「芸術」を考えさせる「宗教オペラ」

メトロポリタンオペラのライブビューイング(実際の舞台を撮影した映画)については、何度か書いてきた。

今シーズンが終わってみると、『マーニー』で主役を演じた、イザベル・レナードが、同一シーズンでもうひとつの作品でも主役を演じたが、これを観のがしてしまった。
『マーニー』といえば、ヒッチコック監督の映画でもしられるけれど、これは現代作曲家が彼女のために書いた最新のオペラだった。

シーズンオフにライブビューイングは「アンコール上映」をやっていて、昨日、このチャンスに観に行ったのが気になる『カルメル会修道女の対話』である。

この作品の初演は1958年、作曲したプーランクの死の5年前であった。彼は熱心なカソリックであったことでもしられている。
いわゆる「宗教オペラ」の最高峰と評価されているのは、題材がフランス革命期の「実話」をもとにしていることの迫力もあってのことだが、音楽的にもすぐれているのは観ればわかる。

もともと「カルメル会」というのは、いまでいうパレスチナの地で12世紀にはじまる修道会で、その後全世界に展開している。
わが国にも昭和8年に修道院ができ、現在は全国8カ所に存在している。

ヨーロッパの啓蒙思想がうんだ「フランス革命」は、その後ロシア革命につながって、東西冷戦の一時代をつくり、いま、第二の新冷戦がはじまろうとしている。

「フランス革命」の評価はさいきんの「パリ祭」が下火になっているように、フランスでも「反省」がいわれていて、絶対礼賛というわけにはいかなくなってきた。
この意味で、フランスが「まとも」になってきたともいえる。

そうかんがえると、そもそも「啓蒙思想」とはなにかということになって、その背景にはヨーロッパにおける知的伝統である「リベラルアーツ」を無視するわけにはいかない。
日本では「一般教養」というけれど、ほんらいのリベラルアーツには「自由七科」とよばれる学科がある。

言語にかかわる3科目の「三学」は、文法・修辞学・弁証法(論理学)で、数学に関わる4科目の「四科」は、算術・幾何・天文・音楽となっている。
この七科の上位にあって、統率するのが「哲学」という構造になっていることはしっておきたい。

そして、さらに哲学の上位に「神学」があるのだ。
これが、ヨーロッパ・キリスト教世界の「一般教養(リベラルアーツ)」をかたちづけている。

「リベラル」は、「自由」という意味だから、日本における「進歩派=左翼」としての「リベラル」という用語とは意味が真逆になるのでとくに注意したい。ヨーロッパ人には日本ローカル用語はつうじないどころか、ちがう意味にとられるからはなしが「トンチンカン」になることまちがいない。

また、「アーツ」とは「アート」のことだが、いきなり「芸術」という意味ではなく、じつは「技術」といった方がしっくりくる。
したがって、リベラルアーツを直訳すれば「自由の諸技術」となって、ぜんぜん「一般教養」ではない。

数学系統に音楽があるのは、キリスト教世界における宗教音楽の重要性と、バッハの『音楽の捧げ物』で大成されたように、音符と数の関係が、数学的に表現できるからである。
この意味で大バッハは、数学者であった。

こうした「リベラルアーツ(自由の諸技術)」という基盤を無視して、うわべだけでヨーロッパの事象や現象をとらえると、さっぱりわからなくなるのである。

そんなことをおもいながら、『カルメル会修道女の対話』という作品は、前半で修道院長の壮絶な死(病魔の苦痛からの錯乱)というけれど、修道者としてあるまじき「死への恐怖」を叫んで息絶えるのはどういう意味なのか?

「他人の苦痛を背負っていた」という劇中の解釈は、はたしてどうなのか?とおもうのは、ニーチェの『アンチクリスト』がとっくに発表されていたからである。

そして、なんといっても「殉教」という悲劇のラストは、革命の暴力という本質への大疑問が、実話としての恐ろしさとともに表現されている。
革命における「自由」の旗印の下に、いっさい抵抗しない修道女たちがギロチン台の露と消えるのだ。

「処刑」を目前にした修道女たちのこころの動きを演じる演者のみごとさもふくめ、舞台芸術は「技術」なくしては表現できないことを思いしらされる。

これぞ「芸術」ではないか。

そういえば、プーランク最後のオペラに『人間の声』がある。
なんと、登場人物はソプラノが一人。全一幕。
詩人コクトーの原作による「モノ・オペラ」といわれている。
別れた恋人からの「電話」による一人芝居で、人間の愛と絶望が表現されているのだ。

ロビン・ジョージ・コリングウッドの『芸術の原理』(1938年)という名著で、エセ芸術が二種類あると定義されている。
それは「魔術芸術」と「娯楽芸術」という区分だ。

「魔術芸術とは芸術がもたらすさまざまな感情の刺激によって人々を実際の政治や商業などの実際的な狙いを持つ活動へと仕向ける」

これこそ、「あいちトリエンナーレ」で話題となった「芸術」のことだ。
コリングウッドの定義によれば、エセ芸術に分類されよう。

自由七科を駆使したかどうか?
あるいは、作家に自由七科の素地があるか否か?
世界標準の「芸術」には、ちゃんと「基準」があるのである。
しかして、その証拠が、カーテンコールにおける観客の絶叫ともいえる拍手である。

演者と観客の同一地平における振動の一致が、かくも増幅された波のような拍手になったのは、「技術」を素地にした「芸術」を理解した証拠なのである。

なるほどと、かんがえさせられるオペラであった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください