「持続可能」というかんがえ方

わが国漁業において,「持続可能」というかんがえ方がないことを前に書いた
これは,残念だが,政府にも国民にもないかんがえ方である.

わが国が民主国家であるとすれば,国民にないから政府にもないという順番になる.
中央政府の独裁的国家であれば,政府にないから国民にもないという順番になる.
どちらかというと,後者のほうがなじむから,わが国の民主主義を疑うのが正常だろう.

このあいだの北海道地震で,あろうことかわが国ではじめてブラックアウトが原因の大停電が発生した.
これについても書いたから,重複はさけるが,太陽光発電の無意味さが図らずともクローズアップされることにもなった.

この問題を,科学の目線から解説しているのは,なぜか武田邦彦教授ひとりである.
太陽光発電パネルをつくるためにもエネルギーが必要だが,これをまかなうのは太陽光発電ではなく火力などの「安定」した発電方法からの電気で,残念ながら太陽光発電パネルの発電力では,太陽光発電パネルをつくることができない.

これは,研究者ならだれでも知っている物理科学の常識だと教授はいう.
それなら,どこかがおかしいではないか?
すると,教授は,法学部とかの文系のお役人は,エネルギーの付け替え,という技をつかって,太陽光発電パネルをつくるときのはなしと,太陽光発電パネルが発電するときのはなしとを「分離」してしまうことからくる,お伽話であると説明する.

「屁理屈」をもてあそぶ法学部だというのは,なかなかの名言である.
だから,おなじ論法をもちいると,電気自動車や水素自動車も,科学的にはぜんぜん「持続可能」なものではないということがよくわかる.
ガソリンや軽油を燃やす,既存の技術に飽きた研究者たちの「おもちゃ」にすぎないという.

その究極が,原子力で,福島の事故の始末をどうするかさっぱりわからない科学技術水準なのに,政府は「安全が確認された」と明言していることも前に書いた.
そんななか,昨年,資源エネルギー庁は「安全性を向上させる」という驚くべき発表をしている.
通常の火力発電所が壊れるのとは意味がちがう原子力を対象に,こうしたことが言えるのは,やはり文系法学部のお伽話であるとしかおもえない.

どうせお伽話なら,原子力船もつくれなかったわが国にあって,原子力潜水艦や原子力空母の原子炉を,大地震でゆれても大丈夫なように海に浮かべれば,よほど安全だろうにとおもってしまう.
退役したこれらの艦船を,もらってくることはできないのか?
機動力がある発電所になるだろう.

結局のところ,「持続可能」という議論に,前提となる定義がないのだ.
だから,文系がてきとうな屁理屈をかんがえついて,それを政策にしてしまう暴挙が平然とおこなわれ,研究予算が欲しい科学者がだんまりを決め込み,あわてた科学者が細々と反論するありさまになってしまった.

これは、文明国のやることではない.
野蛮な独裁国家がやってきたことだ.

学校での理科教育はどこにいったのか?
自然科学の法則が,かんたんに書き換えられてしまうなら,決算書の書き換えなど,もっとかんたんだ.

「文と理」が分離して,とうとう社会が分裂してしまった.
早稲田大学の経済学部が,数学を受験科目にくわえると発表したのは,ようやく離れる方向から反対のベクトルがでてきたのだと期待したい.

制度をつくるのは人間だから,まず人間が持続可能でなければならない.
人材の使い捨て,などということをしていると,その組織は持続不可能になる.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください