ガラパゴス化の「執事」1

日本にホテル学校はある。
専門学校だけでなく、大学もある。
さいきんでは、カジノ学校が盛況だという。
しかし、執事学校はない。

欧米では、いまでも執事は重要な職業で、そのニーズはたかい。
大邸宅に棲まう主人をささえるのが優秀な執事というのはほんとうで、さらに「従業員(執事)つき住宅」や、プライベート・ジェットの客室乗務員、ヨットの客室係、別荘のコックや従業員といった「細部化」した需要も当然視されている。

国王が棲まう宮殿並みのサービスレベル、あるいは最高級ホテル並のサービスレベルをもとめるなら、主人が支払う賃金も「年20万ドル」と突出する。
「執事」は最低でも年8万ドルが相場だというし、女性の主人に仕える女性の執事である「メイド」なら7万5千ドルからなので、ふつうにホテル従業員になるより、はるかに高額賃金である。

ここで注意したいのは、執事は単純労働の家事スタッフではないことだ。
「プロ」なのである。
それに、清掃だって「邸宅」ともなれば広大だから、素人がかんたんに請け負えるものではない。
だから、執事とはことなる「プロ」として優秀な家事スタッフも、年収では6万ドルから9万ドルが相場だ。

2018年から主婦のパート労働で、税金や社会保障を考慮すると「お得な上限」が年収150万円(約1万5千ドル)に増えたとはいえ、この金額の差はなにか?
国民を貧乏においやる施策のうえで、働けといわれているようなものだ。
ハワイでおきたホテル従業員のストライキは、「この仕事『だけ』で生活できる給料をよこせ」である。

雇用主からすればその負担額は、年間3万5千ドルから100万ドルを超えるひともいるという。
「100万ドル超え!」
自宅やプライベート空間への出費として、人件費だけでかるく1億円超えというのは、いったいどんなひとたちなのだろうか?

アメリカなら事業に成功した大富豪だろうし、ヨーロッパなら土地資産をたっぷり保有する貴族なのだろう。
以前、家内とベルギー旅行をしたときに宿泊した「シャトー・ホテル」は、公爵家の自宅で営業していたが、関東地方ほどの面積の国で、塀で囲われたこの邸宅内を一周する散歩コースは4時間だった。

ユーモア小説の大家ウッドハウスのジーヴス・シリーズは全14冊、英国が舞台という「典型」を世界にひろめた功績がある。その一冊がこれ。

小説にしろドラマにしろ、物語では超優秀な執事が登場して、難問をあっさり解決してしまうが、不思議なのは「労働条件」である。
劇中でこれを話題にしたらシラケるのだろうけど、読み手の「常識」を前提にしているのだろう。

わが国にも戦争に負けるまでは、貴族がいたから、執事もいたろう。
現在唯一というのが、「日本バトラー&コンシェルジュ」で、24時間3交替365日体制だと月額750万円(税別)になるというから、だいたい国際相場とおなじだ。
休日も考慮すると、3人体制ではなく4人でないとまわらない。

経済成長と共に、ほんらいは、日本人でも大富豪がもっといてよいのだが、かつて発表されていた「長者番付」という高額納税者リストには、土地を売った農家の名前がおどっていた。
宅地化のための売却だったから、その年一回だけの登場であった。

これをひとは「土地成金」といって、さげすんだ。
いまは、会社役員の「高額報酬」が怨嗟のネタになっている。
世界には、年収30億円以上のひとが5万人ほどいるのをしらないのだろう。4人家族なら20万人のお金持ちになる。
すると,一億円で高額だと批難されるものなのか?ケチなはなしではないか。

「格差」はいけないこと、という認識が強いのは「平等」意識のなせるわざだが、なにごとも「いきすぎる」と、かえってはなしがゆがむ。
「あるところからとる」のは、徴税役人の発想で、これを国民がすなおにみとめれば、金持ちになると損をする、というゆがみがおきる。

富裕層を「恨む」ようにばかり仕掛けるのは、日本も「恨の国」にしたいのかとうたがう。
そっちの方向ではなくて、どうしたらもっと稼げるのか?にいかないと、社会が二分化して固定してしまう。
「金持ちがいるから、われわれが貧乏なのだ」というのは、古典的革命思想そのものの恐ろしいかんがえかたである。

所得税をはらった後のおカネを原資に、土地と建物を担保に入れて住宅を購入する。
それで、この世を去ると、相続税がやってくるのは「理不尽である」とだれもいわない。
第一段階の所得税をもうはらって購入したのだ。「死亡」という理由で第二段階の税金を払わされる根拠はなにか?

それで、「二重課税」をみとめて相続税を廃止した国があるが、じつは富裕層が国外に逃げるのをふせぐ意味がある。ふつう、金持ちがいない国を「貧乏国」というのだ。
オーストラリア、ニュージーランド、香港、中国、シンガポール、マレーシア、タイ、ロシア、スイス、イタリア、モナコ、スェーデンがあって、金持ちがたくさんいそうな国であることがわかる。

ちなみに、アメリカには相続税の課税制度はあるが、基礎控除が6億円(夫婦で12億円)だから、ふつう一般人には及ばない。
金持ちをいじめるために増税したわが国は、3,000万円 + (600万円 × 法定相続人の数)だから、悲しくなるほどおカネを貯めると損をする。

というより、一般人がふつうに課税されるという「平等」ができた。
おめでとう。

七福神めぐりという観光

お正月の風物詩である「七福神めぐり」は、各地に「コース」が用意されている。
一日で回れるものから、そうはいかないもの、歴史のあるものからあたらしいもの、交通機関を要するものと徒歩ですむものなどと、さまざまなパターンがある。

さいきんは「御朱印帳」を持参するひともいるし、公式の「色紙」を手にめぐるひともいる。
御朱印にはだいたい300円ほどの「初穂料」や「志し」が必要なので、満願には2,100円が必要だ。もちろん、御朱印帳や色紙は別料金だ。
これに、宝船や七福神を一体ごとにあつめてまわることもすると、なかなかのお値段になる。

ただし、ゴム印スタンプなら、無料である。
それで、正規の「色紙」にスタンプを押しているひとをみかけたが、本人はそれでよいのだろうかともおもった。
まぁ、それも「あり」なのだろう。

関東では、冬型の気候になるから、お正月はだいたい晴れる。
適度な距離の七福神めぐりは、都会のなかのハイキングにもなるし、目的地のあるウオーキングでもある。
はじめてのコースなら、地図を片手にあるくから、ついでに頭の体操にもなる。

人気なのは、徒歩で半日程度で一巡できるコースだという。
場所によっては、町内会が用意するのか「道順」の矢印が、まちのところどころにあって、迷わないようになっている。
住人が、道を聞かれて面倒になったのかもしれない。

とにかく満願しようと、躍起になるひともいるだろうが、せっかくのことだから、街の様子やお店をみてあるくと、あんがい時間がかかる。
お昼はどこで食べようか?
こんなところに、こんなお店を発見!

余裕があると、ふだんしらない街の表情もかわってみえる。
それがまた魅力なのだ。
とちゅうで見つけた和菓子屋さんの店先で、熱いお茶と甘いお菓子をいただきながらの一服は、なかなか贅沢な時間であるから、ちゃんと「福」をいただいている。

それにしても、地域の神社やお寺に分散して祀られている「七福神」とは、なんとも日本的混合の世界である。
本殿や拝殿に鎮座ましますこともあれば、境内に別っして祀られていることもある。
この「差」はなにか?

「暗黙知」をもってよしとするのか、くわしい説明がないことがおおい。
それが宗教というものかもしれないが、「いわれ」は重要である。

そうおもうと、チラホラと外国人のすがたがあるものの、外国語表記の案内をみたことがない。
これは、以前にも書いた、奈良や京都の大寺院もおなじだ。

参拝マナーがまもれないような一部の外国人に、正月から不愉快にされるのはごめんだが、日本の「文化」ということでいえば、七福神めぐりは、街中を「めぐる」ということ自体でも立派な観光である。

しかし,「説明」がむずかしい。
日本人でもわからない「暗黙知」を強調されると、外国人には「ミラクル」であることすら伝わらないだろう。
すると、わたしたち自身も、「わかったつもり」で生きていることがわかる。

「観光戦略」というならば、それは、相手に好きになってもらう、ことである.
珍しいとか、神秘的とかとはちがう、もっと心にしみるための援助だ。
だから、日本人向けとか外国人向けというのは,筋違いである。
なに人であろうが、これはなにか?を、どうやって説明するのかが問われるからだ。

観て感じろ、というわけにはいかないのである。
かくかくしかじかをしったうえで、観て感じることと、しらずに放置されて観て感じることはおのずと異なる。

味覚すらかわってしまう。
かくかくしかじかをしったうえで食べるのと、しらずに放置されて食べるのとでは、味さえもかえてしまうだろう。

人間は、脳でたべているからだ。
脳が味を解釈するということだ。
うんちくの有無が、評価をかえるのである。

なんだこの絵は?
じぶんにもかんたんに描けそうだ、とおもう。
しかし、そこに「ピカソ作」の文字を見つけたら、なにをおもうのか?
ただ苦笑いするしかないだろう。

七福神は、宗教的なものだからそこには、はかりしれない「神秘」があっていい。
しかし、それだけ?でいいのかとかんがえるのは、むだではない。
人間の脳がかんがえだしたもの、でもある。

観光にする、のもけっして簡単ではないのである。

「最善」をかんがえよう!

今日は1月4日だから、おおくのひとは「仕事始め」ではなかろうか。
とはいえ、「新年の挨拶の日」でもあるから、さっそく一杯やっている会社もあるだろう。
まじめに新年をかんがえるのは、明日以降になるにせよ、どうせだからひとつこんなことをかんがえてはいかがだろう。

よくいわれるのは「最悪」を予想しておくことだ。

「備えあれば憂いなし」

ところが、いがいにも「最善」をかんがえるひとがすくない。
欲の皮がつっぱって、なにが「最善」なのかがわからなくなるからだろうか?

どういう状態が「最善」なのかをかんがえるにあたって、ぜひ、紙をつかってほしい。
ペンでも、パソコンでもタブレットでも、なんでもいいから「記録」できるようにすることが、「必要」である。
忘れてしまったらなんにもならないからだが、それよりもなによりも、思考の「漏れ」がなくなるというメリットがある。

業績不振企業のトップは、けっして頭脳に問題があるひとではない。
むしろ、明晰なのだが、かんがえるときに紙をつかわない。
暗算のように、頭の中「だけ」でいろいろかんがえる癖がある。
それで、肝心が漏れてしまうか、論考が複雑になると面倒になる。

だから、結果がきまらない。
結果がきまらないから、行動にならない。
それは、部下への指示ができないことを意味して、ダラダラとした経営になってしまう。
部下たちは、ダラダラとした経営が「楽」なので、仲間同士の愚痴はいっても、意見具申はしない。

こうして、しらずしらずのうちに業績は確実に悪くなる。
意志がなく世間に浮いているような会社になるから、「景気」と業績が連動している。
それで、自社の不振の原因を「景気がわるいから」にもとめることになる.
景気をよくすることは自社ではできない。
というわけで、地元の役所や政治家の「対策」に依存するようになる。

効果バツグンにみえるのは、「補助金」だ。
書類をだせば役所からお金がもらえる。
それで、いまどんな補助金があるのかという「情報」がないといけないから、日々役所を巡回する。
課ごと、担当ごとに、情報も縦割りになっているからだ。

こうなると、経営者は多忙である。
市役所と県庁、それに国の出先と、最低三箇所、実質いくつかの建物を巡回しないといけない。
自社が県庁所在地にあっても、ずいぶんな時間を要するから、県庁からはなれていると、地元と県庁のある街との往復だけでもたいへんなのだ。

この多忙さが、経営者をして経営をしている気分にさせる。
まことによくできた「政策」である。
政治家には「票」になるし、役人には「犬」にみえることだろう。

自社をどうしたいか?
自社はいかにあるべきか?
こうしたことを一切かんがえなくてよい。

自主独立の精神をうしなった企業の実態は、「国営企業」になるのである。

これをさげすむ文化があれば、経済はだまっていてもかならず発展する。
しかし、国や自治体は補助金をもっとよこすべきだ、になってしまったら、現状維持がやっとで発展など望むべくもない。
かつての「英国病」がこれだった。

いまから半世紀前、70年代から80年代にかけて、英国と米国はスタグフレーションに悩んでいた。
彼らを尻目に、世界経済をけん引し、西側の優等生だったのはわが日本と西ドイツだった。
なかでも、日本に勢いがあったようにみえたのは、経営者たちに自主独立の精神があったからだ。

傾いた政府を立て直す役目を負ったのが、経団連を率いた土光敏夫氏だった。
いま、経団連は、政府に引率されていないか?
「経済再生」が、政府策定の作文に依存するようになってしまった。

だから、上述した地方の役所廻りをする経営者をわらえない。
中央の、大企業の経営者たちも、おなじ行動をしているのだ。

すると、これは、「抜け駆け」のチャンスでもある。
かれらの卑しい行動は放っておいて、自社の自主独立の精神を発揮させれば、頭一つ以上の成果が出せるのだ。

とかく後ろ向きになる話題にこと欠かない昨今だから、「最善」をかんがえるのは楽しいことだ。
その「最善」を、どうやったら実現できるか?をかんがえ、実行するのが「経営」である。
だから、最初に「最善」がきまっていないと、実現方法がなにもおもいつかない。

年の初めに、最善をかんがえるのは、ちょうどよいタイミングである。
実現方法にかかわる費用を、「年度」でかんがえれば、4月からの新年度予算に計上できる。
ますます実行するしかないようになるのだ。

ぜひいま、最善をかんがえていただきたい。

けっしてかなわぬ願いごと

「いいつづければ夢はかなう」から、決してあきらめてはいけない。
あきらめないことが、重要なのだ。

とはいうものの、お役人さまへのわたしの要望はおそらくかなわない。
いや、けっしてかなわないだろう。
それは、お願いだからなにもしないでほしい、ということなのだ。
「余計なこと」という条件もない。

余計なこととはなにかを議論することすら余計なことである。
だから、シンプルがいい。
なにもしないでほしい、のだ。

それで、荒っぽいのは承知で、あえて一回白紙からかんがえてみる。

国家の最低限の役割とは、古典的なみかただと、外交・安保、警察・消防、それに教育だった。
これらのためにはおカネがいる。
それで、税金を徴収する機能と、予算をつくって分配する機能、これにあまったおカネを運用する機能がつけ加わった。

公共財としては、橋やトンネルをふくめた道路や、災害から住民を守るための土木工事があるし、港湾や空港などといった経済活動をささえるインフラとしての大規模施設も、はじめにする工事は必要だ。

江戸幕府の機能をかんがえると、消防は大名火消しと町火消しにさせたから、幕府は直轄していない。
教育も、幕臣のための教育はあったが、それ以外は自由だ。
税は米という物資を基幹にしたので、現金を基幹とする現代とはことなっている。しかも、米の値段は大阪堂島の米相場できまったから、幕府の軍事的権力をもって決めることもしなかったし、できなかった。
公共工事は、おもに治水だった。

注目すべきは、この時代は「経済学」が存在しなかった。
だから、いまでいう「経済政策」が総じてない。
失敗しかない「改革」も、倹約令ばかりなのである。
そういう意味で,小さな政府だった、のだ。

政府機能があまりないから、ひととひととのつながりが重要だった。
これが、一般人のたすけあい精神を育んだともいえる。

明治時代になって、陸軍の諜報部員だった石光真清の『手記』は、1958年に毎日出版文化賞を受章している。
この『手記』のすごさは、まさに「事実は小説よりも奇なり」であるが、手に汗握るそのスパイ活動をささえた一般人のたすけあい精神が、いまではかんがえられない日本人像の記録になっているのである。

   

いまも「下町人情」とはよくマスコミがいうけれど、あんがいそれは強制をともなう「お節介」である。
伝統的なくらしがのこる京都の中心部では、老舗の子息が所帯を持つと伏見や宇治に新居をもとめるというが、本音は近所との「面倒くささ」からの避難だという。

しらずしらずのうちに、生活風習のいろんなことが強制に変化したのは、政府のお節介と関係があるのではないかと想像している。
生きるための助け合いの精神が、生きるための面倒を政府が肩替わりして、残った精神だけが義務をつくりだしたのではないのか?と。

社会が進歩したら、人間がついていくのに息切れしだした。
ケインズが発明した「有効需要」と「乗数効果」で、政府が経済活動に介入することが「正義」になった。
ところが、ケインズ本人も、「不景気のときの手段だ」と、ただし書きをしているから、恒常的にやっていいとはいっていない。

ここがケインズの悩ましいところで、彼自身がイギリス大蔵省の官僚だったから、役人にこの「ただし書き」が通用すると本気でおもっていたかどうかに疑問がのこる。
役人の本質は、しごとをつくり出すことだけだから、いつでもどこでも「有効需要」と「乗数効果」の計算をして、政府のカネをつぎこめば、もっと経済はよくなるとおもいこんだ。

もちろん、「保守」が国柄の大英帝国で、ケインズのあたらしい経済理論がドンピシャだから、すぐに実行しようという専門家などいるはずがなく、国家財政が破たんするという大合唱だけだっだが、第一次大戦の賠償金ですでに国家財政が破たんしそうなヒトラーのドイツで、どうにでもなれと「無責任」にもこの方法が採用された。

ケインズのいうとおり、ドイツ経済は不景気のどん底だったから、みごとに有効需要と乗数効果がはたらいて、うそみたいに景気がよくなった。
ヒトラーはすばらしいとドイツ国民は歓喜して、とうとう独裁者になることも国民が希望した。
おそらく、ヒトラー本人がいちばん驚いたのではなかったか?

そんなわけで、ヨーロッパでケインズの処方箋がどんどん採用されて、これが英国に逆輸入され、第二次大戦後のイギリスは、ソ連とはちがうけど、すっかり社会主義国になってしまった。
「ゆりかごから墓場まで」(政府が面倒をみますよ)、である。

アメリカも、大恐慌をどうするかで、デフレ策をやって失敗した共和党政権から、ニュー・ディール政策というケインズ政策で、民主党ルーズベルト政権になった。

日本では、ドイツと同盟したのに、どういうわけかスターリンの五ヵ年計画がだいすきで、これを仕切ったのが超優秀な官僚、岸信介である。
コンピューターが存在しなかった時代に、ソロバンと手書きで綿密な国家経済計画書をつくれたのは、当時も日本人以外では不可能だったろう。

戦争に負けて軍人たちが責任をとらされたが、文官たちは無傷で、降格も追放もなかった。
それで、戦後は「経済官僚」による政府になる。
「経済官僚」の政府が、経済官僚だけで運営されることが完成するのが、田中角栄内閣だ。
戦前の近衛文麿内閣と、戦後の田中角栄内閣は、日本人ならわすれてはならない。

このふたつの内閣は、地下水脈で連綿とつながってわが国の基礎をなしている。
こんにちの内閣も、当然にこれらの継続である。
民主党政権というあだ花は、たんなる過激分子であって、継続性の基準をよりつよく打ち出しただけだった。

つまり、おなじ音楽を、民主党の時代は音量をあげすぎただけで、安倍政権は音量をもとにもどしただけであるから、国民はおなじ曲を聴かされている。
それは、「ゆりかごの歌」なのだ。

イギリスは、幸運にもサッチャー女史があらわれて、べつの曲にかけかえた。
同時に、アメリカもレーガンがサッチャーとおなじ曲にかけかえた。
フランスは、ミッテランが「ゆりかごの歌」をかけたままでいたが、途中で耐えられなくなった。
日本は、中曽根康弘が、「ゆりかごの歌」のボリュームを聞こえないほどに下げたが、別の曲にはしなかった。

というわけで、いまさらながら「ゆりかごの歌」が鳴っているのが先進国ではわが国だけになったのだが、国民がすっかり気持ちいいままなので、やめられない。
そうこうしているうちに、「先進国」といえるのか?というはなしになってきている。

もう11年前になる、2008年1月18日、国会本会議における経済演説において、大田弘子経済財政政策担当大臣が「もはや日本は『経済は一流』と呼ばれるような状況ではなくなってしまった」と述べた。
そして、「もう一度、世界に向けて挑戦していく気概を取り戻す」と発言したのだが、政府の政策として「やる」というのがまちがいなのである。

そんな絶望をえがいた、村上龍『希望の国のエクソダス』は、2000年の小説だった。
小説家の想像力が、現実を凌駕するひとつの事例である。

やるのは民間である。
どうか政府はなにもしないでほしい、ということなのだ。

「一年の計」だけでよいか?

2019年の年頭にあたって

経営理念から経営ビジョン、事業コンセプト、経営戦略、経営計画と、上位概念からだんだんと地上におりてくるような構造を、わたしは「経営の背骨」とよんでいる。
経営計画には3年ほどの中期計画から、年度や半期の「予算」があるから、さいごは日常業務にたどりつく。

この順番を日常業務からはじめれば、経営理念の実現には、日常業務がちゃんとできないと砂上の楼閣になることがわかる。
つまり、一直線でつながっているといつでもイメージできるかが、経営者の条件でもある。
経営の背骨について、あれはあれそれはそれ、といったご都合主義は通用しない。

業績不振企業とは、この「経営の背骨」のどこかがゆがんでいるか、ズレている箇所がかならずある。まさに、一種の「法則」になっている。
まったく、人間のからだとおなじなのである。
だから、わたしは経営の背骨を矯正する整体師でもある。

ほんとうの整体師にも治せないことがあるように、経営コンサルタントという整体師にも限界がある。
それは、本人が症状を認めないとか、治すときの痛みに耐えられないとか、あるいは、あくまでも症状の原因を他人(景気や従業員)にもとめるなどの場合である。

もっとも深刻なのは、本人が症状を認めないことだ。
これには、ときとして法的な権利義務にも議論がおよぶから、外部であるコンサルタントだろうが、内部からであろうが、なかなかの困難がともなう。
ましてや本人がオーナー経営者であれば、なおさらである。

そういうオーナー経営者なのに、どうしてコンサルタントが接触するのか?といえば、おおきく二通りある。

ひとつは取引先銀行からの「あっせん」だ。
たいがい「リスケ」状態で、例によって「金融検査マニュアル」に抵触(銀行が引当金を計上させられる)しないようにするため、相手企業になかば強制的にコンサルタントをいれて改善をはかるばあいだ。
それでも、コンサルタント料金は、当該企業が負担するが、それが銀行がリスケに応じる条件になるから、経営者にはしかたがない。

もうひとつは、「経営支援機構」からの要請である。
こちらは、バンザイした企業が駆け込んで、あるいは、銀行から強制されて、資本金に「支援」を賜るから、実質オーナーチェンジなのだが、たいがいは元のオーナーの家族が新社長になるという「温情」がある。
コンサルタントは、資本金をいれた側からの依頼となるが、支払は資本金からというかんがえ方なので、当該企業が負担するようにみえる。

なにが重要かと簡単にいえば、こうした事態にならないこと、である。
優良企業は、ただしい自己判断ができるから「優良」なのだ。
だから、自社は優良ではないが「ふつうの企業」だというばあい、はやく「優良」になれるようにしておくことが、経営者の才覚でもある。

つまり、早期発見・早期手当のことである。
自力であろうが他力をつかおうが、それ相応のコストがかかる。
しかし、すべてのコストとは「投資」のことであるから、「費用」だとかんがえてはいけない。
このブログでもしつこく書いているが、損益計算書は納税や株主向けの「計算書」であって、経費削減で経営そのものが復活した事例はない。

コスト・パフォーマンスは、あたりまえで、「コスト=投資」に対する「パフォーマンス=リターン」の良し悪しが、経営の業績を決定する。
これは、食材原価とておなじだ。
食材仕入れというコスト=投資をして、調理人がする調理活動で付加価値をつけた料理を販売して、なんぼかの利益=リターンを得る。

食材仕入れだけでなく、調理人の人件費も「投資」なのだから、人件費を削減すれば、調理活動のレベルが落ちる可能性があるから、結局はリターンが減る可能性が高くなる。
だから、経費削減で経営そのものが復活しないのだ。
しつこいが、厨房設備に投じるだけが「投資」ではない。

ここで、個人の経営、をかんがえると、あんがい企業活動ににている。
自分に投資しないと、リターンが減る可能性があるからだ。
しかし、個人と企業では決定的なちがいがある。
それは、「寿命」だ。

わが国は世界でもっとも古い企業があるし、創業100年をこえる企業数でも世界でダントツなのだ。
つまり、うまい経営をすると、企業には寿命がつきない、という特性がある。
しかし、生身の人間はそうはいかない。

人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり

信長一生一代の大勝負、今川義元との決戦にむかう覚悟で有名な、いまではどうした拍子でどんな音階だったかも不明という幸若舞の一節である。

「人間」は「じんかん」という。
「下天の内」とは「天界の時間」を指すから、五十年でも百年でも意味はおなじ。
この世は、はかないのだ。

さすれば、一年の計でよいのか?
お屠蘇で夢うつつになる前に、ちょっとだけでもかんがえをめぐらしたい。

明けましておめでとうございます。

社会の複雑さがわからない

クラッシック音楽の世界では、ブラームスこそ一音一音を大切にした作曲家である、と評されることがあった。
発表済みの曲を、なんども手直ししたことがふつうにあったからだろうが,「鳴る音」と「鳴らない音」を彼は区別する、というはなしに感心したものだ。

鳴らない音を選び出す。
彼の手直しとは、そういう作業だったという。
ブラームスといえば、「重厚長大」なドイツ音楽の代名詞で、宿命のライバルはワーグナーだった。
まさに「重厚にして長大なる音楽」の競合だったのだ。

むかし、十代で読むべき図書として、フランソワーズ・サガンの『ブラームスはお好き』があった。
日本人の十代にはちょっと早すぎた感があるし、当時の時代としてもかなり早っかったかもしれない。

ませた中学の同級生の女の子が読んでいた。
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を十代で読みそこなうと、もうチャンスはないだろうが、いまなら、サガンを男性管理職が読んでいいのかもしれない。
日本人の洋風化は、なにも食文化だけではない。

 

英米に対するアンチテーゼとしてのフランスは、どうにも遠い国である。
バタ臭いフレンチに「食傷気味」になったら、消化剤として小津映画を観れば、ポップな現代日本はどこからきたのか?と、かんがえることになる。
その「かんがえること」が、解毒剤だ。

日本で、ドイツ音楽がクラッシックの中心にあるのは、輸入した「いきさつ」からだ。
フランスの音楽や、イタリア音楽がほとんど紹介されていないから、その他は推して知るべしで、ヨーロッパの多様性について、われわれは無頓着なことがある。

そのフランスで、大規模デモが暴動化し、マクロン政権を窮地においこんでいる。
歴史上まさかの相棒になったドイツでも、メルケル首相の任期がきまって、EUを引っぱった独仏が、フラフラしはじめた。
ヨーロッパ中央銀行が、ヨーロッパの多様性を無視したところに原因があるが、その銀行の統制を強化したのが独仏だったから、これを嫌った英国が離脱する。

ウクライナにちょっかいをだすロシアと、迷走のトルコが、東ヨーロッパに、むかしの緊張をつくっている。
かつてスターリンに好きにされた東ヨーロッパは、プーチンをスターリンの再来とおそれている。

ブルガリアの首都、ソフィアの空港は、半分がルフトハンザ、半分がターキッシュ・エアーのターミナルになっていて、まるで「てんびん」のようなバランスがみてとれる。
オスマントルコの残虐と、ナチスドイツの残虐に、ソ連圏の悲惨が3重唱をかなでる地域であった。
自国、ブルガリア航空の飛行機すら、身を縮めているようだ。

ことしは第一次大戦終結100年の式典まであったが、生活感からも、バルカン半島のぐちゃぐちゃは、よくぞソ連が力でまとめた、ということか、隣国同士はあいかわらず親密ではない。

この複雑なヨーロッパのなかで、いまでも「ロマ」(かつて「ジプシー」と呼ばれた)のひとたちが暮らしている。
これに難民と移民がくわわって、なんだかわからなくなった。

ふだんは「反グローバル」なのに、「ふつうの国になりたい」とおもったのか、すでに問題が顕在化していることを無視して、わが国も「正式」に移民を受け入れることに決めた。

独身で十年したら帰国させるから、移民ではない、という詭弁をいってはばからないのは、かつての高貴な日本人ではなくなった証拠である。
ほんとうに「帰れ」とやったら、移民の外国人たちが大規模デモを繰り広げるにちがいなく、特定の「本国」は、「奴隷化」していると反日キャンペーンをこれみよがしに大宣伝するだろう。

アメリカ南北戦争で、奴隷労働をさきにやめた北部が、経済力で南部を圧倒したのは、高い賃金の労働力にみあった価値を生み出す努力をしたからだ。
わが国は卑しい国柄になって、安い賃金でしか生き残れない経済を、なんとか維持しようと努力する国になってしまった。

目標が小さすぎるのではなくて、目的とする方向がまちがっている。
ついでに、安倍政権に反対する元全共闘世代のひとたちも、あいかわらず批判する方向がまちがっているから、結局は政権を擁護する役をはたしている。

まさに「55年体制」を変えられないでいるから、若者は愚か者たちと評価し尊敬しないのだ。
団塊世代がいなくなって、選挙で老人優先をいわなくてよくなれば、「敬老の日」が廃止になるのではないかとおもうが、原因はこうしたことだ。
このひとたちは、じぶんがいなくなった世界のことに責任をもつかんがえを微塵ももっておらず、とにかくじぶんさえよければそれでいいのである。

ヨーロッパでは、恐怖のロシア(おそろしあ)がいるから、EUよりも頼りはNATOである。
日本周辺の国々が、へんな行動をいろいろするから、かえって日米同盟が強固になるのに似ている。なぜかロシアは日本周辺であばれていない。
北半球の北極を中心にした地図が日常遣いならいいのだが、そんなものはめったにないから「地球儀」をみてかんがえるのがもっともよい。

話題のおおい国と、そうでない国を区別してみるようにすると、情報のバラツキもみえてくるだろう。
多様な場所に多様なひとたちが生きていることがわかればよい。

そうかんがえると、日本はちいさい国だとおもったらぜんぜんちがう。
ずいぶん前に話題になった世界地図のサイト は、やはり有用だ。
これで、日本列島をドラッグしてさまざまな場所に移動させれば、ただしい縮尺で日本のおおきさがわかる。
ヨーロッパ大陸に移動させると、じつは日本列島はばかでかい。

残念なのは、経済水域の表示機能がないことだ。
わが国は、海をふくめると世界6位の面積の国になる。

このあんがい大きな面積の島に、1億人をこえる人間がすんでいる。
あたりまえだが、この瞬間瞬間を、1億とおりの人生の時間がすぎているのだ。
生まれてこの方、このことをちゃんと意識しない幸福なひとが高級役人にたくさんいる。
小説以上に複雑な人生は、現実にはいくらでもあるのにだ。

その高級役人のやりたいことを、審議会というなかば買収された「学識経験者」がアリバイづくりに加担して、多方面から検討したことにする。
このパターンをかんがえだした役人は、かなり優秀だ。

そして、法律の下位にある施行令や施行規則、それに省令など、国会の承認を要しない命令がたくさんあって、「通達」という書類でも命令できるようになっている。
国会議員の数がおおければ民主主義が機能するというのは間違いである。

議員活動を支援する、国会職員の職務がないことが、行政側の役人天国をつくっている。
おどろくことに、国会事務局の専門的な職務には、行政官である官僚が各省庁から国会に「出向」しているから、「お里」に忠実な立法府になっている。
つまり、立法府の機能不全は、議員の質だけではなく、事務局にもおよんでいるのだ。

なるほど、分立しているはずの立法府と行政府だが、優秀な学生が国会職員になったというはなしを寡聞にして聴かない。
「国家公務員」といういいかたをやめて、「国家行政府職員」とすれば、「国会職員」とちゃんと区別できる。

国会側も「立法府職員」として「衆議院事務局」「参議院事務局」としたほうがいい。
裁判所は、とっくに「裁判所職員」とか「裁判所事務官」といって「お里」を特定している。
来年の参議院選挙で、だれかいわないものか?

消費税が3%から5%になる前に、適用する基準売上高を役人の通達でかってに「下げた」。
事実上の「大増税」であったが、あれだけ「反対」した当時の野党は、無反応というおどろくべき「なにもしない」をやりとげた。
ブラームスの意図的な「無音」は、意志の表明であることがわかる事例だ。

これは、マスコミ大新聞もおなじである。
新聞社は消費税の適用除外という特権をあたえられているから、本気でお国にさからえない。
日本の大新聞社は、特権的に国有地の払い下げをうけているのに、大阪の小学校は「不審」としつこく言い張るのは、じぶんたちのことを隠蔽しようという活動ではないのか?

まことに世の中は複雑である。
これを単純化するのは学問ではゆるされても、政策ではこまる。
来年のイベントカレンダーはもうできている。
これが、「ニュースになる」ので、新聞がおもしろくない。

フランス革命では、フランス人は「フリジア帽」という赤い帽子をかぶっていた。
ドラクロワが「自由の女神」(マリアンヌ)を描いた絵画が有名だ。
いまのデモ隊は、「イエローベスト」を着ている。
フリジア帽もイエローベストも、日本では入手困難である。
どちらか流行にならないかと期待しているのだが。

さてさて、さまざまなひとのさまざまな大晦日が、全員にきっちりあたえられて、確実にあしたは新年になる。
ことしもお疲れさまでした。

「会社法」には目的の明記がない

社外取締役を「義務」化する、という会社法改正案が発表された。

その会社法にも、前身の商法にも、法の目的の記述がなく、第1条に「趣旨」、とある。
念のため、下記がその条文である。

「会社の設立、組織、運営及び管理については、他の法律に特別の定めがある場合を除くほか、この法律の定めるところによる。」

だから、会社のことは「会社法」でただしい。
しかし、会社にはいわゆる「ステークホルダー」と呼ぶ「関係者」が多数いて、その立場はそれぞれことなる。

所有者であって投資家でもある株主、経営者である取締役や執行役員、それを監査する監査役や監査人、社内ではたらく従業員も正社員や非正規のひとがいて、仕入れの取引先、そして、唯一利用してお金を支払ってくれる購買客などのことをいう。
それぞれの立場がちがうから、それぞれの「利害」がちがうのは当然でもある。

今回の「改正」の主旨はなにか?
たびかさなる企業不祥事、ということだろう。
しかしこれは、前回平成26年の改正(施行は翌年)で「監査役会」の設置がされたから、さらなる積み重ねになる。
すなわち、「屋上屋を架す」になっている。

監査役会と監査役が、不正をただす監視ができないのはなぜか?
頻繁には開催されない取締役会に「しか」出席しない、社外取締役に、いったいなにができるのか?
「社外」ではない、社内の取締役の立場からすれば、いかに「通す」か?だけに興味がうつらないのか?

数々の基本的な疑問に、法制審議会の会社法制部会はこたえているとはおもえない。
部会メンバーは、ぱっと見ご立派な肩書きがならんでいるが、ビジネス経験者が少数派になっていることが注目にあたいするし、行政官僚自身がメンバーになっている。

おそらく、深遠なる「法学論」が語られたことだろう。
社外取締役が義務化されたり、人数がふえると、不祥事は減る、という法則は成り立つのか?
これは、因果関係のことである。
監査役をふやせば不祥事は減る、という法則が法理論的に当然とかんがえたのが、おおハズレした。

原「因」から結「果」になるから、「因果」関係というのは、小学校の国語で「5」を当然とした彼らにはあたりまえすぎるのだろうが、知識としてしっているだけで、実務としてしっているわけではない。

学校を卒業して、大学院から大学教授になったひとも、もっと優秀な成績で官僚になったひとも、傲慢こそが売りだから、職場で「因果関係」をかんがえる経験はないだろう。
その反省が微塵もないのが、学識経験者の学識であるし、無能な官僚の思考パターンである。

たとえば、文部科学省という学校の成績と国家公務員試験の成績が一番悪いほうからかぞえるひとが入省するということが慣例になっている役所が、小学生にむかって「あさごはんを食べると成績がよくなる」から、「あさごはんを食べよう」というキャンペーンをやった。
統計をとったら、成績のよい子はあさごはんを食べていたからである。

これはふつう「相関関係」といって、成績のよい子の特性を説明するのにはよいが、けっして「因果関係」ではないから、統計学の教科書ではやってはいけないと特筆注意されることである。
成績が悪かった官僚だから間違えたのではなく、成績のもっとよい官僚は、よりもっともらしい「相関関係」を「因果関係」と強弁してはばからない。

それが、本件の会社法改正案になっている。

目的のない法律が、目的が不明の条文をかんがえだす。
ステークホルダーという主語をわすれて、会社のことをぜんぶ決めようとするからこうなる。
たくさんの「主語」があるから、その主語ごとに決めごとをつくらなければ、誰のなにが対象なのかわからなくなる。

それで、監査役がダメなら社外取締役ということになったのだろう。
すると、この法律は、論理的に破たんしている。
小学生の作文なら、先生に主語をちゃんとかきなさない、と添削されることまちがいない。
「法律」のまえに、「文学」としても成立していない。

ダメな取締役を選んで、その結果、会社がダメになったら損は株主が負うことになっている。
このひとなら大丈夫、という情報を、株主はどうやって得ることができるのか?
残念だが、そんなものはないだろう。

であれば、取締役には、在任中と退任後も何年間か、大量の自社株式を購入・保持させればよい。
売買禁止期間は、新入社員にも責任をある意味で退任後30年ほどが望ましい。
それが、経営者の経営責任なのだ。

これが、因果応報をもって縛る方法である。
かつて社長として東芝再建にあたった土光敏夫氏は、紙切れ同然にまでなった東芝株を大量定期購入していた。
みずからの決心と覚悟である。

それで、退任後、株価は数倍の価値をつけたから、はからずも大資産を保有した。
さいきんの自動車会社や官製ファンドの高額報酬が、世間のやっかみを受けているが、土光氏はやっかまれたどころか尊敬された。

経済にはちゃんと「経済原則」がはたらくようにする。
これこそが、要諦なのである。

さて、本日、2018年12月30日0時から、「TPP」が発効した。
あたらしい経済の時代のお正月である。

「産業優先」が国是の国柄

こういう国なのだから、しかたがない。
だったらちゃんと、「産業優先」であるといってほしいものだが、それも「あうん」の呼吸でわかるだろう?とにやついた笑顔で返されそうだ。
「空気を読め」と。

しかし、そうはいっても、いわれてみないと気がつかないひとはおおい。
「産業優先」のなにがわるい?と開きなおるひともいるだろう。
自分たちが食べていけるのも、会社あってこそのこと。
だから、会社が優先されるのは、当然だし、それこそが効率のよい経済をつくるのだ、と。

昭和の時代はそうだった。
平成の時代は、なんか変だ?と気がついたが、なにが変だかわからずに終わろうとしている。
つぎの時代の、どのへんで気づくのか?あるいは気づかないまま、またつぎの時代を迎えるのか?

「産業優先」が国是の国だから、国家行政の官庁も、「ほぼ」産業優先をむねとしている。
「ほぼ」というのは、消費者庁という「異端」が存在するからである。
これに、資本主義の擁護者「公正取引委員会」がある。
消費者庁ができたのは、2009年のことだから、まだ十年たっていない。

その消費者庁が、日産の燃料不正表示を「景表法」で取り締まり、課徴金をとろうとしたら、産業優先の「総務省」の第三者機関「行政不服審査会」が、厳しすぎるといいだした。
それで、消費者庁が折れた、というはなしである。

「行政不服審査会」の発想は、企業への「公平さ」重視だ。
なんのための、誰のための「不正」だったかにさかのぼれば、自分たちのためであって、消費者のために不正をしたのではない。
その「不正」を「公平さ」で審査する、というから、どうかしている。

企業論理が優先されると、消費者がきらって買わなくなることもある。
産業泰明期のむかしや、ソ連圏なら、一品種一社しかないので、消費者は選択ができなかった。
それで、競争がうまれるか、競争を否定した経済圏では、物がなくなった。
だから、公正取引委員会が、資本主義の擁護者となる。

それを、商品「表示」という分野で見張っているのが消費者庁だ。
どんな事情が企業側にあっても、消費者が「不正な表示」をみて購入したなら、それは「不公正」なことである。
「行政不服審査会」のメンバーは、自分で買い物をしたことがないひとたちではないか?

企業には「厳しすぎる」けれども、それを克服してこその企業活動であって、それこそが「競争」に勝つための原動力ではないか?
もはやとっくに、外国企業との競争をしているのに、国内だけで解決できるとかんがえるのは噴飯物である。
これを「時代錯誤」というのだ。

さいきんのホリエモンこと堀江貴文氏の発言に、「日本政府に税金払うよりアマゾンに払ったほうが生活豊かになる」とあったが、まさにそのとおり。
日本国政府の税収と、日本国民の生活感が乖離している。

政府の税収がふえても、日本国民が豊かさを実感することができないのは、すべてに「公平さ」を追求しようとする、官僚の思考、そのものが原因だ。
ソ連の官僚の努力が、そのまま日本官僚の努力になっている。
「平成時代」とは、ソ連型経済を維持し、崩壊へとすすむ道筋を確固とさせた時代である。

アマゾンが日本国に税金を支払わないことは、もはや国民にとって重要ではなくなった。
むしろ、アマゾンが米国本国や日本以外の国でおこなっているサービスが、わが国のさまざまな規制(もちろん既得権益)にさまたげられて、実行されないことが、日本人を不幸にしている。

たとえば、書籍販売というかれらの「本業」から派生した、電子書籍のダウンロードに「家族登録」が日本ではできない。
実物の書籍であれば、一家で回し読み、はあたりまえなのに、電子媒体となるとそれが規制されるのは、まったく消費者の事情からは不公平である。

友人との本の貸し借りも電子書籍ではできない。
しかし、期限を設けるとか、貸し出したらデータも移転するなりして、貸した側の閲覧ができなくなるなどの「電子的処置」が可能であれば、本物の本なら返却されないというリスクも、電子版ならないだろうから、便利このうえないはずだ。

出版不況の深刻さは、著作権が保護されすぎている、ということにも原因があるのではないか?
「本を読む習慣」すらうしなえば、販売という問題だけではすまされない。
その道の利権擁護に官僚ががんばると、きしんでしまう典型だ。
著作権益はちいさなお金ではないが、もっと大きなお金をうむはなしを自ら放棄していないか?

口では「電子立国」とか、「観光立国」とか、かっこいいことをいうが、実態は「既得権益『保護』」ということしかしないから、いつまでたっても経済はよくならない。
データをはやく転送できる技術「だけ」をもって「電子立国」というから、メモリー事業で失敗するのだ。

この国からデータのつかいかた、利用方法に画期がうせたのは、消費者優先という思想の欠如があまりにもおおきい。
すべての産品は、最終的に消費者が消費する、というあたりまえを忘れたすがただ。

「産業優先」こそが元凶であると、野党に期待したいが、かれらの面々を想像するだに希望がなくなる。
あと数日の今年にはムリでも、せめて来年は話題にだけでもなってほしいものである。

年末の山梨県で世の末をみる

「停滞から前進」と大書してある幟旗が、県境をこえてから目についた。
場所によっては、お祭りの「祭礼」のちょうちんのようにバタバタと連続してならんではためいているから、何事かとおもった。
とうとうやるべき公共事業のアイデアがつきて、旗屋に大量の注文がはいったのかといぶかった。
産業連関的に、いかなる経済効果が計算できるのだろうか?と。

調べてみたら、山梨県知事選が来年1月に告示されるので、すでに事実上の選挙戦に突入しているのだという。
わたしの住む神奈川県は、太陽光発電を一大推進すると公約して当選した知事が、選挙中にも指摘されていた「財源は?」の問いに、当選後「無い袖は振れぬ」とあっさり撤回して呆れたものだったが、なんと「再選」もされたから、一般市民の感覚とはちがうひとたちがたくさんいるとしかおもえない。

他県のことだから、どうぞお好きなひとをお選びください、というのが筋ではあろうが、便利なネットでの記事で、あんがい他県だから関係ないとはいえないことを主張されている。
それは、元職の衆議院議員であった与党の候補者が、まさに人脈を駆使して、我こそが国の予算を県に引っ張る、と意気込んでいるのである。

国の予算は、枠が決まっている。
だから、これは「ゼロサム」であるから、だれかが多くを得れば、だれかの分がすくなくなる。
「分捕り合戦」といえばそのとおり。
さすがは戦国武将を産んだ土地柄だ。
つまり、他県のわたしにも影響する「公約」なのである。

このような主張が、新しいのか古いのかは別にして、頼るべきは国家のカネしかない、と思い詰めているところに何ともいえない悲壮感が、武田家滅亡とかさなる。
「国家依存」を前面に政策公約としているから、より悲劇的である。

政権が鳴り物入りではじめた各種「官民ファンド」のおおくが行き詰まっていて、ついこのあいだも「2兆円の巨大資金をもつ」組織が、空中分解してしまったのは、まさに、国家や官僚という役人には「不適」ということの、教科書通りの事例になったのだが、そんなことは「関係なく」、自分が国のカネを持ち込んで、県庁の役人による「公平」な分配をすれば、山梨県はうまくいく、と発想している。

人口で島根県にまさる山梨県が、金額で50億円もすくないカネしか国からもらっていないから、山梨県民は「損をしている」というのは、神奈川県民のわたしには、失礼だが盗賊以下の「乞食」にみえる。
聴衆に卑しい感情をうめこんで、島根を恨めとせまる、たんなる「アジ演説」ではないか?

「甲州商人」といえば、近代日本の産業界にあっては「重鎮」としての位置にあった。
鉄道や百貨店などの創業者に名を残している。
しかし、不思議と彼らは、地元に産業を産まなかった。
それは、なぜかの探求が、山梨の貧しさ、だけに終始した、浅い認識ではないのか?

明治の甲州商人の成功は、明治という時代が背景にあることが軽視されているとかんがえるからだ。
とてつもなく貧しかった時代に、とてつもない成功をおさめた理由だ。
それは、本人の商才だけでなく、自由な活動を基盤としているのである。
だから、いまの甲州商人は、いまという時代から活動そのものを再構築しなければならない。
これは、場所をとわない、どこでもおなじことだ。

すると、国のカネを得ればうまくいく、という「官」の発想ではけっしてうまくいかないことがわかる。
むしろ、ヒントは「制度」にこそあるのではないか?

この国の不思議な制度に「経済特区」というものがある。
言い出しっぺは、「トウ小平」すなわち、中国共産党のトップがやった方策を、日本に輸入したものだ。
つまり、この国の統制は、共産政権下のものとおなじだから、改革の手段として「全国均一な統制の『例外』」である「特区」が有効になる。

なんのことはない、我が国の制度から独立した「自由『圏』」を「自由『県』」にすればよい。
霞ヶ関からの統制をはずせば、たちまちに「前進」するにちがいない。
ここに発想がいかないことが、与党をして悲壮感をまき散らす原因だ。

まずは、金融。
首都圏からすら東京23区周辺に流入している若者を、逆流させるには、起業のための資金提供がなければならない。
カネを持っているはずのない若い起業家に、不動産担保をもとめる金融庁から切り離す。
誘致すべきは、「事業の目利き」ができる人材で、日本の銀行では育成の方法がないから、外国の銀行家である。

しかし、金融庁の支配がなくなれば、山梨県内の金融機関が、わざわざ県庁の役人に命じられることもなく、外国の銀行家(日本人でも)を雇用すれば儲かることに気づくから、心配しなくてよい。
おとなりの静岡でやった銀行の不祥事など、起こりようがないのだ。

「停滞から前進」したいなら、このくらいのことをいってほしいものだ。
このままなら、「停滞から衰退」するのは確実であろう。
それは、もうとっくに全国の自治体が国のカネを狙っているからで、なにもこの人物「だけ」の特殊能力ではあるまい。
それを「特殊能力」だと、与党が挙げて主張するから、「世の末」なのである。

かつて、地方交付税を「受け取らない」ことが、地域の自慢であった。
もはや、乞食の精神が国民精神になってしまった。

飢えたタコはおのれの脚を喰らって生きのびようとするが、そうなったら「おしまい」なのである。

そもそもの原因が変だ

他人を悪い結果の原因に仕立てあげれば、ほんとうの原因が隠されるから、それにかかわる責任が回避できる。
うまくいけば、原因とされた本人までが自分が原因だったと思い込んでくれるので、一種の「完全犯罪」ができあがる。

これは、企業組織での「問題解決」の基本的な訓練の有無による結果でもある。
すなわち、「なぜ?」を繰り返すことができるか?ということだ。
「問題解決」の組織的名人たちは、トヨタ生産方式によって訓練されている。
「トヨタ式」では、「なぜ?」を「五回」繰り返すようにしている.

一般的にベストセラーになったのは、ポリア『いかにして問題をとくか』(1975年)だろう。

だから、ニュースにおいても、読んだり聴いたりしたことを鵜呑みにするのではなくて、興味のある話題のひとつでもいいから、「なぜ?」を繰り返してみるようにすると、あんがい「ニュース」での解説や説明が、いい加減だったり、めちゃくちゃ加減に気づくようになる。

これが、自分でかんがえる、という人間がほんらい持っている能力であって、この能力者があつまってはじめて「民主主義」というものが成立する。
そうではなくて、楽ちんな鵜呑みばかりで事足りるとするひとがたちが多数を占めれば、民主主義の名の下に「全体主義」がうまれることは、たかだが100年前の歴史が証明済みだ。

そんなことをかんがえながら、さいきんのニュースをいくつか拾うと、完全犯罪がみえてくる事例がある。
札幌でのガス爆発事故だ。

不動産屋が管理する部屋に、入退去の際に消臭剤を撒くことをしないでいた。
それでも消臭剤の購入だけはやっていた。
買って納品された消臭剤をつかわないのだから、在庫はふえる。
それで、じぶんの店舗改装で、店内にある大量の消臭剤の在庫を処分しようと、これを散布したら、爆発した、という事件である。

悪いのは誰だ?
消臭剤を撒くはずが、それをやっていなかったのが、問題なのだ。
しかも、不動産屋は撒いたことにして、顧客からその料金をせしめていた。
だから、物件を吹き飛ばしてしまった不動産屋が謝罪した。

一見して、だれがみても悪いのは不動産屋である。
しかし、ほんとうにそうなのか?
物理的な原因である「スプレー缶」に注目すると、「可燃性ガス」と表示はされていただろう。
2002年に、わが国では「フロン回収・破壊法」ができてから、スプレー缶に不燃性だったフロンガスは使用できなくなっている。

オゾン層破壊と温暖化防止が、法の趣旨で、2015年に「フロン排出抑制法」ができた。

ここで重要なのは、スプレー缶のガスが「可燃性」で、しかも、おおくは「LPガス」がつかわれていることにかんする「啓蒙活動」がないことだ。
啓蒙の方向が、オゾン層破壊と地球温暖化防止になっていて、利用者にとっての危険性の啓蒙はしていない。

「環境保護」という政治目的を司る環境省、「業界保護」という産業優先目的を司る経産省のそれぞれの「立場」から、国民生活を見る目は、まったくない、のは趣旨に忠実なら非難されることではない。
縦割りの常識からすれば、国民生活センターや総務省消防庁が「やるべき」ことなのだろう。
だから、環境省の役人も経産省の役人も、なにもしない、ということが「正義」になる。

そういうわけで、国民のための政府が国民から乖離すると、こうなる、という典型事例なのである。
被害者は常に国民であって、加害者は「存在しない」という建て付けになっている。

それで、室内に大量にスプレーを放出することは、消臭剤の散布という意味のほかに「LPガス」の散布ということだということが、おそらくやった本人が意識していなかったこと、になる。

警察は、どうしてかくも大量のスプレー缶が在庫されたかを調べているという。
それは、爆発させるためではなく、インチキをしていたからだが、危険性の認知という点ではたして立件できるのか?
けが人が出ているから、過失傷害しか問えないのではないかと想像する。

「過失」とは、「LPガス」だということをしらなかったという意味だ。
国民に啓蒙しなかった、という国家の役所による未必の故意を、国家権力である警察が問うことをするはずがない。
悪いのは、「可燃性」と赤い文字で大書してある注意書きを読まなかった、というわけだ。

もう一つの事件は、韓国艦艇による自衛隊機への火器レーダー照射だ。
報道では、米軍なら、といういいかたで、ふつうの軍隊なら即座に照射された側からも反射的に攻撃するのが常識だから、韓国艦艇は撃沈されても文句はいえない、と解説している。

だから、自衛隊機は被害者ではあるが、攻撃をとどめてあげたのだから、ありがたいとおもえ、という意味になる。
このさい、相手がどの国かは関係なく、自衛隊機がどんな理由であれ攻撃として実弾を撃てるのか?という問題がかくされている。

つまり、この問題の本質は、日本国憲法にある。
それで、憲法改正というはなしがかならずでてくる。
わたしはむしろ、憲法第十三条と、憲法制定時と国際的な環境がかわったことを現実として、「事情変更の原則」をもって、第九条の無効、がもっとも合理的とかんがえる。

拉致事件しかり。

国民が憲法によって殺されたり、棄民の対象にされることを黙殺する政府こそ、不道徳のきわみである。

わが国の閉塞感の正体とは、このような「不道徳」が常識とされるようになったことだとだれもいわなくなったことだ、とおもう。