チバニアンの理不尽

地球の歴史に日本の地名「チバ」がつかわれるからと、妙にもりあがっている。
なるほど、めったにない「快挙」ではありそうだ。
それが、一転して「反対者が借地権をえた」ことで、国際的指定が絶望的になったという。
それで、この「反対者」である大学名誉教授が、悪の根源だという話題になっている。

例によって例のごとく、いろいろな「記事」をみたけれど、やっぱり「根源」の問題がみえてこない。
どうしてこうした「おなじ」論調の記事しかないのかが問題だ、という立場から、まとはずれを覚悟して書いておこうとおもう。

そもそも、この反対者は、推進派だった。
おなじ大学の後輩「現職」教授が中心になって推進することに「嫉妬した」のだ、ということがおおかたの記事における「推論」あるいは「示唆」である。
ならば取材して確認してほしいものだが、拒否されているとすれば、そうした「推論」や「示唆」で記事を書くひとたちこそが呆れる存在だとおかんがえなのかもしれない。

だから、平行線のままになって、悪いのは「反対派」というはなしにおちついている。

わたしが注目するのは、「反対者」と「反対派」という、なにげない書きわけだ。
「者」というばあいは、前述の、かつては推進派だった名誉教授をいう。
ならば、「派」とはいったいなにものたちなのか?
もちろん、ここに「土地所有者」である「地権者」がふくまれている。

一方で、さいきんの一連の記事に出てこない当事者たちがいる。
それは、この場所を国の「天然記念物」にしようとするひとたちと、千葉県、そして地元の市原市という行政である。

チバニアンが、国際的に重要な場所をさす、ということに一般的に気づいたのは、2016年のことだ。
当時の馳浩文部科学大臣が3月5日に発表してニュースになった。
これをうけて、市原市は翌年の2017年2月に国の天然記念物指定を目指すと発表した。
そして、2018年6月15日に、文化審議会が文部科学大臣にそのむねの答申をしたのだ。

もちろん、国の天然記念物指定を目指すと発表した段階で、市原市は「地権者の同意をえる」としている。
しかし、今回明確になったのは、地権者の同意を得られなかった、ということだ。

その「なぜ?」が、どちらさまの記事にも「ない」のである。

つまり、おそらく、反対派のなかでは、反対「者」の名誉教授がバッシングされればされるほど、結束がたかまるという現象がおきているのではないか?とうたがうのである。

全員が「祝祭モード」になってしまったから、一種の「祝祭ファッショ」になって、そもそも反対なんてありはしない、という思い込みがしょうじたのではないか?
それが、行政の側に発生すると、どうなるのか?
強権的「交渉」しかないではないか?

簡単にいえば、お前の土地をお上に差し出せ、という江戸時代的「行政」がおこなわれなかったか?ということだ。
この裏には、どうせ世界的な発見がなければ、たんなる未使用地でしかないし、それはつまり「無価値」を意味する。

もっといえば、行政の担当者にとっては、そこがどんなに学術的に重要な場所であっても、決められた予算で買収しないことには仕事にならないし、そのためにはその場所の価値なんてどうでもいい、という発想になる。
それが、優秀な行政マンの本質である。

これに、上述した「祝祭」が背景にあるから、「ファッショ」になれるのだ。

そうなれば、地権者だって黙っていられないのは人情である。
こうして、「反対派」が形成され、泥をかぶるのが確実の代表者に名誉教授がなったから、登記をともなう「借地権」が設定できた。

以上のようなシナリオを「推定」するのである。

このシナリオが意味するのは、「地元」行政がまったくなっていないことはもちろんだが、おそらく観光関係者にもおおきな夢を与えたろうから、そうした関係者が推す議員たちもだまってはいなかったはずだ。
このひとたちが、もっとも烈しく反対派を罵倒していることだろう。
つまり、損得勘定なのである。

ジオパークの貧困について前に書いたが、チバニアンがたとえ国際認定されなくても、その価値が減るわけではない。
それを、現職の学会が焦りをもった圧力を地権者(反対派)にかけるのは、学術をこえた行動である。
気持ちはわかるが、土地の権利に気がつかないほどの「専門バカ集団」なのかとついでにうたがう。

天然記念物なのかジオパークにするのかしらないが、「国際的登録」とならなければ「無価値」だという極端発想が、やっぱりファシズムをうむのだ。

そもそも、どんな「展示」でどんな「説明」をだれがどうやっておこなうのか?すら、よくわからない。
だから、「国際的登録」ができたとしても、ジオパークの貧困が改善されることはないのだろう。
いったいなにをもって「理想」としているのか?
関係者たちの「軽薄さ」が、明瞭に「発見された」事案である。

チバニアン饅頭だけがむなしく売れたかもしれない。

「超」先進国

わが国はとっくに経済では先進国とはいえなくなっていて、過去のなごりでなんとかしているけれど、特定分野において「超」がつく先進国ではある。
この「超」には、「人類史上初」という意味がある。

たとえば、高齢化社会になることは時間の問題として確実で、その人口構成における高齢化率が、「超」高齢化することになっているし、このことの分母における「超」として、人口減少がある。

ただし、少子化の原因とされる、特殊出生率にかんしては、韓国、台湾のほうがひくいから、少子化にかんしては「超」ではない。
わが国の「超」人口減少は、団塊の世代という終戦直後生まれの「超」高齢者たちが寿命をむかえることで、平時における世界史上初の人口減少社会になるのである。

これに、経済の分野でも「超」があって、ふつうに「マイナス金利」といっているけど、じつはこれも「人類史上初」のことだ。
金利の歴史からすれば、年率3%をしたまわることじたいが、400年ぶりということだが、それ以前の人類に「金利」という概念があったのだろうか?

さらに、この「マイナス金利」を実施した日本銀行という「中央銀行」が、「債務超過」になる危険性をおびている。
印刷物の日本銀行券とひきかえに、日本政府発行の国債を購入したばかりでなく、東京証券市場の株式を、どちらも大量購入した。

国債の価格は金利と直結していて、金利があがると国債価格は「下落」し、金利がさがると国債価格が「上昇」するのは、国債が発行されるときに、利率と償還期限がきまっているからである。
くわしくは、国債価格で検索されたい。

マイナス金利を実施しながら、2%のインフレ目標をかかげた日銀にとって、この目標が達成されると、保有している国債の価値が減ることになる。

さらに、金利があがるとふつう株式も下落する。
企業業績が心配されるし、おなじおカネを投資するなら、株式よりも安くなった国債のほうが有利になるからである。

日銀には、「通貨発行利益」があるからたとえ債務超過になっても「だいじょうぶ」と、先日、若田部日銀副総裁が発言している。

ここでいう、「中央銀行の債務超過」も、「超」なのだ。
それで、だいじょうぶという論と、だいじょうぶなはずがないという論とにわかれている。
人類史上初だから、どうなるのかの「前例がない」ので、議論が平行線を維持しているのだ。

ここまでが、国内の「超」である。
しかし、われわれは鎖国しているわけではないから、同時並行的に外国ではなにが起きているかに影響される。
人口のはなしは関係がうすいが、金利や経済にまつわるはなしはそうはいかない。

ただし、人口のはなしでも、自然増減と社会増減があって、社会増減のほうは、金利や経済に影響されて「移動」する。
富裕層を中心に、海外移住がブームなのは、このことを指す。

さて、世界に多大な影響をあたえる「超先進国」(超にカッコがない)は、だれがかんがえてもアメリカ合衆国である。
このアメリカ合衆国の人口構成の将来も、なかなかで、こんご四半世紀あまりで白人がマイノリティ化する可能性がたかいという、米国の国勢調査の予測がある。

さいきんの米国凋落論は、これをベースにしている。
これに、中国では、ひとりっ子政策による人口減少がやってくるから、経済力で現在世界トップ3の米中日では、それぞれの国内に「人口減少」という問題をかかえている。

これが、いまさかんな「米中経済戦争」の根源的問題ではないか?
世界覇権という「うまみ」を、維持したい国と奪いたい国とのあらそいだが、それがなぜ「いま」なのか?の理由になるからである。

台湾が深刻な様相で、なんとかアメリカの同盟国に昇格したいのも、台湾自体の人口減少が「超」であるからだが、なぜか韓国はちがう方向なのは、たまたま現政権の志向であるから、政権がかわればまた変わるだろう。

すると、こまったちゃんはわが国である。
こうした「動き」の表層しかみない、という傾向は、なんともゆがんだ上から目線なのだ。
あえていえば、韓国の現政権にちかい。

中国は、乾坤一擲、いましかチャンスがないとかんがえているふしがある。一種の焦りともかんがえられるからこわい。
これに対する米国に、トランプ政権が対峙しているのは、歴史の「妙」である。

わが国をアメリカ人が正直に「定義した」のは、カーター政権の国務長官だったブレジンスキーの『ひよわな花日本』(1972年、サイマル出版会)がある。

どういうわけか、わが財界は、またまた中国に加担したいとかんがえていて、これに与党自民党が同調している。
天安門事件を「なかった」と放送したのは、わすれもしないNHK「クローズアップ現代」であったし、世界から経済制裁をうけたなか、わが国政府だけが「支援」した。

その見返りが、尖閣なのだから、目も当てられない。
共産主義者はダブルスタンダードが基本だから、恩を仇でかえしてもなんともおもわない訓練をうけたひとしか幹部になれないことがまだわからないのか?

今日はその、天安門事件から30年の日なのだ。

あいかわらず、日本政府の「超」がつづくのは、売国行為ではないのか?

お客様は神様の神様とは誰か?

オリンピックのチケット抽選がはじまって、つぎは大阪万博だという気分の盛り上がりは、担当する役人にはあるだろうが、あまりの手続きの面倒さに、チケット抽選申込みをあきらめたわたしはいま、かえってしらけている。

過去の栄光に「しがみつく」日本経済を象徴するのがこのふたつのイベントの現代的意味であろうけど、それにしても無頓着な大盤振る舞いは、おカネが天から降ってくるとしか想像できない役人ならではである。

これに「地元経済界」がいっしょになって盛り上がっているすがたをみせるのは、まるで学校の文化祭でお化け屋敷をやるときめて張り切る側で、一般人は、なんで文化祭でお化け屋敷なのかがわからない側のようである。

経済成長まっただ中だった前回の大阪万博のテーマは「進歩と調和」という社会主義の栄光がうたわれたから、ちゃんと「ソ連館」もできた。
だから「全方位外交」の成果なんてことではなかった。
冷戦期のあだ花のような祭典だった。

これを企画した通産省の担当官は、堺屋太一だったから、わたしは彼の発想をずいぶんと疑っていた。
こんどの担当官はだれで、どんな発想の持ち主なのだろうか?

ただただ、快晴の青空に抜けるような三波春夫の「こんにちは、こんにちは♪」だけがいまも耳の中できこえる。

その三波春夫といえば、「お客様は神様です」という名文句がある。
彼の歌手(エンターテナー)という商売からすれば、舞台を観に来てくれたお客様をうらぎったら、どんなことになるのか?という意味だったかにおもえるが、あまりのわかりやすさに、例によって言葉の上っ面だけがひとり歩きしだしてしまった。

それで、どちらさまも、「お客様は神様です」といわないと、なんだかすわりがわるくなった。
ところが、そこがことばの本質で、ことばにしていっているうちに、だんだんと意識が同化してしまう。

そして、日本語でいう「神様」とは、八百万神のことを指すので、神頼みすると、人間のいうことをかなえてくれる感覚ともかさなるようになる。
だから、お客様の要望なら「無条件」にききいれれば、そのお客様がじぶんたちの願いをかなえてくれる、と信じたのである。

いっぽう、お客様の側も、さいしょはなんだか気恥ずかしかったが、だんだんと持ち上げられてきて、それが「あたりまえ」になったら、正々堂々とクレームをいうことが当然になってしまった。

こんなことから、神様と持ち上げる → だんだん神様になる をくりかえして、とうとうほんとうに「神様」になってしまった。

ところが、いぜんとしてその神様たちから願いごとの御利益がやってこない。
きがついたら、所得移転してしまって、提供者が貧乏になった。
この提供者に、材料を提供しているひとも、理不尽な値下げ要求に屈したから、やっぱり貧乏になった。

それがしゃくにさわるとおもった流通業が、レジ袋を有料にしたのだろう。
「環境問題」というあさってのトンチンカンで、流通業を後押ししてくれる役所は、流通業からなんとおもわれているかしらないが、レーニンふうにいえば、「役にたつ白痴」ということだろう。

英国で発祥して米国にも移転した資本主義は、キリスト教的清貧の精神が転化したものだという論がある。
よくみれば、アメリカの有名大学のおおくは私立大学で、そのまたおおくがキリスト教系ばかりなのである。
そんな学校が、世界のMBAを養成している。

キリスト教も、ユダヤ教も、イスラム教も、旧約聖書をおなじくするから、「神様」といえば、これらのひとたちからすれば「おなじ神様」しかうかばない。
この神様は、絶対神だから、人間のいうことをきいてくれることはほとんどない。

神様がかってにきめたことのなかに、たまたまいくつか人間にも都合のよいことがあっただけだ。
だから、「あゝ神様、神様はどうしてこんなにも神様をお慕しているわたしのいうことをお聞き及びにならないのでしょう」となげいても、せんない相手なのである。

そうすると、三波春夫のいう「神様」だって、「そっちの」神様のことではないか?

だから、御利益など最初から期待してはいけない。
一歩引いてみないといけないのだ。
すると、たまに神様と一致点があるかもしれない。

ならばこれを、たまにではなくて「いつも」に近づけたい。
これが、マーケティングの発想である。

三波春夫は、自身のマーケティングとして、「お客様は神様です」をやったのであって、全員がまねしてはいけないものなのである。
いいかえれば、マーケティングの「三波春夫モデル」となる。

げに恐るべき大スターではあった。

動物愛護法改正案の混乱

なにやら不思議な法律があって、5年に一回の改正パターンが「決まっている」のが動物愛護法である。
どうして5年に一回となっているのかしらないが、役人が起草する政府案がもとではなく、議員立法だという「決まり」もあるから「はてな」がつづく。

どういうわけかわが国では、議員立法というと「格落ち」の感がある。
立法府にいる議員の主たるしごとは「立法」なのであるから、議員立法こそが本業発揮のバロメーターになるはずなのだが、役人案である政府案の追認こそがしごとになっているという本末転倒が、政治の貧困のわかりやすい例である。

何期も連続して当選しても、生涯一回も議員立法の提案をしたことがないひとはだれか?とか、ことし上半期の議員立法提案議員ベストテンとか、ワーストテンを報道するのが報道機関(政治部)のせめてものやくわりではないか?

そのうえでの「政局」ならまだしも、新聞の政治欄が政局「だけ」だから、週刊誌とかわらない。
新聞は週刊誌よりも高級だというのなら、ちゃんと「戦略」をかたれる政治家を育ててほしいが、明日の戦術「しか」質問しないから、その程度の集団におちついてしまう。

外国人記者のような「戦略」をきく鋭い質問をするひとが記者会見場にだれもいなくて、パソコンのタイピングの音しか聞こえない不気味さは、なんなのだろうか?

ICレコーダーで録音した音声を、あとで自動的に文字おこしさせればよくないかとおもうが、きっと自分がそこにいる意味がないからタイピングのはやさと正確さを競うしかないのだろう。
日本の記者は、ろくに質問もしない、たんなる高速タイプライターでつとまるようになっているので、AIに代替される職業になるだろう。

前回の動物愛護法改正で残った問題も、たくさんある。
なかでも、「ペット(愛玩動物)」の流通がおおきな問題になっていた。
もはや、人間の子どもよりペットの犬や猫のほうがたくさん生きているのがわが国の実態である。

それで、ペットといっしょに旅行もしたい、という要望から、ペットと泊まれる宿が、全国にひろまった。
そこでは、ほとんど人間並みのサービスが要求されるから、ペットがよろこぶ宿でないと、リピートしてくれないことになる。

「ペット流通」の問題点は、供給面とアフターケアという入口と出口にある。
供給面では、子犬や子猫の「販売」にかかわることで、アフターケアとしては、飼い主の高齢化と老犬・老猫の対策であって「動物愛護センター」での殺処分ゼロと里親さがしのはなしになる。

こんかい炎上したのは、供給面である。
およそペット先進国といわれる外国の「常識」に、「8週齢規制」がある。

これは、うまれたばかりの「子犬」や「子猫」における、母親と兄弟たちとの生活における「社会化」が、「8週齢」までのあいだに形成されるから、それまでに引き離して個体のあつかいをしないというルールである。

このルールによって、社会化を経た個体とそうでない個体への躾(人間社会で暮らす方法の教育)の効果がことなるという。
だから、しあわせなペットとしては、社会化経験の有無が、その後の一生を左右する問題になる。

人間の寿命が延びたけど、犬の寿命も延びている。
人間が80歳をこえるレベルで、犬は15歳から20歳ということになるから、犬にとっての時間は人間の4倍以上ですすんでいる。

だから、8週齢とは、たったの1週間×4×2、という計算ではなく、さらに4とか5以上を掛けないと、人間と比較できない。
つまり、ほとんどヒトの1年に相当するのだ。

この8週齢規制を、日本犬(6種:柴、秋田、甲斐、北海道、四国、紀州)は除外して、7週齢でも取引を可能とする「付則」をつけることが急遽きまったというニュースから、各動物愛護団体が猛反発したのだ。

理由は、「天然記念物」だから、ということだから、よくわからない。

それにくわえて、この規制「緩和」をしたのが、公益社団法人「日本犬保存会」(会長=岸信夫衆院議員)と同「秋田犬保存会」(会長=遠藤敬衆院議員)だと明記して「報道」した。

理由の取材があいまいなままで、安倍首相の実弟の名前をあげている。
あたかも、供給者の都合に配慮したようにおもわせるが、実態が報道からはわからない。

つまり、緩和の理由がよくわからないままで、ある方向に仕向けることをしているのだ。

もちろん、字面をよめば動物愛護団体の猛反発はわからないではないけれど、なんだか踊らされている感もある。

まことに報道の質のわるさが、社会に迷惑をもたらすものだ。
これを「偽善」というのではないか。

労組が消費増税に賛成する国家依存

「反対」があたりまえかとおもっていたら、意外にも「連合」が消費増税に「賛成」するというニュースがでたからおどろいた。
連合が支援するはずの野党はこぞって「反対」の意思表明をしているから、参議院選を目前にこの「ねじれ」をどうするのか?

経営者団体も「賛成」をしているので、ここに「労使協調」が成立したようなものだ。
双方の共通点はなんだろう?
それは、「国家依存」というキーワードがみえてくる。

経営者団体は、補助金がほしい。公共事業がほしい。
つまり、財政政策による国のおカネに依存しているから、財政の「健全化」による消費増税に賛成するという論理だ。

一方で、連合は、将来の年金がほしい。老後の安定がほしい。
つまり、年金財政による国のおカネに依存しているから、年金支出を「確実」にするという消費増税に賛成するという論理だ。

どちらも、「政府依存」はおなじである。

ようは、自分の稼ぐ力を強化しないで、補助金や公共事業をほしいということは、一種の社会的な麻薬をもっとくれといっているにすぎない。

それは年金もおなじで、「掛け金」という名にだまされて、民間の養老保険のように、自分のおカネを積み立てているようで、ぜんぜんそうではない「賦課方式」になっている。
このことの歴史背景はずいぶん前にかいた。

ところが、あらふしぎ、厚生労働省のHPには「日本の年金は賦課(ふか)方式」というマンガによる「丁寧な」解説があるのだが、上述の歴史的事情には一言もふれず、「積立方式」よりも「賦課方式」がすぐれているのだという「プロパガンダ」が堂々と掲載されている。

団塊の世代という巨大な人口のかたまりが、若くて現役バリバリだったから、「賦課方式」が成立したのだという説明もない。
その人口の巨大なかたまりが後期高齢者になろうとしているけれど、現状の若くてバリバリ働いているひとの数がぜんぜんたらない。

だから、年金資金の枯渇という問題が発生しているのだ。
ましてや、積立方式がインフレに脆弱だという指摘も、「金利」を考慮すればトンチンカンなはなしだ。
インフレになれば、そのぶん金利も上昇するからだ。

つまり、年金が政府のしごと、にはならない。
むしろ、政府のしごとにしてしまったから、民間の生命保険会社をふくむ金融機関におカネがまわらない。
これが、民間にかんじんな投資資金がまわらない元凶ではないか?

この秋に予定されている増税分は、軽減税率分やら教育無償化いろいろで、おおくて約3兆円とみこまれている。
これしかないのに、それで年金資金が「安定」などしない。
むしろ、過去二回がそうであったように、消費不況におちいる可能性のほうが高いから、法人税収が減少するだろう。

くわえて、あの金融庁が5月22日付けで『「高齢社会における資産形成・管理」報告書参考資料(案)』というものを発表した。
ぜひ金融庁のHPからダウンロードしてよむとよい。

まず、労働組合なら、まっさきに「継続雇用後の給与水準の変化」というページを議論すべきだろう。
1000人以上の大企業だと、40%~50%以上減少するというのが60%もあるのだ。

つまり、従業員の奴隷化ではないか?

同一労働同一賃金は、なにも雇用形態における正社員と非正規社員との問題だけではない。

企業の側は、すでに制度として継続雇用があるし、定年制の延長すら法的処置がとられるながれになっている。
すると、従業員の職務能力をいかに高めるか?ということに取り組まないと、めったなことで正社員を解雇できないのだから、当然の課題なのだ。

すると、労使双方で、価値の高まる業務とはなにで、そのための訓練方法を見出さなければならない。

年金のために増税賛成は、安逸すぎる決定ではないのかとおもう。

さらに、この参考資料(案)によれば、「ライフステージに応じて発生する費用等の例」として、資産形成と年齢がグラフになって表現されている。

どうみても公的年金「だけ」では、高齢期の不安が解消されない。
つまり、公的年金「依存」すら、人生の最後には危険思想なのだ。
そのために、「自助努力」しなければならないのは、なにも国からいちいちいわれる筋合いのものではない。

この金融庁の発表に、それぞれの「批判」があるが、目立つのは「国家依存」しているひとたちからの怨嗟の声である。

従来の政府の説明とちがうではないか!

どういう根拠で政府を信じていたのか?そちらに興味がある。

中国人からまなぶもっとも重要なポイントは、「ぜったいに政府をしんじてはいけない」なのだ。

しかし、こうしたアナウンスが政府機関から発表されたことは、とくにこれからの若い国民にとってはよいことである。
自分の生活は自分でまもる。
自分の人生は自分のものである。

むしろ、一日でもはやく「年金」や「健康保険」制度を廃止してもらいたい。

どうやって積み立てるのか?
自分でかんがえなくてだれがかんがえるのか?
ほんらい、そのための教育がひつようなのであって、共産党宣言にある「無償化」ではないのだ。

連合には猛省をうながしたい。

BBCの李登輝独占インタビュー

日本の公共放送が意識しているのは、とうぜん英国のBBCだとおもうが、そのレベルのちがいがネットの普及でわかりやすくなった。

2014年だからもう5年もまえになるが、BBCが李登輝元台湾総統に独占インタビューしている映像が、なんだか突然ヒットした。
中国語でのインタビューだが日本語字幕もついているから、なにをはなしているのかはちゃんとわかる。

「哲人政治家」といわれ尊敬をあつめるのは、プラトン以来の憧れである。
アジアでこれに匹敵するのは、インドのガンジーとシンガポールのリー・クワンユーというひともいるけれど、生存している、という条件をあえてつければ李登輝をおいておもいつかない。

1999年(平成11年)のベストセラーになった『台湾の主張』は、司馬遼太郎の『街道を行く40 台湾紀行』にある「台湾に生まれた悲哀」を受けてかかれた「返歌」のような意味もあったかにおもう。

 

もちろん、内容的に文句はないが、わたしに衝撃的だったのは、むしろその後に出版された『武士道解題』のほうである。
21歳まで日本人だった岩里政男が、李登輝と名乗らなければならなくなった「悲哀」が、おもいきり「昇華」しているからである。

ほんらい、台湾の国民党独裁を総統直接選挙にまで変えた、自由と民主主義のひととしてもっと日本の放送局が積極的に取りあげるべき人物が、一方の大国に気をつかって無視する態度にてっすることこそ、武士道にも人道にも反している。

『台湾の主張』には、自己の体験から、学徒出陣で軍隊にはいって、敗戦して故郷の台湾に帰ったら、日本語をつかってはいけないと命令されたので、じつは中国語がたいへん不得意なのだという告白がある。

岩里政男青年はたいへん優秀であったのだが、地元台北帝国大学には入校できず京都帝国大学に入学している。
それで、学徒出陣になって大阪師団に入隊し、陸軍少尉で終戦となった。

いまの大学とちがって、旧制大学のレベルの高さはくらべようもないから、岩里政男青年がいう、むずかしいことはいまでも日本語でかんがえる、というのはうそではあるまい。

冒頭のBBCのインタビューでも、ときどきことばに詰まると英語がでてくるが、よくきいていると、あんがい日本語が中国語のなかにちらついている。

岩里政男=李登輝は、日本がうんだ哲人政治家なのである。

だから、沖縄・台湾県になって、県庁所在地は那覇のままでもいいと言い放つのは、国際政治の微妙なニュアンスとは関係なしに、岩里政男という人間にたちもどれば「当然」のことなのだろう。
あえてニュアンスを解釈すれば、沖縄・台湾県では大きすぎるから、台湾道として道庁所在地が台北を希望しているのだともとれる。

じっさい、台湾の帰属問題は、マッカーサーが曖昧な処置をしたから、ほんとうは国際法的にきまっていない。
台湾を中華民国という国が実効支配している、という状態なのだ。
だから、彼の頭の中は、台湾と中華民国は同一ではない。

むしろ、中華民国という膜のような存在をとっぱらって「台湾だけ」になってすっきりしたい。
だから、大陸がいう一つの中国なんてうけいれられるわけがない、と。

尖閣の領土問題も、日本領だといいきるのは、こんどは李登輝になって、台湾政府の役人だった経験から、漁業問題はあったが領土問題は一切なかった証言している。
沖縄の漁師が尖閣でとった魚を那覇よりもちかい台湾の基隆にもちこんで、そこに漁業基地もあったということだ。

いまどきの日本人は、台湾が日本領だといえば、おどろくほどになってしまったが、台湾は中国領だという根拠より、よほど強固な理由がある。

南太平洋を支配する「南洋庁」が設置されていたパラオでは、日本の委任統治からアメリカの信託統治にきりかわっている。
日本が委任されたのは「国際連盟」からで、連盟脱退後も「委任」されている。
アメリカが信託されたのは「国際連合」からである。

そのパラオが独立したとき、最初の国政選挙もおこなわれ、最初の国会で「日本になりたい」が全会一致で決議され、直接選挙でえらばれた大統領がこれに署名した。
日本国政府はこの決議にたいして、東アジアの国々に「領土的野心はありません」といいたいがために、これを拒否している。

パラオの民主主義を無視する、日本国とはなにものか?

李登輝からみれば、なんの反省もしていない薄っぺらな日本が透けてみえたことだろう。
戦前の日本なら、国を挙げて悩んだはずである。
現代の日本がそこまで気をつかう国が、台湾の独立を脅かす独裁国家だし、このニュースを覚えている国民すら皆無だ。

そして、その独裁国家にかしずくのが、わが公共放送をはじめとするマスコミであるから、はなしにならない。
世界を支配した英国がすばらしいとはいわないが、独立自尊の精神すらうしなえば、だれからの尊敬もえられない。

李登輝の長命は、日本人がよろこぶべきことである。

「教科書」が読めないおとなたち

ふとしたことでよくわからなかったことに合点がいくことがある。

たとえば、たまたまではあろうが、このところ、自動車の乗降において、子どもを「右側ドア」からおろしたり、乗せたりする光景をつづけて目撃した。

あぶない!
のは、当事者の子どもだけでなく、当方もおなじで、もしこの子たちがそのまま道路にでればこちらと接触してしまうかもしれない。

さいきんはスライド式ドアというものがふえたから、いきなりドアが開いて後続車の進行をさまたげることはないが、右側(道路側)ドアがスライドして開くさまは、うしろからは見えにくいから、子どもが注意深く半身を出すことでドアが開いていることを確認できる。

おそらく運転している親とおもわれるおとなは、「後ろからの車に注意しなさい」といっているのだろうが、ドキッとさせられる当方には、はなはだ迷惑な運転手である。
もちろん、こちらに注意をうながすすべはとっさにはクラクションしかない。

これを、安全管理上、「ヒヤリ」と「ハット」という。
おおくの「事故」は、事前に「ヒヤリ」と「ハット」の経験があるから、安全会議という定例会で企業は、そうした「ヒヤリ」と「ハット」の発生事例と対策をかんがえ、事故防止をはかるのである。

ワンボックスカーでも、一部車種には右側にスライドドアがないものがある。
あるのは、運転席のドアだけだから、後部座席のにんげんは左側(歩道側)からしか乗降できないので、安全対策としては万全だ。

それにしても、右側からじぶんの子どもを乗降させるという危険行為をする親とは何者なのか?とおもわずにはいられない。
もちろん、駅の貧弱なロータリーでは、いうなれば追い越し車線に停車して、そこで左側のドアで乗降させるひともいるから、うっかりできない。

自転車通学をゆるしている学校での安全教育はどうなっているのか?
地方にいくと学校指定のヘルメットをかぶっている中学生をみかけるが、高校生になるとヘルメットの着用どころか両耳ヘッドホンをつけているから、およそ安全という視点では「退化」している。

両耳ヘッドホンを着用した女子高生の自転車が老婆と衝突して、はずみで頭をつよく打った老婆がなくなる事故があった。
民事裁判で、この女子高生に1億円の損害賠償責任が確定したから、十代のわかさで1億円の負債をかかえこんだのは、一生の不覚ではすませられない。

だから、よほど全国の学校もこの事故の教訓をもって、注意喚起と安全教育をしているのかと思いきや、そんな様子はぜんぜんみられない。
「リアリティの欠如」なのかなんなのか?
日常的に両耳ヘッドホンの自転車学生を目撃している。

それでかしらないが、自転車に賠償保険をつけることが義務化された。
保険があるから「安心」なのではなく、安全をはかることが先なのだ。

2019年ビジネス書大賞受賞ほか山本七平賞、石橋湛山賞、大川出版賞、日本エッセイスト・クラブ賞と賞だらけ『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』新井紀子(東洋経済新報社、2018年)を読んで、はたと気がついた。

教科書が読めないのは、子どもたちだけでなく、その親もあたるのではないか?
いやいや、わたしだってそうかもしれないと、じぶんのことをかんがえた。

著者によれば、こころある教師たちも、著者が中心になってつくった「確認テスト」を受けているという。
すると、あろうことか、教師だって教科書を読めていないことがわかってきたのだ。

この事実に愕然とした教師たちが、どうしたら教科書を理解できるようにおしえることができるのか?という課題にとりくみはじめて、そんな教師がいる学校では、めざましい成果がでてきているという。

これは重大な情報である。
昨年、「孟母の絶滅?」という記事をかいた。
もし、まだ「孟母」が生存しているなら、このような教師がいる学校に一日でもはやく転校させるべきだ。
このような学校が人気校になることで,教師たちの努力が「まっとうに」評価される.

「教科書が読めない」ということは、「読解力がない」ということだ。
これは、日本語がわからない、ということにひとしいから、将来、どんなことをしてもうまくいかないという「未来図」が、その子どもに貼りつけられたも同然だ。

つまり、約束された貧困がまっている。

親の資産があるうちはいいが、そうでなければかなりの確率で不幸になる。

しかし、これは生活経済の事情のことばかりではない。
「読解力がない」ということは、事前の予測もできないからである。
事前の予測ができるとは、論理構成がはかれる、ということだ。
このように「読解力がない」という一言には、あらゆる面での基本的な能力がない絶望的な意味がある。

わが国は、読解力がない人間の国になっているとかんがえると、説明がつくことがおおそうだ。

だから、公道上で右側のドアをつかうとどうなるかがわからない。
そんな親の子に生まれたら、どこで命を落とすかもわからないのだ。

それにしても、どうしてこんなに「読解力がない」事態になったのか?
たんに教育の荒廃ではすまされないおおきな問題がありはしないか?

わたしは、現代の栄養失調「ミネラル不足」をうたがっているがいかが?

ただのピエロだった

今月、選挙後の札幌市議会での議長選出をめぐる「混乱」についてかいた。

事前の会派間の談合で、新議長候補を決めておきながら、「選出」にあたっては「無記名投票」をする慣習に異議をとなえた長老議員が、臨時議長として「立候補制」を突然いいだして持論を曲げなかったのが「混乱」の原因だった。

これを「議会改革」というひとがいないことを不思議だとかいたのだが、とうとう張本人が27日の議会で「土下座」して「詫びた」というから、これはこれで尋常ではない。

この行動は、当日、懲罰委員会の設置が議論されることになっていたからだという。そして、「懲罰」には、議員の身分をうしなう「除名」まであるから、これを回避するためのパフォーマンスではないかとのみかたもあるという。

そして、例によってこの議員を擁護する報道機関の論調はなく、「市民もあきれる」といって本人を責め立てている。
わたしはいま、横浜市民のひとりだから、札幌市には関係ないが、まことに「残念」なはなしである。

今回の土下座と議会双方が「残念」なのだ。
どうして「土下座」したのか?
ことの発端の、「議長選出方法」についての議論を深める努力がみえてこないことがいちばんの「残念」で、議会の外の市民に向けた説明もあったのかなかったのか?がわからない。

「土下座」によって、単なる「思いつき」になってしまったことも「残念」だ。
すなわち、この議員の行動を「非難する側」にみずから与してしまった。
これでは、議会改革の蟻の一穴ではなく、ただのピエロであると告白したも同然だ。

いっぽう、議会の側の「勝利」とはなにか?
楽ができる慣例を「守った」(保守した)ということだけで済んだということではない。

むしろ、「外れ値」のように跳ね上がった存在は、懲罰委員会にて「懲罰」してくれる、という権力むきだしの牙を市民にみせびらかした。
これに、マスコミも同調して、「除名」をちらつかせるのは、脅迫ではないか?

選挙で選ばれた、という身分だから議員資格はおもいのだ。
それを、慣例を破ろうとした、ということで、どんな「懲罰」がありうるのか?
対象の議員は、慣例を破ろうとした、のであって、破ってはいない。
混乱のあげく、臨時議長を解任されたから、本人の主張である「立候補制」はできなかったのである。

つまり、ことの経緯をトレースすれば、多数の慣例を維持したい派は、臨時議長解任すら当初できなかったのであって、すなわち、9時間も議会ジャックされたのは、会議のすすめ方をしらないひとたちが多数の「議員」であるという意味にもとれる。

もしかして、このような議事進行の事例がないから、議会事務局=政令指定都市である札幌市役所が、総務省の担当官に相談の電話をいれて、どうしたらいいかを検討して、その回答をえることにようした往復時間ではないか?

これが、札幌市議会の慣習を守ったということだとすれば、呆れるほどの堕落した議会である。
だから、市民が「あきれる」というのは、どちらのことなのかという「主語」を省略してはならない。

さて、これで構図がみえてきた。
つまり、議会のやくわりが形骸化している、という姿で、巨大化した行政による支配が確立しているのである。

だから、なんど選挙をおこなおうが、だれが議員に当選しようが、行政の大勢に影響はない。
もちろん、だれが市長になろうが、でもある。

フィリピンでは、ドゥテルテ大統領の長男が国会議長に「立候補」したら、父である大統領が辞任するといって話題になっている。

つまるところ、この国の地方自治体すら、民主主義ということにはなっていない。
中国人の党幹部が憧れるのが日本である理由である。

しかし、これは「自分たちで決めたこと」への覚悟がないことを意味するから、だれか(役人)に決めてもらうことの居心地のよさでもある。
日本人の役人は、中国人のように乱暴・乱雑な命令はしない。
おなじ内容でも、もっとゆるやかにかつ緻密に実行するから、住民が気がつかない。

気がついたときには、もうすっかり実行されていて後戻りができないのである。
こうして、えんえんと行政が自分できめた施策をおこなうから、議会もなにもぜんぶが「決めたこと」というかたちがあればよい。

だから、わが国に「電子政府」はこない。
行政のちょっとした手続きすら、電子化されたのは通信手段だけであって、「向こう側のひと」が、手作業で処理している。
つまり、テレビの中にホンモノの人間がいる状態なのだ。

なぜプログラム化されないのか?
「裁量」という部分が、計算式にできないからである。

なんのことはない、議会も住民も、役人からすればみんな「ピエロ」にすぎないのだ。

副業の残業代はだれが支払うのか?

企業が「稼ぐ自信」をうしなって、とうとう「副業」をゆるすようなことがトレンドになってきている。
従業員が満足できる賃金をはらえないから、どこか別の職場で稼いでもいいよ、という「軽さ」が気になる。

「賃金」というものは、なにか?
たんてきに、「労働の対価」である。
だから、「労働」の価値と「対価」というおカネが、どうなっているのか?ということが出発点になる。

ろくに仕事をこなしていないのに、たくさんの対価をはらうことはできない。
いっぽうで、ちゃんとした仕事をしているのに、これっぽっちしかもらえないのではこまる。

けっきょく、このふたつを結ぶのは、あたりまえだが「仕事」なのである。
つまり、その「仕事」が価値をつくっているのか?いないのか?という問題だ。

物理では、なにかの物体にはたらきかけて、それでなにかがおきることを「仕事」というから、「仕事」があたらしい価値をつくったかどうかは問わない。
しかし、ふつうの企業でそんな「仕事」を「仕事」といったら、お客さんからおカネがもらえないから「ムダ」になる。

つまり、企業内の「仕事」は、お客さんからおカネがもらえるものを指す。

経営者と従業員が、以上のことで同意がとれていればいいが、どこまでがおカネになる「仕事」で、どこまでが「ムダ」なのかがわからなくなっていることがある。

それが、時間経過のなかで「むかしからやっている」だけが理由になると、ほとんど「ムダ」の部類になる。
それで、たまには「仕事の棚卸し」ということをやって、自己チェックしないと、わかるものもわからない。

従業員はいそがしく働いているのに、会社がぜんぜん儲からないのは、およそこの「ムダ」が「仕事」になっているからである。

ならば、どうやって「棚卸し」をするのかといえば、白紙から業務を設計し直しのがいちばんわかりやすい。
けれども、手間がかかる。
それで、この手間をはぶいて「棚卸し」するから、たちまちなにが「仕事」でなにが「ムダ」かがわからなくなる。

従業員は、いつものやり方を変えたくないから、ぜんぶ「必要」な「仕事」だとこたえるから、現場にいっても解答がみつからない。
こうして、いつまでたっても「ムダ」に経費をかけて、儲からない。

それで、どこか別の職場をみつけて、そちらでも働いてよいということになれば、従業員はおカネを効率よくもらえるのがどちらかすぐに気がつくから、元の会社で残業せずに、あらたな稼ぎ先に急いでいきたがるだろう。

だから、元の会社では残業代がへって、よかったになるのだが、ほんとうにそれで儲かるようになったとはいえない。
ほんらい今日やるべき「仕事」が明日に後回しされれば、納品期限が間に合わないから、「ムダ」だけが自動的に削減されるということでもない。

このはなしの行き違いは、あたらしい稼ぎ先でも発生する。
元の会社ではたらいた時間が、もしもフルタイムなら、副業先のあたらしい稼ぎ先では、「残業代」がストレートに発生しなければならない。

けれども、副業先をさがすのに、自分はフルタイムではたらいた後だから、こちらでの仕事には残業代をつけてください、というはずがない。
それに、採用する会社だって、出勤前にどこかで働いていますか?ときくことはないから、けっきょくこのはなしはどこにもでない。

それでそのままならいいけれど、なにかのことで「労災事故」でも発生すれば、たちまちに本人の「働きかた」が調べられることになって、いきなり表沙汰になるのである。

役所というところの特性で、鬼の首を取ったようなことになるのは当然で、これに残業代も請求できるという知恵があたえられれば、たちまちどちらの会社に請求すべきなのかが議論になる。
当然、役所はどちらでもいいから払えというだけだ。

さて、本人はどうしたらいいものか?
元の会社も、副業先も、どうしたものかとなって困り果てるのである。

このはなしの原因はなにかといえば、やっぱり「36協定」がないことにある。
「働く」ということについての、「働く側の無知」と「働かせる側の無知」との掛け算になる。

学校をでた若者が、「働く側」として労働力を提供するあたっての、「働く側の無知」を解消してくれるセミナーがない。
そして、「働かせる側」すら、経営者にそれがどういうことかをつたえるセミナーがない。

あるのは、役所という変な存在だけがみえてくる。
ほんとうに、このひとたちはなにをやっているのか?
こうした教育をすべきだが、法律にないからできないのだ、といえばまだしも、このときとばかり受身の「行政官」に徹するからたちがわるい。

こうして、副業の残業代は宙に浮いて、とうとう宇宙をさまようのである。

共産党宣言を実行する安倍内閣

「いまさらですがソ連邦」という本について書いたから、いまさらだけど『共産党宣言』を読んでみて、どこかでみた項目が載っていたからおどろいた。

どのくらいの日本人が、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読み込んでいるのかはしらないが、でた当時は「発禁」だったから、さぞやおおくの知的エリートたちがこぞってないしょで読みふけったことだろう。

もちろん、崩壊したソ連・東欧という事実の歴史をしっているし、中国も共産党の政治支配はあるが、改革解放という名目で資本主義経済を採り入れてしまったから、この地上に純粋のマルクス主義の国家なんて存在しないとほとんどのひとが信じている。

あにはからんや、わが日本国という「成功した」共産主義国がある。

いまさら感をたっぷりもって『共産党宣言』を読むのは、あるいみ知的好奇心をみたしてはくれるが、くれぐれも、この本の内容は「空想」にすぎない、ということをわすれてはならない。
いってみれば、『不思議の国のアリス』を読んで、それが現実だとかんがえたら「あぶない」ということとおなじだからだ。

 

そういういみでいえば、むかしのひとたちの想像力は旺盛であった。
『共産党宣言』が現実だと信じるまじめさは、その後の独裁政権による数千万人がこうむる悲惨の原因となるからである。

それは、やり方がまずかったのだ、という理由をあげて、共産主義はまちがっていない、と主張するひとたちもいる。
これを論破したのが、ハンナ・アーレントのしごとで『全体主義の起源』という大部冊がある。

あんまりの大部冊だから、NHKの番組をみなくても上記のテキストであんがいちゃんと説明してくれているのは、ありがたいことだ。
もちろん、知的好奇心旺盛なひとは、原典を読破されんことを。

さて、それで、『共産党宣言』にどんなことが載っていておどろいたのかにはなしをすすめる。
それは、「第二章 プロレタリアと共産主義者」に、共産党の政策を「10項目」挙げているのだ。

1.土地所有権の剥奪、および地代を国家の経費にあてること
2.強度の累進所得税
3.相続権の廃止
4.すべての移出民および反逆者の財産の没収
5.国家の資本をもって全然独占的なる国立銀行をつくり、信用機関を国家の手に集中すること
6.交通および運輸機関を国家の手に集中すること
7.国有工場の増大、国有生産機関の増大、共同的設計による土地の開墾および改善
8.すべてのひとに対して平等の労働義務を課すこと。産業軍隊を編成すること(ことに農業に対して)
9.農業と工業との経営を結合すること。都会と地方との区別を漸漸廃すること
10.すべての児童の公共無料教育。現今の形式における児童の工場労働の廃止。工業生産と教育との結合等。

かくて、発達の進行につれ、階級的差別が消滅し、すべての生産が、総個人の協力(全国民の大組合)の手に集中されるならば、そのとき公的権力はその政治的性質を失う。

とある。(青空文庫版:堺利彦・幸徳秋水訳、より)
訳がふるいのはしかたがない。

1は空き家対策として、あるいはオリンピック選手村、2はすでにおこなわれているし、4は「出国税」として海外移住するひとたちへのたくらみが進んでいる。

5は、平成バブル崩壊後に政府から日銀を独立させる日銀法ができたのに、安倍内閣はこれを「正す」(政府配下にもどす)と脅して、白川氏から総裁の座をうばった経緯があるし、金融庁が全国の金融機関を支配している。

6は、国鉄の民営化をもってあたらない、というわけにはいかない。
国土交通省という役所が、金融庁とおなじやり方ですべて(陸・海・空)の交通機関を支配している。

7は、産業革新機能がやらかした失敗に象徴されるが、金融庁や国交省と同様に、経産省がわが国の「産業」を支配している。

9は、日本版コルホーズの農協と、国土総合開発計画があたる。震災以後は「国土強靱化計画」に看板をすげかえている。

10は、いま、まさに推進されようとしている。児童手当の露骨な変容で、授業料がただになれば、学校に文句をいいにくくなるし、教育委員会という無能官僚集団をより強化することがほんとうのねらいだ。

そして、「かくて」以下の文章の非論理性は、まったくお話にならない。

いかがであろうか?
歴代自民党政権も、細川政権も、民主党政権も、共産党宣言の政策をまじめに実行してきたのだ。
つまり、わが国は、みごとに共産主義国家になろうと努力してきた。

なるほど共産党のかげがうすくなったのも、政権党がこぞって共産党のあるべき政策を追求しているからにほかならない。

そして、この「事実」が、わが国衰退の原因なのである。