豚コレラのトンチンカン

犯人探しがはじまっている。
どうやら、衛生に優秀な「養豚県」の主張そのものが「犯人」と決めつけられそうな勢いである。
いったいどういうことかなのか?

問題のはじまりは、「ワクチン接種」の賛否である。
豚コレラ自体は、昨年9月、26年ぶりに発生したから、ちょうど一年が経過した。
そこで、ようやく農水省がワクチン接種をはじめることになった。

なんだ、例によって「決められなかったのか?」という単純なはなしではない「背景」がある。
それは、国際ルールにおける『清浄国認定』を維持するかしないかということと直結していることだ。

『清浄国認定』は、豚肉の輸出において必要な条件になっている。
つまり、輸出先の消費者への「安心」のために必須なのだ。
日本の豚肉を輸出する、ということにおける国際競争上でのスタートラインともいえる。

すなわち、ワクチン接種とは、清浄国認定の「返上」を意味する行為なので、スタートラインにすら立てなくなることを意味するのだ。

じっさい、前回26年前の豚コレラ発生から、『清浄国認定』を得るのに10年かかっている。
逆算すれば、16年間しか維持できなかった、ということであるが、輸出にかけた肉質の品質管理への努力もすっ飛ぶことになる。

わが国の豚コレラとの闘いは、1888年(明治21年)から、27年前の1992年(平成4年)までの104年間もあったから、16年間しか維持できなかった、という言葉の意味は重いのだ。

現在の清浄国は以下のとおり。
アイスランド、アイルランド、イタリア(サルジニア島を除く)、英国(グレート・ブリテン及び北アイルランドに限る)、オーストリア、オランダ、サンマリノ、スイス、スウェーデン、スペイン、スロベニア、デンマーク、ドイツ、ノルウェー、フィンランド、フランス、ポルトガル、アメリカ(アメリカ大陸部分、 ハワイ諸島、グアム島に限る)、カナダ、コスタリカ、チリ、パナマ、ブラジル(サンタ・カタリーナ州に限る)、メキシコ、オーストラリア、北マリアナ諸島、ニュー ・カレドニア、ニュージーランド、バヌアツ。

なお、近年の大問題、アフリカ豚コレラ発生によって清浄国から非清浄国に転落したのは以下のとおり。
チェコ、ハンガリー、ベルギー、ポーランド。

つまり、今回のワクチン接種によって、わが国はアフリカ豚コレラ発生ではない、豚コレラ発生ということでの非清浄国への転落となるのが注目される。

じっさい、豚コレラについては「地域限定」という条件付けがあるから、衛生先進県である鹿児島県や宮崎県は、なんとか『清浄国』として残れないものかとおもう。
これらの県のワクチン接種反対が、いまでは「犯人」となっているのだ。

しかして、その衛生管理への並々ならぬ努力が水泡に帰すということが、「犯人」だとするひとたちにどれだけあるのか?
まさに、グレシャムの法則『悪貨は良貨を駆逐する』ではないのか?

すると、どこかで見聞きした「事例」が思い出された。
大手自動車会社の検査不正である。

三十年ものあいだ、自社で「不正」がおこなわれていたことすら気づかなかったという不始末は、いったいなんだったのか?
しかも、検査義務は国内販売向けだけで、輸出向けには必要ない制度だから、輸出相手国からのクレームもない。

企業は糾弾されたが、監理者の国土交通省はこれ見よがしの上から目線を演じ、批判から逃れたではないか。
三十年ものあいだ、不正を「指摘しなかった」監督官庁はなにをしていたのか?は、いまも放置されている。

なんだか、構図が似ている。
突出した努力をした県(地域)が、あたかも悪者になるのは、不正義である。
全国一律というのは「幻想」にすぎない。

豚コレラの発生には三つの要因があって、一つは人的な衛生管理。もう一つは野生動物(イノシシ)からの感染。それに、外国から持ち込まれる食品等にふくまれる「ウィルス汚染」である。
人間が食べても発症しないから、安易な持ち込みを排除することは困難だ。

だから、現場における「防疫」が、最終防衛ラインでありながら、もっとも重要な要素になる。

くわえて、東欧の国々が非清浄国に転落した「アフリカ豚コレラ」は、ワクチンさえ存在しない脅威である。
すでに韓国まで発生していて、わが国への「上陸」が危ぶまれている。
中国では、大量の殺処分のため豚肉価格が暴騰しているという。

東京オリンピックでの食事提供に、多大なる影響も懸念される。
清浄国の豚肉を輸入する必要の可能性もあるからだ。

冷静な要因分析による徹底的な対策をうつことが喫緊の課題なのだが、政府に依存してできるのか?
もはや他人ごとではない。

トーマス・クック倒産の危機管理

現存する世界最古の、といえばなにかの遺跡のようだが、日本ではかつて「トラベラーズ・チェック」でお世話になった、イギリスの旅行会社トーマス・クックが今週23日に破産した。
創業178年の老舗の倒産をBBCニュースの記事から再考してみる。

イギリス政府とイギリス民間航空局は、「マッターホルン作戦」と名付けた、日本人には「痛い」作戦名でイギリス人観光客の帰国作戦を開始した。
また、倒産前日の22日から、旅客機を「回送」させていることも注目される。

この作戦でチャーターした航空機は45機で、15万人以上の旅行客を無事帰国させるというが、ツアー客にとってはできるだけオリジナルの旅行日程を終えてから帰国できるようになっているのは、トーマス・クックのパッケージツアーは、航空旅行信託基金をつかって、現地のホテルなどへの支払が保証されているからである。

もちろん、イギリス民間航空局は、海外の当該各ホテルに、「保証されている」ことを「連絡している」ので、ホテルとのあいだでの混乱はないという。

はたして、わが国でこういうことが起きたらどうなるのか?
マスコミが混乱をあおるのは容易に想像できるが、例によって「想定外」などという他人ごとを持ちだして、あわただしく「対応する」ことになるのだろうとかんがえられる。

さらに、この「倒産劇」のはなしはつづく。
国内9000人、海外13000人のあわせて22000人の雇用に影響することは必至であるから、野党の労働党や労働組合は同社支援を政府に働きかけている。

しかし、ドミニク・ラーブ、イギリス外相は22日に、「よほどの国家利益が伴わない限り、企業が破綻したからといって政府が当然のように支援するというものではない」と話した。

じっさい、トーマス・クック社は政府に2億5000万ドルの資金援助を要請したが、それだけの資金を注入しても同社は数週間しかもたないと判断したというから、ずいぶん前から「検討」されていたようだ。

同社は今年の8月に、最大株主である中国の民間(国営でない)投資会社複星国際(フォースン・グループ)から9億ポンドを獲得していたので、この時期の前から「危なかった」のだろう。

そんなわけで、ボリス・ジョンソン首相は旅行先で立ち往生するイギリス市民を支援する方針を打ち出したが、同時に「こういう問題をなんとかする意志」が同社重役陣にはなかったのか疑問視した、という。

しごく当然のはなしが混じっているから分解しよう。
要は、外国旅行中に立ち往生しないよう国民を救出することと、会社の経営責任は別だということだし、経営陣の倒産したらどうなるかの想像力の欠如が無責任だと批判しているのである。

つまり、国がやることとやらないことの区別が、最初からついている。
わが国だと、一斉に国がやること「だけ」になってしまうから、資本主義の祖国、大英帝国の面目躍如ということだ。

逆にいえば、わが国政府の立ち位置は、より支配的なのであって、「政府がすべての業界を支配している」という前提に立てば、ぜんぶ政府のせいになるのは「当然」なのである。

もちろん、日本政府はそんな「支配」ができるはずもないのだが、ならば日常的な役所からの指導という「支配」はどうなのか?となる。
いざとなると役に立たないが、ふだんは威張っているのが日本政府の伝統なのだ。

それにしても、用意周到な「作戦」である。
こうしたことができるのが、アングロ・サクソンの特徴だ。
「論理によってものごとを区別できる」ということのメリットがある。
国民にこうした発想方法の素養があるから、政府もできるのである。

さて、わが国最大の旅行会社といえばJTBである。
この会社の「赤字体質」について、あまり議論されることがないけれど、かなり深刻なのだ。
最大企業にして「これ」だから、その他大手も、さらに中小となればより深刻なのはだれにでも想像がつく。

そこで、イギリスの新聞、インディペンデントの旅行業界担当者は「21世紀に対応する用意ができていなかった」とトーマス・クックを評価した。

これは、なにもトーマス・クックだけのことではないし、旅行業界だけのことでもない。
なにをかくそう、新聞社だっておなじである。

世界でおなじ危機がやってきているのだ。
これが「グローバル」ということであって、地球上で文明生活をおくるのなら、もはやだれも逃れようがないことになった。

明日は我が身。

トーマスクック倒産からの教訓は、危機管理、なのであった。

歴史教育と「やる気」の関係

「歴史」をまなぶ。
これには二つの意味があって、ひとつは「教育」として。
もうひとつは「歴史学」としてである。

「教育」として、という目的ならば、「ただしい歴史」とは「ただしい国民」を育てることになる。
では、「ただしい国民」とはなにか?
戦後のわが国は、「ただしい国民」の定義が「できない」国になってしまったから、たんなる学歴偏重社会になったともいえる。

そこで「歴史学」のほうをみると、すっかり政治的な意志がはたらいていて、そうした「視点」での「国史」が正規であって、ちがう視点からの解釈をゆるさない。すなわち、日本はわるい国だった、と。
つまり、「みえない党」のような「同意」が、統制しているのである。

それもこれも、「ただしい国民」という定義にかかわる問題だ。

したがって、「ただしい国民」という定義が「できない」から、いつまでたっても変わらないのである。
しかし、戦後にできた政治的な意志による統制をする立場からすれば、「変わらない」ことがよいことなのである。

これをもって「保守」とすると、わが国における「保守」とは、英国における「保守思想」とはまったく別物で、ソ連や中国における共産党の「保守」とおなじ意味になる。

そうした問題の原点にあるのは、「敗戦」という史実における意味が「開戦」という史実における意味をも吹き飛ばして、「被害者は国民」という図式に落ち着いてしまったからである。

つまり、戦争を望んだのは国民だった、という不都合な史実を隠蔽するのにもっとも都合のよいことになっている。
これが自虐史観の「自虐」であって、そこに妙に居心地のよさがあるのは、なんであれアジア筆頭は日本であるという「こころの立場」があるからである。

だから謝罪する必要があるのも、与えるのはいつでもわが国だという立場になる。
そして、侵略と植民地という入口と出口において、いかな残虐なる加害者であったかと説くことが、あさましき「正義」となるから、教わる子ども側に自虐が伝染して、まったくやる気を失うのである。

これは人間の組織帰属意識の深層心理であって、自分が属する組織・集団の正義があってこそ自分の価値も見いだせるからである。
だから、これが否定されると、自分が所属することの意義をうしない、それが「国」ともなれば、まじめな人間ほど嫌悪をいだき、ついには国家を憎むようになる。

これは、戦後の英国で実験済みで、帝国主義の全否定が、若者のやる気を奪った典型となった。
それで、評価をおしえるのではなくて、事実をおしえるようにしたら、若者たちにやる気がうまれたのである。

台湾が日本統治時代を評価し認めているのは、不幸にも蒋介石の国民党が日本に代わって統治した過酷さが、かえってよき日本時代の評価となった皮肉がある。
だから、民主化によって自信をつけた台湾は、将来反日となる芽をもっている。それは、現代日本が「民主主義」や「自由」に無頓着だからである。

対して朝鮮半島は、日本統治の継続をだれもがのぞんでいたのに、占領した米軍が強引に独立させてしまって、その正統性のために反日を国是とする選択しか方法がなかったのである。
日本帝国の解体と弱体化という米国の意志が、いま、ブーメランとなっている。

奇しくも「原罪」を日本とする、あたらしい「キリスト教」が韓国の国教となったのは、日本人がわすれようと努力した結果できた「自虐」の居心地のよさとは対極の居心地のよさがあるのである。
韓国で本物の「クリスチャン」がおおいのは、このためだとかんがえる。

ところで、特殊出生率という指標をみると、低い順に世界ランキングをつくれば、韓国、台湾、日本、(中国)という順になる。
中国がカッコなのは、建国以来(中華人民共和国ではなく古代から)国勢調査をやったことがないので本当は「不明」だからである。

韓国は人類史上初となる「1.0」をとうとう割り込んだし、台湾も日本より低い。
すなわち、こんごおそるべきスピードで人口が減少すること「確実」なのである。

それが、かつて、「日本」だった地域で一斉に生じているのはどういうことか?

台湾は中国に飲み込まれる恐怖が第一の理由かもしれない。
李登輝がいう「日本になりたい」は、防衛という視点からすれば、説得力があるし、わが国にとっても地政学的に重要な島である。
しかして、李登輝が岩里政男だったころの、列強としての日本は滅亡していまはない。

韓国は、いかなる「宗教改革」ができるか?
けれども、現政権による「赤化革命」は着実に進行中で、予定どおり日本とアメリカとの関係を破壊した。
これで、国内経済も破壊するのは「混乱に乗じて」という「革命」の常套手段だ。

むしろ、いよいよ国軍によるクーデターの可能性が、唯一の希になった感がある。

そんな状態だから、出生率が増えるのは、「クーデター成功後」、さらに日本を原罪とする宗教が破棄されないと可能性がない。
「依存」状態のままで未来が開けるとはおもえないからである。

もちろん、わが国も同様で、あさましき「正義」がのさばっていたら「やる気」が失せるばかりである。

人口減少社会が改善されるのは、あさましき「正義」を信じる世代が消えてからがチャンスなのだが、あさましき世代は、ちゃっかり孫子の洗脳に人生の残りをかけている。

まことに罪深い。

お彼岸の今日、ご先祖に問うてみるのもよいのではなかろうか。

香港人権民主主義法案の破壊力

アメリカ合衆国という国には、「国内法」をもって外国に対応するという「技」がある。
有名なのは、1979年の「台湾関係法」で、北京との外交関係樹立という一方で、台北とは「断交」したものの「国内法」として「関係継続」を決議している。

こうした発想は、「国益」からのブレストの結果でもあり、きっと「特性要因図」でもかいてときの大統領にみせたのだろう。
日本の官僚には、こうしたロジカル・シンキングの訓練がないし、必要性もないとかんがえているだろうから、あっさり台湾と断交できる。

もちろん、日台関係における日本側には「公益財団法人台湾交流協会」があって、「事実上の」大使館として台北に事務所をおいているが、根拠という点において、アメリカのそれとは一歩も二歩も引いている。

さいきん、わが国にも「台湾関係法」制定を主張するひとたちがでてきた。
しかし、アメリカはさらに「台湾旅行法」を制定して、政府高官と台湾高官との交流をできるようにした。

この点も、わが国政府は国家公務員に対し、台湾への個人旅行すら認めていない。
それは、1994年、河野洋平外務大臣が国際会議のためにバンコクへむかう途中、台風で台北空港に緊急避難したが、機内から一歩も出なかったことを中国の銭外相に「報告」したほどだから冗談ではない。

その息子が外務大臣になったが、あんがいふだんからの発言とちがう行動をしたので驚かされた。
こんどは「防衛大臣」になったので、いい意味の驚くような活躍を期待したい。

つまり、日本における「台湾関係法」には、「台湾旅行法」もセットにして制定しないといけないのだ。

ところで、「逃亡犯条例改正案」に反対する大規模デモが香港で繰り広げられているが、政府は正式に法案を「取り下げた」ものの、あまりの遅い判断で、傷ついた市民がデモ自体をやめようとしていない。
一連の騒動で、すでに香港は警察の武力が支配する社会になったからだ。

これは、英国が香港を手放すときに結んだ「一国二制度」を「五〇年間」守るとした取り決めを反故にすることでもあるが、北京政府はすでに意味のない取り決めだと主張している。

こうした北京の傲慢な態度に、世界は反対ののろしを上げているが、アジアの盟主を自認するはずの日本政府は、国会をふくめてまったくの「他人ごと」に終始している。
この「冷たさ」は、「臆病さ」とイコールなのだろう。

けだし、共産党というのは自分たちに都合がいいときとそうでないときの態度を豹変させるが、それは「ダブル・スタンダード」を旨とするひとたちの集団だから、むしろ「約束は反故にする」のが「正常」の共産党の論理なのである。
この点、ヤクザと似ている。

米中貿易戦争のさなか、米国議会は超党派(民主党・共和党ともに)で「香港人権民主主義法案」の成立をめざしている。
この法案も「米国国内法」という位置づけなのだが、内容は過激である。

第一に、国務省に対し、香港の自由度についての報告書を義務づける。
第二に、香港市民の自由を抑圧した人物を特定し、その人物の米国における資産の凍結、米国への入国拒否をするという「個人」に対しての報復措置となっている。
第三に、米国が特別に香港に付与している自由貿易の諸協定を根本的に見直すこともふくんでいる。

第二と第三は、北京政府にとって強烈である。
個人と党への「利権」が奪われることを意味するからである。
もし、第三が実行され、香港が貿易特権を失うとなれば、アジア最大の金融市場も縮小を余儀なくされること確実である。

まさに、小汚い根性になりはてたわが国の官僚は、香港市場の縮小こそ「東京市場の復活」と舌ずり舐めていることだろう。
これを「乞食根性」というのだ。
日本の「エリート」は、世界に通用しないばかりか、その卑しさを笑いものにされるだろう。

北京が怖くてなにもいえない者が、おこぼれちょうだいだけを望んでいるからだ。
だったらわが国も率先して「香港人権民主主義法案」をつくらなかればならないが、与野党共になにもやる気がない。
わが国の政治に「安定感」がある理由がこれだ。

そして、これが国民の代表たちなのだが、えらんだ国民の責任なのは変わりようがないし、逃れようがない。

さて、怒りに震える北京のえらいひとたちは、アメリカに法案の審議すらやめるよう要求しているが、それが「脅し」のように聞こえるから、かえって反発を強めてしまう。
カナダやオーストラリアが共闘の声をあげている理由だ。

世界は共産党の権力闘争のようにはいかない。
しかし、共産党の権力闘争「しか」しらないひとたちだから、ついうっかり「お里」がしれてしまうのだ。
わが国の自民党には権力闘争「すら」なえてひさしい。

わが国がほんとうに警戒しなければならないのは、第二次大戦の開戦理由になった「黄禍論」の復活である。
中国包囲網が黄色人種包囲網になったら、まさに一網打尽。

じっさいに、白人にとって中国人と区別がつかない日本人も黄禍論によって「排日論」へエスカレートしてしまったではないか。

歴史はくり返すのだ。

『「自由と民主主義」という「共通の価値観」』というなら、それを決然と守るのだという態度表明と行動がひつようなのである。

このままでは、香港が踏み絵になってしまう。
香港が危機なのではない。
香港市民を無視して気にもしない、日本という国の危機なのである。

台風被害の千葉県の謎

まずは被災地の皆様には、こころからお見舞い申し上げます。

今回被害をもたらしたのは、「強力」な台風だったのか「並」の台風だったのかすら議論になる不思議がある。
沖縄や九州、四国、あるいは紀伊半島といった、「上陸地」の常連からみれば、「若い」台風の威力としては「並」だという。

およそ関東には、おなじ気圧表示であっても、さんざん「常連地」に上陸してからやってくる「老いた」台風しかこないものだ。「若い」台風は「活き」がちがうらしい。
だから、単に気圧(hPa)のすくなさだけで、台風を評価してはいけないのだと意見するひとがいる。

台風を科学的にかんがえれば、海水面の温度と気温が関係していることは理科でならう。
夏のあつい太陽に暖められた、赤道付近の海水面の温度はたかくなって、蒸発して水蒸気となり、これが上昇して上空で冷やされる。

つまりは自然の「ラジエター」が作動するのである。
ところが、太陽からの熱は人間がつくるエネルギーとはケタがちがうから、上昇気流の渦が巨大になって台風になる。

上陸すると、海からのエネルギー供給が遮断され、水蒸気も供給されない。
これが「若さ」と「老い」のちがいだ。

ずいぶんまえに小松空港から羽田まで、飛行機に乗っていたときに、ニュースで報じられていた沖縄周辺のアベック台風の雲を、名古屋上空から太平洋に出て北へ旋回する前に目撃したことがある。
みごとな「エリンギ」のような太い雲の柱が二本たっていて、周辺の青空が印象的だった。

最上部がつぶれて平になるのは、対流圏と成層圏のさかいからうえにいけないからだ。
すると、衛星写真で観る台風のひろがりは、つぶれてひろがった雲もふくまれていることになる。

さてそれで、台風上陸地の「常連」からすれば、けっして「巨大」でも「超強力」でもなかったのに、かくなる被害がでたのはなぜか?という問題がのこる。

これは、わが国が法治国家であるけど、運用上の手心が人為的につくられていて、これにまた人間の「手抜き」がくわわったのではないかと疑われるのである。

法律でいえば、まっさきに「建築基準法」があたまにうかぶ。
しかし、この法律の運用にあたっては、あんがい都道府県や市町村といった地方自治体による「基準」があって、この基準内であれば「合法」になるのである。

つまり、この国の建築基準は、全国一律でおなじ色が塗られているイメージとはちがって、都道府県ごとに、こまかくすれば市町村ごとにまでちがう色がぬれるのである。

そうかんがえると、千葉県はどんな「基準」だったのかが気になるところだし、県内各地の自治体ごとにどうだったのか?
しかし、こんなことを報じる機関がない。

もうひとつは「手抜き」である。
基準があってもこれを意図的に守らなければ、基準はあってなきものになるから、人間の意志がはたらいて「手抜き」となる。
はたして、被災地の現実として、手抜きはあったのかなかったのか?
これも、報じる機関はない。

「長期停電」の責任問題が政府をふくめてかまびすしい。
しかられるのは東電ばかりだが、ほんとうにそれ「だけ」でいいのか?
原発にみられた電気事業連合会の巨額な「広告料」のために、報道機関が「忖度」しているなら、もってのほかだ。

「報道の自由」を世界一主張しているアメリカ合衆国には、報道機関の広告収入は、特定一社で1%を超えてはいけない。
これで広告元への「忖度」を防止している。
日本の国会は、与野党とも、ここでも居眠りをきめこんでいる。

それにしても、「常連地」が出身地だというあるひとは、あまい「基準」と「手抜き」のセットだったのではないかという。
その根拠は、被災地からの映像で、倒壊した建物や連続して折れてしまった電柱を見て気がついたという。

今回の観測データから風速が、「若い」台風の「並」だから、「常連地」ならこんな無惨は発生しないという。
それは、基準として想定されている風速にたいする強度が、「若い」台風でも「並」ごときで壊れることがないからだ。

くわえて、これら常連地の建設会社に「大手」はあまりなく、地場の中小企業が施工するのがふつうだが、「手抜き」をするとすぐにバレてしまうのは、台風がふつうにしょっちゅうやってくるからである。

つまり、A社がうけもった工事とB社がうけもった工事の現場がちかいから、ちゃんとつくらないと台風一過、自社が大恥をかくことになることを心得ている。
ここに、「競争の原理」がはたらいているのである。

すると、「千葉」とはどんな場所なのか?
被災者には申し訳ないが、がぜん興味がわくところだ。

いったいどのくらいの強度でつくられた電柱だったのか?

すくなくても、このくらいは物理科学をもって報道してもらいたい。

そして、なぜ「競争の原理」が千葉では機能しないのか?もあわせてかんがえたいテーマである。

まさかいまどきも「金権千葉」は健在なのだろうか?
それが、「風土」だとすると、台風よりこわいものがあることになる。

ふとおもうのは、停電状況をしめす地図は三色に塗りわけられていて、あたかも「上総」「下総」「安房」にみえるのはわたしだけか?
いにしえびとの「くにわけ」の妙が、あぶりだしのように浮かび上がるのも興味深い。

わたしたちは、古代とつながっている。
台風も古代からやってきているはずだが、天災なのか人災なのかの区別がつかなくなって、コントロールできない。

治水こそが統治であった武将の時代が、妙になつかしい。
「劣化」ということばが自然にうかんだ。

どっちがよいのか?をかんがえる

「A」か「B」、「白」か「黒」、「善」と「悪」。
世の中にはけっこう「二択」問題がある。
もともとの「二択」は、人類最古の経典宗教「ゾロアスター教」がそれで、世界を「善」と「悪」に分けこれを「二元論」とよんだ。

いわゆる「拝火教」というのは、火が照らす「明」とその陰の「暗」をはじまりとするから、「明」のおおもとを拝むことになったのだろう。
これを「アフラ・マズダ」という。

しかし、「暗」を拝むひともでてきて、これは「悪」の意味であるから「悪魔信仰」というものになった。
それが「アーリマン」であり、のちの堕天使「ルシファー」の発想の元になる。「ルシファー」とは「サタン」でもある。

もちろん、ゾロアスター教では、アフラ・マズダがアーリマンに勝利することになっている。
だから、アフラ・マズダこそが「唯一絶対神」だとさだめている。

ゾロアスター教は人類最古なので、聖書ができるのはずっと後だ。
旧約聖書の「ヤハウェ」も、新訳の「父」も、コーランの「アラー」も、アフラ・マズダの影響からのがれることができない。

あたかも、ゾロアスター教なんて日本人には関係ない、というむきもあろうけど、なにしろ世界最古の経典宗教なのだから、人類の時間の流れのなかに入りこんでいる。

仏教、とくに天台宗・真言宗でする「密教」の「お焚き上げ」は、「拝火」していることになるし、西洋文化の原点である古代ギリシャから、「聖火」というかんがえかたがいまにもオリンピックにつたわっている。

わが国の自動車会社だって、東洋工業が「マツダ」を名乗ったのは「アフラ・マズダ」からの由来であって、英字では「MAZDA」と表記する理由である。
エンジンの中にある「火」を象徴としている。

そんなわけで、「二択」という方法で選択肢とするのは、人類の脳にプログラムされているかのように「大好き」なのである。
「偶数」か「奇数」かになれば、サイコロ賭博にだってなるし、「赤」か「黒」かになれば「男」と「女」を描いたスタンダールの名作に。「赤」か「白」かになれば源平以来の戦いになって、紅白歌合戦にもなる。

 

それだから、「第三の道」という「三択」が唱えられるのは、「二択」へのアンチテーゼになっているのだろう。
しかし、世の中は「三択」だろうが、じっさいは複雑怪奇なのものだから、単純化という点でいえばそうたいしたかわりがない。

けれども、単純化してすくない「択数」を設定しないと、こんどは「選べない」という問題がでてくる。
むかしは「生まれ」によって職業が選べなかったから、選択肢そのものがなかった。

これは悲惨なことだというひとがいるけれど、世の中全体が「そうなっている」のなら、本人は自分が「悲惨」だという認識すらなかったろう。
いまは職業の選択について自由になっているから、なりたい職業につけないことが「悲惨」になっている。

さらに、職業がどんどん専門化して高度になっているので、はやいうちからこの準備をしないと、「いい職」に就くことができない。
しかし、わが国にはなんだか奢った感情があって、人生の準備である「教育」に熱情をうしなってしまった。

これは、「いい職」というかんがえが「いい会社」のままだからだろう。

一部の日本企業が、新卒採用にあたって、「研究職」という限定をつけながら、いきなり初任給を1千万円としたことが話題になった。
「有能な人材」を得るには、従来の給与体系ではだれもきてくれないからだという。

すると、二年目の先輩は、いったいどんな給与体系のなかにいて、三年目、四年目、、、、、三十年目となると、どうなっているのだろいうかと興味がわく。
まさか、今年のひと「だけ」に適用されるということはあるまいが、報道にはどこにも解説がない。

しかし、大企業がかかえる「研究職」全員に、1千万円スタートの給与体系を適用すれば、おそらく人件費が高騰するから「業績」に影響するはずなのだが、そんな報道もないので、「まさか」が現実なのかとうたがうのである。

もしもこの「まさか」が現実なら、職場内での「イジメ」が発生しないのか?
あるいは、チームにおける一体感が壊れることはないのか?と心配するのである。

これまで、戦後の日本企業は、有能なひとを評価しない、というシステムで成功してきた。
これは、みんな低い賃金だったから、有能な本人も「気づかない」ので、職場の安定がたもたれたのだ。

ちなみに、本人が気づかないという点での悲劇を描いたのが『テス』だった。
なにに「気づかなかった」のか?
それは、他人から「絶世の美女」と評価されていることだった。

 

いまは世界から有能な人材を採用しないと「いけない」ということになっていて、とくに有名なのがインドの工科大学卒業生への買い手企業による「オークション」だ。

しかしながら、「有能な人材」とはどんな人物なのか?という「基準」は日本企業にあるのだろうか?

さてそれで、「有能なひと」と「有能でないひと」のどちらがよいのか?たっぷりかんがえてみたいものである。

「芸術」を考えさせる「宗教オペラ」

メトロポリタンオペラのライブビューイング(実際の舞台を撮影した映画)については、何度か書いてきた。

今シーズンが終わってみると、『マーニー』で主役を演じた、イザベル・レナードが、同一シーズンでもうひとつの作品でも主役を演じたが、これを観のがしてしまった。
『マーニー』といえば、ヒッチコック監督の映画でもしられるけれど、これは現代作曲家が彼女のために書いた最新のオペラだった。

シーズンオフにライブビューイングは「アンコール上映」をやっていて、昨日、このチャンスに観に行ったのが気になる『カルメル会修道女の対話』である。

この作品の初演は1958年、作曲したプーランクの死の5年前であった。彼は熱心なカソリックであったことでもしられている。
いわゆる「宗教オペラ」の最高峰と評価されているのは、題材がフランス革命期の「実話」をもとにしていることの迫力もあってのことだが、音楽的にもすぐれているのは観ればわかる。

もともと「カルメル会」というのは、いまでいうパレスチナの地で12世紀にはじまる修道会で、その後全世界に展開している。
わが国にも昭和8年に修道院ができ、現在は全国8カ所に存在している。

ヨーロッパの啓蒙思想がうんだ「フランス革命」は、その後ロシア革命につながって、東西冷戦の一時代をつくり、いま、第二の新冷戦がはじまろうとしている。

「フランス革命」の評価はさいきんの「パリ祭」が下火になっているように、フランスでも「反省」がいわれていて、絶対礼賛というわけにはいかなくなってきた。
この意味で、フランスが「まとも」になってきたともいえる。

そうかんがえると、そもそも「啓蒙思想」とはなにかということになって、その背景にはヨーロッパにおける知的伝統である「リベラルアーツ」を無視するわけにはいかない。
日本では「一般教養」というけれど、ほんらいのリベラルアーツには「自由七科」とよばれる学科がある。

言語にかかわる3科目の「三学」は、文法・修辞学・弁証法(論理学)で、数学に関わる4科目の「四科」は、算術・幾何・天文・音楽となっている。
この七科の上位にあって、統率するのが「哲学」という構造になっていることはしっておきたい。

そして、さらに哲学の上位に「神学」があるのだ。
これが、ヨーロッパ・キリスト教世界の「一般教養(リベラルアーツ)」をかたちづけている。

「リベラル」は、「自由」という意味だから、日本における「進歩派=左翼」としての「リベラル」という用語とは意味が真逆になるのでとくに注意したい。ヨーロッパ人には日本ローカル用語はつうじないどころか、ちがう意味にとられるからはなしが「トンチンカン」になることまちがいない。

また、「アーツ」とは「アート」のことだが、いきなり「芸術」という意味ではなく、じつは「技術」といった方がしっくりくる。
したがって、リベラルアーツを直訳すれば「自由の諸技術」となって、ぜんぜん「一般教養」ではない。

数学系統に音楽があるのは、キリスト教世界における宗教音楽の重要性と、バッハの『音楽の捧げ物』で大成されたように、音符と数の関係が、数学的に表現できるからである。
この意味で大バッハは、数学者であった。

こうした「リベラルアーツ(自由の諸技術)」という基盤を無視して、うわべだけでヨーロッパの事象や現象をとらえると、さっぱりわからなくなるのである。

そんなことをおもいながら、『カルメル会修道女の対話』という作品は、前半で修道院長の壮絶な死(病魔の苦痛からの錯乱)というけれど、修道者としてあるまじき「死への恐怖」を叫んで息絶えるのはどういう意味なのか?

「他人の苦痛を背負っていた」という劇中の解釈は、はたしてどうなのか?とおもうのは、ニーチェの『アンチクリスト』がとっくに発表されていたからである。

そして、なんといっても「殉教」という悲劇のラストは、革命の暴力という本質への大疑問が、実話としての恐ろしさとともに表現されている。
革命における「自由」の旗印の下に、いっさい抵抗しない修道女たちがギロチン台の露と消えるのだ。

「処刑」を目前にした修道女たちのこころの動きを演じる演者のみごとさもふくめ、舞台芸術は「技術」なくしては表現できないことを思いしらされる。

これぞ「芸術」ではないか。

そういえば、プーランク最後のオペラに『人間の声』がある。
なんと、登場人物はソプラノが一人。全一幕。
詩人コクトーの原作による「モノ・オペラ」といわれている。
別れた恋人からの「電話」による一人芝居で、人間の愛と絶望が表現されているのだ。

ロビン・ジョージ・コリングウッドの『芸術の原理』(1938年)という名著で、エセ芸術が二種類あると定義されている。
それは「魔術芸術」と「娯楽芸術」という区分だ。

「魔術芸術とは芸術がもたらすさまざまな感情の刺激によって人々を実際の政治や商業などの実際的な狙いを持つ活動へと仕向ける」

これこそ、「あいちトリエンナーレ」で話題となった「芸術」のことだ。
コリングウッドの定義によれば、エセ芸術に分類されよう。

自由七科を駆使したかどうか?
あるいは、作家に自由七科の素地があるか否か?
世界標準の「芸術」には、ちゃんと「基準」があるのである。
しかして、その証拠が、カーテンコールにおける観客の絶叫ともいえる拍手である。

演者と観客の同一地平における振動の一致が、かくも増幅された波のような拍手になったのは、「技術」を素地にした「芸術」を理解した証拠なのである。

なるほどと、かんがえさせられるオペラであった。

パソコン購入の難易度は高

昨年、世界シェアでトップだからおなじみの「インテル」さんが、あたらしい高性能CPUを開発し、これを搭載したパソコンが各社から販売されている。
性能差は、たったひと世代前とで四割以上という。

その筋では、AMD(アドバンスト・マイクロ・デバイセズ)社が巨人インテルに対抗したCPUの性能と価格が話題になったようなので、規模の大小ではない競争がおきたことが、新製品発売の原因のようだ。
つまり、消費者にはありがたいことになっている。

この手の「商品」は、進歩がはやいという常識があるが、いがいとふつうのビジネスでもちいるパソコンは、そんなに高性能である必要がない。
せいぜい、やりたいことが決まっているからで、つまりは動かしたいソフトもある程度決まっている。

もちろん、大量のデータからさまざまな解析をしたりすることをビジネスにしているひともいるけど、社内では小数派だろう。
むしろ、クリエーターというひとが道具にする画像処理には、高性能なパソコンでないと仕事にならない。

つまり、パソコンが本来の「パーソナル」に進化して、個々人にあった機種選定こそが「コスト」と「パフォーマンス」を最適にするようになったのだ。
これが「むかし」とちがうおおきな変化である。

どういうわけか、日本の電気メーカーは、「マス」(少品種・大量生産)に没頭し、ついに「多品種・少量生産」という逆転に対応できなかったのは、白物家電やテレビといった高度成長期における成功体験から抜けきれないということだと解説されている。

これは事実だ。

とある電気メーカーでは、テレビ事業部が大赤字の原因だとはっきりしているのに、社内人事ではテレビ事業部からでないと主要な地位に社内昇格できない「伝統」が、いまだに続いている。
こんな「電灯」なら切れてしまえ、という社内自虐がある。

ビジネス用のパソコンなら、大企業のリース落ち(三年もの)でも十分な性能だったから、さてパソコンを調達しようとしたばあい、最新の機種を購入する魅力に欠けていた。

しかし、冒頭の事情から、近年めずらしい技術の「壁」が出現したのである。
あたらしいCPUは「第八世代」といわれていて、それ以前の「世代」とは、「世代間格差」がだんぜんひらいた。

最新世代が「リース落ち」するには、まだ時間がかかるが、消費税は来月あがる。
これが、第一の悩みどころである。

頭脳部分のCPUが、世界でインテル社とAMD社の二社なのだし、OSも一般的には「ウィンドウズ」か「iOS」のいずれかだから、「パソコン・メーカーとは何者か?」と問えば、「ウィンドウズ陣営」に関していえば、基本的に「組立屋」のことをいう。

それにくわえて、日本のメーカー・ブランドが崩壊したので、ややこしいのだ。
かつての「国民機」をつくっていたNECも、IBMと競合した富士通も、世界初のブック型パソコンを世に出した東芝も、みんなでそろってレノボ(中国)や鴻海(台湾)傘下になってしまった。

残るのは、パナソニックと、ソニーから分社したVAIO、それにマウスコンピュータ、モニターで有名なiiyamaが「国産」となっているが、HPは「東京メイド」、レノボだって「米沢産」を強調しているのは、そこに組立工場があるからである。

そんなわけで、「選ぶ」ということをはじめると、なかなか「選べない」という核心的な悩みが出現するのは、「どれもおなじ」という大問題があるからである。

メーカーとしては「差別化」ということになるのは必然だが、CPUがおなじという「区別ができない」ことから、どうすればよいかの方向が「デザイン」に集約されることとなる。

堅牢さと軽さこれに電池の持ち時間で圧倒的なブランドを築いたのがパナソニックだ。
しかしながら、すでに技術はこの三問に解答をあたえていて、ブランドによる「高額さ」が、パナソニックに残った価値になっている。

すると、そんなに高性能でなくてもよいから、リース落ちという選択肢と、そうはいっても壁を越えた快適さを味わいたい、という欲望がせめぎあうのである。

ところで、講演をしなければならない立場にもどると、プロジェクターとの接続が問題になる。
最新のパソコンでは小数派になっているアナログ(RGB)端子は、いまだに必要なのだ。

会場によっては最新のプロジェクターが用意されているが、経営が苦しい施設では、アナログ入力しかないプロジェクターがいまだ健在だからである。
もちろん、変換アダプターを持ち歩けばいいのだが、それが面倒で、もし忘れたら一大事のリスクがある。

なぁんだ、RGB端子がある最新のパソコンがほしい、というのが結論である。
すると、こんどは一気に選択肢がなくなった。
あんなにあったのに。

さて、それで、どれにするか?
やっぱり一長一短で、難しいのである。
なんでこうなるのか?
現代の不思議のひとつである。

伝統の「黒」への染めなおし

この夏は、島根の足立美術館に行ってきたと書いた。
じつは、途中、祇園まつりのさいちゅうの京都に立ち寄った。

お恥ずかしながら、わが家北側の窓際に掛けっぱなしにしたジャケットたちが、紫外線で無惨にも日焼けしてしまったのである。
しまったと気づいてももうおそく、この損害はおおきい。
「あゝなんてことだ!」
直射日光ではないからと「たか」をくくっていた自分がくやしい。

呆然としながらも、なんとかならないものかと思案していて、そうだ!とひらめいたのが「染めなおし」であった。

「黒紋付」といえば、わが国の民族衣装でも「正装」にあたる。
もちろん、格付けは「第一礼装」であるから、文句のいわれようがない。
こないだ、ブータン王国を訪問した悠仁親王がお召しになっていたことでも記憶にあたらしい。ただし、紋付き袴は、武士の正装なのではたして朝廷側として?というひともいる。

民族の「色」で、「黒一色」しかも、「限界まで黒」にこだわる、というのは、あんがい特殊な嗜好である。
そもそも「染める」という行為は、かなり科学的(化学反応)なのであって、どうして繊維が「染まるのか?」をかんがえだすと、きっと夜も眠れなくなるだろう。

日本で明治以降、たまたま人類はその時期に「化学(合成)染料」を開発したので、それまでの「伝統的」な植物などから抽出した染料のうち、とくに「藍」が駆逐されてしまう。
「藍染め」を専業とする「紺屋(こんや)」のおおくが、さまざまな「染物屋」に変身を強いられたのが大正期だという。

東京神田にも現存する、「紺屋町」(こんやちょう、こんやまち、こうやまち)という地名は、読み方をかえて全国各地に残っている。
「残っている」のは、おおくが地名「だけ」になってしまった。

その理由が、合成染料によるとおもえば、「近代」がなしえた「功罪」のひとつである。
安価でカラフルな衣料品を着れるのは、合成染料のおかげである。

人間は衣をまとわないと生活できないから、繊維を撚って糸をつくり、それを織り上げて布にしなければならない。
そのままでは味気ないから、色をつけた。
結局のところ、手にはいる材料と好みで、民族の「色」ができる。

このあたりの詳細な説明は、名古屋駅から歩いてもいける「トヨタ産業技術記念館」で、たっぷりと味わえる。
名古屋いがいの中高生の、「修学」旅行にぴったりの博物館だ。
もちろん、おとなが楽しめないはずもない。

なるほど、わが国の近代化と「自動織機」の発明がセットになって画期的なのは、人類がもとめてやまない必需品である「布」を、おそるべき精度とスピードで織り上げることに成功したからで、当時の「先進国」がこぞって購入した意味がわかるというものだ。

敗戦しても、「繊維産業」がこの国を支えた事実にかわりはない。
いまはわが国を代表する総合商社だって、そのルーツは「糸偏」がつくことが多々あるのである。

陶磁器が「チャイナ」とよばれるように、「ジャパン」とは「漆器」のことをいう。
最高の「漆器」こそ、「漆黒」なのである。
その「黒さ」は、よくみれば驚嘆にあたいする美しさで、そのようなものを一般人が持つことなどなかったろう。

いつのころからかはるかむかしから、わが国では「養蚕」がおこなわれ、絹製品の光沢はあいかわらず雅である。
製糸工場の女工たちによる「生糸」が、最初の工業製品になるのは、歴史的な突飛さがなかったからだ。

かってな推測だが、絹の布こそが「黒」に染まったとき、「漆黒」のような輝く黒になったのではないか?
また、そうさせようと染め物職人たちが追究した。
そうであったから、「第一礼装」になりえたのだろう。

そんなわけで、藍染めの紺屋が、黒染めに転じて生き残りをはかったから、いよいよ、その「黒」が「黒さ」を増したのだ。
合成染料にだせない「色」なのである。

「伝統技法」として圧倒的な生き残りを果たしたのが、京都だった。

むろん、各地の藍染めの紺屋が、各地で黒染めに転じてもいるから、京都「だけ」というわけではない。
しかし、おおくが「黒紋付」という「一点」にこだわっているという特徴がある。

そこへいくと、京都では、本業の「黒紋付」にくわえて、洋装も「染め直す」という技法を開発している。
ここが、だてに「千年の都」ではない、あたらしい商品化、をもって生きのこる「都の伝統」があるのである。

日焼けしたのは、秋冬物のジャケットだったから、この夏場に注文すればちょうどいい、とおもいついたのである。
幸いなるかな、ウールやカシミヤ混という「天然素材」であったので、「うまく染まるはず」と案内された。

そして、先日、届いたのである。

さっそく羽織ってみれば、事前の説明どおりソフトな風合いになってはいるものの、みごとな「黒」で、しかも「喪服」ではない。

今シーズンは、ちょっとおしゃれな感じになれるかもしれない。

スマホで「数学する」アプリ

スマートフォンというのはちゃっかりコンピューターである。
人類は、自覚なしにコンピューターを持ち歩く時代に突入しているのだが、「自覚なし」だから、うっかりゲーム機として時間つぶしにつかってしまっている。

人生の時間は「有限」であることに気づくのは、ひとそれぞれであろうけど、なるべくはやく気づいたひとの方が自分の人生をたいせつに生きることができるだろう。

若いときは、時間は永遠にあるものだとおもっているものだから、ようやくさいきんになって「有限」だと気づいたのは、若くないという意味でもある。

ところが、「有限」だと思うと、こんどは妙になにかを学びたくなるもので、「識らぬで死ねるか」という感覚がふつふつとわいてくるから不思議である。
もしやこれが「年寄りの冷や水」ではないか?

まだ還暦になってはいないが、江戸末期=明治初期の日本人の平均寿命が50歳ほどであったことをおもえば、もはや「老人」になっている自分がいる。

そうはいってもいまさら「学者」を目指すべくもなく、うすい「趣味」の一環として「こんなもの」「あんなもの」をみつけると、それはそれで十分にたのしい。

スマホにはいろんなアプリが用意されているのは各人には承知のことだが、無料なのにあなどれないどころか有料アプリをしのぐような「傑作」がまぎれこんでいる。

「原子の周期表」関連では選ぶのが大変だし、「ベンゼン環」を手軽に描けるアプリもある。
「数学」では、「Maxima」という「公開アプリ」があって、無料関数電卓とは別の世界を提供している。

このアプリの前身にあたる「Macsymaシステム」は、MITで1968年から82年にかけて開発されたもので、完成後MITは「Macsymaソースコード」のコピーをエネルギー省に引き渡し、その後「公開」されていまに至っている。

つまり、個人のボランティアが製作したアプリではないし、ソースコードが「公開」されているので、世界中の研究者たちがいまも「改善」している「プロジェクト」になっているのだ。
これが、無料でつかえる理由である。

前も書いたが、わが国政府は政府が公開する各種資料に「著作権」をつける国だ。
この「成果物」の原資は、税金である。
すなわち、商用の「著作物」ではないばかりか、政府著作物は「国民資産」であるという感覚すらない。

アメリカ合衆国は、機密文書の公開には別のルールがあるが、一般公開の対象となる政府著作物に「著作権」をつける、という習慣が「ない」のは、「国民資産」であるとはっきり認識しているからである。
つまり、国民資産なのだから「コピー・フリー」なのだ。むしろ、どんどんコピーして国民のみなさんは「識ってください」という態度だ。

「資本と資産」を記述する複式簿記の概念は、資本主義発達の前提である。
株主の所有物である「資本」をつかって、いかにこれを「増やすか」を委託されたのが経営者たちだ。

だから、経営者が判断する会社の「お金のつかいかた」とは、株主のお金を委託された経営者が適切に「配分している」にすぎない。
「所有者は株主」で、これを委託されて「経営者が占有」しているのである。

わが国は、資本主義が「未発達」の不思議な状態のままでいるから、「所有」と「占有」の垣根があいまいで、占有者が所有者になってしまうのである。
民間でもこんな状態だから、国家権力を簒奪した役人たちは、出資者が国民であることを忘却して、なんでも自分たちのものだと思いこむのは、御成敗式目以前の中世時代の発想がいきている証拠なのだ。

日本国憲法29条には、財産権の絶対が明記されているけれども、民法162条では、20年占有した者に所有権が移転する「取得時効」があって、これの歴史的根拠が鎌倉時代の「御成敗式目」なのである。

つまり、わが国は「近代私法」が未整備の「未近代国家」あるいは「えせ近代国家」なのである。
とすればこそ、役所の著作物に「著作権」が主張されるナンセンスがはびこるのだ。

そんなわけで日本人でも何人でも世界中で、「Maxima」をつかえるのは、アメリカ合衆国が正真正銘の資本主義の国で、政府がただしき「著作権」の運用をしているからである。
これこそが、「繁栄」の根拠なのだし、わが国「衰退」の根拠でもある。

それでも、日本語でちゃんとした解説本があるから、民間を信じてよい。

おとなむけに、中学あたりからのやり直し数学の「Maxima」をつかった「授業」の本があれば、もっとうれしい。
「グラフ電卓の教科書がない」で書いたとおりである。