ノブレス・オブリージュ

「貴族」はさまざまな特権をもっているが,一方で,それに見合ったあるいはそれ以上の「義務」をみずからに「強制」するという面をもっている.
たとえば,一朝ことあるときには,すすんでみずからの命を差し出す,ということである.

そういえば,韓ドラの人気時代劇のひとつ「チャン・ヒビン」のセリフに,「身分が低くて卑しい者ほど,命を惜しむ」という名言があった.いまのおおくの日本人に「痛い」ことばだ.あるいは,現代日本への皮肉をいったのかもしれないとうたがう.よくとらえれば,台湾人がいうように,むかしの日本人は立派だった,という意味にもきこえる.

実際に,フォークランド紛争時にチャールズ皇太子の弟アンドルー王子(現ヨーク公)が海軍ヘリコプター操縦士として従軍し,決死のエグゾセミサイルのおとり標的任務にもついている.
英政府は王子の紛争地派遣や派遣後も敵の攻撃対象になりやすい空母勤務を避けるよう軍に働きかけたが,母堂のエリザベス女王の許可によって最前線勤務を果たしている.
帰任時には,女王夫妻も兵卒の家族と一緒に港に出迎えたという.
この気概である.

わが国では,憲法14条2項に「華族その他の貴族の制度は,これを認めない」とあるから,憲法が有効になると同時に,貴族は消滅した.
制度として消滅しても,精神は残るもの,とは,「武士」にはいわれるが,「貴族」にはいわれないのもわが国の特徴である.貴族の構成要素の一つが「武士階級」だった.

現代のわが国における「貴族」は,公務員と労組幹部をさすことがある.
大組織,しかも公務員の労組は,その傾向がさらに強まるかもしれない.
日教組委員長の不始末は,記憶にあたらしいところである.

ところが,企業経営者というひとたちの一部が「貴族化」してるのに,これをあまり話題にしない.
さいきんでは,元社長や会長が「顧問」に就任することが,すこし批判の対象になったくらいだろう.しかも,ネタのおおくは「週刊誌」が頼りなのだ.

ここで,ひとへの妬みや憎悪をあおるつもりは毛頭ない.
なにもしないのに高級車で送迎されて,家ではありえないほどちやほやされれば,だれだって「顧問」でいられるのは快適だろう.しかも,高額の「報酬」すらいただける.
これを,過去への恩返し,というなら,現役の社長だったときの報酬には,将来分の積立部分があったのだろうか?

なんのための「会社決算」かといえば,「会計年度」という制度での運用になっているから,基本的には,その期間ごとに精算している.
この原則をしらないで,会社トップをやっているひとはいないから,「顧問」になったとたんに忘れたわけではあるまい.

もちろん,「経営」というものの本質をかんがえれば,ドラッカーが指摘するように,「会計年度」というものは,残念な制度であるし,「会社決算」のあやうさはいうまでもない.
これらを現実と分裂させていうのではなく,現実に「決算」や「納税」はやらなくてはならないものとして,ドラッカーの主張をうけとめる必要があるのだといいたい.

だから,なにもしないのに,ということばがつくと,現代の「貴族」になるのだ.
しかし,そこに,果たすべき義務もなくなると,これは「貴族」でもない.
ただ,「あそんで暮らしているひと」になるだけである.
「偉いひと」とは,「えらい目にあうひと」なのだ.

深刻なのは,引退したら「あそんで暮らすひと」になる,のではなくて,「現役」なのに,なにもしないで報酬を得るひとたちがいることである.
このタイプのひとたちは,「その場の気分」や「その場の空気」だけでふわふわと生きている.

だから,勉強も大嫌いなので「読書」すらしない.
そんな上司やトップを,部下はけっして尊敬しない.
入社してすぐに会社を辞めてしまう若者の一部に,尊敬できない,という理由もあるはずだが,おおくは辞める側の問題にされる不思議がある.

この国では,貴族は禁止されたが,勉強や努力を重ねてその道の一流となると,「文化功労者」に選ばれるという制度がある.「文化功労者」には,国家からの「終身年金」がつく.(金額は調べるとよい)
憲法14条3項は,「栄誉,勲章その他の栄典の授与は,いかなる特権も伴はない.栄誉の授与は,現にこれを有し,又は将来これを受ける者の一代に限り,その効力を有する」とあって,前段と矛盾する.

文化功労者から文化勲章受章者を選ぶので,はなしはさらにふくらむ.
文化功労者ではないひとが,ノーベル賞をもらうと,すぐに文化勲章をいただけるようになっている.ノーベル賞には,日本の制度への破壊力がある.
文化勲章は文化功労者と等しいから,終身年金の問題を解決しなければならなくなる.
だから,ほんとうは,ノーベル賞をもらいそうなひとをあらかじめ文化功労者にしておかないと,政府(役人)としては憲法解釈で恥をかく.
なのに,文化功労者ではないおおくの学者がノーベル賞をもらってしまう.文化功労者の選定と,ノーベル賞の選定で,どこか違った価値基準があるのだろう.

官界,労働界,財界につづいて,学会にも,なんにもしないであそんで暮らすひとの臭いがする.
それに,「憲法」の議論が「9条」ばかりということにも,異臭がしてならない.

それにしても,国家は憲法違反を念入りにおこなうものだ,ということを国民はしっておいたほうがいい.
現実として,わたしたちは,そういう国,そういう世界に住んでる.

ユニバーサル・デザイン

からだの不自由なひとが楽につかえるなら,健常者にとってはもっと楽につかえるように工夫されたデザインでつくるものをいう.
簡単そうだが奥が深い.
「楽で便利だ」ということはなにか?を追求しなければならないからだ.

たとえば,街のなかにはさまざまな「標識」が設置されている.
なかでも,「交通標識」は事故防止という観点からも重要な役割があるし,「方向表示」では,目的地や自分のいる場所をおしえてくれる.
基本的な標識のおおくが国際的にも共通だから,外国人でも,われわれが外国に行っても,意味を理解して行動できる.

おなじように,建物の中の避難口の案内や,はたまたトイレの案内などの表示も,国際的に似ているから,これもとまどうことがすくない.
つまり,「公共の場」はそれなりに「ユニバーサル・デザイン」が普及している.

じっさいにユニバーサル・デザインをかんがえるには,さまざまな制約をもうけて「体験する」という方法がとられる.
その制約とは,視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚といった「五感」にたいしてである.
なかでも,視覚,聴覚,触覚のそれぞれについては,視野を狭めたり疑似白内障になるためのゴーグル,聴覚を遮断するイヤーマフ,触覚を鈍感にさせる手袋などをつかって実験をくりかえす.
さらに,車椅子の利用などもくわえての研究となるから,大がかりになる.

ちなみに,日本のものづくりにおいてのユニバーサル・デザイン研究では,東芝がリーディングカンパニーだった.
医学的所見や人間工学といった分野の学際的研究を,製品作りのデザインに落とし込むことができるのは,大資本ならではのことだからだ.

「多機能」だがつかわない機能にまでコストを負担させられる,という意味での高単価戦略は,日本製品の魅力をかえってそこなったのではないか?「単機能」だが安い,というアジア製との競争に,負けてしまった.
「単機能」のようにみえるが,そこに「すごいノウ・ハウ」がある,という合理性をもとめられているのに,である.

これは「ニッチ」ではない.
たとえば,「バルミューダ」というあたらしい電機メーカーが打ち出す商品の需要の高さが証明している.需要だけでなく,「憧れ」という地位までもあるのが特徴だろう.
大手家電メーカーの製品に,はたしていま「憧れ」がどこまであるのか?

メーカーの世界では,自社製品にどんな「価値」をもたせるのか?が決定的に重要なテーマになっている.
世界史的・人類史的な意味で「超高齢化」し,「急激な人口減少」が予想されているのは,なにも日本だけではない.

さいきん,「一人っ子政策」を中止した中国とて,なぜ廃止したのかをかんがえれば簡単で,巨大な人口が「超高齢化」するのが確実だからである.
「少子」という意味で,わが国より深刻な特殊出生率の低さをたたきだしているのは,韓国と台湾である.
奇しくも,かつての大日本帝国は,おそるべきスピードで人口が消滅の危機をむかえている.

つまり,東アジアという地域全体で,ユニバーサル・デザインが要求される時代になっているのだが,日本企業は鈍感にすぎないか?

これは,観光関連も同様である.
だれにとって,なにがどう便利なのか?という問詰めができていない.
ようするに,哲学軽視ということだ.
それは,「マーケティング」に対しての薄くて軽い理解の証明でもある.

「装弾」の相談

クレー射撃をはじめて十年をとうに超えてしまったが,いまだにコツのなんたるかがわからない.
そんなぼやきを口にすれば,三十年以上の経験者から,「十年でわかってたまるか」といわれる.
直径11㎝ほどの飛翔する素焼きの皿を空中で,300粒ほどがはいった散弾で撃ち落とす.
これが上手くなって,なんの得があるのか?といわれれば,特にない.
趣味の世界とは,どれもがたいがいそうなっている.

散弾のタマのことを「装弾」と呼ぶ.
戦前からの火薬メーカーの老舗であった旭化成が,横浜の傾斜マンション問題で多額の補償をすることになったのをきっかけに,装弾製造事業から撤退してしまった.
「経営の多角化」とは,縮小時にいがいな影響力をもつものである.

射撃会に参加すると,サランラップの参加賞がつきものだったから,この十年,わが家は食品ラップ類を購入したことがなかった.しかし,旭化成さんへの売上貢献はラップの比ではない.
公式試合でつかうものから練習用まで,数種類の装弾があったが,いっぺんに入手不可となったから,あらためて自分の好みを見つけなければならない.

そこで,国内で入手可能な「装弾」をネットで探すのだが,なかなか詳しい情報がみつからない.
「よい弾」とは,「当たる弾」というかんがえがあたりまえだから,弾速と着弾における粒の広がり具合がスペックとなっている.

「散弾」なので,発射と同時に空気抵抗で粒が広がって飛ぶ.この広がる範囲が,ターゲットと遭遇する距離あたりで適確でないといけない.広がりすぎてしまえば,ターゲットの皿が隙間を通過してはずれることもあるだろうし,狭すぎればよほどドンピシャでなければ当たらない.
やればわかるが,飛んでいる皿を撃破するのはかなり難しい.

射手から30メートルから35メートルの距離で,だいたい直径70㎝くらいの範囲が理想という.
ところが,300粒ほどもあるから,平面的な網のように飛ぶのではなく,小鳥の集団が空中に図形をつくるように立体的なかたまりで飛んでいるらしい.「らしい」というのは肉眼では見えないからで,たまに超高速度撮影の動画をみつけてはみることができる.

射手にとっては,銃からの反動を受ける肩と,銃床を頬につける形が大変重要で,これを引き金を引く腕と,もう一方の腕で銃を支えるのが基本である.
許可を得ただれもが初めて撃ったときの「反動」は記憶しているだろう.
体重が軽い女性だと,三歩ぐらい後ろにさがるから,爆発の威力におどろくものだ.基本の姿勢がとれないと,体が衝撃にもっていかれる.

それで,だれもが「反動が軽い」装弾をもとめる.強い反動を撃つたびに受けていては,たいへん疲れるのだ.
ところが,選手級の射手になると,「強い」装弾をもとめるという.
粒と火薬の量は規定できまっているから,火薬の品質がちがうし,粒の強度がちがうから空気抵抗での拡散が減る.強度がないと,圧力でもとは球体の粒が変形してしまって空気抵抗を受けるのだ.「強い」ものは,火薬や粒などが高品質だから,高価格でもある.

結局,なにがちがうのか?
もちろん,粒を飛ばすエネルギーがちがう.変形しない強度の粒がちがう.だから,破壊力がちがうという.
試合では接戦になるのがふつうだから,破壊力は選手にとっては必須の要求である.
ところで,わたしのような中途半端な射手にはどうなのか?と選手級のひとに相談してみた.

すると,いがいな話が飛び出した.
「強い」装弾は,中途半端な構えをしていると「痛い」から,自分の構えが間違っていることをおしえてくれる.とくに「肩」に衝撃が来るという.
「弱い」装弾は,どんな構えでもなんとかなるから気づきがない,と.

ちゃんとした構えができていれば,どんなに強い装弾でも,とくに何も感じないという.
人体の構造は,きちんと衝撃を吸収できるようになっている.
ダメな構えは,その構造に無理がいくから痛みを感じる.
つまり,ちゃんとした構えができれば「当たる」のだ.

高くて高性能・高品質な装弾だから「当たる」のではない.
「当たる」構えを,傷みというセンサーで,できているかいないかを知らせてくれる「性能」があるのが,「高い」装弾なのだ.

これを「装弾」メーカーがいわない不思議がある.

利用者にとって,どんな価値があるかを知らしめると,利用者は購入したくなる.
これを知ったわたしは,これまで購入したことのない「高性能装弾」をすすんで購入した.
体のどこにどんな「痛み」を感じるかすら,楽しみである.
その痛い原因が,おそらく「当たらない」原因に通じているはずだからだ.

それで,原因がわかって,これまで以上に「当たる」ようになれば,外れのムダ弾が減少するから,結局は経済的なのだ.

これが顧客心理の一つの説明である.

「やさしく暗記させる」冷酷さ

関正生の「関先生が教える 世界一わかりやすい 中学英語の授業」の冒頭にあることばが,「『やさしくかみ砕いて説明する』ことに力が注がれるものの,結局は昔からの『ルールと例外』を『やさしく暗記させる』のが現状なんです」とある.そして,「基本がズレていると,後で必ず歪みが出てきます」と適確な指摘がある.
著者は,「受験界のカリスマ英語講師」として超有名人であるから,お世話になったかたもいるのではないか.

この本を何気なく手にしてかんがえさせられた.
それは,拙著「おもてなし依存が会社をダメにする」で主張した前提に似ているからである.

業績不振の接客業をイメージすれば,基本がズレているサービスの手順を,ただ「やさしくかみ砕いて説明する」マニュアルがあって,これを丸暗記しながらできるようになればよい,という誤った現状との共通点にまず気がつくのである.
しかも現実は,参照する「マニュアル」があるほうが珍しい.同僚の仕事ぶりを真似せよ,というのがほんとうの現状だろう.

では,どこが基本からズレているのか?なにが誤っているのか?
それは、経営理念と事業コンセプトの関係の薄さをさす.
冒頭の本でいえば,「英語学の深い知識」に裏付けされた「基本」のことである.だから,「中学英語」のはずなのに,「高校レベル」も超えた目線からの解説で「基本」をかためることの有用さをうったえている.

これをビジネスに置きかえれば,成功している接客業は,手順自体も,その手順による結果や効果にたいして,必ず論理的な説明ができるようになっている.
論理的だから,ひとによってのムラがない.
もし,その論理に現実があわない事態が発生したら,即座に現実に対応できる論理の組換えをおこなう努力がある.

そうでない企業は,その場の解決をもって業務をおえるから,進歩のありようがない.盲目的に,過去の成功をくり返すことだけを旨とするから,しぜんと顧客離れを誘発するが,もともと経営理念と事業コンセプトの関係が薄いから,顧客離れという現象に気づくのが遅れることになる.
そうして,ちいさな傷が決定的ダメージをうむまで気がつかないことがある.

中学英語と高校英語,さらに大学受験英語とのちがいを説明する箇所がある.
要は,中学英語のレベルでは,「できる子」のなかには「暗記だけ」によって成績がよい場合があるという.ところが,高校英語では,それが通じない.バリエーションが拡大するから,暗記だけでは対応できなくなる.それで,確実に英語嫌いになるのだ.
これを,予備校講師としてたっぷり目撃した経験と,自身の経験をかさねて,中学英語自体の根本理解こそが肝であると説いている.

わが国英語教育の失敗の原因は,昔からの「ルールと例外」を「やさしく暗記させる」という無謀にあるなら,わが国人的サービス業の生産性の低さの原因は,昔からの「おもてなし」を「からだに覚えさせる」という無謀にあるのだろう.

著者の関氏は,「おわりに」で,以下のようにぼやいている.
「この本のように『英語の土台』に直接メスを入れる発想は,今の日本の英語教育界では残念ながら超少数派です.従来のズレた土台をわかりやすく、やさしく説明する方法に慣れてしまった現状では,この本が本当に意図するところを誤解され,『説明が小難しい』『理屈っぽい』と言われることもあるでしょう.(中略)そういった現状に,微力ながら一石を投じることができればという思いでこの本を全力で書きました.」

ぼやきの相手は読者ではなく,「業界人」である.
読者や受講生たちは,今日もおおきな期待で読みかつ受講している.
なんといっても,カリスマ講師であることにちがいはない.
関氏の授業のビデオをみれば,昔ながらの授業をする教師の言葉は「雑音」にしか聞こえないだろう.
そこに,可能性がひそんでいる.

権利主義のゆくえ

「権利」の主張は「義務」を果たしてのこと,ということでバランスがとれるようになっている.
むかしは「義務」ばかりが国民に強要されたから,いまは「権利」を主張するのだ,ということでバランスがとれるものではない.
おなじひと,おなじ時間のなかでのはなしである.

「権利」ばかりで「義務」を果たさない,という批判はずいぶん前からある.
しかし,「権利」ばかりで「義務」を果たさなければ,あんのんと生きていけるから,本人には居心地がいい.
だから,批判などには馬耳東風,どこ吹く風となる.

ところが,本人に居心地がいいはずのものが,だれでもが居心地のよさを求めるようになると,これがまた厄介なことになるから,世の中はバランスが大事だとわかるのだが,わかろうとする能力も退化すると,それなりに我慢を強いられるようになっている.

おとなが酒をたしなむ場所はたくさんある.
なかでも,「居酒屋」という分野には独特の歴史背景がある.
量り売りの酒屋でちょいと一杯飲むことができたところから,おつまみが提供されると,居座って飲むようになったから「居酒屋」という.

サラリーマン文化というのは戦後のことで,戦前はサラリーマンが珍しかった.
戦後のサラリーマンは,会社の帰りに「居酒屋」に寄るのだが,それは,いまではすっかり姿を消した「大衆酒場」だったし,気軽に行けるのは70年代までは大衆酒場しかなかった.
それもあってか,70年代の子どもは「居酒屋」にいったことがない.おとなの空間にはみえない「敷居」があったから,子ども連れが行く場所ではなかった.
つまり,親に連れて行ってもらったのは,「食堂」ときまっていた.

「外食」というのは,70年代以降の豊かな時代に発展する.
食うや食わずの時代に,外食などは発展のしようがない.
さらに,むかしのおとなは「がらっぱち」だったから,いまとはちがって酔っ払いが話しかけてくる.
だから,子連れの家族が「居酒屋」に行けば,どんな目に遭うか想像できるというものだ.

街から「がらっぱち」が消えたのは80年代ではないか?
戦後35年後以降になる.終戦時二十歳のひとが当時では定年の55歳になった頃だ.
ちなみに,わたしの住む横浜では,週末に米兵が飲み歩いていたのを見たのはこの頃までだ.
プラザ合意による円高の時代になって以降のいま,横浜で米兵を見ることは皆無である.

「居酒屋」に家族連れを見るようになったのは,ちょうど「がらっぱち」と交替するころからだろう.
いまではメインの客層かとおもわれるが,酒の提供を旨とする「居酒屋」という空間に,子どもがいる違和感は,70年代以前の子ども世代だけなのだろうか?

その子連れグループが,二時間制というルールの権利をみごとに行使する.
どんなに混雑して,席まちで行列ができているのを見ていようと,決して時間になるまで帰らない.
空腹を満たして,飽きた子どもがテーブルゲームをはじめても,周辺との関係を断ち切って,むしろ子どもにテーブルゲームの指導までしだすありさまだ.

「時間切れ」という「権利消滅」を店員から告げられると,そそくさと帰り支度をして会計を済ませたとき,入れかわりに入ってきた客が,にらみつけるような目をしていたのが印象的である.
そのうち,居酒屋で傷害事件が起きるのではないかと懸念する.

しかし,こんなことは昼時の「食堂」でも起きているから,居酒屋だからと特別なことではない.
テレビ番組で放送されて以来,週末ともなると30~40分待ちがあたりまえに「なってしまった」食堂は,あちらこちらにあるだろう.
かつての「閑散」が,いまはむかしである.

そのむかしを知るジモティーたちは,むかしから昼前から一杯できる店としていまも利用している.
店の外にどんなに行列ができていようとも,いったん入店さえしてしまえば「権利」が発生する.
それで,まったく大人げないが,これでもかと酒類のおかわりを注文するのだ.

こうした店のばあい,かつての「閑散」がサービス・スタンダードになっているから,まったく客あしらいができない.それは,入店客の権利行使抑制と,待ち行列のひとたちへの声かけである.
もっとも,この「客あしらい」をしないところも,この店の方針なら,それに従うしかない.
すでに後期高齢者ばかりかとおもえる数人が,4時間という営業時間をフルに稼働させているから,さぞや疲れるだろうかとおもうと,ちょっと痛い気分になる.

人口減少社会は,「権利」を主張しても,行為としてその権利が達成できないことがある,という社会になるはずだが,社会の構成員がそれに気づくことができるのか?
我慢できなくなった子どものようなおとながキレると,おもわぬ被害にあうかもしれない.

接客業は,これまで以上に,「客あしらい」が問われる時代になる.

ナルシストの個人主義

「自己陶酔」から「うぬぼれ」に転じる意味がある.
ギリシャ神話で,ナルキッソスという美少年が水面に映った自分の顔をみて恋をしたはなしに由来するから,性的な意味もある.
ちなみに,外国語では「シ」が二重で,「Narcissism:ナルシシズム」「Narcissist:ナルシシスト」という.

平成バブル崩壊後の時代になって,自信をうしなったからか,外国人から褒められるというコンセプトの番組がおおくつくられるようになったとの印象がある.
昭和時代は,外国人からどうみられているのか?というコンセプトの「日本人論」※がおおかったから,その「発展形」といえなくもないが,かなり「自己愛」がつよい.

※日本人が書いた日本人論の傑作は,「日本人とユダヤ人」(イザヤ・ベンダサン=山本七平,昭和45年)がある.また,いまの「うぬぼれ」の素は,「ジャパンアズナンバーワン」(エズラ・ヴォーゲル,昭和54年)だとおもう.

  

日本に住む外国人を特集する番組内で,登場した外国人から,「日本人はナルシストばかりではないか?」と発言があった.このあとに,「もっと歴史や伝統を見直すべきだ」という意見がつづくから,内容的に矛盾しない.
しかし,外国人に褒められるコンセプトの番組で,昭和的な「日本人論」がでてくるのは,「自家撞着」ではないかとおもう.

「自家撞着」とは,自分の言行が一致しなくて,壁につきあたってしまうことをいうから,おおむね正しかろう.
「自己愛」から「自家撞着」へと発展するメカニズムについては,専門家ではないので正しくしらない.けれども,これらはセットになりやすい親和性をかんじる.

たとえば,「謙虚」をたいせつな価値観だと公言するひとが,じつはたいそう「傲慢」な人物であったり,「権威主義」の権化だったりするのは,みごとな「自家撞着」だが,それは,自分かわいさという「自己愛」あってのことだとおもえば,「メカニズム」として納得できる.

もちろん,このような人物が可能性として組織のトップになるというのは組織内の構成要員にとっては一種の「悪夢」である.しかし,なぜ,そのような結果になるのか?をかんがえると,本人ではなく,「前世代の目線」が問題になる.
血縁企業とそうでない企業とで,就任の可能性の高さはどうなのか?なかなか調べるのが難しいだろう.

それは,あなたは謙虚ですか?
と質問すれば,はい,とこたえるだろうし,
あなたは傲慢ですか?
と質問されて,はい,とこたえるひとはまずいない.
すると,これは,「嘘つきのパラドックス」になるからだ.

つまり,かような人物が組織のトップになる「悪夢」とは,日常が,「嘘つきのパラドックス」にまみれるから,組織全体が「疑心暗鬼」に陥ってしまうのだ.
そうなると,かような人物をトップにしてはいけない,という「律」の合意が,前の世代になければならない.

ところが,その世代も,「なっちゃった」世代であると,上記のような「律」をもたないから,これは「遺伝」する.
こうして,企業・組織は頭から腐るのである.

すると,ここに重要な本質がみえてくる.
「年功序列」の日本企業が,次世代トップの選定をする方法は,「年功序列ではない」ということだ.
そして、企業内に「律」をもたないばあいは,規模の大小にかかわりなく,おおくが前の世代による「好き嫌い」によって決まるのだ.

それで,ナルシストで自家撞着をする人物ゆえに,周辺を「嘘つきのパラドックス」にはめている姿が,まるで「リーダー」のようにみえるのだろう.
それを,「謙虚」という「嘘つきのパラドックス」がまとう覆いにだまされるのだ.

どうであれ,ナルシストの個人主義という「自家撞着」によって,長い時間をかけて組織細胞は破壊されることになるから,崩壊は急激にやってくる.
それは組織構成員の集団心理がなせるわざだから,将棋倒しの事故のように,ひとたび発生すればだれにも止められない「流れ」になる.

経営には「心理学」が必要である.

強風を止められない

地球環境問題というまじめな問題にたいして,不謹慎の誹りを免れないかもしれないが,ほんとうにそうなのか?と疑ってしまう.
たしかに「環境ホルモン」なぞという物質は,人類がつくった困りものであるから,これを阻止しようということに反対はしないし賛成である.しかし,環境ホルモン摂取のリスクは強くかたられるのに,食品添加物の議論は弱くないか?とおもうのだ.

都会ではあまり目立たないが,地方にでかけると巨大なソーラー発電施設をめにすることがおおい.畑の一面全部だったり,山肌全体だったりするから,ものすごく「不自然」をかんじるのだ.
これらの発電は,およそ「売電」のためのもので,自家用とはおもえない.
すると,国(経産省)がさだめた,きわめて恣意的な「公定価格」によるしかないから,おそらく現在は,かなりの「赤字」になっているのではないか.

あらぬ争いごとをあおるつもりは毛頭ないが,アメリカだったらとっくに政府がうったえられているだろうにとおもうことしばしばである.
鳴り物入りではじまったソーラー発電事業は,ことごとく不採算事業になった.
設置費用に多額の補助金を得たのに当初の売電価格が,大幅に「値下がり」したからである.
その値段が「公定」なのだから,損をしたひとがなぜうったえ出ないのか?

政府が市場に命令するとどうなるのか?の典型ではあるが,「市場」そのものが「公定」だから,事実上存在しない.これは,旧ソ連の経済体制とおなじである.
だから,こんな制度の事業に投資した者が愚かである.
なぜなら,ふつう詐欺というものは,だまされてからでないとわからないが,政府の詐欺は「市場がない」という制度設計でかんたんに見抜けるからだ.

だから,裁判をしても勝てない.
裁判所は政府の一部であるけれど,「詐欺の仕組み」からすれば,ソーラー事業は「詐欺ではない」と判断するだろうからだ.
なぜなら,最初の制度設計を読めばだれにだって「詐欺」だとわかる.詐欺師が詐欺だといっているのに,「だまされた」といったら,それは愚かである.

わたしたちは,大陸中国のひとたちをバカにする傾向があるが,かれらの政府への不信,は学んでいい.
全国に広がったソーラー発電施設は,詐欺とはいえない詐欺にかかった愚か者が,全国に存在する証拠をみせてくれる.

こうした政府への依存体質が,戦争を呼ぶのだ.
昭和10年代,対英米戦争を望んだのは国民だったという事実を,知らないふりをしていたら,とうとうしらないと思い込むようになった.
いやがる軍に「腰抜け」だ「弱虫」といってなじったのも国民を代表する新聞だった.
そうして「世論」をつくった.
その臭いが,「環境問題」にもあるのではないか?

太陽光だけが太陽エネルギーの利用ではない.
風力も,太陽の熱が地球に届いて,温度差から空気の圧力が変化してできる「風」を利用する.
ひいてはこれが,天候になるから,地球は太陽におおきく支配されている.
それを,ひとの活動の影響だけで,地球環境問題,というのは,太陽をバカにした態度ではないかとうたがうのだ.地球はどこまでひとに依存しているのだろうか?

その太陽が,数百年ぶりに活動を弱めているという.
それで,このところ「地球寒冷化」が話題になりはじめた.
17世紀から18世紀,ロンドンを流れるテムズ川は冬に氷結していた.川でスケートを楽しむ人々を描いた絵ものこっている.

さいきんでは,昨年の寒波で,ドナウ川が氷結した.
ドナウ川は,中欧諸国の流通の大動脈であるから,航行できなくなると生活に直結する問題になる.

春は風のシーズンである.
冬と夏のせめぎあいが,強い風になって吹きまくる.

21世紀になって,自然を支配したと傲慢にもおもいこんでいるわれわれの頭上を,帽子をふきとばすほどの強風がすぎていく.
この風をだれにも止められない.
止めるすべをわれわれはしらないということを,たまには思いだしてよい.

子どもの国

おとなと子どものちがいが,年齢だけ,になってしまってどのくらいたつのだろう?
二十歳で「成人」だったものを,十八で「成人」だというから,おとなが若返るようにみえる.
「元服式」がいつ途絶えたのか?とかんがえると,それはやはり武士社会が崩壊したときにさかのぼるのだろうが,ずいぶん頑張った家もあるだろう.

幕末の「隠れた英傑」といえば,なんといっても橋本左内である.
彼が元服した十五のときに,有名な『啓発録』を書いている.
これは,「本日,『こどもを捨てる』元服式をしたものの,『子どもの良さは純粋な心にある』から,今日からおとなになれば,いつか自分も『純粋な心』をわすれたおとなになるかもしれい.自らそれをいさめるために書いておく」といった内容から書き出している.

十五歳といえば,いまでは高校受験をひかえた中学生である.
かつての「教育」が,いかに優れていたかをしる材料でもあるし,現代教育の「退化」をしる材料でもある.
しかし,優れた教育は学校だけでおこなうものではなく,家や社会がちゃんとしていることが条件だと教えてくれる.

越前福井藩の藩医の子息だったが,当時,「藩医」の身分はけっして高くない.
しかし,この時代の特徴で,家老がその才能を見ぬき,藩主松平春嶽の秘書役に抜擢する.
コンサルタントの神様,二宮尊徳も,小田原藩家老家の財政再建に成功して,この家老が藩主に藩の財政再建を担うようはかり成功させた.

家老から紹介され,はじめて左内を見た松平春嶽とて一瞬ひるんだという逸話がある.
名君にして英邁な春嶽すら,「子どもじゃないか」と.
ところが,名君の名君たるところ,左内の才能を見ぬくと江戸に帯同させ,徳川将軍に紹介するという,当時としては「暴挙」を敢行する.いかにご親戚筋とはいえ,家臣を「献上」したのだが,なんと将軍もこれを受けた.春嶽を信用してのことだという.

幕閣になった左内が書いた建白書に,「内閣」の概念があった.
それで,首相に相当する「大老」が首班として,各担当老中をチームで率いることを提案し,さらに,「大老」には井伊直弼がふさわしいと「推薦」している.

現実に大老となった井伊直弼の,「安政の大獄」で,左内は逮捕される.
獄中,「啓発録」を取り寄せ,自ら「朱」を入れることを所望しゆるされた.
最後のページに「コレデヨシ」が,残った.
納得の人生は,享年二十五歳.

人生における子どもの時代がどんどん長くなって,とうとうおとなとの区別がよくわからなくなった.
おとなは子どもを「子ども」としてみる目をうしない,「指導」をやめた.
とうとう,かわいい「ワンちゃん」とおなじになった.
「かわいい」「かわいい」で,いいのである.

ましてや他人の子どもなら,どんな悪さをしても見なかったことにする.
いちいち小言をいうのも面倒だが,もっと面倒なのが親だからだ.
どんな文句をいわれるか,よかれがあだとなって返ってくるなら,こんなばかばかしいことはない.
「どうせコイツの人生なんて知ったこっちゃない」のである.

こうして,「要求の自我」という本能がのびのびと育成される.
要求の自我の「自己抑制」ができるひとを,おとなというから,おとなにならないように育てるという滑稽が,日常になった.

これらの根拠はどこにあるのか?
もしかしたら,ジャン・ジャック・ルソーの「エミール」や「人間不平等起源論」かもしれない.
ルイセンコ化した教育学者たちが,狂人ルソーのお先棒をかついでひさしいのがわが国である.
教職につくものに「必読」としてエミールを「強要」させるのは,世界でわが国ぐらいだろうし,ルソーを「偉人」として見るのもわが国ぐらいだろう.

しかし,わが子を厳冬の屋外に放置して,死亡すると「生きる力が弱い」などといってはばからず,5人が犠牲になっている.
この「厳しさ」は,さすがに実行するものはいない.

どんな状態に「なる」とおとななのか?
どんな状態の「まま」だと子どもなのか?
明日は「こどもの日」.
もはや「全」国民の祝日なのかもしれない.

おめでたいことである.

「平成バブル出版フェア」開催希望

バブル時代の功罪はいろいろあるが,「功」といえば「本」である.

「活字離れ」が本格化したら,やっぱり「出版不況」になるものだ.
もはや出版業界は「構造不況業種」にあたるのだろうが,日本人の人口が減れば,それは確実に日本語の本もなくなることを意味する.
数百年後に,日本語の本は遺跡の発掘のように「解読」の対象になる可能性すらある.

お金がたくさん使われれば,それは「景気がいい」という.
もっとたくさん使われると,お金どうしがこすれあって熱をもつように「過熱」する.
いまではとうてい企画さえされないような本でも,当時はスポンサーがついたのだろう.
バブル期には,おもしろい本がたくさんある.

昔ながらの古本屋さんは,ずいぶんと減ったもののまだやっている.
店内をのぞくと,なんとなく分野別にコーナーになっている.
この売りたいのかどうなのかがわからないところが,古本屋の真骨頂であって,いかめし顔の主人がマニアックな本を読みつつ,ちらちらとした目つきで客をみるのである.
まるで落語の世界だから期待はしないのだが,「バブル期出版コーナー」があっていいとおもう.

文庫本や新書が,パラフィン紙に包まれていたころ,出版社はいまではかんがえられないほど強気だったのだろう.
それは,物資がなかった時代のなごりであり,知識への渇望があったのかもしれないが,どこにも「買ってください」と媚びを売るつらがまえではない.中身の活字もちいさくて潰れてしまっていたりするから,読みにくい.
しかし,肝心の内容は,新書だって,当代一流が書き下ろしているから,いまどきの数時間で読了するような「やわな」ものではなく,たっぷりの分量と学術の質,それに良心があった.

そんな時代の最後にあたったわたしは,生まれてはじめての文庫本として「ルパンの奇巌城」を買った.学校図書館にある,子ども名作シリーズとは,まるでちがうルパンがいた.
それからしばらくして,文庫本はパラフィン紙からきれいな表紙になって,紙も活字も断然よくなった.すると,皮肉なことに「世の中は活字離れ」となっていった.

本棚を整理するのはたいへんである.
自宅でも気が折れるから,古本屋さんはなにもしない.
だから期待しないのだが,バブル時に咲いた出版の華をみてみたいのだ.
そうとうに手間をかけたまじめな本が,経済崩壊とともに絶版となって散ってしまった.

そういえば,バブル発生前に「リストラ」という言葉は使われていた.
ちゃんと「リストラクチャリング」と表現されているまじめさで,意味も「事業再構築」だった.
これは,プラザ合意を受けての大変革時代を背景に,将来の企業経営のありかたを「根本から問う」ていたのだ.

いま思えば,これは,「世界史的に成功した経済人としての日本人最後の自問だった」ろう.
それが,日銀の余計な介入でバブルをつくりだしたから,現状の延長線でなにも問題がないばかりか,空前の景気に沸いてしまった.この時点で,「経済人としての日本人は絶滅した」とおもう.
あとは,「Money」に目がくらんだ亡者ばかりとなっていまに至る.

あまりの「過熱・沸騰」に,これはいかんと,政府が「総量規制」というほとんど「憲法違反」の政策で介入したら,泡の積み木が根底にあった「自由経済」という基礎から吹き飛ばしてしまった.
われわれは,「9条の憲法違反」には敏感だが,「経済と自由の憲法違反」にはおそろしく鈍感な国民である.こうして,どっぷりと「政府依存」という「無責任」体質に変様した.
これは,陶器の世界では珍重されるが,社会としては重大な「窯変」ともいえよう.

過熱から一気に転じた,急速冷凍状態の経済で,人員削減に血まなこをあげた企業は,「合理化」だとまずいので「新語」をさがした.
「合理化」は,70年代の「合理化反対闘争」が記憶にあるからだ.いまさら労組と蒸し返しになる面倒な交渉はしたくない.とにかくはやく人員を削減しないと,経営者が責任を負わされる.そんな責任はぜったいにいやだ.だって,ひとつも悪いことなどしていない.

それで白羽の矢が立ったのが「リストラ」だった.
こうして,わが国経済用語から,「リストラクチャリング:事業再構築」が削除され,「リストラ:人員削減,肩たたき,会社都合退職」などという用法が定着したのだ.

経済史としても,バブル期のゆたかな,そして二度とこないだろう出版の花盛りは貴重である.
しかし,だからこそ,生活文化としてとらえれば,けっして侮れない内容なのだ.
今週は「メーデー」,「憲法記念日」があるゴールデンウィークである.
それは,「平成時代最後の」がつく重みがあるはずなのだが,どなたも遊興にいそがしく,こんなことに興味はないだろう.

国会図書館ではなく,殊勝な古書店に,平成バブル出版フェア,を是非開催していただきたいというのが,せめてもの希望である.

自動精算機で買いものができない

さいきんのスーパーマーケットには,「セルフレジ」が導入されてきているが,レジ担当者が商品を読み込ませ,支払だけを「自動精算機」にするという,「セミ・セルフレジ」の店もある.
もちろん,従来型のレジもあるから,利用者はすいている方を選べばよいのだが,そうなると「セルフレジ系」になるのは当然である.

セルフレジは,列に並んだとしても四台ほどのかたまりで設置されているし,セミ・セルフレジの自動精算機は,二台セットで設置されていることがおおいから,従来型のレジとは「処理能力」がちがう.
つまり,これは,「待ち行列の理論」そのものの応用である.

「待ち行列の理論」というのは,1917年(大正6年)にアメリカでの自動電話交換機の開発から「考案され」,第二次大戦中に「完成された」といわれる「理論」だ.さいきんでは「渋滞学」ともいわれるそうだ.
ずいぶん前から,といってもここ二三十年のことだが,日本でも「公衆電話の並び方」や,「銀行ATMでの並び方」で導入されたから,気がついたひともおおいだろう.

一台ずつの機械の前に並ぶより,一箇所にまとまって並んで空いたらそこへいくという並び方のほうが早く順番がくる.
また,並んでいる途中で,窓口が一箇所でもふえると,急速に列に並ぶひとの数が減ることも,体験的にしっている.
これらは,すべて「待ち行列の理論」で解けるのだ.

そんな「理論」もふくまれた,最新の買いもの精算機ではあるが,お年寄り層には不人気である.
タッチパネル式の画面に違和感があって,同時に音声ガイドがまくしたてるから,「ちょいパニック」になるのだろう.それは,目からはいる情報と耳から入る情報から,同時に処理を強要されているように感じるからだとおもう.このあたりは,「ユニバーサルデザイン」の問題だ.

自動精算機を嫌う,あるいは戸惑いながらつかっている姿をみると,あとどのくらいしたら,自分もああなるのか?とかんがえるのだが,そのときはどんな精算方式なのか?見当がつかない.
たぶん,方向として「キャッシュレス」なのだろうが,どんな意味での「キャッシュレス」なのかがわからないのだ.

銀行員をして大量リストラの対象にする「自動化技術」は,お金というものがもつ「情報」に対しての「自動化」だから、これはかなり生活に身近なことまで影響するだろう.
すでに,家庭用として「スマートスピーカー」という便利グッズが人気になっている.要はコンピュータ(人工頭脳)と,会話ができてやりたいことを命令できるものだ.

家庭内のさまざまな「モノ」が,ホームネットワークで連結されれば,「スマートスピーカー」を介して「自動化」ができる.すでに,カーテンの開閉や,ルームランプの点灯や消灯はお手のものになっているし,生活用品の「発注」もできる.
「発注」ができるのは,支払方法がきまっているからで,「自動決済」が現実になった.しかし,ここでは,おおくのばあいクレジットカードのことをいうだろう.

「デビットカード」が普及する文化と普及しない文化がある.
欧米は普及する文化で,わが国は普及しない文化だ.
このちがいは,「銀行口座」と「資産」のかんがえかたがちがうからだとおもう.

それは「小切手」でわかる.
わが国で,小切手を個人が生活上ふつうに利用するという文化はないし,過去もなかった.
ところが,ヨーロッパはふつうだった.むしろ,自国通貨をもつより小切手の方が便利だった.
せまい地域におおくの国がひしめくから,しぜんと為替のかんがえかたが発達したのだろう.

日本は,「天下の台所」だった大阪圏では「銀」,政治の中心江戸では「金」が流通の基本だった.それで,大阪と江戸の商取引は,銀貨と金貨の交換が必要となって,相場とともに為替ができた.この相場に幕府が介入して失敗し続けたのが,江戸時代の経済政策である.ちなみに,東京の「銀座」は,大阪の「銀貨」を江戸でつくらせたことが発祥である.

だから,日本の為替の大元には,現物の貨幣交換があった.
これを明治に「円」で統一した.すごい政策である.しかし,まだ銀行が一般的でない.
それで,一般には現金が重要で,送金のための為替が必要となったから,郵便為替は画期的だったろう.それから銀行が普及すると,現金を預ける「普通預金」がふつうになった.

つまり,ヨーロッパでは,資産を管理する口座と,普段使いの小切手(当座預金)口座との二つがあるのがふつうだという日本との決定的ちがいがある.それで,クレジットカードが世にでたとき,かれらは小切手のかわりとしたから,クレジットカードをつかうと伝票にサインする.まさに,小切手文化の継承である.だから,手段としてのクレジットカードが普及しても,引落口座は当座預金のままだったのである.

ところが,クレジットカードの引落には月単位の時間差がある.これは,当座預金の管理をかんがえると面倒だ.それで,直接つかった時点で引き落とされるデビットカードは,かつてなく便利な「電子小切手」なのである.
このかんがえが,日本にはない.

さいきんなにかと話題の「仮想通貨」も,以上から感覚のちがいがわかる.
デビットカードでは,送金ができないから「電子小切手」としては機能がたらない.それで,「仮想通貨」が,次世代の「未来型小切手」であると感じるのだ.だから,仮想通貨は当座預金から発行(振り出し)されればよく,仮想通貨じたいを預金するという発想が希薄である.
一方,わが国では,「相場モノ」になってしまった.

わが国では,「普通預金」の概念をかんたんにかえることはできないだろう.
すると,当面は,クレジットカードが主流にならざるをえないのだが,加入には「審査」がいる.
年金世帯では,これもハードルがたかいだろうから,デビットカードの普及がスーパーマーケット決済の合理化に寄与することはまちがいない.

すると,通帳のページ数が足らないのではないか?
毎日の買いものの決済が,通帳に記載されるのは年金世代には便利なはずだが,すぐに通帳があふれるだろう.
おそらく,これがスーパーマーケット決済のキモになるはずである.

デビットカードが普及すると,あらゆる商売に影響する.
日本には,仮想通貨革命のまえに,デビットカード革命が必要だ.