「敬老の日」をいつまでやるのか?

昭和22年、兵庫県の村からはじまった素朴な運動は、当初は55歳以上が対象の「老人の日」だった。
当時の平均寿命と、戦争被害をかんがえると、「55歳」という年齢は立派な老人という常識があったのだ。

それからずいぶん経った昭和41年に法律が改正されて、「敬老の日」ができた。

ほぼ20年かけてメジャーになったともいえる。
この間、昭和36年に我が国の社会保障制度は現在の形の全容が「完成」されて、昭和48年には、田中角栄内閣で「福祉元年」と謳われたのは、繁栄の分け前を国民に施す、という見事な社会主義政策が実施された「元年」となった。

つまり、老人の日からの変容は、30年という一世代分の時間をかけて、最初の趣旨から完全に分離・離脱した別物となったのである。
最初の趣旨は、戦争で孫子を失っただけでなく、食糧難という困難の時代に、精神的励ましをしよう、というものだったからである。

いまや満100歳が1万人を超える、超高齢化社会が実現している。
一方で、少子は進み、昨年の新生児は91万人になった。
これで、20年後の新成人は、91万人だと確定したのである。

第一次ベビーブームの、昭和22年〜24年は、ざっと毎年270万人だったし、その子供世代の第二次ベビーブーム(昭和46年〜49年)は、200万人だった。
つまり、老人の日ができた頃に生まれた子供の3分の1しか生まれてこない。

20年後の新成人のうち、ざっと半分の45万人しか女子がいない。
すると、新生児の数が45万人になるのも時間の問題である。
女子が生涯に出産する子供の数が、「ほぼ1人」だからである。

そんなわけで、いつまで「敬老」といっていられるのか?
ひとの価値観のうつろいは、かつて20年から30年だったけれども、このままスライドしたとしても、30年後に「敬老の日」があるものか?
むしろ、「出産奨励の日」ができるのではなかろうか?

星新一のショートショート名作集のタイトルにもなっている作品、『ボッコちゃん』(昭和33年)における作家の想像力を超えて、とっくに「疑似恋愛」は商業化されている。
これが、為政者による「夜の街」への集中攻撃になっている理由としたら、なかなか「深い」のだけれど、誰も少子化対策だとはいわない。

それは、江戸「吉原」の灯を一撃で消した「法の威力」に似せているのではあるけれど、なぜに徳川幕府も明治政府もこれを許したかに言及しない偽善がある。
その吉原から生き残った「角海老」の系列店に官憲の手入れがあった。

「売春防止法」が制定されたのも昭和36年で、この法律は、売春という行為自体ではなく、あっせんなどの組織的行為を処罰するものだ。だから「防止法」なのであって、「禁止法」ではない。
法施行の前日、吉原最後の夜の賑わいはいつも通りであったから、客も店もほんとうに最後かと疑ったという。

しかし、翌日の夜は来なかった。
1617年以来350年の「伝統」が途絶えた瞬間だった。

「いけないこと」とするのは正義である。
しかしながら、清濁併せ呑むのが人間というものだから、全部を否定することもいかがか?
そこに「知恵」がはたらいて、占領中の昭和23年に「風俗取締法」ができた。

この当時のおとなは、昭和一ケタの前半より前に生まれたひとたちだ。
二十歳になっていた昭和3年生まれは、いま92歳。
男女ともに平均寿命を上回る年齢である。
昭和と大正の境目だと、94歳ということになる。

村で「老人の日」を制定した、当時の村長は1911年(明治44年)生まれなので、36歳の時の業績である。
昭和22年の平均寿命は男性50歳、女性で54歳。
だから、36歳の村長が特段「若い」ということでもない。

ところが、その昭和22年に生まれたベビーブーマーたちの寿命は著しく伸びたし、教育も「戦後」そのものだった。

そんなわけで、政治家をみても「小粒」なのは、全員が「小粒」になるように育てられたからである。
つまり、なんらかの「意図」がある。
そして、多くがこの「意図」に気づかない人生を送っているのではないか?と疑うのである。

孫娘があいてにしてくれなかったという理由で殺害するような老人は論外としても、果たしていかほどの「尊敬」を受けているのか?
尊敬を受けるほどの見識があるのか?
なんだか「緩い」ひとたちばかりにみえて、たまにしか「骨」があるひとをみなくなった。

それでかしらぬが、老人施設を嫌う老人もいる。
どうして「童謡」ばかりを歌わせられるのか?と。
バカバカしくて、何が面白くてそんな場所に行かねばならぬかと思っている。

悪貨は良貨を駆逐するがごとく、人間も多数派によって小数派は閉め出されて、あたかも多数派しかいないような勘違いを、若いサービス提供者にもおこさせるから、童謡やお遊戯、それに折り紙とかが定番になるのである。

だれでも歳をとりたくはないものだけど、それ相応のとりかたというものがある。
こんなことまで教えてあげないといけないひとたちが、「敬老の日」に集まるのではないかと思うと気が滅入る。

偽善なら、はやくやめた方がいい。

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