あやしい「正義」

大学世界ランキングでトップ5から漏れたことがない,アメリカの有名大学教授が書いた,「これから正義の話をしよう」が6年程前に大ベストセラーになった.

 

わたしが学生時代だったころは,「選択の自由」(1980年)と「第三の波」(1980年)が印象的だ.

 

「選択の自由」は,いまでいうバリバリの「新自由主義」というよりももっと過激な「自由放任主義」のほうだが,1976年のノーベル賞受賞時のさわぎが嘘のような売れ方だったとおもう.「売れた」から,その本の主張に「正義」があるとはいえないが,「共感」ぐらいはあったろうから,まさにいまからすれば隔世の感がある本である.

わたしには,鉛筆がどうやってできるかを知っているものはだれもいない,という「鉛筆の話」が印象的だった.これは,大変長い引用であったが,リアリティある話だった.
そのフリードマンのマネタリズムは,「スタグフレーション」に苦しむレーガノミックスに採用され,「ケインズは死んだ」と言われだしたのがこの時代だった.

30年後,ずっと黒田日銀は,金融緩和でのインフレ誘導をしている.「緩和」の意味は,貨幣供給量を増やす,という意味だから,フリードマンは日本では生きている,といえるのだろう.
ここにきて,原油高と円安の「効果」で,ガソリン価格が高騰している.
コントロールできるインフレではない,「悪性インフレ」が心配だが,えらいひとで言うひとはわずかだ.日本で,「スタグフレーション」が発生しないか心配だ.

「これから正義の話をしよう」のよい読者ではないが,「正義」の概念は「思想」によって変わるから,「絶体」ではないことがわかる.
その点,「善の研究」の「善」は,あんがい「絶体」なのである.

世の中でおきる「結果悪」という,わるいことの原因のほとんどが,「善意」からうまれる.
悪意をもってなにかすれば,それはたいがいわるいことになるのだが,「塞翁が馬」ということもあれば,「シンデレラ」のようなこともある.ところが,ふつうは,さいしょから悪意をもってなにかすることはすくなかった.

だから,よかれとおもってしたことが,結果的に取り返しがつかないわざわいになると,深く記憶にきざまれる.
それが,さいきん「いじめ」という悪意が世の中にあらわれて,救いようがないわざわいを他人にあたえている.

「いじめ」はいけない,といって「撲滅運動」をする.
このての社会「運動」が加害者や被害者本人に役に立つことはほとんどないが,「何かやっている」ということでの「安心感」が与えられるから,「正義」を実感できる.

不思議なもので,こうしたことに熱心なひとたちは,あんがい学校教育での「道徳」に反対する.
「家庭や地域での活動が重要なのだ」というのだが,その家庭や地域での活動が現実にできなくなっているから困っている.

じつは,「いじめる側」には「快感」がある.他人をいじめると「気分が晴れる」.
だからやめられない.
これは,「道徳」の問題だろうか?

さいきんの脳科学では,脳内物質の研究が進んできて,精神と脳内物質の関連性がだんだん見えてきたようだ.
脳内物質をつくる(合成する)材料が,腸でつくられることが証明されたから,「腸内フローラ」の重要性は高まるばかりである.

しかし,誰でもしっている「腸」の機能は,「消化」である.
つまり,脳内物質をつくる材料の材料,すなわちおおもとは,「食べ物」だということがわかる.
そこで,精神活動の異常で疑うべきものは,本人の「食生活」なのではないか?

「栄養バランス」を欠いた食生活が,いじめの加害者をつくる,という可能性は,専門家にぜひ研究してもらいたい.
それは,成長期の子どもにとってと,成人にとってどのような「ちがい」あるいは「共通点」があるのか?も興味深いことだ.

おとなの世界の「理不尽」も,もしかしたら?と思いあたるふしがないでもない.
「正義」のみなもとに,「食」がある可能性がでてきた.

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