「喧嘩」ができない

官僚主義という役割分担を重んじる価値感が、ほんらいの「効率性」を達成したかにみえた誤解、あるいは勘違いから、じぶんのことである、というリアリティをうばって、とうとう巨大な無責任をつくりだす。

じぶんの担当以外のものやことに、無関心でいられる鈍感さをそだてるからである。
これが、国家をつねに真似る民間企業にまん延して、とうとう家庭にまではいりこんだ。

わたしは、いまようのジェンダー主義者ではないし、むかしの「家」制度をなつかしむものでもない。ここでいう家庭内での官僚主義とは、家父長制をさすのではなく、家族のなかでの個人間としての無関心をいう。

家族内ですら、なのだから、ご近所もおなじで、それがどんどんひろがって、国という枠にまで無関心がひろがるのである。
身近な例でいえば、ほんらいは日本独特の「善意」からスタートしたはずの「民生委員」が、地域住人の重い負担になっていることもあげられる。

行政からの業務範囲のおしつけと、お世話する家庭の事情の変化、それに知りえた情報の厳しい守秘義務の遵守要請は、「善意」だけでは受けきれないし、専業主婦が壊滅して、業務をおこなう時間すら制約になってきたのは、主婦や高齢者をパート労働にかりたてる政府の政策と完全に矛盾している。

「縦割り」という役割分担の無責任がうんだ、制度疲労のひとつである。

ところが、こんな問題すら「選挙」の公約にあげるものがいないのが、地元議会の議員選挙というありさまで、まるで国政レベルのはなしか、単なる名前の連呼になっている。

そのおかげで、放送法一本の「ワン・イシュー」の政党が、ずいぶんと勝利した。
だれでもいい、どーでもいい、という有権者の無責任は、選択肢を提供されないという不満からと、世間への無関心が掛けあわさってうまれる。

本来の目的は、放送法の改正と巨大な公共放送をどうするのか?ということだから、地方議員になる意味が不明ではあるが、存在の「売名」ができないと国政選挙ではたたかえないという理屈だ。

このひとたちは、現行法の放送法でさだめる視聴料を支払っていないと公言しているから、違法状態をみとめている。
すなわち、わが国は、違法行為をしているひとたちが公然と政党をたちあげて、地方と言えども議席を得るという「モラル崩壊」がはじまっている。

これは、一種の「非合法政党」ではないか?
それに、国民受けするテーマをたくさん並べて「できっこない」を連想させるよりわかりやすい。
こうして政権を奪取した事例は、ナチスである。

このひとたちが、ただしい「喧嘩」のやりかたをしっているとしたら、あんがい巨大勢力になる可能性がある。
それでか、選挙後、地上波に出演した党首は、自分たちのイシューが達成できたら解党すると発言していた。

おそらく、別のイシューをかかげて、そっくりそのままあたらしい政党に看板をかけかえるのだろう。

すると、じつは有権者の側が、こうした手法についての予備知識をもっていなければならないのだが、この国の「民主主義」には、これをひろくおしえるという発想がない。

つまり、もっといえば、「喧嘩の仕方」をおしえない。

以前書いた「韓国発の英語教育革命」をひとりでやっているひとの言語と国民性の解説に、言語学習の前にその国の国民性をしるべきだというもっともな主張がある。

日本の学校で、英語をおしえない学校はないが、アメリカやイギリスの国民性をおしえているとは、寡聞にして聴かない。
彼女曰く、日本人はへりくだり。
韓国人は、せっかち。
英語を母国語にしているひとたちは、じぶん中心。

じぶんのことを「I(アイ)」としか表現できない言語であって、しかも、かならず主語が最初にないといけないルールだから、名前だってじぶんの名前が先で、所属する家の苗字があとになる徹底ぶりなのだ。

ついでにいえば、日本の学校で「アメリカ」という国のなりたちをおしえない。
最重要同盟国の相手がどんなふうにできているのかをしらないで、わが国の価値感だけでいろいろいうのは変だと気づかないのは、やっぱり変だ。

そんな彼らは、学校でさらに、議論の仕方をおそわる。
それが、ディベートだ。
あるテーマについて、賛成派と反対派にわかれて、あいてをねじこめる議論の方法をたたき込まれる。

じぶんの意志が賛成か反対かに関係なく、役割としてあたえられる。
日本では「論理力」が注視されているが、そんな「へりくだり」は無用で、たんに「喧嘩の仕方」をおしえているのである。

子ども時分からこれをおそわる国民の言語が、自分中心なのだから、どんなお国柄になるかは自明であろう。

日本では外交は外務省という役所がおこなうことになっている。
しかし、国民の参加意識がけっきょくは「外交力」となる。
外交の延長線上に軍事があって、その先に戦争があるとかんがえるのは世界の常識だ。

そんなわけで、国民意識が希薄な国の外交が「弱腰」になるのは当然で、国家間の「喧嘩」であるまともな外交ができるわけがない。
外務省の官僚がダメなのはあたりまえだが、それを叱りつける国民意識がなければ、官僚たちは国を売ろうがほおかぶりするばかりとなる。

そうやって、喧嘩の強い国に収奪されて、国民が貧乏になるのも因果応報なのである。

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