分裂するアメリカの恐怖

アメリカが「思想」で分断されてきている。
もはや「民主党」は社会主義をむきだしにして、かつてソ連と対峙した時代にはかんがえられない、自身の「ソ連化」を批判する者はいない。

一方の「共和党」は、「反グローバリズム」のトランプ政権によって、「金融資本主義」が押さえつけられ、製造業への回帰という一見「古風」な政策が推進されている。

どちらの側も、少数の富豪による「国富」をこえた「独占的支配」に対抗しているのである。
つまり、アメリカの矛盾は、あきらかに「富の分配」における不公平感是正に対する「手段」になって表面化している。

しかし、「手段の選択」には「思想」という要素が不可欠だから、「資本主義の必然的矛盾」だという、典型的かつ古典的な社会主義・共産主義思想にたてば、民主党の主張になることも「必然」なので、目指すは「ソ連化」になる。

対して、共和党は「資本主義」自体の問題ではなくて、「資本主義の運用の問題」という枠を設けているのである。
なかでも、金融資本家による支配について、つまり端的にいえば「ウォール街つぶし」こそが手段となっている。

この思想対立が、来年の大統領選挙にむけて熾烈化するのは必至だ。

かつて、「ソ連」を誕生させたのは、じつは金融資本家たちによる「支援」だったことは、歴史的事実としてしられている。
見返りは「隠れ蓑」という「場の提供」だった。

歴史は繰り返す。

いま、トランプ政権つぶしに奔走しているのは、弾圧の対象になっている金融資本家たちなのはあきらかで、かれらが民主党にかけより、アメリカの「ソ連化」を推進しているのである。
これを隠蔽するための「手段」が、民主党の中国批判なのである。

すると、かつての「中ソ対立」が、民主党によってすでにおこなわれていることになる。

さらに、不可思議なのがいま渦中の「トランプ弾劾」だ。
いわゆる「ウクライナ疑惑」のことだが、そもそも論でいえば、いちばんあやしいのは「バイデン元副大統領とその息子」による「ウクライナ『利権』」である。

民主党の次期大統領候補として、世論で最有力視されているのが「バイデン元副大統領」なのだから、問題をトランプにすり替えているようにみせながら、じつは民主党内における「バイデン失脚工作」ではないのか?ともかんがえられる。

候補者を選ぶという、わが国には存在しない方法の「予備選挙」で、党の代表者を決めるのだから、「本戦」まではえらく長丁場なのがアメリカ大統領選挙だ。
今回は、民主党内に「極左」の立候補予定者がいることに注目したい。

つまり、世論におもねることなく、党の思想によって候補者を選ぶなら、とっくに「バイデン」は本命ではない、ともいえる。
だから、ウクライナ疑惑は、バイデン降ろしの役に立つし、トランプ批判の世論も期待できるから、一石二鳥なのだ。

この「弾劾問題」は、以上のようにみれば、アメリカの分裂の深刻さが鮮明になることから、どんな結論になるのかによって、今後の世界史がきまるほどの威力がある。

われわれにとっても、「対岸の火事」ではすまされない。
おそらく、来年のアメリカ大統領選挙は、かつてないアメリカ社会の決定的分裂を世界にさらしながら、その余波が、われわれにとっては、「余波」どころではない「強烈な圧力」となってくるにちがいない。

それは、社会主義を達成したがゆえに「衰退確実」なわが国が、社会主義を棄ててプリミティブな資本主義を追求しながら、政治的には「帝国主義」むきだしの中国陣営に向かうのか?それとも、本家「ソ連」をめざす民主党政権のアメリカか、あるいは、古風な資本主義の共和党政権のアメリカかの選択を迫られるからである。

これは、どれをとっても「ベストがない」から、悪魔の選択にならざるをえない。

すくなくても、自民党安倍政権は、中国陣営に向かう選択を、現時点でしているから、アメリカ大統領選挙による「強烈な圧力」がくるまえに決着させておこうという魂胆なのだろう。

経済は中国に、防衛はアメリカにという「コウモリ君」になると決めた、という意味である。
なるほど、それで、香港問題にも台湾問題にも一切の発言をしない「無関心」でいられるのだ。

衰退がとまらないわが国は、どうやら世界第三位の地位から不況のドイツに抜かれて第四位になったようだ。
たった1ランクのダウンではない、とまらない落ち込みのスピードアップのはじまりにすぎない。

「コウモリ君」がどんな運命になるのかは、児童のほうがしっている。

トランプ政権は、中国と経済戦争をおこなっているというけれど、これには上述のように民主党も乗っているから事実上の「新冷戦」だ。
なのに、同盟国のわが国が「裏切っている」けどなにもいわないのはなぜか?

ふつうにかんがえれば「泳がしている」のか、あるいは、「呆れている」のかのどちらかで、「泳がしている」のなら「鉄槌」が、「呆れている」なら「絶交」がやってくる。

このままでは、どうにもならない不幸がわが国にやってくる。
最悪をかんがえないわるい癖がわが国エリートの伝統だから、そのときにどんな「パニック」を見せつけられても、国民の不幸が改善されることはない。

戦争の世紀だった20世紀よりも、真綿でくびをしめられる悲惨な世紀になりそうな気配がぷんぷんしている。

うまいバゲットをたべたい

「棒」のことである。
いまさらだが、食べられる「棒」とは、フランスパンのバゲット(60~80㎝)のことである。

生地に切れ目をいれて、焼き上がると堅く盛り上がるところを「クープ」という。
ものすごく堅いことがあって、歯が欠けそうになるし、ばあいによっては口内の薄皮がむける。

それで、「フランスパン」なのにやわらかい「ソフト・フランス」という名前の商品まである。
ただし、これはたいがい「ボソボソ」していて、あまり「うまい!」ということがない「もどき」である。

焼きたてを買ってきたのに、パン自体の水分でビニールの袋にいれたままだと湿気てしまって、やわらくなることがあるが、これは火で炙るともとにもどる。
紙袋がいちばんいいのに。

パン表面の皮のパリパリを「クラスト(甲羅)」といって、たべるときにはポロポロ落ちる。
木綿のテーブル・クロスがちゃんと敷いてある店なら、そのまま放置すべし。手でなでで、床下に落とすのはエチケットに反するからだ。

だから、食事がおわるとそれなりの店ならちりとり(「ラマス・ミエット」)ですくい取ってくれる。
ちゃんとしたパンなら、かならず「クラスト」が落ちるので、デザート前にテーブルの掃除をすることになっている。

むしろパンくずがテーブルに落ちる食べ方が正解であるし、たくさん落ちていればパンの焼き上がりがよかった証拠でもある。
サービス側は、そんなところも観察している。

ところで、フランスパンの代名詞といえば、「バゲット」のほかに「バタール(中間)」がある。
なにとの中間かといえば、「バゲット」と「ドゥ・リーブル」だ。

あたかも「バゲット」のほうが大きいとおもいきや、「ドゥ・リーブル」の「ドゥ」は「2」のことで、「リーブル」とは、重さの単位「ポンド(約500g)」のフランス語だから、なんと「1㎏」のパンになる。

さて、長い棒状のバゲットから、バタール、ドゥ・リーブルとすすむと、なにがどうちがうのか?

まずは、材料だが、これはぜんぶ一緒である。
なにをかくそう、「フランスパン」の王道であるこれらのパンは、「かたちがちがう」だけなのである。

「バタール」には「バター」がはいっているように勘違いしがちだけれど、フランスパンの生地にはバターも砂糖もいれない。
材料の多い順から、小麦粉、水、塩、イーストだけなのである。
このシンプルさが、かたちを変えるととてつもない難しさに変化する。

これは、なぜか木管楽器の「ファゴット」と「バソン」に似ている。
ドイツの合理性がつくる「ファゴット」は、その複雑な機構が演奏の困難さを解決すべく工夫した成果であるのに対して、「バソン」の単純な機構は、演奏者に高度な「技」を要求する。

音色もおおきくことなるが、カバーする音域がおなじだから、現代的な「ファゴット」が席巻し、もはや「バソン」は小数派になっている。
しかし、伝統的なフランス音楽には、「バソン」の低音が欠かせないという「こだわり」のファンがたくさんいる。

パリ・オペラ座の首席奏者がバソンからファゴットに鞍替えしたら、これが「センセーション」を巻きおこしたくらいの話題となった。
「オペラ座よおまえもか」。

そんなわけで、フランスパンの職人は、おなじ材料からいろんなかたちのパンを、おどろくほどの「技を駆使」して焼いている。

バゲットの形状は、じつは「皮」をたべるために細く長いのである。
だから、カリカリの香ばしさがもっとも重要な要素になる。
中間のバタールは、「皮」と「中身」の両方をたのしむためで、ドゥ・リーブルは、かなり「中身」が重視される。

日本人は、やわらかいパンがすきだ。
トーストした「食パン」の耳すらたべないひとがいる。

しかし、食パンの材料にはバターと砂糖が欠かせないので、フランスパンとは別物である。
さいきんはやりの「生食パン」というジャンルは、きわめて日本的だとおもわれる。

そもそも「トースト」してたべることが前提だったから、食パンの焼きたては水分がおおすぎて、「トースト」するとベシャベシャになるから、焼いた翌日のものがちょうどよかったし、パン職人はそうなるように焼いている。

これに対して、フランスパンは焼きたてでないとパリパリがなくなってしまうので、毎朝近所のパン屋に買いにいくひつようがある。
だから、「食パン」を「生」でたべるから「生食パン」といって、焼きたてを求めるのは、きわめて日本的だとおもわれるのだ。

ところで、パンも小麦粉が主たる材料だから、「粉もん」である。
麺類も「粉もん」なので、広い意味では仲間である。
日本蕎麦も中華麺も、うどんだって、打ち方よりもはるかに「粉の品質」で味がきまる。

さいきんは「国産小麦使用」という表示が目にはいるようになったが、誤解をおそれずにいえば「やる気のない農家」の典型的作物が「小麦」だったから、これはどうしたことかといぶかっている。

とつぜん、国産小麦の品質が外国産にくらべて「最高」になったとは、とうていおもえないからだ。
これはどこかの団体がやっている「キャンペーン」なのか?それとも、生産時と流通の「安全」をいいたいだけなのか?

売り切ればかりでなかなか購入できないけれど、徒歩でいける距離の住宅地に忽然としてパン屋があるのを発見した。
ここの「バゲット」の香ばしさは、そんじょそこらのものとはちがうとおもったら「フランス産小麦使用」とあって納得した。

やっぱり「国産小麦使用」という店はあやしいのである。
わざわざ、不味い小麦使用と書く店主の味覚をうたがうからである。

もちろん、品質と安全にこだわっている小数派の農家がいることを無視しているわけではないので、念のため。
こうした農家の並々ならぬ努力が、ただ「国産」ではわからないのである。

まさかの電波障害か相性か?

講演につかうプレゼンテーション用品として、主たる必需品はもはやパソコンという時代になったが、そのパソコンでつくったプレゼン画像の強調をする「指示棒」も、ずいぶん前からレーザー光線ポインターになってきてもいる。

ポインターには赤色レーザーと緑色レーザーの二種類が主流で、くわえて青色もあるけど、見やすい緑色レーザーが人気である。
ただし、発光機構が複雑になるため、緑色レーザーのポインターは高価で、かつ電池の消耗がはやいのが玉に瑕である。

とはいえ、やはり参加者にみやすいことが重要だから、わたしは緑色レーザーのポインターを愛用している。
なかでも、パソコンのプレゼンテーション・ソフトのページ送りなどを、ポインターで操作できる機能つきのものは、パソコンのボタン操作などを必要としないので重宝してきた。

先日、あたらしいパソコンのデビューもかねた講演で、このレーザーポインターが作動しないで困った。
自宅で実験したときにはいつものように作動したので安心したが、本番での突然の不調は、かつて電池切れの一回ぐらいで経験がない。

乾電池を買いに走ったことは前に書いた。
以来、乾電池の予備はカバンにかならず常備しているのだが、今回の不調は乾電池ではない。
新品だし、本体の電池表示も正常レベルだからだ。

どうしても作動しないので、この講演ではレーザー光線ポインター単体の機能だけで乗り切った。
「故障」の文字が頭をよぎるが、どうにも割り切れず帰宅した。

それで、これまでの古いパソコンで操作をこころみると、なんの問題もなく従来どおり作動する。
つまり、「故障」ではない。
ではなんなのか?

いろいろ調べたら、あたらしいパソコンにはUSB端子が3カ所あって、ぜんぶ「3.1規格」であり、左側が「タイプA」ひとつ、右側が「タイプC(サンダーボルト対応)」が二つとなっていて、もしかするとこれら端子からの「電波障害」ではないのか?という疑いがあることがわかった。

ネットでの対処方法に、ズバリ決定打がないのも不思議だが、さいしょに自宅で実験したときに作動した理由も不明だ。
しかし、この「事件」のあと、自宅でも作動しなくなった。

デジタル製品だから、条件がおなじならおなじことがおきるものだとかんがえると、さいしょに自宅で作動したことがとにかく腑に落ちない。

それにしても、ネットでこんなに「USB3.0」端子の電波障害が話題になっていることをしらなかった。
普及はしているが、旧「USB2.0」規格の端子と新「USB3.0」端子が混在したパソコンがいまでも販売されているのは、データ通信速度をひつようとしない、レーザー光線ポインターなどの機器に影響をあたえないためのメーカー「配慮」だとすれば腑に落ちる。

ポインターで操作できる機能は、2.4MHzの電波をつかってポインター端末とパソコンをつないでいる。
ところが、「USB3.0」端子や、この端子に接続した機器から、2.4MHzの電波帯にちかい有害電波(ノイズ)が発生しているのだと解説されているのだ。

さいきんのレーザー光線ポインターで、パソコンを操作できる機能つきでは、本体収納のUSBアンテナをつかわなくても、ブルートゥース接続もできる「デュアル接続」をうたう機種もあるが、ブルートゥースだって2.4MHzの電波帯なのだから意味があるのか?

ならばメーカーは「USB3.0」端子からのノイズについて明示すべきだし、対処法についての情報も事前に公開しなければ、消費者への「配慮」とはいえないのではないか?

そんなわけで、わたしのあたらしいパソコンには「USB3.1」のタイプA端子はひとつしかなく、レーザー光線ポインターもUSBのタイプA型になるから、直接端子に接続するのではなく、有害電波をシールドするケーブルの先に接続するのが「対処法」のようである。

しかも、そのケーブル長は有害電波の出力と距離との関係から、1m以上が推奨との情報をえたので、まずはケーブルを購入することにした。
電波の減衰は、距離の2乗に反比例するからである。

すると、こんどはシールドされたケーブルの選定が必要になる。
これだって目視してわかるものではないから、それとなく説明を読まなければならないし、残念ながら、100均で購入できるものではなく、ちゃんと電気屋さんにいかないと売っていないのだ。

それは、いわゆる「USB3.0対応(準拠)標準延長ケーブル」と商品表示されているものだった。
今回のトラブル一連の調査で、この表示の意味が理解できた。

ノイズが出る「USB3.0」のために、ケーブルの両端子とケーブル自体にも電波シールドをほどこした延長ケーブル、という商品である。

ここまでやっても「作動しない」から、とうとうメーカーに問い合わせれば、「パソコンとの相性です」が回答であった。

ウィンドウズ・パソコンなんてどれもおなじ、なのではない。

膨大な「組合せ」になると、その違いが不明になるということだ。

これこそ「AIの出番」かとおもうが、どうやって「学習」させるのかをかんがえたら、やっぱり「不可能」だろうから、「AI社会の怪しさ」しかみえてこないという顛末である。

「大局」をみずに「戦略」とは?

「軍事用語」をこの国ではどう扱うのか?
といえば、そもそも「軍事」をおしえる一般大学での授業がないし、「情報学科」はあっても「インテリジェンス」をおしえる学科もない。

「情報」といえばなぜか「コンピューター」や「IT系」ということになっている。
つまり、「ミクロ」のはなしばかりなのである。

ところが、「経済学部」や「経済学科」になると、「マクロ」が先行して「ミクロ」が軽視される傾向がある。
「マクロ経済」とは、国家単位で経済をみる学問で、「ミクロ経済」とは、一企業単位で経済をみる学問だ。

しかし、学問分野という「ミクロ」をやめてしまえば、学生がとる授業の幅はあんがいひろく、「歴史」だってある。
しかしながら、「俯瞰する」という態度がないから、専門となるとたちまち「ミクロ」になるのである。

「囲碁」や「将棋」というゲームは、ちいさな盤面内ではあるが、勝利のために「俯瞰する」という態度をひつようとするので、教養人や指導者にこのまれる。
「頭の体操」になるからだ。

ここでいう「頭の体操」とは、細かい手をかんがえること「ではなく」大局を思考する、すなわち「戦略」をかんがえることを意味する。

ビジネスにおいても「戦略」ということばは多用されるけれど、「戦略」とはなにか?を定義づけてつかっているひとはすくないものだ。
それで、「戦術」との区別が混乱するのである。

「戦」という字が共通なので、「戦略」も「戦術」も、どちらも元は「軍事用語」であるし、軍事用語として当然ながら「現役」である。

「戦略:strategy」、「戦術:tactics」。

物騒だが「戦略核兵器」と「戦術核兵器」のちがいに鈍感なのは、日本人いがいは未開人かもしれない。
すくなくても「核兵器」はいけないもの、という「観念」のもと、「戦略」だろうが「戦術」だろうがおなじく「いけない」という「条件反射」になってしまう。

問いの、「戦略核兵器」と「戦術核兵器」のちがいなにか?にこたえずに、「いけないもの」というのでは、採点すらできない。

ソ連がバンザイして終結した冷戦は、アメリカが仕掛けた「宇宙兵器」ともいわれているが、西ヨーロッパに配備した「中距離弾道ミサイル」が、じっさいにトドメを刺したのである。

これはなにか?をしらないヨーロッパ人はいないが、「中距離弾道ミサイル」とは「戦術核兵器」のことである。
これらのミサイルを、大量に配置するという「戦略」を、「ヨーロッパ核戦略」という。

有史以来、人類は「パワー」をもって相手を凌駕してきた。
だから、「パワーポリティクス」というのは、「本音」のことをいうのだが、あまりにも「露骨」なので、さいきんは「きれい事」を表明することで「本音」をかくすことが「常識」になっている。

だから、相手の「きれい事」を聴いて、それを信じるということほど「危険」で「愚か」なことはない。

たとえば、昨日は、東京オリンピックのマラソンや競歩の競技が札幌開催にきまった、というニュースがあった。
このニュースは、酷暑の中東でのレースが失敗におわったことで準備されていたことではないのか?
すなわち、「最悪」をかんがえるということの「戦略思考の放棄」が、現代日本人の指導層に「ふつう」にあることが、露骨にあらわれた「ニュース」なのであって、開催地の変更が「ニュース」なのではない。

また、米国在住の国際政治アナリスト伊藤貫氏による、オバマ大統領の氷のような思考と態度だって、日本人がしらないことだらけだ。
オバマ氏は、核兵器の1兆ドルをこえる大増産を指示しながら来日し、広島であろうことか「核廃絶」を訴えた。
これに日本人はこぞって「感動」したのである。
こんな茶番があるものか。「ナイーブな日本人」ではすまないバカにされようなのだ。

世界の大局をみる習慣がないことで、国民が「大恥」をかかされていることすら気づかない。
また、わが国マスコミは、視聴者に世界の大局を報じる気がない。
島国のなかで、ちまちま幸せにいればそれでいい。

これは、ヘンテコな一国平和主義である。

国籍が何人であろうが、腹黒いのが世界の常識であることを前提にすれば、「大局観」を得るための情報のとり方がある。
戦略は、その結果えられる思考展開のことだ。

腹黒い世の中で、戦略がなければ滅亡する。
個人も、企業も、国家も、これから逃れることはできない。

さぁどうする?が突きつけられている。

「段取り」が業務になる理由

職人の世界では「段取り」が大変重視されることは、よくしられている。
「準備」とか「始業前点検」とかともいわれるこがあるけれど、やはり「段取り」がもっともしっくりくることばである。

たとえば、なにかの材料を加工するとき、それが金属であろうと木材であろうと、加工するのだから「刃物」がひつようになる。
この刃物をつかって、切ったり削ったりして加工することが、製品作りでいうメインの仕事になるのだが、刃物の切れ味がなまってしまっては「仕事にならない」ことになる。

それで、名人は研ぎの時間を重視して、場合によっては日がな一日刃物を研いでいる。
使う時間よりも研ぎにかける時間のほうが長いかもしれない。
けれども、そこまでしないと「仕事にならない」のである。

いっけん、「刃物研ぎ」のほうが本業にもみえるがそうではない。
あくまでも、切れ味のさきにある「仕上がり」がほしいのである。
つまり、仕事の完成度を高めるためには、道具を整えることをしないとできないからやるのだ。

これを「目的合理性」という。

製品の完成イメージから逆引きして、なにをするかが決まる。
工程どおりに、なにをしたから、製品が完成するというレベルなのではないことに注意がいる。

これは、あんがい「武道」にもいえる。
初心者は、基本どおりの動きの訓練をひたすらくり返して、その「動き」をからだにおぼえさせる。

あんまり「ひたすらくり返す」から、飽きてくる。
それでも「ひたすらくり返す」ように、無理やり仕向けられるのでこれを「鍛錬」というのである。
「身体と心」の両方にストレスをかけさせるのは、これに耐えた先に開ける世界があることを指導者はしっているからである。

さいきんは、子どもが嫌がるからという理由で、ひたすらくり返さなくてもよくなった。
その先にある世界を、おとながしらないからだ。

武道の名人の、すごい演武をみれば、中級者なら「ひたすらくり返す」ことの意味を自分で習得する。
だから、自分から積極的に「ひたすらくり返す」ので、これを初心者が真似るようにできている。

人生が50年しかない時代にできたシステムである。

ところが、人生が100年の時代になったら、「ひたすらくり返す」ことが「無駄」におもえてきたから不思議である。

これは、ゴールがたくさんあって、どれをめざせばいいかがわからなくなったからである。
そんなわけで、「自分探し」を50歳になってもできるのである。

これは、企業だっておなじだ。
そんなゴールがわからないおとなたちの集団が、企業組織をつくっているからである。

それで、「定年」をすぎても「雇用延長」という不可思議な「制度」で、年金をもらえるまでの時間を、半減された年収でもガマンできるのは、「年金受給」が人生のゴールになった悲喜劇である。
だから、公的年金だけでは生活できない、というまっとうな情報に「耐性」がない。

おどろくべき「なまくら人生」ではなかったか?
いったいどんな「鍛錬」を社会生活でしてきたのかと聴いてみたい。
だから、「みなさまの」が枕詞だった公共放送が、幼児のようなキャラクターに「ぼーっと生きてんじゃねーよー」といわれても、ヘラヘラ笑っていられるのだろう。

もちろん、全部ではないだろうけれど、「なまくら人生」のひとたちは、職業人としても「なまくら」だったと想像できるのは、事務職にだって「段取り」はひつようだから、そうした「段取り」をしなくてよい業務経験とはなにか?が気になるのである。

「整理整頓」ができない。
家庭内のことではなく、業務でのことである。

整理とはなにか?
整理の「理」は、理科の理で、理屈の理だ。
つまり、目的合理性の「理」なのである。
したがって、目的に合致して「整える」ことになるので、かならず余分なものは「捨てる」ひつようが発生する。

業務で「整理」するとは、モノなら捨てることが起きるのだが、この対象は「社物」になる。
だから、捨てるための廃棄料金も予算化しておかないと、お金がなくて捨てられないことになるので、結局「整理」がいつまでたってもできない現象となる。

整頓とはなにか?
整頓の「頓」も、整えるという意味だから、「整整」ということになる。
これは、あらかじめ決めた場所に「整えて置く」ということになっている。

以上から、整理整頓は、あらかじめ「段取り」しておかないと、ぜったいにできない。
これには、宇宙の法則でもある「エントロピー」がはたらくからである。

なまくら人生を反省して、段取りをちゃんとしたいものである。
どちらさまも、まだ間に合う。

教育勅語を否定したら

否定するだけ否定したのはいいけれど、それに代わる「柱」をかんがえられなかったら、とうとう本体の「教育」が溶け出した。

予定どおりである。

みごとな「腐食」。
これまでいろいろペンキを塗ってはきたが、もう間に合わない。
そろそろ建て替えをしないといけないけれど、こんどは「国家百年の計」がわからなくなっていたことに気がついた。

これを「末期症状」という。

お正月、初詣でもっとも参拝客が賑わうのは「明治神宮」である。
もちろん、明治天皇と昭憲皇太后(~大正3年)をお祀りしているのだから、できたのは明治ではなく大正9年11月1日である。
ちょうどいまから99年前のことで、来年は百周年だ。

神社としては、あたらしい。
いまはファッションの街となった「表参道」だって、読んで字のごとく明治神宮参拝のための参道だ。

「天皇制」なることばも、あたらしくできた「左翼用語」だったものがふつうに浸透して、一般国民の脳を腐食させている。
「立憲」をなのる政党が野党第一党ということになってはいるが、このひとたちも「天皇制」といい、「立憲君主制」とは口が裂けてもいわないのである。

わざと「ねじれ」をつくっている。

「保守」を標榜していたはずの政権第一党も、いつのまにか左傾してしまったから、教育勅語にだって厳しい態度をとるのが「正式」になっている。

圧倒的多数で、なにを畏れているのか?
ひょっとして、政権第二党のことなのか?

明治神宮HPにある『教育勅語現代語訳』を以下に転載する。

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

~国民道徳協会訳文による~

これが、いま、日本国民がその題名「教育勅語」と聴いただけで拒絶反応し、忌み嫌うようになっている文章の全文である。

おそるべき「パブロフの犬」状態ではないか?

しかして、だれも『五箇条の御誓文』は批判しない。
いうとすれば、『御誓文』なのか『誓文』なのかの議論があって、後者を正規とする主張が、教育関係者のなかでは通っているらしい。

なにがあっても、皇室や天皇を見下したい。
それこそが、主権在民だということなのだろう。
そして、こんな程度の議論を延々とやるひとたちが「護憲」を叫びながら、第一条を無視して恥じないのである。

つまり、論理をよそおった「情緒の発散」であって、まさにひとつの「宗教」をなしている。

学校の不祥事はたいがいが生徒の非行だったものが、とうとう教師たちの不祥事となりはてた。
成長期の子どもたちの価値観を溶解する役目を、学校がおこなう倒錯が現実となった。

これは、「革命」である。

一昨日、27日投票の参議院埼玉補選の投票率は「20.81%」。
有権者の5人にひとりしか投票しないで、選挙が成立していいものか?「主権」を放棄しておいて何様か?
すくなくても、埼玉県人は、参議院での議論に文句をいってはならない。

さまざまな議論はあるものの、本来ならば「罰則つき義務投票制」を導入してもいいくらいだ。
これをやらない理由とはなにか?

適切な候補者がいないこと。
適切な政党が存在しないこと。

どうしてこうなったのか?をかんがえれば、国民の共通基盤をなす価値観が、教育勅語の否定によってなくなってしまったからである。
けっして、価値の多様化ではすまされない、ひととしての根幹が問われているのだ。

いまさら教育勅語を復活させることもできないのは、革命勢力の間違いない「成果」である。

わが国は左旋回しながら、落ちるところまで落ちるしかなく、とうとうそのルートにのって、落ちだしたのである。
この国は、物理法則が効く体制となった。

オオカミ少年ではないけれど

『イソップ物語』というのは、ヘロトドスの『歴史』にも登場する。
紀元前6世紀に、「奴隷」ではあったが、アイソーポスという物語(寓話)の名人がいて、その物語を記録したとある。
いまに伝わるイソップ物語が、ぜんぶアイソーポスが話したものではないというが、はっきりとした全貌はわかっていない。

アラビアンナイト『千夜一夜物語』では、物語のなかで物語を語る「シェヘラザード」が登場する。
彼女はどうして、かくも膨大な物語を語れたのか?をかんがえると、千夜では足りなくなりそうだ。

「奴隷」が主人よりも優秀で、愚鈍な主人の危機を機転やトンチでたすけだす話は、外国にはたくさんある。
戦争によって敗北すれば、異民族の王族すら「奴隷」になったから、あんがいふつうに起こりうる物語である。

古代エジプトを舞台にした名作『アイーダ』も、エチオピアとエジプトとの戦役をベースにして物語が展開する。
アイーダは敗北したエチオピアの王女であって、世界に君臨するエジプト王女の侍女になった。

島国のわが国には、キリシタンによって伝わっている。

そんなわけで、「オオカミ少年」の話は、うそをいう子どもの話として有名だ。
子どもは純真だからうそなどつかない、といううそをいうおとながいるけど、あんがいずる賢いのが子どもである。

ヒマにかこつけて、「オオカミが来た」とさけんでみたら、まわりのおとなたちが右往左往するのが面白い。それで味をしめて、なんどかやるうちに、本物のオオカミが来た、というおはなしだ。
村の羊がぜんぶ食べられたというから、この少年の運命もどうなったことか?は書いていない。

くるぞ、くるぞ、「不況がくるぞ」。

バブル景気以前をしっているおとなには、バブル景気後のこの30年で、いつ景気がよかったのかさえもピンと来ない。
なんだかずいぶん前の「いざなぎ景気をこえた」という長い景気拡大期が、平成時代にもあっというが実感がない。

本物の景気がいいときは、街全体が浮かれていた。
だから、平成生まれのひとたちは、景気がいいときをしらない。
これが幸福なのか不幸なのかはわからないけど、安易に「浮かれない」ことはいいことかもしれない。

ふつうに生活していると、「大ニュース」もふつうにやってくる。
新聞の大見出しだろうが、小見出しだろうが、あるいはネット配信のニュースだって、どれもこれも「おなじようにやってくる」から、どれがほんとうの「大ニュース」なのかに気づくのに時間がかかる。

おなじネットでも、動画のほうではずいぶん前から「ある特定大企業」がとりざたされていて、その企業の「倒産の危機」がまことしやかにかたられている。

しかし、つい先日、ブルームバーグという、その筋では信用できる市場情報専門の報道会社が、その「ある特定大企業」のオーナー経営者が、アメリカにあるグループ会社に日本円で「約1兆円」の支援をした旨のニュースがあった。

支援対象の会社の事業とは、かんたんにいえば「かっこいい共用オフィスの貸出事業」をしている「だけ」だ。
これまで、市場ではこの会社の価値が「数兆円」にもなったことがあった。

どうしてそんな高額な価値があるのか?
ある意味、だれにもわからないけど、「あった」ことは事実である。
すると、なにか計算方法がまちがっていないか?ということになってから、下がりっぱなし、という状況になっているのは、まるで『裸の王様』状態だ。

日本における事業は手堅く、一代でわが国有数の企業グループをつくりあげた英雄でもあるそのひとが、どうしてこんな「追い銭」を拠出するのか?
投資家の鉄則「サンクコストは忘れろ」がやぶられているようにみえる。

あまりにも、これまでの出資が大きくかつ、外国人の富豪をふくめた投資家にも参加させた経緯があるからだともいう「うわさ」がたっている。
じっさいに、「国王」クラスが出資したこともニュースになったことがある。

当然だが、国内では「超」がつく優良企業として、メガバンクからの融資もたくさんうけている。
金融庁だって、「OK」をだした証拠である。
そうでなければ、こうも巨額な融資の実行に日本の金融機関は自社決済ができないからだ。

構造は、「ズブズブ」になっている。
もし、この巨額「追い銭」が紙くずになったら、グループの崩壊どころか、わが国メガバンクの崩壊にもなりかねない。

あぶない金額では、はるかドイツ銀行にかなわないが、「持ちこたえられるのか?」という点では、わが国のこの「ある特定大企業」は、時限爆弾化している。

念のため、預金保険機構が保証してくれるように預金額を調整するとかしておいたほうがいい。
もっとも、爆発すれば焼け石に水だけど。

オリンピックのマラソンや競歩を、北海道でやるというニュースだってかすむ。

だって、オリンピックの開催など、できるはずがないほどのショックがおきるだろうから。

オオカミ少年ではないけれど、うそみたいに軟弱な経済地盤のうえに、われわれは立っていることだけは、どうやら事実なのである。

へんてこのミクス

「アベノミクス」といわれる経済政策が、いつからいわれたのかを問えば、すでに諸説あるから、現代における「歴史」にもなってきている。

もっとも古いのは、2006年の第一次安倍内閣だった。
けれども、いわゆる「流行語」としては、2012年暮れに発足した第二次安倍内閣における「インフレターゲット」、いわゆる「デフレからの脱却」としての「三本の矢」をもってつかわれて、2013年の流行語大賞にトップテン入りした。

明治以来の伝統だった政府と一体の中央銀行を、バブル後、政府からの独立をきめた改正日銀法があるのに、なんだかんだといいながら、日銀を脅かして政権のいうことをきかない白川総裁を事実上更迭し、ポチ的な元財務官を配置した強引さは、安倍政権の「力業」だった。

それで、就任時には、「3年もすれば2%のインフレを達成する」として、白川氏をのぞくそれまでの歴代総裁が実施した「金融緩和」を「異次元」という表現でやったみせたのが、日本企業の株式を日銀が買って、とうとう大株主になってしまったことだった。

アベノミクス初期のころ、大規模な金融緩和したからと、すぐに円がドルに対しておおきく安くなったようにみえた。
これをもって「すばらしい成果」とはやし立てたマスコミは、月次統計資料をみずに書いてしまった。

第二次安倍内閣の発足前に円安になっていたものを、どんな御用学者がいったのか、大誤報だった。
ギリシャ発のユーロ危機で円にやってきていた世界のマネーが、ユーロに回帰して円を売ったための円安で、アベノミクスとは関係ない。

そんなわけで、株高になったのもマネーの動きによるから、政府の経済政策はぜんぜん関係ないのだが、「効いた、効いた」とよろこんだのは、「株式」を持っている個人投資家たちへのサービスだった。

しかし、かんじんのデフレはいっこうにおさまらず、とうとう6年以上が経過して、黒田氏の目の下のクマは濃くなるばかりである。

そんななか、「年金のために」という理由で消費税が増税された。

このブログでも書いたが、まだ年金をもらっていない世代で、公的年金だけで老後が心配なくすごせて死ねると本気でかんがえているひとは本当にいるのだろうか?

もしいたら「重大な誤解」だから、ご親切に千万円単位で「足りない」と政府がいったら、こんどはちょっと前に政権にいた、いまは野党のひとたちが「詐欺だ」といいだした。

主語が政府だからややこしいが、自分たちも政府だったことを忘れてしまったようだ。
ところが、こんどはいまの政権のえらいひとが、そのレポートを「なかったことにした」から、えらく国民は絶句した。

こんな政権党ではダメだ、といって政権交代したけれど、もっとひどかったから、もとの政権にもどったが、やっぱりダメは変わっていない。

外国は電子決済で、あたりまえのように買い物ができるのに、日本は現金主義で「不便だ」と、一見先行されてしまったようにみえるから、なにがなんでも「先進国のふりをしたい」という、見栄っ張りの役人が、消費増税にかこつけて電子決済すれば割引になるという、信じられない「経済政策」をうちだした。

この原資が消費税なのだから、いまこの国でなにが起きているか?といえば、おどろくほどの「モラル・ハザード」である。

レジを通過した食品をどこで食べようが飲もうが、マナーをまもれば個人の自由なのは、購入者に所有権が移転しているからである。
しかし、購入前に「申告」したとおりにしないと、なんと善良な市民が「軽減税の詐欺師」よばわりされる国になったのだ。

絶対的な所有権にたいして、こんな不道徳なことがあるものか。
まったく、日本国政府は「不道徳」である。
消費の現場では、たいそうな「混乱」がおきているというのは、政府が作った混乱であって、市民のせいではない。

そんなわけで、日本経済の6割から7割をしめる「消費の場」で、電子決済の「割引」による「デフレ誘導」が、政府によっておこなわれている。

もはや意味不明の「へんてこのミクス」という、おそるべき場当たり主義になって、与党にも野党にも「筋」をとおす政治家が皆無になった。

世界の趨勢は、増税ではなく「減税」だ。
これによって「消費を刺激」すると、景気がよくなるからである。

日本政府は、政府の数字が最優先で、国民経済はどうでもいいと決め込んだにちがいない。

さいきん発表の大減税をはかるのは「インド」だ。
トランプ政権は、発足時に大減税を実施した。

あゝ、アメリカがうらやましい。

われわれは、世界最低の与野党の国に生きている。

観光協会を株式会社にして上場したい

先日、スイスの話を書いた。
かれらが、行政組織に「観光課」を持たないのは「ムダ」だと承知しているからだ。
それは、住民たちの出資よる「観光会社」を持っているので、組織がダブルからである。

もちろん、この住人たちの組織だって「行政」とはさいしょから縁がなく、自発的に設立された歴史経緯がある。
それは、町や村の住人たちが、自分たちで出資した会社を自分たちで運営し、自分たちでリスクを背負っているのである。

これが「戦後の日本方式」とまったくことなる点なのだ。

わが国だったら、資本金を注入するのが政府か自治体の補助金になってしまうから、拒否しようにも役人が役員(経営者)で送り込まれる。
これは、「観光協会」やひいては「農協」の構造とおなじである。

あの阿波おどりでもめた徳島県の徳島市は、累積赤字を理由に観光協会を破産させたが、去年と今年でその額を超える赤字をだした。
市長が実行委員長だったので、この赤字は結局税金で補填されることにになるのだろう。

徳島市で住民監査請求がされたことを寡聞にして聞かないのは、愛知県における美術展とそっくりだ。
元の木阿弥どころか、なにをしたいのか?混迷は深まるばかりである。

ところが、全国をみわたせば、このような「赤字問題」はいたるところに存在する。
青森の「ねぷた」しかり。仙台の七夕しかり。
万人単位の観客動員をしているから、さぞやとおもえば、だれも資金の提供などしていない。
さいきんでは、花火大会が資金不足で中止になるというブームになっている。

地元の祭りだって、金の切れ目が縁の切れ目。なのである。

「住民のため」と理由をつけたり、他県からの観光客が見込めることを「地域おこし」といったりして、甘い言葉で自己弁護しながら役所しか資金を提供しない。
だから、地元の住民だって、じぶんのお金が使われているという感覚がマヒするのだ。

こうして赤字が「ふつう」になるのである。
だって、行政の事業なら、基本的に利益をだしてはならない、ということになっているではないか。

けれども、行政の収益事業が収益事業にならないのは、「収益」をあげるまえに「平等」を追究する「原理」がはたらくからである。
これは、「四民平等」ではなくて「市民平等」のことで、関連する「業界」を平等にあつかおうと努力することが、「収益」を無視する結果につながるのである。

「協賛金」をちょっとでも提供すれば、「協賛企業」としての扱いをうける。
住民の町内会が供出するのは「寄付金」なので、意見をいえないのに現場での下働きはさせられる。

ところが、わが国は資本主義の理解ができていないので、「出資」という概念が薄く、金額の多寡において平等でなければならないのに、いくらでもいいから出資さえすれば「平等」になる。
これは、多額の出資者からしたら、「不平等」きわまりない。

オーナー経営者なら、自分で経営判断ができるけど、地元にある大手企業の判断は、かならず「横並び」になるのも日本的特徴だ。
突出した額の提供を「社内決済」では提案すらできないのは、提案するのがサラリーマンだからだ。

こうして、「創業の地」とか「創業者の生地」なのに、どうでもいいような扱いになるのは、企業が成長して大企業になると、経営の「判断能力」が低下するようになっていることに理由がある。
トップダウンではなく、ボトムアップを「是」とするためだ。

もちろん、株主のお金をかってに使っていいということは「資本主義」の本義に反するが、横並びでないと株主の理解が得られないという理由もない。
絶対値でみて判断できないということほど、株主利益を毀損する。

その「株主が住民である」のがスイスの事例である。
資本主義だから、住民は株主として振る舞うのが「正義」なので、組合員が自分たちの出資金でつくったはずの農協組織から疎外されても文句が言えないわが国とは「真逆」ができるのだ。

たとえ、素人の住人がつくったとはいえ、ちゃんと収益があがる事業なら、その事業を評価して、スイスの地元銀行は融資するばかりか出資もする。

日本の地元銀行は、資金管理と称して「預金通帳」をだすだけで、一般の預金者とおなじあつかいだ。
これは、事業評価が「できない」というよりも「してはいけない」という重い理由がある。

私企業であるはずの銀行が、バブル崩壊以来30年かけて、国家管理されるようになった。
むかしの「頭取」は自分で判断したが、いまの「頭取」は金融庁にお伺いをたてるのだ。

そんななか、ロンドン証券取引所と東京証券取引所が共同出資してできた『東京証券取引所プロ市場』という「市場」がある。
これは、「一部」「二部」「マザーズ」「ジャスダック」につづく5番目の市場で、「上場基準のハードルが低い」ことが特徴だ。

とはいえ、「東証上場」ということになる。

各地の観光協会は、ここに上場して、資本主義で「儲ける」ことを決心したらいかがかと、おもうのである。

地域振興は、国のアリバイ的政策である「地方創生」などという子どもだましでできるはずもなく、その補助金目当ての自治体にも能力はない。

結局、住民が自分たちでリスクを背負う方法が、もっともうまいやり方で、ほかにないのである、と世界一の観光事業国「スイス」がおしえてくれている。

大津に行ってきた

琵琶湖の周りをぐるりと支配しているのが滋賀県で、その県庁所在地が大津である。
湖の左手にあるもっこりした山が比叡山で北方に比良山地がつづき、山頂から向こう側は京都だ。

JR湖西線が日本海の敦賀にむけて走っているのは、琵琶湖西岸断層帯をいく。
そんなわけで、湖西には100以上の地滑りによる「湖底遺跡」がある。

県の中心は日本一の湖だから、ひとが住みようもない。
けれども大津からは、ようやく向こうに琵琶湖大橋がみえるくらいで、手前の広大にみえる湖(南湖)は、地図で確認すれば全体のほんの一部でしかないのである。

琵琶湖自体は世界的にめずらしい「古代湖」で、北湖にある竹生島にちかいあたりでは水深が100m以上もある。
「湖」ではあるが、出口が「瀬田川」一本ということから、法的にはなんと「川」としての扱いになっている。

わたしが滋賀県に宿泊した経験は、長浜と彦根しかなく、しかも自動車移動だったので、このたびの大津駅での下車は、日帰りで栗東に出張して以来である。
京都から電車で9分。途中駅は山科ひとつだ。

距離にすると10Km。
これは、横浜-川崎間とか、東京-新宿間とほぼおなじである。
県庁所在地どうしが隣接しているのは、ほかに仙台市と山形市、
福岡市と佐賀市があるけど、庁舎間でもっとも近接しているほどに「近い」。

どうして、京都に近すぎる大津が県庁所在地になったのか?
それは、江戸時代、大津が天領で「代官所」があったからである。
他の候補地は、みな「藩」の城下町だったし、最大の彦根藩は徳川譜代だから、明治政府にきらわれた。

過去150年で、彦根に県庁を移転させる議論が10回以上もあるというから、10年に1回ぐらいの根深さである。
天領であった街の格式と、人口集積や経済集積との綱引きだろう。
けれども、藩をひきいる一国の大名よりも、お代官様のほうが「格上」とは、明治の役人根性はさすがに下級武士政権ならではと感心もするが、やっぱり違和感たっぷりである。

じっさい、大津駅で下車したみたが、平日とはいえたいへん静かで、県庁までの道のりは閑散としていた。
もっとも、大津駅前に商業集積はほとんどなく、京都からたった10分でかくも雰囲気が激変するものか。

ほんのすこしだけ「東海道」をあるいてみた。
道幅の狭さはおそらく当時とおなじで、数軒の家が往年の街道筋らしい構造のまま残っていたが、おおきなビル建設現場に「NHK大津放送局建替え工事」とあったのがより印象的だ。「東海道」が裏道になるのだろう。

つい先日、「西武百貨店大津店」の閉店が発表され、地元にショックがはしったとのこと。県庁所在地から百貨店が消える。
けれども、京阪電車で30分も乗れば京都の繁華街、四条河原町にいけるから、閉店後のビルのつかいみちをどうするかである。

ほぼ隣接する旧パルコ(現「Oh!Me大津テラス」)は、2017年に閉店後、昨年あらたに開業した複合施設である。
ただし、入店している店舗のおおくが「全国区」なので、わたしのような他県からの者にはほとんど魅力に薄い。

JRの駅では、大津の次、膳所(「ぜぜ」と読む)のほうが近く、またこちらは駅までの道が狭いが、個人商店などの集積もあって大津よりも賑やかだ。
さすが本多6万石のご城下なのだ。

自家用車での利用をかんがえると、さらに周辺にあるショッピングセンターが「便利」になっているのは、このエリアの「駐車場」が琵琶湖ホールの立体駐車場になることなども影響しているはずだ。

ふるい街の街づくりの難しさをみることができるのは全国共通で、江戸時代からの変化にまにあっていない。
それで、江戸時代につかわれなかった場所が、大型開発に向いていることになる。

地元のひとに、大津の魅力を質問したら、黙ってしまった。
ならば、おすすめの土産物はなにかと話題を振ってみたが、これも黙ってしまった。
すすめられる名物は「特にない」というこたえだった。

あんがいこれはわらえない。
わたしだって、いまどき横浜の魅力はなにかと質問されたら黙ってしまうだろうし、おすすめの土産物はなにかときかれたら、「シウマイ」ぐらいしか浮かばない。

これは、「全国一律」という中央集権思想による予算投下がおこした現象で、「全国一律」の金融政策を強制することで、地元企業に「融資がつかない」からである。
それで、地元のレアなお店や商品は、よそ者の目にふれることがない。

だれがわるいかではなくて、そういう仕組みの国になったのである。

たった10分で、京都駅の喧噪にもどってみれば、その京都すら「全国一律」から逃れることができないのだとかんじる。

いったい自分たちは何者なのか?

この問いの意味が、ますます重くなっている。