混沌経済体制の国ニッポン

「混合経済」という言葉は,かのサミュエルソンが言った.
資本主義自由経済と社会主義経済を混ぜ合わせてできる,一種の理想型であったし,それを実現しているのは唯一日本だと思われていた.
しかし,明治以降の日本の歴史をみれば明らかなように,日本はそもそも完全に資本主義自由経済を基盤とした国にはなっていなかった.つまり,前期資本と資本主義が共存するレベルだった.
そこに,マルキシズムが注入された.
70年代の日本の成功は,混合経済だったからではなく,単純に冷戦構造と安い石油のおかげだった.
しかし,専門家には混合経済が魅力にみえたのだろう.
バブル崩壊後の日本だけが,世界経済のお荷物になってしまったのは,前期資本が温存され,さらに,役人主導の混合経済の成功体験という幻想に惑わされた結果だとかんがえられる.
昨今話題の「ブラック企業」の所作は,あきらかに前期資本的であって,これを行き過ぎた資本主義だと批判するのはそうとうにお門違いである.行き過ぎたのではなくて,あまりにも古くさいのである.
それは,従業員を使用人だとかんがえるパターンが共通に見えることからもわかる.
これは,江戸のお店(おたな)における使用人と同じで,身分意識にもとづいているからだ.
つまり,資本主義になりきれない経営感覚が,ブラック企業を作りだしているのだ.
あまりにマルキシズムの影響を強く受けたため,資本主義が嫌いという社会が日本であるが,資本主義になりきれていないという観点から見れば,実は,日本人は資本主義とは何かを学ぶ必要があるのだ.
すなわち,ベースに前期資本がしっかり残り,その上にマルキシズムの薄い層が広く塗られ,一部にシミのように資本主義自由経済が浮かんでいるのが日本経済の構造ではないか?
マルキシズムの薄い層が広くあるというのは,官僚支配のことである.
すると,これらをまとめれば,混沌経済国であるという結論になるのである.

なんちゃって資本主義

仕事柄、経営者の皆さんと話していると、とくに会社を破綻させた経営者の方々は、資本主義を理解しているのかわからなくなることがあります。おもいをめぐらせば、小学校の社会や中学校の公民で、資本主義というよりも「株式会社の仕組み」としてだけしか資本主義を学んでいません。ですから、資本主義を知らない、ということはこの国では普通のことかもしれません。
いわゆる、戦後の日本は、占領軍によって「民主化」され「自由な社会」になった、といわれていますが、戦前が民主化されていなくて不自由だったのかといえば、じっさいはそうでもなかったようです。お金がなくて貧乏であることを「生活が不自由」といったり、財布に現金がすくないことを「手許不如意」などといういいかたがあります。戦前の日本社会は、貧乏だったという意味での不自由でしたが、自由主義ではなかったという意味での不自由ではなかったとおもいます。もっとも,いまではかんがえられないくらい,みんな「貧乏」だった.このことも,いま,みんな「忘れている」ことです.
過去をふりかえりますと、日本が驚異的に経済成長をとげたのは二回あります。明治の初期と昭和の終戦直後です。これら二回には共通項があります。どちらも、旧い日本を棄てた背景があるなか、爆発的に資本主義の条件が満たされた時期なのです。ここに、現在の低迷のヒントがかくされているのではないか?とおもわれます。

実は資本主義をしらない

資本主義は、自然発生的なようでいてそうでもない、実に不可思議なものです。過去にはマックス・ウェーバーや近年ではアラン・マクファーレンの研究がありますが、「発生源」についての理論的決着がいまだにありません。しかし、この両人の共通点は資本主義の成立には「精神」が必要要素だということで一致しています。それは「正直に儲けることの正統性」です。
なんであれ、資本主義は18世紀に英国で発生したことは間違いないのですが、この時点から勘違いが起こります。それは、「産業革命によって資本主義になった」という説明で、ウィキペディアでもこうした説をとっています。しかし、「資本主義が成立したから産業革命になった」という順番でないとおかしいとおもうのです。それが清教徒によって北米大陸に渡るのですから、「英・米」が資本主義の宗家筋になるのは当然です。以来、英米の国民は、産まれてからずっと資本主義の精神がある空間で生活していますから、とくに教わることがなくても資本主義があたりまえに体に吸収されるのでしょう。だから、ノーベル経済学賞は欧米の研究者ばかりが受賞しています。最近では「経済学」といえば、暗黙に「アメリカ合衆国の経済分析のこと」ではないかとおもわれるように、アメリカが近代資本主義の宗家となりました。
ところで、18世紀までの人類は資本主義を知らなかった、だからこの時期までの人びとは資本主義社会では生活していないということが案外忘れられがちです。物々交換であったろう原始時代を除くと、つまり、貨幣があって物流があったという時期がおそろしく長いのです。四大古代文明から江戸末期までになるからです。これを「前資本」とか「前期資本」と呼ぶそうです。この時期の特徴は、冒険や掠奪という手段がかなり一般的な「商行為」であったことです。びっくりするほどの資産家は、古今東西あまた存在しました。しかし、それは、現代的ビジネスでの成功によるものよりも、冒険や掠奪だったというわけです。シンドバッドの冒険や、地中海の海賊たち、さらに紀伊國屋文左衛門もその部類です。そしてこれは、基盤となるルール「所有権」がはっきりしない時代だったという意味でもあります。

自由の意味

資本主義の要素には「精神」のほかに「法」と「自由」がなければなりません。「法」のなかでも最重要な概念が、所有の絶対制です。このルールがあって、はじめて掠奪は正当なビジネスではないと決めることができます。ここから、詐欺行為も不当に他人の財産を奪うルール違反として犯罪に認定されるのです。つまり、わたしたちが一般的に知っているビジネス取り引きの基礎になるかんがえが「所有権の絶対」です。そして、取り引きをするものは、お互いに「自由」でなければなりません。脅迫によって、相手方の意志に反することを強制する取り引きも正当ではありません。ましてや、だれかの命令によるなどということもありえないのです。注意しなければならないのは、ここでいう「自由」とは、なにをしてもいい、という意味での「自由」ではないということです。あらかじめ存在するルール(法)に基づいて、自分の意志決定が、他人から強制されないという意味の「自由」です。だから、自分のその決定の結果については、本人が責任をとるということもふくまれています。
以上のように、資本主義が作動する条件は、社会の参加者全員が、「法」と「自由」の概念を共通にした「精神」がなければならなず、この三つのどれか一つを欠いても、資本主義社会は成立しないということをあらためて認識したいとおもいます。
 前期資本の時代でも、おおくの巨大な資産家がいたのですが、もう少しくわしく見ると、彼らのビジネスモデルは単純です。それは、「安く仕入れて高く売る」ということにつきるのです。ものづくりニッポンのビジネスモデルも、伝統的に安く仕入れて高く売る、ということですから、一見、現在の   高度な技術をもちいているものづくりと同じように見えるかもしれません。前述のように、「安く仕入れる」ことが掠奪であれば、奪った品を現金にするだけでも儲かります。江戸の大店は、旦那様から番頭さん、手代に丁稚というように、組織階層はあるのですが、すべての労力が、「安く仕入れて高く売る」という行為に集約されることが特徴です。もちろん、この階層は身分と連結しているので、家来型の主従関係になります。
これが、資本主義になると大変化をとげるのです。会社の外から見れば、「安く仕入れて高く売る」ことに変化はないようなのですが、組織内部では、従来とはまったく違うことがおきているのです。それは、経営者と労働者とが、それぞれに別々の目的をもちながら、協力しあって働くことで、確実に付加価値をつくり出すように意識的に行動するということです。

経営の目的

経営者の目的は、会社に利益をもたらすことです。一方、労働者の目的は、労働力を提供するかわりに、合理的な賃金を得ることです。この二者が協力しあって働くというのは、経営者は経営の役割を、労働者は労働という役割をもって、合理的に協力するのです。ここで、重要なのは、経営者と労働者は対等であるというかんがえかたです。それは、経営者は労働者の労働を買っていて、労働者は経営者に自分の労働を売っている、という意味での対等です。これが、「労働市場」の基本的なかんがえかたです。つまりこれは、労働者は自分のなかの技能を商品として認識できている一方、経営者は労働者の技能を商品として買っている、という諒解があって成立するということです。
そして、両者が、組織内で「確実に付加価値をつくる」ことを意識している状態があることが重要です。ですから、基本的に資本主義では、「赤字経営」はありえないのです。「確実に付加価値をつくる」なら、赤字になるはずがないからです。そこで、「確実に付加価値をつくりだすことができない」という事業であれば、容赦なく退場するのが資本主義のルールであり、一方、こうしたら「確実に付加価値をつくりだすことができるはずだ」ということが合理的で納得できるとなれば、出資者があらわれて、あたらしいビジネスが登場するのも資本主義のルールになるのです。

日本の「なんちゃって」さ

さて、ひるがえって、わが日本国のばあいはどうでしょう。
所有権の絶対から、あやしいのです。たとえば、民法162条では、占有時効として20年間他人の土地を占有すると所有権が占有者のものになるという規定があります。この規定は、あの御成敗式目(貞永式目:1232年)にみられるかんがえかたです。わが国の民法は、鎌倉時代の条文が生きているのです。当然ですが、鎌倉時代は「前資本」の時期にあたりますから、21世紀のわが国は中世の感覚が通用する社会という奇妙なことになります。「占有」と「所有」の概念が混在して、区別がつかないということは、他人から借りた本を返却しないとか、その本に傍線やメモを勝手に記入するとかいった例でも確認することができます。所有権が絶対の感覚からすれば、ありえないほど野蛮な行為です。
「自由」についても、日本では「他人に迷惑をかけなければなにをしてもいい」ということが平然といわれて、多くの人がこれをおかしいとはおもいません。他人が迷惑とおもうかどうかを「自分が判断している」ことに気づけば、さきほど注意をしたように、「あらかじめ存在するルールに基づく」ということとの違いがわかるかとおもいます。電車の車内で床に座り込む人は、きっと「別に他人に迷惑をかけているわけではない」と決めつけているに違いありません。車内で化粧をする人たちも同様でしょう。そういった行為を見せつけられる側の不快さを意識しないだけの結果ですが、あらかじめ存在するマナーというルールを忘れて、それが「自由」と勘違いする「精神」がはびこってしまいました。

労働市場がない国

さらに、「労働市場」というかんがえかたが、日本ではかなり希薄ですし、「確実に付加価値をつくりだす」という意識も希薄です。
 このように、わが日本国では、資本主義の成立要件が満たされていないことが観察できます。ですから、基本的に日本は「資本主義ではない」という驚くべき結論がでてきます。株式会社がちゃんとあって、証券取引所もある、だれもが自由な生活を享受している、という反論がありましょう。しかし、資本主義の成立要件が満たされないということは、「なんちゃって資本主義」である、といえばご納得いただけるでしょうか。

日銀の支配

昨年2016年12月末時点で、日銀が東証上場株式全体の筆頭株主になっているのは冗談ではなく事実です。これはもはや「資本主義の仮面をかぶった社会主義」としかいいようがありません。
わたしはこの「なんちゃって資本主義」こそが日本経済低迷の原因とかんがえています。ノーベル経済学賞受賞者の著名な経済学者たちが、日本経済の処方についてトンチンカンなのも、日本が資本主義であるという前提の誤解からではないかと疑うのです。ソ連が崩壊したとき、アメリカの経済学者がこぞってソ連経済の自由化にコミットしましたが、うまくいきませんでした。資本主義は、社会に資本主義の精神がないと成立しない、という根本をうっかり忘れていたともいわれています。アメリカでは、その精神は空気のようにあたりまえですが、ソ連社会にそんなものは存在しなかったからです。そうかんがえると、むしろ東欧の旧社会主義諸国がいかにして自由化したかの方が、日本にとって有用ではないかとおもいます。むりやりソ連圏にされた東欧諸国は、戦前には一度、資本主義を経験していたからです。
本当は、いまこそ従来の体制を棄てる時期になったというシグナルが鳴り響いているとおもいます。
戦後の高度成長は1973年の石油ショックで潰えたといわれていますが、真実はちがいます。1973年のGDP月次統計は、第四次中東戦争の勃発(10月)前の6月に急速に減速しているのがわかります。つまり、中東戦争が引き金になったということの「アリバイ」が崩れているのです。
 「1970年体制」ということばがあります。これは、日本がみずから選んだ選択として、「成長より安定」があったという意味です。このおおきな選択をしたのは田中角栄首相です。田中角栄こそが、日本の成長を止め、いまにつながる停滞をつくった張本人です。そして、田中内閣以降の自民党は、「安定した社会」を建設することを目的とする政党となりました。「安定した社会」とは「福祉国家」のことです。ふくしこっかとは、社会主義国家のことです。

宿泊業は日産・スバルを嗤えるか

自動車の「完成検査」が,無資格者によっていたことですさまじいリコールとなった日産の損失は250億円と報道されている.
宿泊業で,主力商品である客室の商品化作業である清掃の完成検査を,「インスペクション」という.また,インスペクションを行う係を「インスペクター」という.だから,宿泊業の現場責任者として,もっともお客様に近いのはこの「インスペクター」である.インスペクターが清掃作業を終えた部屋にはいって,インスペクションをおこない,合格となった部屋が「販売可能部屋(Vacant)」となる.当然だが,フロントでは,販売可能部屋しか販売しないから,お客様がチェックインして未清掃部屋に入室することはありえない.
しかし,案外と清掃についてのクレームは絶えない.つまり,お客様から「未清掃」あるいは「未整備」であると指摘されてしまうのだ.これは,インスペクターの仕事が成立していないということであるから,リコール対象になっておかしくない.さいわい,宿泊業の客室は自動車のように動かないから,お客様の生命に危険はない,とはいえない.電気器具の不具合で感電してしまうかも知れない.にもかかわらず,宿泊業界でこの問題は軽視されてはいないか?
本稿では,掘り下げて考察してみたい.

なにをもって販売可能部屋なのか?

案外と定義されていない.
販売可能部屋を考えるとき,まずは,販売不可能な状態を考えてみよう.
a.きちんと清掃できていない
b.設備・備品に不備がある
c.フロント手渡し以外の,事前荷物が搬入できていない
の三パターンである.
それでは,詳細に分析しよう.

a.きちんと清掃できていない

キーワードは,「きちんと」である.つまり,きちんと清掃できている状態とは,どんな状態なのか?ということの取り決め,すなわち作業指示が存在するという意味だ.
「それなりに」ではいけない.清掃という作業を通じて,主力商品をつくっているのだから,「きちんと」できている状態でなければ「商品」ではない.
では,作業指示とはなにか?上司が部下に作業前,「きちんと清掃してください」と言えばそれが作業指示になるのか?を考えてみよう.おおくのひとは,そんな一言だけでは作業指示とはいえない,とこたえるだろう.つまり,ここでいう作業指示とは,作業手順や作業方法などが,誰にでもわかりやすく説明した資料があるか?ということだ.
ここまでくると,案外あやしくなる宿泊施設は多いだろう.立派な日本家屋建築のばあいはなおさら,一部屋として同じ間取りがないことが普通であるから,そうなると全部屋の作業指示(書)がなくてはならない.
「そんなもん,いちいちありませんよ」という声が聞こえてくるが,ここまで読んでもそれでいいと言い切れるか?
もう一度,日産問題を振り返ってもらいたい.全車種が対象なのだ.それで「そんなもん,いちいちありませんよ」では,およそ世間に通用しない.つまり,宿泊業でも本来通用しないのだ.
それではどうすればよいだろう.
管理の対象はまず,「清掃状態」なのであるから,理想的な状態を保存することが第一歩だ.写真や画像で「保存」できる.次に,その状態にするためのうまい方法があればよい.典型的なチェックアウト状態から,理想的な状態にするためのうまい方法は,職場にいるベテランの模範作業が参考になるだろう.これは動画が役に立つ.
こうした資料を材料にして,もっとうまい方法を検討することで,作業者達の能力は格段に磨かれるにちがいない.その努力をいかに賃金に反映するかも,経営者の仕事である.

b.設備・備品に不備がある

清掃作業を通じて,お客様が滞在中の状態をつくることが第一歩である.
上記a.でもいえるが,椅子があれば椅子に座ってみる,座敷であれば座ったり寝転がってみると,目線と光線の具合から,清掃洩れ箇所を見つけることができる.
水回りや電気器具は,必ずスイッチを入れて作動確認をするのは常識であろう.このなかで,不具合があれば施設・整備班の出番である.
ところで,設備・備品の納入時期に基づく管理表を作成している宿泊施設も,中小規模になるとあやしくなる.
たとえば、蛍光灯なら一年交換.一般家庭でもおこなう年中行事ではあるまいか.一斉交換の対象と本数がわかれば,当然,年度予算化しなければならない.このような管理表は大変便利な道具になるが,ひとつ,経営者のなかで勘違いしているひとがたまにいる.それは,予算は予算(計画)であることを忘れ,必ず使おうとする.あるいは,厳しい資金繰りから,全否定してしまうことがある.この場合,資金繰り表もないことが多い.つまり,場あたりだけの対応になることだ.
もう一つ,忘れがちなことは,日本製品の品質の高さゆえに,所定の期間がすぎると,一斉に不具合を起こすのだ.上述の蛍光灯の事例も同様である.だから,切れてしまってその都度応対するより,一斉に交換するように計画したほうがコスト的にも安くなる.テレビやエアコンも,一斉に不具合になると考えたほうがよい.ましてや,水回りは高額出費となるので積立など,工夫が大切だ.

c.フロント手渡し以外の,事前荷物が搬入できていない

小さな旅館など,部屋数が少なければ問題はない.一つずつの搬入物と部屋の一致が容易だからだ.しかし,これが巨大で高級なホテルとなると,難易度はいっきに高くなる.

ここで対象となる事前手荷物とは,本人が到着前に預けた物で,ホテル気付の郵便物や宅配便,FAXや外来者が持ちこんだ預かり荷物などといった種類がある.そして,その物を預かる時期すなわち日付や時間が異なるのも特徴だ.つまり,五月雨式にバラバラで集まってくるのだ.これが第一条件である.

次の条件が,客室番号がいつ決まるのか?という問題がある.一般に,近代的ホテルの建築は鉄筋コンクリートなどのビルディングだから,各階ごとを縦にみれば,同じ構造の部屋が複数あることになる.だから,「特別室」を除けば,一つ一つの予約に部屋番号を割り振るのは,その日の予約がほぼ確定してからの作業にした方が合理的である.また,フロアーごとにメンテナンス作業をすることもあって,売れない条件の部屋もあるから,予約数と販売可能部屋の数が把握できるのは,前日やお客様到着の直前に部屋を割り当てるのが,もっとも間違いない.もちろん,事前に荷物を入れなければならない部屋は,優先して部屋番号を決めなければ係のものは搬入物を入れることができないのだが,それでも当日に部屋番号が決まることが多いだろう.

以上からわかるのは,荷物が届くステージでは,部屋番号が決まっていないから,お客様の名前と受領した日付での管理となり,当日に部屋番号が決まると,お客様の名前・日付管理から部屋番号管理に転換することになる,ということである.この「転換」がミソなのだ.つまり,受領した日付ごとに様々な荷物がある状態で,その中から当該のお客様の名前からピックアップする作業と,ホテルが受け取りごとに発行する伝票(この伝票も荷物に添付する)をつき合わせて確認する作業が発生する.こうして,「確認」ができたら,係の人間が事前に部屋へ搬入することになる.

さて,ここで客室という商品の完成検査に話を戻すと,検査員であるインスペクターは,客室に事前搬入された物品について,添付されている伝票からチェックインが予定されているお客様の名前の確認はできるが,数の確認ができないのだ.まして,搬入作業をしてから追加で荷物が届く場合もある.

このように,完成検査に穴があいている.

 

大企業の不祥事を予言したガルブレイス

不正が企業文化になるということ

2017年、日産自動車で全社をあげての完成車検査においての不正が発覚し、それからしばらくして、神戸製鋼でも品質検査における不正がグループ会社を含む全社をあげて発覚した。
さらに、この二社に共通していたのは、発覚後、企業トップすなわち社長による謝罪会見で適正化を約束したにもかかわらず、不正を継続していたことが再び発覚したことである。

マスコミは一斉に「日本のものづくりの劣化」とし、神戸製鋼の「手口」が記事となって報道されている。(*注:産経,2017.10.2)
問題なのは、手口ではない。「なぜ不正が行われたのか?」につきる。
神戸製鋼では、40年以上にわたって不正がおこなわれ、手口については先輩から後輩へ申し送りされていた、というから、まさに不正が企業文化になっていたといえよう。つまり、不正してできた製品が、社内では「正規品」になるということだ。このことは、不正がJIS規格品にまで及んでいたことからも明らかである。
日産の場合は,「社内資格者」とはどんな「資格」なのかがわからないが,組立工程ごとに品質管理されているのが日本のものづくりの常識だから,そもそも「完成車検査」とはどんな専門知識を要するのか?外部からは不明である.また,輸出向けでは問題になっていないことも不思議である.
すると,もしかしたら,機械(メカニズム)主体だった時代の尾てい骨のような義務が国内販売だけで適用し続けていることなのかもしれない.

今年の最新型アウディは,全車がネットでドイツ本社に接続されており,不具合もドイツ本社で把握できるシステムが採用されている.つまり,メカニズムも各種センサーによって監視されているということだ.すると,一体,完成車検査とは人間がなにをすることなのか?という疑問がふくらむ.
これは,役所(国土交通省)によるムダな作業の強制の例なのかも知れない.
だとすれば,神戸製鋼の事例が,文化的要素としてはより深刻だといえよう.

ガルブレイスの「新しい産業国家」

資本主義における「成熟した法人企業」の現実の支配者は、「テクノストラクチュア」である、というのは1968年にガルブレイスが『新しい産業国家』で主張したことだ。「テクノストラクチュア」とは、高度な科学知識を持った専門家という意味である。企業内技術官僚とでもいうべきか。誤解をおそれずにいえば、日本の大企業が採用する、文系・理系を問わず「総合職」あるいは「幹部候補生」のなれの果てといってもよかろう。
ガルブレイスは、資本と経営の分離が一般化したなかでの「成熟した法人企業」が追求する企業目標は、「テクノストラクチュア」自身の安全であり、そのために成長が望まれるという。利潤は「テクノストラクチュア」の安全に必要な最低限をこえるかぎり、成長に次ぐ第二義的なものでしかないから、「テクノストラクチュア」の刺激誘因は金銭的なものではなく、組織との一体感とか組織を自己の目標にあわせるという適合であるという。

これは、経営と労働の対立という伝統的概念ではもう古いから「新しい」産業国家なのでろうが、そこに「テクノストラクチュア」という社内でかたまった集団による企業簒奪が新しいのだ。つまり、新しい形での企業の「人民管理」なのである。
ところで、このような大企業の形式的な経営者は誰なのだろうか?
資本と経営の分離が一般化した社会では、経営者とは、資本家すなわち株主から経営を委嘱された人々を云う。欧米企業に比して、日本企業は企業内昇格によって経営者になるのが一般的であるから、その出自はまずまちがいなく「テクノストラクチュア」ということになる。
この点、ガルブレイスは、『新しい産業国家』の日本語序文において、この本が欧米の経済学主流派よりも、「マルクス」に基盤をおく日本の経済学主流派に、より剴切(しっくりする)だろうということの一つだろう。
しかし、議論をここでとめるわけにはいかない。
冒頭の、わが国を代表する大企業二社の事例のすべてを説明できないからだ。

なるほど、「テクノストラクチュア」による企業の簒奪は、その目的が「テクノストラクチュア」自身の安全であり、組織との一体感だとすれば、不正を実行したことの動機としてあり得る。面倒な規格を遵守しなくても、厳格な品質管理を怠っても、大事なのは組織の一体感かもしれないし、「テクノストラクチュア」としての高度な知識からすれば、そんな規格や品質基準など「過剰である」と厳密に定義してしまえば、それこそ組織を自己の目標に適合させることになる。さらに、発覚リスクをかかえれば、そこに一体感も醸成できる。また,品質水準に関与できる職務は,一般職ではあるまい.つまり,社内では管理職にあたる層だとすれば,ここに自己保身と一体感が醸成されることはむしろ自然の成り行きだろう.
そして、発覚して会社が損を被っても、利潤は「テクノストラクチュア」の安全に必要な最低限を越えればいいから、経営陣による社会への謝罪会見などどうでもいいのだ。当然に、「テクノストラクチュア」の安全とは、正社員としての身分保証である。
しかし、それでは、「テクノストラクチュア」出身の経営陣の「無知」はどうしたことか?かれらは嘘をついているのだろうか?
おそらくそうではあるまい。
これは、「身分」にかかわる「断絶」が発生しているのではあるまいか?

「身分制度」こそ現代日本の姿である

会社法に定めるように、従業員と経営者では身分がことなる。そのため、大企業では、従業員から経営者に昇格すると、「会社都合」として退職金が支払われる。そして、いったん個人となってから、改めて株主総会で取締役に就任することになる。使用人の身分から、使用者への転換である。この瞬間に、高度使用人である「テクノストラクチュア」の世界から、追放されるのだ。
もちろん、社内は「テクノストラクチュア」が支配しているから、追放された経営者は、自らが欲する経営情報を得ることができなくなる。そこで、たいがいの大企業では、「社長室」、「経営企画部」などといった、選ばれた「テクノストラクチュア」たちが、事実上の司令塔になり、経営者役員たちは、彼らの手のひらの上で踊ることになる。もし、社長が何かを命令しても、その実行計画を細部にわたって策定するのは「テクノストラクチュア」たちだから、本人の意図しない結果になることもある。また、その命令の内容が、「テクノストラクチュア」の安全に抵触するなら、おそらく、経営者がおもいもつかない理由(実は説得力がある)を指摘されて、当初からすれば骨抜き案になるだろう。
こんな内部事情があるから、不正を正常化する課程を自助努力で解決できない。なぜなら、それは「テクノストラクチュア」を最低でも二分することになるから、組織との一体感を重視する「テクノストラクチュア」は動かないのだ。もし強行すれば、社内は複数の派に分裂し、統治が困難になるだろう。そこで、日本の大企業は、外部専門家に依頼するしか方法がないということになる.

神戸製鋼の社長は、すでに体調をこわしてしまったらしいが、「テクノストラクチュア」からの追放の意味をかみしめればかみしめるほど、役員就任以来の自己の人生が虚空に満ちたものであると実感するしかない。精神的なタフさが求められる正念場だ。
日産自動車の方策は、かなり強制的で、自動システムを構築して不正をなくすらしい。この「自動システム」が内製なのか外部製なのか不明だが、外部製でなければならないと推測する。内製だと、それを開発させられる「テクノストラクチュア」部隊が、将来、派閥的いじめにあう可能性がある。自動化がアウディのような仕組みだとしても,既存の検査資格者の特権が問題になる懸念である.
ちなみに,日産がルノーの支援を受け入れざるをえなくなったとき(つまり事実上の倒産),「技術の日産」がテレビのCMで流れていた.お客様目線からすれば,これは提供者の論理になると批判されたものだ.ところが最近,このフレーズが復活していた矢先の事件発覚である.「テクノストラクチュア」の復権の象徴だったのかもしれない.