全国の零細個人商店が廃業したのである。

すなわち、老夫婦がちんまりと小売店をやっていてはいけないから、罰金をとるという意味になった。
交通が不便な集落にとって、生活ができなくなるという意味での社会問題を、政府がつくる。

商店主の自由と、その地域住民の自由を奪う。

こうして、なんとか自立をはかっていたひとたちの生活を追いこんで、高齢者施設に収容することが手厚い「福祉」ということになった。

ねっちょりとして、ベタベタするガムでできた宮殿。
それが「日本政府」である。
国民には、罰金を課すことしかしない。
だから、「ばっきん」ガム宮殿、なのである。

これを維持するには、警察国家になるしかない。
あろうことか、「自粛警察」という「体制派」が出現した。
まことに、政府に都合がいい。

その政府は、諮問委員会という得たいのしれない組織に、経済の専門家というひとまでどうやってかしらないが加えることで、あらゆる問題に、このひとたちのいうことを聞くようになってしまった。

諮問委員会とは、どんな法的根拠があるのか?
いったい誰が、この政府の政策責任者なのかさえ、不明になった国だから、内閣も溶解したのである。

これが、「長期政権」の素顔だ。つまり、「虚無」。

政府がつかえるカネを減らすと、住みよい国になる。
だから、減税こそが国民の主権のしるしなのだ。

ただ、なんとなく動いているだけだから、だれにも止められない。
コントローラー不在のリモート国になってしまった。