「第三者委員会」をゆるす株主

これだけ世の中に「不正」がはびこると,「不正」の重みも軽くかんじてしまう.
役所も民間も不正がばれると,「第三者委員会」なるものがたちあがる.
あたかも「中立の他人」です,という風情だが,このひとたちを臨時雇用したのは役所や会社だから,費用は税金だったり会社の経費になる.

「組織統治ができなかった」ことで発生するのが「不正」だから,民間なら経営者がその責任を負うのが当然であるが,またぞろ自分たち経営者が招集した「第三者委員会の結論を待つ」などと平気の平左で発言して,だれも変だとはいわないおかしさができた.

国家公務員や地方公務員の不正は,それがあきらかになれば即「事件」であるが,こちらもだいぶ緩やかで,首相や首長の責任論でごまかせる様相がパターン化されつつある.
教育委員会という行政組織での「不正」は,役人が役人の不正に頭をさげていて,首長が他人を演じられる便利さまで明らかになった.

国のばあいは,もう政権を二度ととるつもりがなくなった「野党」のおかげである.もし,政権交代を真剣にかんがえる政党ならば,こんなインチキ公務員たちが跋扈していたら,自分たちの政権でも不正をするだろうから,首相の責任論で押し通す愚はできない.

「第三者委員会」の「委員」には,弁護士が選ばれることがおおい.一般に「有識者」といっていたが,「有識者」の「識」に国民が敬意をはらわなくなったから,国家資格でいちばん難しい「弁護士」をあてれば,なんとなく説得力があるはずだ,ということだろう.
それで,どんな人物なのか?よりも「弁護士」という資格が前面にでたのはいいが,いかんせん肝心の「委員会報告」の内容がショボいものばかりとなった.

これは「弁護士」という看板を守る側の沽券にかかわるから,あの日弁連をして「第三者委員会のガイドライン」をつくるはめになった.
それで,この「ガイドライン」に沿ってやればよかろう,というのだが,「沿ってやってます風」ばかりで内容がやっぱりショボい.

それはそうで,「第三者委員会」の雇い主は会社の経営者だから,弁護士としてはクライアント先を守るのが本業という,ごく当たり前の態度になった結果だろう.
それではやっぱり沽券にかかわるから,「第三者委員会の評価委員会」というのができた.こちらは,なんと「無報酬」である.

A~Fまでの6段階で評価する.
これまでに主だった事案を評価したが,A評価はゼロ,Bすらみあたらない.
そして,評価者の名前と評価点も公表している.
つまり,「無報酬」のこの「評価委員会」がもっとも信用できるというさまになっている.

そこで,思うのだが,経営ができなかった経営者が会社のお金で雇うのではなくて,株主が「第三者委員会」を立ち上げなければいけないのではないか?
すると,委員会立ち上げのための事務局は,監査役になるのではないか?
こうしてみると,日本企業における監査役が,あまりにも無役・無力なのがわかる.

その意味で「不正」した企業の監査役が,本来はもっと糾弾されてしかるべきで,そうやってものを言える監査体制がつくられることになるのではないかとおもう.
でなければ,株主から監査役廃止論がでてもよさそうだ.
このように,株主が「第三者委員会」を立ち上げれば,その結果,経営者の無能が明らかになったところで,きちんと解任も,提訴や告訴もできるだろう.

さて,以上のはなしのなかに,ルールをつくってもうまくいかないことが組みこまれていた.
「ガイドライン」があっても,なかなかその通りにはいかない.
これは,そのまま公務員にあてはまる.

とくに,「キャリア職」で採用された一般に「官僚」と呼ばれる上級職公務員には,ほとんどリスクがないし,組織内で「ガイドライン」を策定する側になる.
だからよほどの「倫理観や使命感」がないといけないようになっている.
ここに問題の本質がある.

個人の「倫理観や使命感」に依存した組織は,組織ごと腐る可能性が高くなるからだ.
下級武士がつくった明治政府は「幕府」の復活をなによりもおそれた.
それで,上士(位の高い武士)に後ろ指を指されることがないように,高い倫理観と使命感で新政府をつくった.そして,これがいつしか「建前」になった.

本質的に,わが国の官僚制は,明治政府を継承している.その証拠に,敗戦で責任をとった軍人や政治家はいたが,官僚はひとりもいない.
つまり,この「建前」があるかぎり,高級官僚はどんなに傍若無人なふるまいをしてもゆるされる,と勘違いするのである.

法治国家の官僚には,この「建前」は必要ない.
だから特権もない.
だったら,だれも官僚になんかなりたがらなくなる.
それでいいのである.
優秀な人材は,官ではなく民にこそ輩出しなければならない.

そのためにも,まず「第三者委員会」は,株主が立ち上げなければならない.

ぬるい温泉が人気

銭湯で熱い湯に水をいれると怒るひとがいたりするから厄介だ.
水温計が50度を示していることもある.
源泉の熱さで有名な,群馬県草津温泉でも,湯もみで48度にして,それでも湯長の号令で入浴する時間湯があるくらいだから,監視人がいない50度の湯への入浴は危険ではないかとおもう.

熱い湯に浸かるのは,ある意味精神統一がひつようだ.
「心頭滅却すれば」の心境になれる,というメリットはあるだろう.
緊張で頭がスッキリすることは,あるかもしれない.
しかし,「過ぎたるは及ばざるがごとし」であって,けっしてくつろげないのは確かである.

数年前から「人工高濃度炭酸泉」が人気になった.
炭酸ガス,硫化水素の二種類が,人体に皮膚から影響をあたえる気体で,どちらも「毒」だから,皮膚呼吸がとまる.人体はこれではいけないと,全身の血管が毛細血管まで開いて肺からの酸素を届けようとするメカニズムがはたらくという.
これが,血管の運動になるから,高血圧などによいという.

それで炭酸ガスボンベから,こまかくしたガスを湯に溶かす方法がかんがえられた.
病院でも,高濃度炭酸泉が治療につかわれている(医療点数がつく)から,スーパー銭湯から採用され,いまでは街の銭湯でも珍しくなくなった.
炭酸ガスが皮膚に無数の気泡をつける.これが,皮膚の感覚器を刺戟するから,2度ほど高く感じるという.だから,40度を適温とすれば,高濃度炭酸泉は38度でよい.

おそらく,温浴施設のなやみは,人気の高濃度炭酸泉の提供者からみたコスト・パフォーマンスだろう.
炭酸ガスは高価である.だから,おおきな浴槽を用意すると,コストがかかる.
一方で,加温するのに2度低く済むというのは,光熱費では助かる.
利用人数と,浴槽の大きさ,温度,という連立方程式を解かなければならない.

温度を上げれば,利用者が多くても熱くなって回転がいいが,長時間はいっていたい利用者は不満を感じてしまう.
温度を適温にすれば,利用者の回転が悪くなるから,浴槽を大きくするひつようがある.
水光熱費は温度を下げた分たすかるが,浴槽が大きくなった分での比較と,炭酸ガスの使用量を比較して,それと利用者の満足度の関係はどうか,をかんがえることになる難しい問題だろう.
しかし,数ある温浴施設からリピートされて選ばれつづけるようにしたいのだから,この関係式にはさらなる検討項目がふえることになる.

この,温度を下げて長時間はいる,ということに注目したのが「無感風呂」だろう.
体温とかわらない温度の浴槽だ.
これは,はじめ冷たく感じるが,そのうち「無感」になって,いくらでもいられる.
長時間であるから,湯上がり後のポカポカ感は,これも長時間続く.

それで,むかしからあったのだろうが,このところ「ぬるい温泉」が人気になっているようだ.
ぬるいから,長時間はいっていられる.
時間があるひとにはちょうどいいだろうし,からだにもムリがかからない.
ところが,「ぬるい温泉」は,入浴専用施設であることがおおい.つまり,「宿泊できない」のだ.

仕方がないから,ビジネスホテルに宿泊して,また「ぬるい温泉」にいく.
こうして,ビジネスとは関係ないひとたちが,「温泉」を楽しむために別の場所に宿泊するようになっている.
移動は,自動車だから,離れていてもそんなに気にならないのも加わる.

温泉宿に,あらたなライバルが現れている.

ラテン語教育がはやるヨーロッパ

「EEC」から「EC」になって,とうとう「EU」になったヨーロッパ.
最初の「E」はぜんぶ「Europe」の「E」だから,そんなにかわったようにはみえないけれど,次元がちがう変化をとげたといっていいだろう.

「EEC」がはじまる前から「懸念」し,「EEC」ができたら,悪い意味でまだできてもいない「EC」の失敗の方向性は「EU」だと論破して,1993年11月のEU発足直前,92年3月に死去したのがハイエクだった.死去一ヶ月前に欧州連合条約が締結されているから,死んでも死にきれない想いがあったかもしれない.

その意味で,EEC発足以来,ヨーロッパはハイエクの主張をことごとく否定してきた歴史になっている.
「それでも地球は回っている」と言ったというガリレオの名誉が回復されたのは,同じく1992年のことで,それは「ガリレオ裁判」から385年が経過したのちのことだった.

ハイエクは,EU失敗の経路とその理由を書き残した(失敗を決めつけていて,その理由を示した)ので,ガリレオより早くに名誉が回復することだろう.
実際に,ほとんど「予言」のごとく示し的中しているから,当事者の焦りは尋常ではないはずで,さらなる間違いの深みにすすむから悲壮感さえある.

それが,古代ローマ帝国の公用語だった「ラテン語教育」にいきついたのだろう.
もともとラテン語教育はされてはいたが,現代ヨーロッパのよりどころとしてのラテン語になっているそうだから,おそらくEUの不振と無関係ではないだろう.

最大の難事は,共通通貨「ユーロ」をどうするか?である.
ギリシャ危機や,イタリア,スペインの経済危機も,「ユーロ」の矛盾がうみだしたものだ.
これら経済弱者にとっては,自国通貨より信用のある「ユーロ」は実力より背伸びができるし,ドイツのような経済強者にとっては,自国通貨より安いから輸出に有利である.

だれにとっても「有利」にみえるが,それは錯覚にすぎない.
ヨーロッパというエリアでの各国貿易にもどしてかんがえれば,通貨安で輸出に有利なドイツ,通貨高で過剰消費ができたギリシャとすれば,構図はわかりやすい.
だから,ギリシャ人はドイツ人に儲けた分を負担しろと要求し,ドイツ人はこれ以上面倒見られないと突き放している.

ハイエクは,「もしEUが発足したら,かならず統一通貨を模索し,統一通貨のための中央銀行をつくるだろう.そして,安定しない通貨価値の維持のために中央銀行はさまざまな権限をつくり,それを強力に実施するはずだ」と,歴史はそのとおりになった.
それで彼は「貨幣論」で「通貨発行自由化論」を提唱した.IT技術で通貨をだれでも自由に発行して,競争させればよい,と.これは,さいきんのFinTechのことだ.さすが,インターネットによる「知識分散型社会」を「予言」したひとの頭脳は,おそるべき先見性がある.

サッチャー政権以来,ハイエクに学んだ英国は,とうとう「ユーロ圏にはいらない」ままEUからも脱退する.
その意味では,筋金入りのハイエク主義だ.
ドイツとフランスにしか有利でないEUの本質をみれば,島国の英国は離脱に有利な立地だ.
しかし,その英国にしてさいきん,ラテン語教育が一部の有名校でみなおされているというから,これは英国からみた「舫い綱」なのだろう.大陸とのあきらかな温度差がそれをしめす.

ひるがえってわが国は,教育委員会という官僚組織が存立理由をわすれた不始末をしながら,一方で,「超教育協会」が設立された.
協賛企業は300社ともいわれるように,かなり影響力がありそうな団体である.
こちらは,設立趣旨に,「第四次産業革命」がある.つまり,ITの専門家をどうするか?
それは,このブログでも書いた,「未来投資戦略2017」を踏襲しているということでもある.

「EU」をなんとか維持したいドイツ・フランス中心のヨーロッパが仕組む「ラテン語教育」に対して,わが国の英知とトップ企業が仕組む「IT教育」の対決だ.
ハイエクには悪いが,「ラテン語教育」の格調高さに,なんだか共感してしまう.
哲学ではなく「機能」に向いてしまうわが国の「薄さ」こそ,焦りの反映なのだろうか?

スエーデン元首相のカール・ビルト氏が寄稿した記事のような,知見を披露する政治家も,それをもとめる国民もいない日本は,これからどうなるのだろうと不安を感じるのはわたしだけではあるまい.

科学実験番組の過小演出

放送法改正の議論があったりなかったり,「地上波」という国民の財産を例によってもてあそぶ議論がかまびすしい.
「ラジオ」ができたときは,ラジオ受信機を持つことがステータスであったろうが,物理原理の「エントロピー」のように,かならず広がって「コモディティ化」するから,いまどきラジオが買えないひとはいない.

しかし,ラジオをいつでも買えるからといって,持っているかといえば,あんがいラジオを持っていないひともいるだろう.
あたりまえすぎると,とくに欲しくないし,そこから鳴ってくる音(これが欲しくてふつうはラジオを買う)に価値をみいださなければ,「不要」という結論になる.

まったくおなじことがテレビ受像機(NHK的には「テレビジョン」といったが,さいきんの劣化したNHKは「テレビ」という)にもおきた.
日本経済の不況を救おうと,かならず姑息なことをかんがえる政府は,家電の「リサイクル」を公式に「有料化」したうえ,買い換える理由をデジタル化でむりやり作り,さらに「エコポイント」で補助金をばらまいて,麻生政権から民主党政権も引き継いだ.

それで,なかば強制的な買い換えが一巡すると,おそるべきテレビ不況がやってきた.
こうして,政府の介入が経済に不都合をもたらすのだが,強欲な国民はもっとよこせと要求する.
ところが,財源がないから無い袖は振れないということで,メーカーは自主的にテレビを4Kから8Kへと「技術的進化」はさせたものの,番組(コンテンツ)の劣化がはげしいから,だれも観ないということになった.

「東芝劇場」や「ナショナル劇場」のように,メーカーが人気番組をつくってそれを観たいひとたちがテレビを買う,ということをしなくなったのは,つまらない番組ばかりをつくるNHKのせいだ,とはいえなくなったから困りものだ.

高額所得者がとくにテレビを観なくなったので,テレビの作り手がさぐったマーケット(視聴者)調査の結果から,かつて「ゴールデン」と呼ばれた時間帯にも,パチンコなどのギャンブルと消費者金融のCMが進出した.
これらの業界のCMは,かつては深夜帯だけにかぎられていたが,背に腹はかえられぬ.

それで,高額所得者がさらにテレビに嫌気をさすという負のスパイラルがうまれた.
地上波がアナログだろうがデジタルだろうがそんなていたらくだから,高額所得者はどうしているのかといえば,ネットの動画を好きなように検索して観ているか,定額払いを自ら申し込んでいるのだが,プライム会員なら無料という本当は有料のアマゾンTVが人気なようだ.これは,年会費を支払うと書籍の送料が無料になる,というサービスからスタートしたから,元々の会員からすれば,事実上無料にみえる.

つまり,視聴者は価値をみとめれば,「有料」でもいいとおもっているから,強制的に徴収されるNHK受信料の問題とは,「価値がない」とおもっているひとが払わない・払いたくない,という原点にいきつくのである.だから,NHKは,価値がある番組をつくって放送すれば,受信料の問題で悩むことはない.

そのむかしは,リーダーズダイジェストがアメリカ文化を紹介するメディアとして有力だった.
いまは,地上波ではやらない,アマゾンTVでアメリカの人気番組が事実上無料で視聴できるから,価値がある.
たとえば,リアルな社会派ドラマで人気をはくした「ホームランド」は,絶体に日本人の発想ではつくれないだろう.

そんななかで,地味だが興味深いのは科学実験番組「雑学サイエンス」である.
材料の意外性と科学という組合せで,一般人が素直に驚き感心する姿は,なかなか日本的でない.むしろ,日本の番組なら一本の実験だけで特番枠ぜんぶをつかいそうな大規模な実験を,ものの数分で終わらせ,つぎのテーマに移行することに驚く.
なんと贅沢な.

それにしても,この番組の進行役は英国人である.
アメリカで英国人が,ちょっと上から目線の言い回しで,「ほらね」とやる.
それで,ちょっと田舎くさいアメリカ人が感心するのだから,大英帝国も健在である.
実験前の予想選択肢に,「該当なし」があるのもよい.

英米人の発想が,大胆さと,日本なら過小演出になる淡泊さで表現されている.
そして、なにより,人間らしい人間が観客である.
こうしたひとたちが,日本を観光している,とおもうと,なるほどとおもうことがある.

「護衛艦いずも」をみにいってきた

6月1日は,横浜開港記念日だ.
むかしは仮装行列やバザーが同時におこなわれたが,いま仮装行列は5月のGW実施になったから,開港記念日にちなんでいるのかどうかわからなくなった.

この日,横浜市立の学校はぜんぶ休校になる.
それで,小学校の鼓笛隊で二回,仮装行列の中のひとになったことがある.
「スニーカー」がまだない時代,運動会では足袋を履くのがふつうで,ふだんは底のうすい運動靴しかなかった.

その靴で,4キロほどの行程を演奏しながら半日かけて歩くのは,けっこう難儀だった.
沿道は,運動会とおなじで,ゴザや新聞紙をひいて座ったひとたちが弁当をたべながら一杯やって見物していたから,目線と声援は下からやってきた.
貧しかったむかしは,沿道との一体感があった.

大桟橋にいくのは何年かぶりだが,あたらしく変なデザインになってからは一度もなじめない.
むかしは素っ気ないものだったが,土産物売店に往年の賑わいのなごりがあった.
小学校1年生の遠足が,大桟橋で,接岸していたキャンベラ号の船員さんに「ハロー!」と叫んだら,手を振ってくれた.客船の外国定期航路があった時代である.
明治のむかしのころの大桟橋を描いた絵が,桟橋の入口にある.
よくみると,いまと機能面での違いはないから,そんなものである.

わたしが通った小学校は高台にあった.
授業中だれかが「ビルが動いている!」と叫んで,先生をふくめ全員が窓に注目すると,横浜駅のデパートがほんとうに動いているようにみえて,教室は騒然となった.
それが,当時世界最大といわれた「クイーンエリザベスⅡ世号」の入港だった.
週末,大桟橋に行った.大きすぎてよくわからない.山下公園からみると,大桟橋がみえなかった.

わが国最大の「護衛艦いずも」は,設計時には将来も問題ないと専門家が太鼓判を押して,完成してすぐに世界最大級の客船がくぐれなくなくなったベイブリッジをくぐってきた.
そういえば,中学生のころ,遠足で横須賀の安針塚をハイキングしたら,高台の公園からちょうど入港中の米空母エンタープライズがよくみえた.

その大きさは,クイーンエリザベスⅡ世号の比ではなかった.
ひとはなぜか巨大なものに興奮する.
たまたま,入港に反対するひとたちが,おなじ公園からシュプレヒコールをあげていたが,われわれの歓声にいらだちを隠せなかったらしく,「君たち,ちがうだろう.かっこいいものではない!」と言ってきたのを思いだす.
興奮した子どもが集団で,「かっこいいものはかっこいい!」と言い返したのは言うまでもない.

すると,このおとなのなかの数人が,「たしかにこうしてみるとかっこいいなぁ」といったから,内輪もめがはじまった.
そのあと,どうなったかはしらない.
冷酷な子どもの集団は,注意してきたおとなに冷笑をあびせて立ち去ったからだ.

きっといるだろうと期待したら,JR関内駅で「空母入港反対!」というひとたちがいた.
「いずも」は,ヘリコプター空母だろうから,省略すれば「空母」になるが,表現としていかがなものか?
また,垂直離着戦闘機対応のための改造反対!とかも言っていた.

1時間待ちで,いずもに乗艦すると,その小ささに驚いた.
床は滑り止めのゴムのような特殊な塗料が塗られていたから,このままなら素人でも垂直離着戦闘機はムリだとおもう.ジェットエンジンの噴射で溶けてしまうだろう.
それなら,どんな改造で可能になるのか?
格納方法だけでなく,運用は?

海上自衛官候補募集のテントには,若者たちが座って説明をきいていた.
おそらく,少子化という問題は,すでに「定員」にたいしても深刻な影響をあたえているのだろう.
これは,「人口問題」だから,若年層の人手不足,として容赦なく,すべての職業にあてはまるから例外はない.

つまり,若者の争奪戦は,完全ゼロサム・ゲームである.
決められた数しかいないから,だれかが採用すれば,だれかが採用できない.
「官」だろうが「民」だろうが,総力をあげての争奪戦となる.
新人が入らない組織は,なくなるしかない.

自衛官とてその例外にないのだ.
だから,これまで以上に,市民に愛される自衛隊を強調した活動がさかんになるにちがいない.
今回の,横浜港入港も,その活動のひとつだろう.

出港は,本日6月3日午前10時である.
おそらく,行き先は横須賀だろうから,東京湾にいることに変わりはない.

こっくりさん

学校で「禁止」を命じられた遊びに「こっくりさん」があった.
必須の鳥居に,数字やひらがなの五十音表などを書いた紙の上に10円玉をおいて,三人以上の指を10円玉に置くと,勝手に10円玉がうごいて,さまざまな質問に回答するというものだ.
あんまり流行ったものだから,「経験者」はおおいだろう.

お狐様の「こっくりさん」が降霊するという触れこみだが,科学的に何故かというとさまざまな説があって,なかでも「潜在意識説」が有力なようである.
要は,参加者の「潜在意識」が,指に力を与えて10円玉を動かす,というものだが,本人たちは,力を入れるどころか,勝手に10円玉が動く,という感覚のほうが強いから,大流行した.

ふだん,力を入れるという感覚を意識しているとおもっているから,力を入れていないのにものが動く,ということにものすごく違和感がある.
しかし,逆に,力を入れようとしているのに,体がおもうように動かない,ということもある.
つまり,無意識のなかと意識のなかとでそれぞれに「動く・動かない」があって,ひとは自分の体をあんがいコントロールできないものだ.

お稽古事も,スポーツも,そのために練習・訓練するとかんがえれば,納得がいくものだ.
達人がさりげなくおこなう所作も,素人にはとてもではないが簡単にはできない.
狂言の「釣狐」は,その典型である.

さて,個人の世界から社会集団に転じると,社会にも「潜在意識」がある.
だから,個人と社会の中間にある,企業という集団にも潜在意識がある.
その潜在意識が,ある一点にあつまると,「こっくりさん」のように,勝手に動いてだれにもどうすることもできなくなることがあるし,ふだんではかんがえられない集中力を発揮することもある.

だから,有能な経営者は,従業員の潜在意識に対するすり込みを重視する.
それは,よいことをしている,社会に役立っている,ということだと,もっとも強いすり込みになる.
ここには,「金銭」である「損得」が入り込まない,という特徴がある.

日本人は,かつての「武士」の価値観が一般にまでひろがったため,むき出しの「金儲け」を嫌うどころか嫌悪する習性がある.
その最たるものが「役所」で,役所が有料でするサービスでは,「儲け」をいかに出さないか?に気をつかう.それで,赤字分は当然に税金で補填するから,結局は住人が負担している.このとき,そのサービスを享受しないひとも負担させられるから,「平等」とは難しいものだ.

ヤマト運輸をいまのヤマト運輸にした,故小倉昌男氏の「経営学」には,上述したすり込みの極意が記述されている.
「サービスが先,利益は後」というかんがえ方は,みごとに日本人の琴線に触れる.
これは,たいへん重要なことだ.

アフリカ諸国や,ラテン・アメリカ諸国では,なにを言っているのか理解されないかもしれない.
いわゆる「ぼったくり」というのは,その時々の価格交渉の結果,という理屈にたつと,あとで気づいた購入者がマヌケだったということになる.

なにかのTV番組で,わらしべ長者のごとく物々交換しながら旅をする,という企画ものがあった.
そこで,アフリカのとある国で,欧州で交換した高価な物品が,交渉の挙げ句,残念なものと交換した.それで,返してくれと再交渉したものの,応じてもらえないという場面があった.

あたかも,この強欲なアフリカ人が悪い,と感嘆役のタレントが言っていたが,そうではない.
世界はそんなものだし,いったん合意して契約したら,その取引は成立する.
だから,相手のアフリカ人からしたら,マヌケな日本人,という印象が深まるばかりだろう.
これを,日本人視聴者の潜在意識に訴求したから,いっきに下劣な企画に成り下がった.

「サービスが先,利益は後」の前に,だれもが納得する「適正価格で」をいえば,世界で通じる普遍的な価値観になるだろう.

英語力がないからリベラル

「リベラル」は,「Liberal」であって,「Liberty」に通じる.
いくつかの英和辞典で,「自由主義の」の後ろに「進歩的」という訳をつけているのは,戦後日本の事情を介したものか,それとも「第一次」(二次ではない)大戦後の英国の事情を介したものか?の説明はないから,あんがい不親切である.

ハイエクの名著「隷従への道」の新訳が日経BPクラシックスから出ているが,そのはじめにハイエク全集の編集者ゴールドウェル教授の序文がある。
「左派は第3章を、(中略)右派はアメリカペーパーバック版序文(本書に訳文掲載)を読むといい。そこではリベラルと保守のちがいが述べられていて興味深い。実際に読んでみたら、右も左も驚くことだろう。」

  

この序文には,出版当時(第二次世界大戦中)の英国で,著名な書評家が「読んでいない」(と告白している)のに,この本を酷評したエピソードも綴っているから,どちらさまも「そんなもの」なのかもしれない.
しかし,正反対の意味をもつ言葉をつかいわけるのは大変だ.
日本で「リベラル=進歩派」を自称するひとが,アメリカにいって自分は「Liberal」だと演説したら,けっこうブーイングの嵐に巻き込まれるだろう.

そういう意味で,日本語の「リベラル」は,「和製英語」になっている.
つまり,ネイティブに通じない「英語のようなもの」,なのであるが,通じないから「英語」ではない.
だから,「リベラル」というとちょっとかっこいい,気取った感じで言いきりながら,言葉の内容が「Liberal=自由主義」とは正反対の「進歩主義=社会主義」であっても,聴衆に英語力がないから,ぜんぜん問題にならない.

日本には,「和製英語」を研究している「英語圏」のひとがいる.


「バリバリウケる!ジャパングリッシュ」は,あたらしい「日本文化論」だろう.(残念ながら,本書は「Kindle版」だけの電子出版物である.)
ことばは文化そのもので,思考までも左右するからだ.
日本語しかできない日本人は,日本語でしかかんがえることができない.逆に,英語しかできない英米人は,英語でしかかんがえることができない.
ここに,決定的な文化の差がうまれる.

「ネイティブ」と呼ばれるひとたち,(日本人だって日本語ネイティブである)からすれば,和製英語はいけないもの,間違ったもの,と指摘するのは「親切心」からである.
むかし,わたしがエジプトにいたころ,日本人が大挙訪れていた時代で,観光客の外貨が欲しいエジプト政府から手始めにカイロ空港内での「日本語案内表記」についてアドバイスを求められたことがある.「手始め」というのは,街中でも「日本語案内」を計画していたからである.

当時,すでにいくつかの日本語案内表記があったが,だれが監修したのか不明の,どちらかというと「中国風」だった.郵便局には,「郵便」.トイレには,「便所」とおおきな案内看板があったが,文字が楷書でも行書でもなく,たいへん不思議なかたちをしていたのに,しっかり電飾看板だったから違和感もひとしおだった.

「表記内容」と「文字フォント」という問題よりも,きちんと届く郵便制度や,清潔なトイレが優先ではないか?というのが本音であった.
市内ですら郵便は届かないのが常識だったから,観光ガイドブックにも「注意書き」があったくらいで,だれも郵便物を利用しない.
国際空港としてあるまじき状態のトイレは,あしを踏み入れただけで我慢をしたくなったし,靴の裏さえ汚れた感じがしたものだ.だから,とにかく「清潔なトイレ」を主張した記憶がある.エジプト人の担当者は,それがいちばん難しいと言っていた.

さて,この「ジャパングリッシュ」で素晴らしいのが,和製英語のなかに英語として,「これはいけるかも」とおもえるものがある,という指摘である.
この発想はこれまでなかった.
「いけないもの」「恥ずかしいもの」としてしかの価値観だったのが,そうではないかも,というだけで変わる.

つまり,「日本の暮らし」のなかにあって,外国にないものが「輸出できる」ということだ.
これは,いままでもあったというが,あんがい「輸出」などしていない.
せいぜい,「お土産」の範囲をこえないものがおおい.
外国における,需要のリサーチというビジネスが,もっとあっていいだろう.

大企業向けでない,中小零細向けで,かつ,信用できるパートナーを探すことができれば,事業承継のおおきな助けになるはずだ.
縮む国内だけをみていたら,廃業したくなるだろうし,息子に強制もできない.
しかし,「売れる」となれば話は別である.

こうした点での,ネットワークづくりが,日本の弱みになっている.
個々の英語力よりも,ネットワークでなんとかする.
「リベラル」のひとたちに,がんばってもらいたい.

「机上の空論」のうそ

江戸末期,黒船以降のニッポンを観察した外国人が書き残したものは,いま読んでも価値があるものがたくさんある.
「日本文化」を売り物にしたい旅館や観光業のひとたちは,これらの本とともに,研究成果をよく識っておくと,売れる「商品開発」ができるはずである.

にもかかわらず,不思議と再生の現場では,先月や昨年の「損益計算書」の分析にいそがしく,過去からの延長線上の方策に磨きをかける,という絶望的な努力がまじめにおこなわれている.
それで,とうとう力尽きると,二束三文で売却されるか,地元民が眉をしかめる廃墟になる.
いまどきの買い手は,そういった施設の栄光の過去をあっさり否定して,少ない投資でかつ短期間で,ぜんぜんちがう施設へと変貌させてしまう.

どちらに知恵があるのかは,いまさらいうまでもないが,なにが過剰でなにが足らなかったのか?が,さいごまで理解できなかったひとたちが,経営権を失うのは,ある意味従業員にとっては幸いである.
しかし,だからといってあたらしい買い手のビジネスが,どれほど素晴らしいか?についてもたっぷり議論の余地はある.

こうした問題の本質に,金融があることがあまり議論されていない.
金融機関が決めることだから,「仕方がない」といってあきらめているのだろう.
ところが,いま,その金融機関が存続をかけた危機に直面している.
従来どおりのビジネス・モデルがほとんど通用しなくなってきているからだ.

借り手にとって重要なのは,自社のビジネス・モデルが世間に通じるか?であって,これが支持されるなら,商売でつまずくことはない.
つまり,商売でつまずいてしまっているなら,それは、自社のビジネス・モデルが世間に通じていない,というメッセージを世間からもらっていると理解すればよい.

残念なことに,金融機関は国からの監視がきびしいから,なかなか独自経営が難しい.それで,全国津々浦々の金融機関が困っている.
おなじ土俵で競争せよ,というのはいいが,おなじ土俵の意味がおなじサービスだから,本来の競争にならないことに,ビジネスで競争したことがない役人は気がつかない.

それにくらべて宿や観光事業は,よほど自由がきくから,かんがえるのに規制官庁からの難癖はあまりない.
だから,どうしたいかをジックリかんがえて,あたらしいビジネス・モデルを最低でも机上でつくることか大切だ.

よく,「机上の空論」といってバカにする人がいるが,自社のビジネス・モデルを机上で紙に描けないなら,じっさいにそれがうまく動くことはない.
正反対の軍事だとて,机上演習,が重要な訓練なのは,じっさいを想定してサイコロという偶然からの判断ができなければ,本番で部下を死なせてしまうからだ.

だから,「机上の空論」はたっぷりやったほうがいい.
そのとき,江戸時代の生活をどこまでも研究するのが望ましい.

たとえば,当時の日本人の生活には「食卓テーブル」はなく,「お膳」だった.このお膳が簡略化されて,「お盆」になって,食堂の「トレイ」に変化したのではないか?
西洋にはテーブルがあって給仕されたから,「トレイ」を自分でつかうのは,学生食堂のイメージだろう.

だから,それなりのグレードのホテルや日本旅館の朝食ブフェで,プラスチックの「トレイ」を最初に渡され,これを使うのをなかば強制されることに抵抗があるようにみえる.
たしかに,外国のちゃんとしたホテルの朝食ブフェで,トレイが用意されているところをみたことがない.みなさん,「皿」を複数手に持って,何回も取りにいくことに抵抗はなさそうだ.

さて,この「トレイ文化=略式お膳文化」について,高単価外国人客をターゲットにしたとき,サービス方式としてどうするか?あるいは,あなたの宿としてどうあるべきであろうか?
あくまで,日本方式を貫くのか?それとも?

わたしのイメージは,ブフェ式なら必要ない.
定食式なら,「お膳文化」がわかるような形状のトレイを選びたい,といったところだ.
なお,ブフェ式でトレイをやめて,皿にいくつかのくぼみがついている食器が用意されていることもある.これこそ,外国の学食のようだから,個人的には余計なお世話=過剰サービスだと感じる.

ほらほら,異論がありそうだ.
そのとおり,正解はないからかんがえ方次第でいくらでもバリエーションがあるのだ.
日本のお膳文化と,外国のテーブル給仕文化のちがいが発端だからだ.

さて,この議論,机上の空論なのだが,サービス・スタンダードとして現場要員数まで決まることになるから,どうでもよい話ではない.

「机上の空論」を従業員とたっぷりできる企業文化あってこそ,自社のビジネス・モデルを他人に説明できる素地ができるのである.
この,自社のビジネス・モデルに,本来は融資という信用がつくのだ.

バンカーは,顧客のビジネス・モデルを読み解きそれに価値を見いだせるかが問われるはずが,相変わらず不動産担保が融資根拠なのだから,AIに追い込まれるのは当然である.
しかし,「机上の空論」ができない企業は,実業として追い込まれてしまう.
ムダの代名詞としての「机上の空論」は,うそである.

「愛校精神がない国」がある

どこの学校を出たのか?を気にするのは,いがいと万国共通ではない.
ましてや「出たのか?」に,「中退」も含まれるのがわが国の特徴でもある.
だから,初対面で出身校の名前をきいても失礼なことだという認識がうすいひとがいる.
また,企業内でも,出身校ごとにまとまって,「派」をつくることもある.

以上は,「愛校精神」の表面上のあらわれでしかない.
しかし,たとえば,東京にある「学士会館」にいくと,学士とは旧帝大卒業者のことである,という定義に触れることができるから,なかなかの「選民(エリート)」意識にあふれている.

わたしは,「選民(エリート)」を否定しない.
しかし,「選民(エリート)」には,かならず「ノブレス・オブリージュ」がなければならない,と前に書いたとおりである.
また,学歴による身分社会をあたらしくつくったことも,前に書いたから,ここではくり返さないが,「学士会館」は,明治の価値観が戦後も残ったことのひとつであるにちがいない.

「価値観」となると,どちらが正しいのか?という選択は,たいへん難しい.
良い面もあるし,悪い面もあるだろうから,決めがたいのだ.
ただ,「価値観」をつくった「背景」をしることは大変重要なことだとおもう.
そういう意味で,日本における「愛校精神」の形成に,「身分」という要素があることをしっておきたい.それが,「学歴社会」の基礎をなしているからである.

注意したいのは,このときの「身分」が意味するものは,「大卒」という「学歴」を示すものではなく,まさに「社会的階級」を指すことだ.
華族も武士も,とっくに存在しない「平等社会」であるようにみえる日本だが,じつは深いところに「階級」としての「身分」がある.

だから,わが国は,最先端の近代資本主義社会のようでありながら,ほんとうは封建時代の価値観を色濃く残している国である.
近年激増した外国人観光客のおおくは,その構成をみればわかるように,アジア圏からの人びとで,ある意味ありがたいことに,表面ずらの(近代)日本,でいまは満足してくれている.

一方,そんなに構成上はおおくはない,欧米からの人びとは,深層の日本(文化),を識りたがっている.こちらも,伝統文化という側面での表面を識って満足しているようだが,ほんとうの「深層」に気がつくひとも,そろそろ現れることだろう.

もう30年以上前になるが,ホテルのフロントマンをしていたときで,築地市場の見学が外国人にブームになりかけていたころの話だ.
まだ暗い早朝にわざわざ出かけるひとが,ポツリポツリといた.ホテルのスタッフは皆,マグロの解体が珍しいからだと思っていた.

そこで,あるお客様に質問してみた.
築地市場のなにがそんなに興味があるのですか?
当然,マグロの解体,というこたえが返ってくとおもっていたら,「西側自由主義経済の国で,『公設市場』があるのが珍しいだけでなく,それが世界最大級であるから興味があるんだ」と.

ソ連・東欧圏は,まだ崩壊していない時代のはなしだ.
その,ソ連・東欧圏の社会主義体制が崩壊してなお,日本には「公設市場」があって,移転ばなしがかまびすしい.築地であろうが豊洲であろうが,職員は東京都の公務員である.
どこに移転するか?ではなく,公設市場がなぜ存在するのか?の議論がないことの不思議に,外国人観光客はとっくに気づいている.

社会主義の「平等原則」は,決定的な物資の不足を招いた.
国民に「平等」に「配分」するために,国家が「計画」しなければならないが,そんな計画はだれにも作れないからだ.その理由の大半は,「価格がない」ことにある.

「価格」というかたちで,需要と供給の均衡「情報」が伝わるから,「価格」を政府が決めたら,需要と供給の状態がわからなくなるのだ.
中学校でならう,こんな単純な「経済原則」を,70年も無視したら,貧困化するに決まっている.

東欧圏だったポーランドの大学は,いまだにすべて国立で授業料は無料である.
大学入学資格試験に合格すると,どこの大学にも無料で入学できる.
どこの大学も,基本的におなじカリキュラムでおなじレベルが原則だから,「大学を卒業する」ということの難易度も「平等」になっている.だから,だれも「どこの大学を出たか?」に興味がない.

これには,もう一つの条件がある.
それは,授業料が無料であるかわりに,一単位でも「不可」をとれば,即「放校処分」になることだ.それで,「卒業レベル」が「平等」になっているから,「どこの大学を出たか?」ではなく,「大学を出た」だけに絞られる.だから,「愛校精神」というウェットな感覚は育ちようがない.

入学者の20%ほどしか卒業できない.5人に1人である.
大学が「レジャーランド化」して久しい,わが国で,ポーランド式を実行するのはまず不可能だろう.

社会主義をやめたポーランドは,支配層以外,全国民の垂涎のまとだった「自由」を重視している.
だから,大学には「校章」はあっても,「校歌」などない.
入学式もない.スポーツや愛好会・同好会それに軍隊以外で,おなじ服を着ることもないし,昼食すらおなじ時間がない.
小学校だって,昼食のための休み時間がないから,給食もない.

「同じ釜の飯」という意味の「仲間意識」もない.
徹底的に「個人の自由」が優先されるのだ.
「学士会館」さえもないのは,かえって潔すぎるようにもおもえる.

常識やぶれの目標達成方法

ダイエット食品の宣伝に,「今のままなら今のまんま♪」という文句があった.
言い得て妙である.
なにか変化させなければならない.
そのために,これを食べてみましょう,というわけだ.

ダイエットであれ,企業経営であれ,これまでとちがう成果を期待するなら,これまでとちがうことをしなければならないのは,別に他人から言われるまでもないことだ.
しかし,あらためて言われて,はじめて「その気になる」ことがないと,じっさいの行動にならないのも確かなのである.

そこで,問題になるのは,「ゴール」である.
どんなゴール・イメージを描くのか?あるいは,どんなゴール・イメージが描けるのか?ということが,いきなり問われることになる.

じつは,問題をかかえたままでもがいている企業のおおくが,ゴール・イメージを「描けない」という状態になっている.
かんたんにいえば,どうしたらよいかがわからない,のである.
ところが,ここに重要な錯綜があって,どうしたらよいかがわからない,ということの意味には,日常活動も混じってしまっている.

つまり,ゴール・イメージと日常活動がかさなることで,はなしが「こんがらがる」のである.
この「こんがらがった」状態から抜けるには,こんがらがった糸を一本一本きれいになおすことが必要なように,はなしの筋を一本一本なおす作業がいる.
ふだん,丁寧な仕事をしている企業ほど,この作業を面倒がる.
それは,現状でも仕事がまわるからである.

ほんとうは,いまのままではいけない,とおもいつつ,現状はまわっている.
すると,余計なことをすれば,現状がまわらなくなるかもしれないし,たいがい,現場はいやがる.まわっている現状を変えるのは,現場にとっては余計なことだからである.

そこで,仕事の棚卸し,という作業が必要になる.
その仕事の名前と,その仕事が存在する理由すなわち目的と,今のやり方との整合性の確認だ.
これで現状が肯定されれば,その仕事は「変えてはならない」と決められる.
「もっとこうしたら」があれば,検討すべきだから「変えなくてはならない」仕事となる.

並行して,それで,なにがわれわれのゴールだったっけ?をかんがえる.
もちろん「利益を出すこと」がでてきてもかまわない.
とにかくたくさん,なんだっけ?を出すことだ.
ここで,「常識」にとらわれてはならないのが「コツ」である.

だから,複数の人間で,なんだっけ?をかんがえるなら,他人がだしたことに反論してはならないのだ.
むしろ,そんな突飛なことなら,こんな突飛なことでどうだ!でよい.
すると,「夢が膨らむ,あなたの胸に」という具合で,これまでかんがえたことがないゴールが見えてくるだろう.

さて,でてきたゴール・イメージを,端的にまとめてみる.
すると,たいがいのひとが,「えーっ!」と思うようなことになる.
ここで,一息.冷静になる.「こんなのできっこない」を鎮めるのだ.
そして,「どうしたらできるのだ?」に話題を集中する.

たとえば,何年かかる?
百年か?千年か?
十年ならどうだ?

もし,十年もあれば,ということなら,ここで紙に十年間の空白年表をつくる.
そして、十年後からこちらに向かって,この年になにをどうする?を書いていく.
一回できれいに年表ができるはずがないから,書き直しはいとわないことだ.

ここで,重要な発想法がある.
そのゴールが常識やぶれであれば,やり方もおのずと常識やぶれになる,ということを識っておくことだ.

すると,これができる企業とできない企業のちがいがみえてくる.
自由にものが言えるか言えないか?というちがいなのだ.
それで,自由にものが言えない企業こそ,現場から以上のやり方でやってみるとよいのだ.

わたしは,これぞ労働組合のあたらしい常識ではないかとおもっている.
働くひとが,みずから働き方をかんがえなくて,なにが働きかた改革なのか?
かつての組合員が,いまは経営者という企業は,大企業ほどあてはまるのが日本企業の典型だろう.

「安全地帯」にいる企業内昇格した経営者が,不思議と上から目線で,しかも,人件費は抑制されるべき,という「常識」に凝り固まっているのだ.この理由はかんたんで,そういう「常識」を言っていれば自身の身が「安全」だからである.
ここには,「いかに自社の付加価値を増やすか?」という経営者の役割に対する責任は微塵もない.

ならば,労働組合が,「いかに自社の付加価値を増やすか?」をかんがえなければ,誰がかんがえるのか?だれもいなくなってしまうのが,悲しいかな日本企業なのだ.
ところが,所詮,組合員から昇格して経営者になるのだから,時間の経過とともに,「いかに自社の付加価値を増やすか?」をかんがえる経営者になる可能性がいまよりも高くなる.

「ただしき」人民管理のチャンスである.