信じる「理論」があるなら

子どもは自分が好きなはなしを、何度でもききたがる。
物語の読み手である親が飽きてしまうが、そこは親心でグッとがまんして何度もおなじはなしをしてあげるものだ。

おとなになると、いろんな本や情報をえて、それぞれに好みができあがる。
それで、自分が好きなかんがえ方がだんだんと自覚できるようになる。
だからこそ、若いうちにいろいろな方向のものをそれこそランダムに経験することが重要になる。

ただし、これには「育ち」という基盤があって、両親や親戚、ご近所などとの生活のなかで、価値感というものが埋めこまれていくのが最初の経験になる。
英国では「保守」の思想、米国では「自由」の思想がそれだ。

わが国ではどうなのか?
「他人に迷惑をかけない」思想になったとおもう。

これは、英国の「保守」でもなく、米国の「自由」でもない。
「他人に迷惑をかけなければなにをしてもいい」という思想は、けっして米国の「自由」思想ではない。
米国の「自由」には、他人から命令されない、つまり、自分のことは自分できめる、という意味があるからだ。

いま、職場での不適切な動画が問題になっているが、不適切なことをしでかした彼らは、とうとうなにが「他人の迷惑になるのか?」という基準まで喪失してしまった。

彼らの「育ち」が、どうやらまちがっていたのだろう。
つまり、彼らの周辺にいたおとなたちの「育て方」のまちがいがあらわれたのである。

だから、本人たちには刑事罰が、周囲のおとな、端的には両親に損害賠償請求がされるのは、しごく当然ということになる。

ところが、これらの事象には、わが国の価値感がとっくに溶け出したことが「育ち」の問題になったのだとかんがえられるから、けっして特異な事件ではない。

つまり、職場にスマホなどの持ち込みを禁止する規則をつくったところで、防止策にはならないのである。
べつに、影像をネットにアップしなくてもよい。

もちろん、しかけた影像をアップすることが目的だともいえるのだが、価値感が溶け出したのだから、愉快なおもいはそこで終了してもよい。
行為自体の発散か収束かのちがいだけになる。

とうとう、会社が従業員の仕事ぶりを撮影して監視しないと、なにをしでかすかわからない状況になった。

これを、「サボタージュ」といわずしてなんというのか?
日本語の「サボる」ではなく、原義の「Sabotage」のことである。
むかしは、労働争議での戦術だった。
いまこの国では、価値感の崩壊から自然発生しているのだ。

一時代を区切るとき、だいたい30年を単位とする。
ちょうどよいことに、平成時代が一時代にあたる。
その30年前は、昭和34年で、さらにその30年前は昭和4年。

不適切なことをしでかしているのが、だいたいいま18歳くらいだから、この子たちがうまれたのは平成12年(2000年)だ。
そのとき親が30歳なら、昭和45年(1970年)うまれ。
そのまた親も30歳で親になったなら、昭和15年(1940年)うまれである。

典型的「戦後」がみえてくる。
この祖父・祖母が30歳のときまでが高度成長期で、40歳から50歳という時期が、バブル経済の絶頂だ。
その子の世代は、バブル入社期にあたる。

なんという時代の移り変わりだろうか。
そして、いま、平成がおわるとき、私たちは平成という時代をきちんと説明できるのか?
そうしたなか、野口悠紀夫『平成はなぜ失敗したのか』(幻冬舎)がでた。

野口先生は政権の御用学者ではなく、むしろ正反対の批判をしているが、しごくまっとうな説明を展開しているこの国では数少ない論客のひとりだ。

平成が終わってしまう前に、なにが問題なのか?という根本に気づけなければ、つぎの時代を生き抜けやしない。

世界も、周辺各国も、じつにドラスティックな変化をとげているのに、わが国だけが、30年以上前の「戦後昭和の栄光」にすがりついて、かたくなに変化を拒否している。
しかも、政府に依存して、という条件までもくっついた。

なにをもって根幹の価値とするのか?
という、おそろしく深い問いのこたえが求められているのに、目先の「利益」ばかりを気にするのはどうかしている。

「価値」がきまらなければ、実務はうごかない。
「価値」をきめないで、実務をうごかすから生産性があがらない。

ソ連末期、投入より産出される価値の方がすくなくなった。
ありえないことが起きたのである。
信じる理論がまちがっていた。

しかし、平成時代をつうじてわが国は、とうとう信じる理論すらみつけられずにおわろうとしている。
これが、個別企業にまで、もとめられることになっている。

今日は、建国記念の日。
あらためて、厳しい現実をしる。

末端をいじって元を正さず

問題解決にあたっての「そもそも論」が嫌われている。
目先の「問題」をなんとかすれば、仕事をしているようにみえるのかもしれないし、仕事をしていると評価する上司がいるからでもあるのだろう。

しかし、問題の根源を解決しないと、末端をいくらいじっても底から油が湧いてくるように、またつぎの「問題」がでてきて、ぜんぜん解決されないばかりか、深刻度が時間とともにひどくなるのは、ちょっとかんがえれば誰にもわかる。

だから、ちょっとかんがえることもしない、という思考の手抜きが、実は問題を複雑怪奇な状態に育てているともいえる。

たとえば、犬や猫に代表されるいわゆるペットの殺処分問題がある。
さいきんでは、収容された個体を「ボランティア団体」がひきとったり、「引き取り業者」というひとたちがいて、自治体の施設に持ちこまないでそちらに引き渡すことをしている。

これは、民主党政権下、ペットショップ等の事業者が売れ残った生体を、公共団体の施設が「受け付けなくてよい」とした法改正をしたからである。それで、「受け付けない」ことになった。
子犬や子猫も、ペットショップの在庫中に成長する。そして、本当に売れ残るのである。

これで、「統計的」には、公共団体に収容された個体の殺処分数がなくなるようになっている。
けれども、別にボランティア団体の資金問題や、引取業者による劣悪な環境下での「飼育」が問題になるということがうまれている。
そういうことで、わが国にどれほど飼い主がいないペットが存在するのかぜんぜんわからなくなった。

これとそっくりな事態になっているのが、「プラゴミ」問題である。
「分別ゴミ」というやりかたで、生ゴミ(燃えるゴミ)とプラゴミ(燃えないゴミ)に分けさせられてひさしい。

あらかじめいえば、科学的な発想をする自治体は、分別収集を廃止しているが、科学的でない日本最大自治体の横浜市は強化しようとして、さらなる余計なおカネをかけようとしている。

プラゴミにはペットボトルもふくまれる。
それで、これらは「資源」だからと、わざわざ「資源ゴミ」と名前をつけた。
なぜ「資源」というかは、リサイクルする「材料」になるからだという。

ところが,国内でリサイクルするとコストが新品の4倍以上もかかるから、中国に輸出していた。
「輸出」するのは、「買ってくれる」からである。

輸入した中国では、一部をぬいぐるみの綿とかにして、あとは燃料として燃やしていた。日本で「燃えないゴミ」は燃えるのだ。
日本のゴミ焼却炉は排煙対策もバッチリしているが、あちらはただの煙突だから、それがPM2.5になって日本にも飛んできた。
これを漢字で「自業自得」と書く。

つまり、家庭からなら無料であつめた「資源ゴミ」は、リサイクルのために「輸出」すれば、おカネになる「資源」だった。

状況がかわったのは、その中国が突如、「輸入禁止」にしたからだ。
それでいま、処理できない資源ゴミがあふれ出して、どうにもならない状況になっている。
あっという間に、「資源」からただの「ゴミ」になったのは、カボチャが馬車になった魔法のごとくである。

つまり、ペットの殺処分が減った問題と、プラゴミを輸出していた問題は、構造的によく似ているのだ。
もし、ゴミの輸出に相当する引取業者がいなくなれば、行き場をうしなった個体はどうなるのか?

すなわち、元をたどれば、「過剰製造」に問題がある。
ペットなら、過剰に産ませる、ということだ。
ついに無理やり交配させて、遺伝病まで蔓延することにもなっている。
なにより、そんなふうに生をうけた個体が不憫だが、知らずに飼い主になったひとには多大なる負担をかかえることになる。

生きものとプラゴミの問題が、それぞれに分かれるのは、「生産」の場面である。
その後の流れは上述のとおり酷似している。

生きものの方は「五年に一回」の法の見直しがある。
法改正されても、不備があれば次回の5年後にどうするかが議論になっている。
だれが「五年」ときめたのかはしらないが、ここに立法の不備までがみえてくる。

役所の事務を優先させれば、5年に一回、になるのだろうが、相手は物質ではなく「生きもの」なのだから、不備を承知で放置してよいのか?
これを正そうにも正せない、わが国立法府の弱さが露呈するのだ。

議員を補助して立法化するための要員が、国会にいないから、行政府の役人に頼るしかない。
だから、行政府とは切り離された立法府の第一種(上級)級職員が必要になる。
これが、国会改革の本質である。

資源ゴミのほうは、厄介なことに「地球環境」というもっともらしい理屈がはいりこむ。
「温暖化防止」のはなしと「土壌や海洋汚染」とが主たる課題だろう。
しかし、この議論に欠けているのが「科学知識」だから、どうにもならない。

かってに埋めたり投棄してはならないのは当然として、取り締まりをどうするかも問題になる。
すでにあるゴミも、回収する努力がいるのだろうが、ちゃんと科学知識をもってやってほしい。

一方で、輸出できなくなって、もともとあった焼却工場もパンクしているという。
なんのことはない、分別させておいて実態は一部焼却していたのだが、これがほぼ全量になってきた。

ダイオキシンが猛毒として騒然とした話題になったが、人類史上、ダイオキシンが原因とみられる健康被害は確認されていない。
東大医学部での実験では、「ニキビができた」というから、「猛毒」をあおったあれはなんだったのか?

科学をないがしろにした「報道」と、テレビを信じる悪い習慣がつくったものだが、これは「国民の劣化」という社会に毒がまわったことの証拠になった。

この「事件」で、各自治体の焼却炉が大改修されて、ダイオキシンが発生しない高温で焼いても炉が傷むことはなくなった。
ところが、水分たっぷりの生ゴミは、そのままで燃えるはずがない。
そのままで燃えるはずがないゴミを、「燃えるゴミ」と呼んでいる。
それで、重油などの燃料をかけて焼いている。

資源として使い途のある「重油」を燃やして、資源として使い途のすくないプラゴミを別の炉で燃やすのは愚かではないか?
科学がつうじない横浜市は、わざわざ「資源ゴミを生ゴミと一緒に燃やしていない」と自慢している。

これは、レジ袋もおなじだ。
資源として使い途がない材料でつくったレジ袋をなくしても、その材料は別に燃やさなけれな世の中からなくならない。
生ゴミを燃やすときにこれをつかうのかといえば、そうではなくてやっぱり重油だ。

これこそ資源のムダではないか?

生産性の低さというよりも、日本社会の高コスト体質は、こうやってつくられている。

「効率」をかんがえる

世の中は人手不足である。
景気がとりわけいいわけではないのに、こんな人手不足はかつてなかった。
むかしは、景気がいいと人手がたらなくなるから、むやみに新入社員も採用した。

新卒の就職・採用も、景気に左右された。
これを不思議におもうひとがいないのが不思議だった。

「景気」とは、「フロー」の出来事である。
「浮いている」のだから、いつどうなるかわからない。
しかし、採用する社員は、フローではなく「ストック」(資産)である。
すくなくても、定年までは景気がどうなろうと在籍するとかんがえるからだ。

だから、自社にどんな仕事があって、それが将来どんなふうになると予想するからここで採用して補充や育成しようとかんがえることが、本来の企業側の「需要」である。

「景気」によって、採用数を増減させるというやりかたは、いわば「需要」を無視した方法であった。
もっといえば、自社内の人材需要予測をしないで採用活動をすることであった。

自社内の人材需要予測とは、経営計画における「人事計画」の骨格である。
これをしなくてよかったのは、「骨」がない。
つまり、軟体動物的な企業であるとの告白でもある。

現代の「経営の神様」的存在のひとりである、稲盛和夫氏は「アメーバ経営」を標榜されているが、上述の「軟体動物」とはいみがぜんぜんちがう。

だから、あんがい社内でつかわれる言葉に、深い意味がないことがある。
「効率」もそのうちのひとつだ。

「効率」をかんがえろ、とか、「効率」をよくしろというけれど、「現状の定義」があいまいなままだったり、「効果を測る方法」をかんがえずに実施することに上層部がなんの抵抗をしめさないことがままある。

これをふつう「文学」という。

製造業を中心にした、「理系」のひとたちの集団では、会社の決定をするにあたって、「文学」ではなく「事実」を重要視するから、そのようなひとにはバカげたことを書いているようにみえるだろうが、理系人がたくさんいる企業だからといって、社長や経営陣が「文系」であることはたくさんある。

それで、現場レベルでは「理系」の発想をしているけれども、だんだん上層に書類がはこばれていくうちに「文学」の視点からの添削がはいって、当初の提案がめちゃくちゃになるようなマンガ話は、どちらさまにも日常化している可能性がある。

これに、「絶対安全」の四文字がはいると絶望的で、その提案はしないほうがましになるが、いったんやった提案が添削されてかえってきたら、どうにもならない事態を覚悟しなければならない。

提案書を放置するというやり方も、すこしは効果があるが、不思議とそうしたばあいは「うえから」督促されるもので、なにか適当に書きたして「再提案」したことにしなければならない。

これ自体が「効率」の逆をいく「ムダ」なのだが、「文学」がすきなひとには、「ムダ」が「効率」にみえるという共通の特徴がみられる。

季節ものの「牡蠣」が原因の食中毒が発生したというニュースをうけて、むかしからシーズンになればレストランの目玉メニューにしていたある高級ホテルで、「安全性」が議論になったことがある。

それで、「生」の取り扱いの全面中止がきまったが、余計なことをいうひとはいるもので、「加熱」ならいいのか?となった。
「絶対安全」をトップが口にしたからである。
結局、なんであろうが「貝類」の提供を全部やめたことがある。

たしかに、仕入れもしないし提供しないのだから事故はぜったいに発生しない。
だから、事故対策という仕事のムダがなくなって、「効率」がよくなった。

ところが、毎年たのしみにしている顧客が置いていかれた。
「本年は『貝類』のご提供はございません」
から、すぐに主語が「当レストラン」になって、やがて「当ホテルは」に変わった。

これいらい、斬新な食材も御法度になったから、「効率」は確保されたが、魅力がなくなる、という問題が放置された。

しかし、その「効率」をはかる方法が用意されていない。
各部署の人員数はかわらないから、事故対応という発生ベースの部分が削除されただけである。

以上の例は、リスクのかんがえ方にかかわるものだが、景気がいいと新規採用をふやす話と構造がよく似ていることがわかるだろう。

メーカーならば、仕入れた牡蠣の安全性をいかに担保し、自社検査体制の確立をはかるだろう。
しかし、それが「ムダ」にみえる経営陣なら、商品ごと「廃番」にするのも経営判断ではある。

ところが,この論法が確立すると、「廃番」が拡大する。

「効率」の追求とは、広い視野をもたないと自分を痛めつけることにもなる。

企業博物館の価値

名古屋は「産業の街」といわれる.
日本というよりも「世界のトヨタ」があるから,だれにも文句はいわれない.
そのトヨタ発祥の地に,トヨタグループが集結してつくる「豊田産業記念館」がある.
さらに、ほぼ隣接してやはり発祥の地である則武に「ノリタケの森」がある.

臨海部には,JR東海の「鉄道リニア博物館」があって,真北の県立名古屋空港には,隣接して「航空博物館」もある.
世界最大のプラネタリウムでしられる名古屋市立科学館は,科学体験のための装置がならんでいて,子どもからおとなが楽しめるようになっている.

似たような科学施設は横浜にもあるが,名古屋は市立美術館とおなじ公園内にあるから,分散している横浜よりも便利さにおいていさぎよい.
こういうばあいの「集中」ということができるのはちゃんとした「計画」があるからで,「分散」には「迎合」の香りがするものだ.この点で,横浜市は落ちぶれている.

産業をないがしろにして,開港以来本社をおいていた企業をいじめて,大挙して東京に本社を移転されてから,きがつけば人口は巨大化したが,たんなる東京のベッドタウンになりさがったのが横浜市である.
それでも選挙では圧倒的に強かったのは,増大する市職員のおかげで,のちに社会党の党首になったが,全国では通用しなかった.

横浜が「おおいなる田舎」といわれるゆえんである.
すったもんだで,東京の銀座から「日産グローバル本社」を誘致して,ようやく上場企業が数社,横浜に本社をかまえるようになったのは,三菱重工横浜ドック跡地の「みなとみらい」再開発がきっかけであるから,移転に特典をあたえないときてはくれないふつうの街だとわかる.

上場企業を追い出したのだから,良くも悪くも市の「産業政策」は,中小企業むけになるから,港湾の運営を国土交通省に横取りされたのよりもずいぶん早く,中小企業庁の下請けになった.
それで,対策を立てればたてるほど産業は衰退し,役人が栄えるようになった.
JR桜木町駅前に建設中の超高層「新・市庁舎」を見上げれば.その栄耀栄華にため息しかでない.

そうかんがえると,じつに名古屋がうらやましくみえる.
豊田産業記念館も,そのとなりの「ノリタケの森」にも,創業者の「自主独立の精神」が展示物のテーマとして貫かれているという共通が確認できて,感動的である.

しかし,残念ながらどれもが「完璧」ということはないのが人間のやらかすことで,JR東海の「鉄道リニア博物館」には,微妙な影がおちている.
国鉄というお荷物が,JRになって「民営化」されたとはいうものの,国民資産で大儲けしているのが実態だから,国鉄清算事業にどれほどの貢献をしているのかの展示がない不満がある.

また,新幹線は「エコ」である,と胸を張るが,電気自動車や水素自動車とおなじで,まさか「有害な排気ガスを出さない」などという子どもだましの主張ではないと信じたい.
その証拠に,保守点検だけでもたいへんと詳細な自慢をしていて,これで「エコ」だとはとうていいえまい.
すると,この「エコ」とは,「エコノミー」のことかとおもうが,LCCなら余裕で外国にいける料金を徴収していて,それはないだろう.

新幹線は便利な乗り物にちがいないが,あんまり自慢の度がすぎて,胸がそりかえって後ろに倒れるようなマンガ状態がみられるのが残念である.
高い料金なのは,便利さの素直な代償であるといえてこその「正直」であろう.
それで儲けた分が,すっかりリニア投資になるといえば,もっとよい.

県立名古屋空港の「航空博物館」は,話題の「MRJ」開発拠点の横にある.
「YS11」以来の国産旅客機だから,期待もふくらんだものだが,いっこうに納品されない.
うわさによると,三菱重工の「根回し」が下手すぎて,もはや絶望的だという.
この「根回し」とは,援助交際相手の経産省のことで,その向こうには米国の許認可がある.

邪推をすれば,三菱の技術者が経産省の文系に説明して,これを米国の技術者ばかりの役人に説明しているのではないか?
まん中にいる,日本のえらいお役人が文系法学部だから,英語とはちがって日本語での技術の翻訳に手間取っているのではないかとうたがうのだ.

「YS11」(モックの展示公開日「横浜杉田で11日」というキャッチフレーズが機種名の由来)のときは,やはり通産省のお役人が中心になっていた.
「製造」までこぎ着けたが,大誤算が「販売」だった.
つくることにエネルギーをかけて,売ることをないがしろにしたら,世界で売れなかった.

今回は,「製造」にすらこぎ着けていないから,「予約販売」をしたけれど,すでに納期遅れをもって「キャンセル」が発生している.

まさか,MRJで天下の三菱重工が倒れるということはなかろうが,東芝とおなじで原発でも大損している.
しかし,なにも悪いことだけでなく,「経産省」と組むと潰される,が日本企業の常識になって,「自主独立の精神」を取りもどす契機となれば,それはそれで「よかった」になる.

企業博物館をめぐると以上のようなものがみえてくるから,たいへん有意義である.

やっぱり名古屋はうらやましい.

伝統がないから春節

今年は旧暦の正月が、今日、2月5日にあたる。
3日が「節分」,4日が「立春」,そして5日が「元旦」である.

わが国では旧暦の元旦を「旧正月」といって、いちおう天気予報とかでは話題にするが、生活文化の面では、立春の前日である「節分」が豆まきの習慣としてのこっている。
じぶんの歳の数に、豆をひとつ足してたべて「数え年」としたから、節分・立春・旧正月のどれもがみんな「年越し」だった。

今日一日しかない、というおもいこみがない。
おおらかがふつうだったのだ。
毎日があんまりかわらない生活であったのだろう。

そのわりに、人生五十年だったから、豆の数をかぞえると、お迎えの時期の早さに気がついて、年越しを3日くらいやってちょうどよかった。
このうちに立春もふくまれるから、正月は「初春」になるわけだ。
いまの年賀状は、その意味でもめちゃくちゃになっている。

北陸地方では4日未明の強風が「春一番」に確認されたというから、「立春」にほんとうに春がやってきた。
暦は旧暦でみると、やっぱり正確さがある。

明治5年以前の日本人は、ずっと旧暦で生活していたから、太陽暦の新暦になってまだたかだか150年しかたっていない。
それで、旧習と旧暦が現代にも入りこんで、結果的にずいぶんとややこしくなっている。

食品廃棄が懸念された「恵方巻き」は、関東の風習ではなかったが1990年代に全国チェーンのコンビニが仕掛けてひろまった。
「洋物」のバレンタインデーやホワイトデーも、普及したのはお菓子屋さんのおかげだし、さいきんではハロウィーンも「商魂」による。

宗教的な物語はヨコに置いて、とにかく楽しむという日本人の特性は、たくましくもあり浅はかでもある。
カトリックのさかんな国には、ハロウィーンはないから、近年ヨーロッパに逆輸入されているのは、「ご立派」なクールジャパンの例になっている。

旅行業界は,「春節」の休暇をターゲットに,日本への旅行販売に余念がない.
中華帝国の影響を受けて,「春節」を国民の祝日にしている国は10カ国をこえる.
それで,国内の春の旅行ニーズを先取りするのは,このひとたちなのだ.

戦後のあたらしい中国は,わが国の「進歩的文化人」と呼ばれるひとたちが「絶賛」した,文化大革命という名の破壊活動によって,伝統文化や風習を徹底的にこわしてしてまった.
2000万人ともそれ以上ともいわれる犠牲者がいるから,この破壊には生存がかかっていた.

いわゆる農村からの旅行者を中心とした層の「マナー」が問題視されるのは,文化大革命の結果の申し子たちだとかんがえると,残念ながら彼らは,文化的な教育,をうけてはおらず,ぎゃくに文化的でないことをしないと身の安全がはかれないという体験をしたはずだ.

都会と農村とでは,国内パスポートで優遇のある都市住民なら,自国の歴史的遺物がほとんどのこっていないので,外国の歴史遺物を観光することは,「観たい」という要求と「ない不満」が交差するだろう.
それで,たとえば日本軍が破壊したのだ,という物語をつくって外国のせいに転換するのは,国内的には有効かもしれないが,責任転嫁される外国には迷惑になる.

日本に住んでいると,歴史を感じるモノや文化が日常にあるから,あまり気にしないものだが,たとえば,わが国最大の地方自治体になった横浜市中心部には,開港以来の明治期に建てた「歴史的建造物」はいくつか現存するが,それ「だけ」しかないのである.

「ハイカラ」が売り物だった街の,新しさが陳腐化すると,のこりは無残である.
しかし,「新しさ」は,できた瞬間から劣化がはじまる.
「みなとみらい」にはじまる一連の開発が,すでに珍しくないのは,以上の理由による.
文化大革命と同様に,新しさだけではいけないということなのだが,幸いにも横浜にはちかくに鎌倉があるので,陳腐な街の埋め合わせが容易にできるようになっている.

東京と大阪のまん中にある名古屋にやってきた.
何回も出張で訪れた街だが,まともに観光したことがない.
それで,名古屋人が口にしない「名古屋城」にもいったことがなかったから,せっかくなのでいってきた.

愛知県庁の建物がずいぶんグロテスクにみえたのはおいておいても,かつての城郭に県庁が鎮座しているのは,福井もそうだが,一種の文化大革命が日本にもあったことがわかる.
封建時代がおわって,役所が支配する時代になったことを,わかりやすく表現したのだろう.
だから,ふるい城には用がない,という強い意志をかんじる.

それは,近代役所建築がならんでいる光景で,その合理的で無機質な建物群は,どこかで観たと記憶のページがうごきだした.
「ワルシャワ」である.
名古屋の官庁とお城の付近は,社会主義国のすがたにみえた.

広大な名古屋城の場内は,ワルシャワ市民のいこいの場である「ワジェンキ公園」に似ている.
この公園は大統領府のとなりにあって,かつての宮殿があった場所で広大な庭がひろがる.毎週末には,ショパンのピアノコンサートが無料開催されているけど,演者は世界的なピアニストばかりだ.

名古屋城大手門の前にひろがる大駐車場も,スターリンが衛星各国にプレゼントした「文化科学宮殿」前の広場を彷彿とさせたのにはちょっと驚いた.

横浜にはないものを名古屋で観ることができた.

どんな理由でタブレット禁止?

なにかと話題の玉木雄一郎議員だが、先日はじまった通常国会で各党代表質問に、タブレットPCをつかって原稿を読むことを与党の反対で認められなかったという「事件」が報道された。

タブレットであろうが、携帯電話であろうが、国会内には持ち込み禁止なっている。

ほぼ5年前の2014年3月25日には、参議院の外交防衛委員会で、内閣法制局長官が携帯電話の画面をみながら答弁したことが、謝罪と答弁の撤回という「事件」になっている。
なぜ端末画面をみたのかは、質問についてのデータ確認するためだった。

同月31日の参議院決算委員会で、安倍首相はこの件についての質問に、電子端末の使用についてのルール見直しに肯定の答弁をしている。

それから「3年後」の2017年3月28日には、衆議院運営委員会理事会で、野党委員からの提案にたいして、自民党の委員長が国会規則を改定して、議員全員にタブレット端末を配布することを検討するかんがえをしめしている。

さらに、昨年10月25日には、おなじく自民党の衆議院運営委員会委員長がタブレットの配付についての議論をすすめるかんがえをしめしている。

ということで、今回の「事件」は、5年越しの議論だということがはっきりわかる。

今回認められなかった理由は、報道では、「前例がない」ということになっているが、ほんとうにそれだけなのか?それとも、5年をかけてなにが問題なのかがわからない。

長老議員たちが反対している、という「うわさ」があるが、本当なのだろうか?

タブレットがつかえないから紙の資料をみている場面を報道されるのが恥ずかしいので、従来どおりぜんぶ紙にしろという主張でゆずらない大物議員がいる、という「うわさ」である。
なるほど、説得力がある「うわさ」だ。

ようは「恥をかきたくない」という理由は、人間ならだれにでもある。
まして、国会議員で影響力がある「大物」のつもりなら、孫でもあつかえるタブレットを操作できないなんて、恥ずかしくて耐えられない。

なにもいまさら、そんな恥をわざわざかかずとも、これまでどおり事務局は「紙」をくばればなにも問題はない。
紙でほしいひとには紙、そうでないひとにはタブレットでは、タブレットがつかえないことがバレるから、全員に紙をくばればすむことだ。

それに、若い議員が用意したタブレット導入の「理由」もいただけない。
紙をやめてタブレットにすれば、印刷費が数億円浮くというのだ。
たかが数億円のために、自分が恥をかくのはありえない。
だいたい、重要な資料なら、紙に印刷してチェックを入れたくなるのが「仕事」というものだ。

野党のいう「代表質問」だけでも許せ、に合意したら、そのうちなし崩しになるにちがいない。

本会議での首相による施政方針演説も、そのほかの演説も、みんなタブレットを読むことになれば、議事録の速記者がいらなくなるだけでなく、「自動読み上げ」ともなれば、本人の演説である必要もないではないか?
「紙」だからこそ、本人が読み上げる必要がある。

えっ?
それじゃ「演説」じゃない?
そんなこといったって、もうとっくに紙を読み上げるのが「演説」になっているわい。

いまどきどこに、「メモ」だけで何時間も「演説」をぶてる政治家がいるものか?
戦前の大政治家ならまだしも、だいたいゴーストライターが原稿をかいて、本人がちょこっとチェックすればそれでいい。

総理の施政方針演説すら、全文を確認する国民なんかいないだろうよ。
えっ?確認したい国民はどうすればいいかって?
そんなもの、「国会のHP」をみればすむ。

いえいえ、ご長老、総理の施政方針演説なら、「首相官邸のHP」のほうですよ。
ご覧になったことがない?

三権分立とはいうけれど、どうもあやしいのがわが国なのだ。
お隣の悪口をいってもはじまらない。
それに、国会のHPには、衆参両院とも「著作権」が明記されている。
驚くほど国民を愚弄しているのだ。

このひとたちは、民主主義国の「著作権」をなんだとおもっているのか?
政府が政府の著作物に著作権を設定する。

ましてや、「国会」である。
だれのおカネでだれのために議論して、その議事録をだれにみせるのかを忘却した病的な姿だ。

アメリカ政府のばあい、政府の公開書類に著作権は一切設定されていない。
ひろく国民に開放されているのだ。
民主主義国として、当然ではないか。

だから、外国人がアメリカ政府の書類を引用するときには国民とは別のルールになっている。

日本政府は、あろうことか、この区別ができていないのだ。
国民に向けて著作権を設定する馬鹿者たちを、われわれは雇っている。

なるほど、タブレットなどの電子機器には、長老の反対だけでなく、著作権の問題があった。

これを報道しないのも、報道の自由なのか?

オリンピック公害

どうしてこうなるのか?
喜劇やお笑いコントの「落ち」は、予想外の展開におかしさがある。

世の中には、さいしょの意図とはちがうことが起きることがたくさんある。
「天変地異」は、人間が意図するものではないが、防止しようとしてなんの役にも立たない防波堤などの建設は、人間の意図でつくられる。

ケインズは、景気「対策」として、有効需要に注目し、乗数効果によって最初の投資額に倍数をかけた効果が期待できるとして、政府財政支出が役に立つと論じたのは、いま世界の先進国で唯一ケインズ経済学からの政策を採用している日本国の住人なら周知のことだろう。

なんの役に立たないものでも、公共事業なら乗数効果で景気浮揚策になる。
それをあてにして「業」とすれば、公共事業がなくなるとたちまち失業の恐怖にさらされる。
だから、さいしょから、「潜在失業者」なのではないか?といってもやめられない。「票」になるからである。

これを「◯◯の一つ覚え」とは、「政官癒着」の結果である。
なにせ、この国を仕切っているえらいひとはみんな「官僚」という部類のひとたちで、それもほとんど「法学部」をでた、法律のなかでも「行政法」の専門家たちなのだ。

なので、経済学を専門にしているひとはわずかで、しかも、えらいひとたちのなかではあんまりえらくないことがおおい。
そんなわけで、ケインズが自分で書いたケインズ経済学の効果が有効な条件である、「不景気のときの政府の政策として」がすっぽり抜け落ちてしまって、「いつでも」になった。

日本が貧しかった時代、高度成長というすばらしい経済状況があったが、元がたいした「額」ではなかったから、「率」でみるとすごい数字だったが、「貧しい」ことにかわりはなかった。
政府の介入が経済の役に立つという「ウソ」は、政府の役に立った。

当時の国力比較は「GNP」だったが、この「N」はナショナルすなわち「国籍」で、日本なら「日本人」が世界で生産した付加価値の合計をいったが、世界で付加価値を産む活動をする日本人がふえると、ちゃんとした正確な統計がとれない。

それで、1993年(平成5年)に、GDPをつかうように切りかえた経緯がある。基幹的統計数値がここで変わるから注意したい。
この「D」は、ドメスティックすなわち「国境」なので、日本の領土内で産まれた付加価値の合計だから、国内での外国人の分もふくむし、海外での分はふくまない。

日本の製造業のおおくが、円高や安い労働力をもとめて、こぞって外国に進出したのはだれでもしっているが、その分の数字が「はいっていない」ことは、ちゃんと意識しないといけない。
だから、いま、GNPをみたら、GDPよりかなりおおきいのだと想像できる。

すると、日本政府の景気対策は「国内」にしか影響しないから、海外進出したひとたちはカヤの外になる。
グローバル化した企業が本社を置く先進各国が、ケインズ経済学による経済政策を放棄した原因のおおくが、ここにある。

そんなことからも、外国にいった日本企業に影響するのが「TPP」になる。

ところで、経済成長が政府のおかげだったのかというと、ほんとうにそんなことはない。
1973年の石油ショックで高度成長がとまったというのは、「ウソ」であると前に書いた
ほんとうは田中角栄内閣による、経済政策の失敗が原因だった。

角栄が総理にまで上り詰める過程での「政策」も、自由主義経済に政府の介入を促進させたから、結果的に「内外価格差」の問題が巨大化した。
先進国唯一のデフレがとまらない原因がこれだとおもう。
巨大なダムのように蓄えられた「内外価格差」での国内の高い価格が、ダムに穴が空いて流れ出している。

内外価格差をあまりもたなかった先進諸国では、デフレになっていない。
日本政府は、これが決壊するとたいへんだから、と決めつけて、一生懸命に阻止しようとしていて、これが「鉄板規制」となってみえているのだ。
すなわち、内外価格差=過去からの利権、なのである。

外国人観光客が増大して、日本という国が世界に体験されている。
無邪気によろこぶひとがおおいのは、マスコミの定番ネタになっている。

ふだんのおかしな報道をみていれば、じつはこれもおかしなことなのだと気がつくものだが、ほめられて悪い気がしないから、あっさり受けとめているのだろう。
しかしこれは、危険な誘導にみえてしまう。

じっさい、外国人の不満はたくさんある。
おおくが、いわゆる「ガラパゴス化」したもので、政府の規制がかならずからんでいる。

まずは、携帯電話。
外国人が自国から持ちこむ携帯電話は、日本の電波法に準拠した端末でありようがない。
それで、いちおういまは「特例」として利用を認めているが、オリンピックにあわせて、テロ防止の視点から「規制強化」が計画されている。

どういう技術的根拠なのだろうか?という点からもわからないが、空港などでトラブルになりそうな予感がする。
もちろん、わたしたちの端末にも影響する。

それに、今日の記事で、首都高の料金上乗せが議論されているという。
混雑緩和が目的らしい。
用がない車は通行するな、ということだろう。
前回のオリンピックでは、マイカーを所有している国民が珍しかった。

「オリンピックだから」という「魔法の言葉」があれば、なんでも通用するとかんがえるえらいひとたちがたくさんいる。
前回どうやったのか?の研究から、さまざまな「規制」が産まれるはずだ。

あたらしい価値を産むのではなく、その活動を阻止するのだから、もうすでに「オリンピック『公害』」になっている。

なるほど、政府がいう「クールジャパン」は、アニメなどのサブカルチャーにあった。

もはや、政府自身が「コミック」になっている。

教えることのむずかしさ

「教える」ことができるのは、教える側が「知っている」ことがあるからで、知らないものは教えられない。
だから、教える側は、教えられる側より人生の先輩であることがふつうになるので、これを「先生」という。
義務教育の初等・中等教育では、「教えさとす」という行為を想定して、それをするひとを「教諭」というのは、そのまま書いたということだ。

高等教育になると、「さとす」という行為がはずれて、「さずける」に変わる。
これで、「教授」になった。
戦後の学制改革でできた、「新制高等学校」は、旧制度だと「中学」のことだから、高校教師は「教諭」のままになっている。

中学を卒業して、高等学校ではなく「高等専門学校(高専)」に入学すると、「教諭」ではなく「教授」になるのは、高等学校よりも「高等」だからである。おなじ年齢でも、生徒を「さとす」行為が必要ない学校という意味である。
だから、高等専門学校で教えられるひとたちは、「学生」と呼んで「生徒」とはいわない。
日本の高等学校は、ぜんぜん高等ではなく、「後期『中等』教育」の位置づけなので、「生徒」という。

最近話題になった、高校の教諭が生徒に挑発されてした行為を、ネットにアップすることを目的に動画撮影された「事件」は、「さとす」必要があるレベルの生徒によって引き起こされたものだとかんがえれば、「さとす」が口だけではすまない状況になったという証拠にもなっている。
つまり、「さとす」ことの範囲を超えている現実が突きつけられて、おとなたちが右往左往した議論をしているのを、おおくの「さとされる」立場の生徒たちがながめているのである。

学校という塀の中の社会では、「懲りない面々」がたくさんいる。
そのなかの構成要素は、先生と生徒だけでなく、PTAと教育委員会という要素がくわわって、複雑な力学がはたらく場になっている。

しかし、生徒とその親は、生命を維持するための「エネルギーの流れ」のように、たった数年でぜんぶ入れ替わる。
高校はふつう3年で卒業することになっているから、前期中等教育の中学校を卒業してすぐ入学すると、たった3年で「定年」をむかえるようなものだ。
実社会の10倍以上のスピードで「引退」しなければならない。

生徒という巨大な構成要素が、通過してしまうのに、学校がかわらずに維持されるのは先生たちと教育委員会とによる。
公立学校なら、どちらも公務員だ。
そういうわけで、じつは学校を維持するひとたちは、実社会を知る立場にない。
これは大学にまでいえることだから、しぜんと「浮世離れ」することになる。
教育界のタコツボ状態は、構造がそうなるようになっている。

大学は社会人を学生として受け入れるのがふつうになってきた。
社会人が大学で教えるのも、はじまっている。
中等教育の前期・後期では、社会人=企業人経験者が「教諭」になることがのぞましい。
それは、なんのために通学し、なんのために学ぶのかについて生徒を「さとす」ことができるからである。

つぎに、社会人=企業人なら、教えることのむずかしさをしっている。
とくにメーカーでは、かつて「マッカーサー指令」でやらされた、「TWI研修」がのこっている。
この研修では、先輩が後輩に、絶対修得しなければならない仕事を、いかに早く間違えずに確実に覚えさせるためのノウハウを修得するようになっている。

それで、社会人=企業人は、研修を受けたことを契機として、職場で実践するから、現実の困難をしっているのだ。
困難だけれど、それでやめるわけにはいかない。
後輩にはやく覚えてもらわなければ、自分の仕事がすすまないからだ。
だから、研修でやったことを基礎に、じぶんで工夫して目的を達成するのだ。

学校教育の場でこのノウハウが活かされないは、国家的損失だとおもう。
さらに、課外授業でもある「生徒会」や「部活動」に必須の「マネジメント」の知識伝授は、その後の人生でおおいに役立つはずである。

なにも企業は「高等教育」をうけたひとだけが欲しいのではない。
「初等教育」の目的、「中等教育前期・後期」の目的、そして高等教育の目的はそれぞれちがう。
その目的が合理的に現代に即しているかも、議論が希薄ではないかとおもう。

「制度」としてみたら、旧制のほうが優れているようにみえる。
親も生徒も、目的を理解していたからだ。
いま学校でまっさきに教えるべきは、「目的」なのである。
ところが、それは、いまと比べてみたら社会が単純だったからでもあって、一律的な価値感の人生がないのに、一律的な「目的」のままだから、現実の要請がブレてしまっている。

これが、教えることのむずかしさ、になっている。

創造の定義

「日本創造学会」という日本学術会議の登録学会がある。
この学会のHPに、「創造の定義」があって、味わい深い。

人が (創造的人間/発達)
問題を (問題定義/問題意識)
異質な情報群を組み合わせ (情報処理/創造思考)
統合して解決し (解決手順/創造技法)
社会あるいは個人レベルで (創造性教育/天才論)
新しい価値を生むこと (評価法/価値論)

こうやってかんがえるものだ、というお手本である。
文章にすると、
「人が、問題を、異質な情報群を組み合わせ、統合して解決し、社会あるいは個人レベルで、新しい価値を生むこと」
あえて句読点で区切ったが、さりげない文章である。

しかし、区切りごとに「()書きのなかにある『領域』」としてどんなことを指しているのかとリンクさせているから、対照してみると、説得力のある「定義」として完成しているのがわかる。

自社の存在意義をこのように「定義」すると、おおくのメリットが生まれることがわかるだろう。
・それはなんだろう?とあらためてかんがえることのメリット。
・おもいついた単語や文章が適正なのか?をチェックすることのメリット。
・完成したときの「すっきり感」をえることのメリット。
・それを、従業員や取引先と共有することのメリット。
を、すくなくてもえることができる。

この「すくなくとも」のしめす意味は、すくなくない。
経営の「根幹」を意味する「すくなくとも」だからである。

日本人の生活は「欧米化」したとよくいわれる。
これをあらためてかんがえてみると、じつは恐ろしいことがみえてくる。
わたしたちの生活で、日本のオリジナル発明品が、ほとんど「ない」からである。

箸や茶碗、急須といった食器類に一部、畳の部屋が消失したから座布団もない。
それでも、冬場はこたつがあるけれど、赤外線ランプが熱源だから、発明となればエジソンにたどりつく。
インターネットもパソコンも、最重要のICも、ぜんぶ発明となると外国人だ。

かつて、「猿まね民族」と揶揄されたことをすっかりわすれて生活しているが、根幹をたどるとオリジナルが確かに「ない」のである。
しかし、だから日本人を卑下しよう!というのではない。

創造の定義に「異質な情報群を組み合わせ」とあることに注目したいのだ。
「異質な情報群」とは、「既存の」ということがかくれている。
オリジナルの発明という既存を、「組み合わせ」たら、あたらしいものになる。
かつてのソニーの世界的大ヒット、トランジスタ・ラジオがそれだ。

新発明のトランジスタをながめて、発明者はさてどうしようとかんがえていたら、日本人がラジオをつくってしまった。
「家具」になっていた高級真空管ラジオが、ポータブルになったのは、のちの「ウォークマン」を彷彿とさせる。
高分子吸収体にも似たはなしがある。
とにかく「水を吸着する粉」ができたが、なにになる?
これで、使い捨ての紙おむつができた。

紙おむつの功罪は、発達心理学の議論になって、旧来のおむつの不快感がない、ということがいかなる影響を乳幼児の発達にあたえるかが論じられたが、それがどんなに「悪いこと」であろうが、便利さという親の都合がまさった。

むかしのテレビコマーシャルは、「新発売」のオンパレードだったが、いまでは目立たない。
日本の停滞は、あたらしい製品やサービスが生まれていないことにあると警告されている。
だからこそ、創造、が必要なのだが、これがうまくいかない。

モノのおおくが中国製などになったが、もはやアップルの製品がしめすように、どの国製なのかが重要ではない時代になっている。
むしろ、アイデアや設計がどの国だったのか?が問われるのは、「権利」という価値がおカネを生むからで、「製造」という価値が低下してしまった。

これが、ものづくりの国を自負する日本を落下させている。
そして、さらに悪いことに、この落下を阻止しようと行政が強力にうごいて、結果的に落下を加速させている。
まさに、余計なお世話なのである。

どうしてこうなるのか?は「統計不正」とおなじで、公務員のえらいひとは共通して法学部出の「文系」だから、じつは技術のことがわからないし、相手へのリスペクトがそもそもない。
でも、えらいから「わからない」とはいわないし、かえって受験でしたように「勉強熱心」だから、「わかったつもり」のお山の大将になるのは、まわりの技術者が面倒だからおだててその場をつくろうからだ。
なにせ、この坊ちゃん「大将」は予算をもっている。

そんなわけで、会社のえらいひとも文系だから、国や自治体のえらい文系のひとと、はなしが合う。
中途半端な知識同士で、技術開発を語り合うから、トンチンカンになって落としどころが補助金の額と期限になるのだ。
この期限がくせ者で、技術の限界を勝手に超えてきめるから、あとになって「できない」とわかると、投じた予算をどうしてくれるに変容して、責任逃れのムリがムリをよぶ。

文系のえらいひとは、「異質な情報群を組み合わせ」るだけでできるんだろう?
簡単じゃないか!
できないなんて、おまえらはバカか?
ああ、やんなっちゃう、こんな偏差値ひくいやつらと組んだ自分がなさけない。

しかし、悪いのはやつらで自分じゃないから、ちゃんとお仕置きをしないといけない。
さてさて、どんなお仕置きがやつらに一番痛手になるかをかんがえないと、自分のせいにされてしまう。

まるで、ゲーテの『ファウスト』の悪魔、メフィストフェレスとおなじ発想をしたものだ。

これが、わが国の「創造」になってしまった。

 

国家統計不正の後始末方法

「国が溶けだす」のは、いろんなところからゆったりとはじまるので、最初は「過小評価」されるものだ。
ルイ16世とマリー・アントワネット夫妻が断頭台の露と消えたのも、先々代の「太陽王」ルイ14世の絶対王政における「絶頂」からの凋落が原因だ。

まさに、平家物語がいう「おごれるものは久しからず、盛者必衰のことわりをあらわす」という、普遍的なことばどおりだ。

話題になった映画『ルイ14世の死』では、最期の病床にあるルイ14世がのちのルイ15世(5歳)をベッドによんで、「公共事業に大金を投じるな」とさとす場面がある。
ルイ16世の時代、すでに王朝の財政が破たんしていたのは、この遺言を15世が守らなかったからである。

わが国の「絶頂」は、まちがいなく「バブル期」である。
国民が敗戦という精神的ショックからぜんぜんぬけだせず、福沢諭吉のいう「独立自尊の精神」をすっかりわすれたはての「絶頂」だった。
根っこをなくした浮き草国民になったのだ。

「おカネこそがすべて」の価値になったのは、70年代の「エコノミック・アニマル」が、歯をむき出したすがたなのだが、その「エコノミック・アニマル」の原因が、完膚無きまで破壊されたゆえに継続した「アメリカ憎し」の精神の代替である「経済競争」になったというウソがある。

第二次大戦後、すぐにはじまった「冷戦」で、ソ連圏との対立に軍事的にわが国(吉田茂)が独立自尊を「放棄」してアメリカに依存したのは、あとづけの「吉田ドクトリン」なぞではなく、たんに、生きのこった旧帝国陸海軍の将校たちが「アカ」かったから、武器を持たせたら「まずい」と判断したのだった。

日本国憲法第九条で放棄したのは、戦力などではなく、むしろ、独立自尊の精神、そのものである。
この精神を、日本人はその後とりかえしてはいない。

アメリカから食料援助がなくては国民が餓死するこの時期、大量の脱脂粉乳が学校給食で供されていたが、これをしったアメリカ本国では食料援助中止運動がおこる。
脱脂粉乳は「豚のエサ」が常識だったから、日本人はすでに大量の豚肉を食べていると誰もがおもったのだった。

しかし、これを人間が、しかもそだちざかりの子どもが食べているとわかって、アメリカ国民は衝撃をうける。
だから、「経済力」でアメリカに対抗しようなどと、バカなことをかんがえる日本人はだれもいなかった。
あとづけの「神話」にすぎないことを信じている。

戦前の政府司令塔だった企画院から転じた経済安定本部(安本)が、商工省とくっついてできたのが経済企画庁と通商産業省で、傾斜生産方式という経済統制を強力に実施した。
そのお先棒を担いだのが、第二政府の日銀だった。

国内のすくない外貨や資本を、効率的につかう、方法が、役所による統制だったこと自体が、本来は笑止であるのに、これを日本人は賞賛するからはなしがおかしくなる。
日銀が政府から独立したのは、なんと平成9年の日銀法改正による。

しかし、統制・規制に味をしめた役人は、ずる賢いのが万国共通だから、ぜんぶの役所に「やり方」をコピーする。
こうして、誰のため=国民のため、という根本をわすれ、省益=自分たちのため、をひたすら追求するようになるのは、高度成長時代に確立する。

これを仕切った政治家が、田中角栄だった。
角栄なき後のいまも、わが国は角栄がつくった制度のうえにあるままだから、これをもって「政官癒着」というのはただしい。
自民党が「ダメ」になったのは、すべての派閥が「家元角栄流」になったからだ。

役所はコピーのたまもので、縦割りだから、省庁ごとに「管轄」する分野に「統計」もある。
今回バレたのは、旧労働省の管轄だけど、全省庁に不正もコピーされている可能性がある。

企業の不祥事でもいえるのが、「第三者委員会」という素性のわからない組織がでてきて、「調査報告」をすることになっている。
今回は、国が「特別」にたのんだひとたちが、あんまり詳しく調べていない疑惑にまで発展した。

しかし、こうしたことがナンセンスなのは、組織の統治と統制が自分でできない、ということだからで、調べた結果の正当性ではない。
民間なら、株主が損をかぶることになるが、官庁なら国民が損をする。
けれども、損だけではこまるのが「統計サービスの回復」をしないといけないからだ。

だから、今回の不正の「原因」をさぐって「処分」するはなしと、「サービス回復」のはなしは別である。
すくなくても、厚生労働省という役所には当事者能力がないとわかったのだから、かれらに引き続き業務をまかせるのは妥当ではない。

「選択と集中」ということでいえば、かつての「総理府統計局」のように、「内閣府統計局」にまかせるのがよい。
この方法は、全省庁がコピーすべきだ。

これは、「政争」ではなく、統計行政の統合だから、かつて政権をになった野党も反対できないはずだ。
不正は、民主党政権の時代の前からだったからで、いま彼らが政府を批判するのは「痴呆」をうたがわれる。
政治家には、さっさとこれを決めて、「原因」と「処分」の方は別にじっくりおやりになればよろしかろう。

国民へのサービスの回復が一番、責任論は二番である。
なのに、責任論を優先させるのは、回復を後回しにすることだから、一種の国民サービスへの破壊行為である。

司法試験をとおった野党の党首は、確信犯で、責任回避の与党側は、やっぱり「家元角栄流」を役人と一緒に踊りつづけたいらしい。

国家の溶解は解けきるまでつづく。